「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」もうひとつの意味
〜アメリカのイラク攻撃に追随する日本の政治エリートたちの言説を聞いて〜

2003年3月3日


 日曜日のフジテレビの政治討論番組で、アメリカが始めようとしている対イラク戦争に世界中で反戦運動が起こっていることに対して、コメンテーターの竹村健一が、この言葉を使って批判した。第2次世界大戦が始まる前、ヒットラーに対してイギリスのチェンバレン首相がとった和平策が結果としてナチスドイツのポーランド侵入を許したという歴史を牽きながら、「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」と言った。

 上手いレトリックを使うなと思った。同じ歴史というなら、今からちょうど70年前の1933年、日本が国際連盟を脱退するという出来事があったが、その原因は、満州国建国に至る日本の中国侵略を激しく非難し日本の完全撤退を求める英米の妥協のない決議案が日本に連盟脱退を決意させたためである。この脱退が国際連盟の崩壊と日本による太平洋戦争開戦への道を開いたのではなかったか。現在の国連で、独仏がアメリカの強攻な決議案に反対しているのは、この日本の連名脱退の歴史から学んでいるからともいえる。歴史というならこういう歴史もあるのである。保守的で中国嫌いの竹村健一なら、きっと当時の日本の追いつめられた立場を理由に、この脱退を正当化するに違いない。

 歴史から学ぶことは、かくのごとく難しい。そもそも現実的にわれわれが歴史と呼んでいるものは、万能の神の目によって捉えられた「真理」というようなものではなく、記録された文書や物証、事件の目撃者の証言、さらに、その著し手の記述のあり方や思想、いわゆる史観によって、ずいぶんと異なったものになることを我々はよく知っている。だから、ともすれば、「歴史から学ぶ」と言うことは、異なった意見や立場の中から、自分の現在採ろうとしている行動に都合のよい正当性を与えてくれるような意見や立場を選択しているに過ぎないことも多い。

 歴史が文字や映像で記録され、記述されたものである以上、そのような事態が起こることは避けられない。そして、この文字や映像を操り、歴史を記録し、その記述や出版に関与することのできる人々は、この社会の中で教育や富の所有において上層に属するエリートたちである。他方、文字や映像を自由に駆使することのできない人々の立場や意見は、このような記録された意味の世界(=歴史)から排除されてきたのではないか。

 文字や映像を自由に駆使することのできない人々にとって、過去に自分自身がその身体をもって体験した「経験」は、他者からの伝聞でもなく、権力者から与えられた公式的託宣でもない、人々にとって唯一信頼できる過去の情報であろう。そして、誰の甘言にも耳を傾けず、過去の経験から学ぶことは、人々が思想の自由を確立するきわめて重要な方法なのである。

 「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という格言は、文字と論理を操る「賢者」という名の政治的エリートが、彼らのいうことを素直に聞かず、つねに自らの身体と生活にもとづく経験に照らしてエリートのつく「歴史」という名のウソを見抜こうとする「愚者」としての非エリートに対して、投げつけたいらだちの表現だと言ってよい。

 戦後の日本が、曲がりなりにも平和を維持できてきたのも、「愚者」の身体と生活に根ざしたすさまじく悲惨な戦争経験があったからだろう。悪賢い「賢者」たちの甘言にまかせていたら、どういうことになっていたろう。もちろん、外務官僚や政治家たちのようなエリートたちは、その平和は日米安保条約によってもたらされた核の傘の下の平和だったといいたいのだろうが、それでも、「愚者」の悲惨な戦争経験がなければ、「賢者」たちの日米同盟はもっと焦臭いものになっただろう。

 アメリカのイラク戦争に追随する「賢者」たちのこざかしい言説を聞かされるたびに、このことを思うのである。