96-01-10
社会問題についてのフィールドワーク−ハワイの民族問題


『人文社会系研究者のためのフィールドワークの方法』嵯峨野書院1996年4月

1 はじめに
 フィールドワークには時間がかかる。お金はかけずに済まそうと決心すればあまりかからない。大学や研究機関に所属して社会学を職業として生活するような研究者にとって、自分が理想と考えるようなフィールドワークを行うことは、非常に難しい。たとえば、大学に勤める教員が自由にフィールドにでていくことができる期間は、夏休みや春休みの一時期だけだ。大学では有給で半年とか1年間の留学期間をもうけているところもあるが、そのようなチャンスは何年も待たないとやってこない。そして、チャンスがめぐってきた時に調査ができるとは限らない。したがって、研究者にとって本当の意味でフィールドワークらしい調査ができる時期は、研究人生のなかで限られているのである。
 これと対照的なのが学生である。お金はないかも知れないが、時間はある。現地に留まっていたいと思えば、いつまでもできる。海外の場合は、現地の大学に留学してしまえばよい。体も無理がきく。その他もろもろのしがらみからも相対的に自由だ。そんなこともあって、実際、フィールドワークにもとづくよい研究には、その研究者が学生時代に始めた調査からもたらされたり、また、それをもとにその後の研究を重ねて得られた成果である場合が多く見られるのである。
 社会問題研究に関するフィールドワークもその点では変わらない。ただ、社会問題に関する研究は、研究に携わる者にとって、つねにその問題をどう解決すればよいかという問いかけが投げかけられている。調査をすればそれで事たれりというわけにはいかない。後に触れるが、問題解決という実践的な課題との緊張関係をはらみつつフィールドワークを続けなければならないのが、社会問題の調査だといってよい。ここでは、私の調査事例を紹介しながら、社会問題の研究に関わるフィールドワークの方法とあり方について考えてみたい。
 私のフィールドはハワイである。1980年代のはじめから、ハワイの民族問題に関心を持ってきた。私の研究対象は、おもに日系人、ハワイ先住民、さらにポリネシア系の新移民たちの一部である。これらの民族集団(エスニック・グループ)がハワイの多民族複合文化状況の中でどのように相互関係を結んでいるか、また、そのような状況の中で、民族差別や先住民の人権問題や民族アイデンティティの形成がどのような社会問題と結びついているかを記述することにある。
 研究の方法としては、日系人に関しては、民族機関のひとつである日系人病院を取り上げ、歴史資料の発掘を中心とした研究、ポリネシア系先住民については、ある町の先住民運動の町興し運動に加わる参与観察、また、多様な民族集団間の関係については、ホノルルのある低所得者用の住宅団地(クヒオパークテラス=KPTと呼ばれた)のソーシャルワーク機関でワーカーとして働きながら、そこに暮らすインドシナ難民の家族やサモア人移民のコミュニティに対する参与観察を行う一方、機関を訪れる住民の統計的なデータの分析を行った。ここでは、なかでも、2つ目の先住民運動についての調査、それから、3つ目の低所得者住宅団地での参与観察の二つについて取り上げたい。この先住民運動については、『ハワイ』(岩波新書、1993年)に書いた。また、低所得者用住宅団地での参与観察については、『アロハスピリット−複合文化社会は可能か』(筑摩書房、1987年)に詳しく書いた。
 また、これ以外に、このフィールドワークに関連してすでに発表した論文やエッセーは、以下のとおりである。
・「ホノルルの下町から−多民族複合文化の社会と福祉」『少年補導』1984〜85年連載
・「民族意識の高揚と伝統農法−ハワイにおけるタロ栽培による民族教育運動」渡部忠世監修『農耕の世界、その技術と文化1農耕空間の多様と選択』大明堂、1995年
 機会があれば、参照いただきたい。
 
2 準備
 資金はとくにいらない。ただ、ともに長期滞在を前提に行った調査である。先住民の町の調査については、ホノルルに家族をつれて1年間居住し、そこから定期的に町に通った。訪問の際には、できるだけ配偶者や子どもたちも同伴し、町の有力な先住民指導者たちと家族ぐるみで交際した。ハワイの先住民運動は、地域ごとにリーダーシップが分割されている。それは、ハワイの伝統的共同体の単位であるアフプアアにおおよそ対応している。したがって、町が変われば先住民運動のリーダーも異なる。ハワイで60を超える先住民運動体が存在し、先住民の自治権などについてそれぞれ異なった主張を展開し、まとまりを欠く事態となっているのも、そのような伝統的なリーダーシップの正統性の問題が深く影を落としているためである。
 私が関わった町は、オアフ島北西部海岸のワイアナエという町である。この町で活動を続ける先住民運動のリーダーたち、さらに、その協力団体のひとつであるカトリック系の農園のリーダーとの接触から始まった。
 一般化はできないが先住民運動の多くは、外部の人物に対してそれほど開放的ではない。もちろん、運動上の必要から外部のジャーナリストや学者たちとコンタクトをもっているが、そのような関係はどちらかというときわめて事務的で機能的な関係である。したがって、そのような機能的な関係を超えて、深く対象と関与するには、地域に居住し活動しているが外部へのアクセスをもった媒介的な役割を果たす人物の力を借りるべきである。私の場合は、農場主で元カトリック神父のG氏がその媒介者となった。誠意をもって人間関係を作ることができれば、教会組織という地域外へのアクセスをもつキリスト教の指導者は、アメリカのような社会では、調査を行う上で信頼おける重要な媒介者といってよい。
 一方、低所得者用住宅団地KPTの多文化コミュニティについての参与観察は80年代初頭に行ったものだが、ハワイ大学の社会福祉学部に籍を置き、学生ソーシャルワーカーとして、実際に対象となる住宅団地内のソーシャルワーク機関に勤務しながら調査を続けた。学生でなければできない調査があるといったのは、この経験に基づいている。しかし、フィールドに長期間安定的に関わるという観点でみれば、学生でなくとも、フィールドに関わる何らかの職業につき生活の糧を得ながらフィールドワークを続けるという道もあるだろう。そのような道を選択するとすれば、何かフィールドに関わる仕事を見つけるというところから準備が始まると考えてよいだろう。私の場合は、現地の大学に籍を置くことによって、大学のネットワーク(社会福祉学部が提携するさまざまな福祉機関)がフィールドに入るための最初の重要なコンタクトを確保してくれたのである。

3 現地・調査
a方法としての関与
 短期間ではなく、比較的長期にわたるフィールドワークの場合、綿密な日程や計画は必要ないかもしれない。緩やかに対象の中にはいってゆき、相手の出方にあわせて方法を工夫したり、選択したりできる。
 私の場合、研究の方法は、そのときどきに応じていろいろな方法を組み合わせた。ある時は、福祉サービスへの住民の登録データをコンピュータを使って統計的な二次分析をしたり、また、ある時は、日本の旅行雑誌が掲載した先住民に対する差別的な記事を英文に翻訳して先住民運動に参加する人々がどのように感じるかインタビューしたりした。状況と機会に応じて、さまざまなアプローチが可能である。私自身は、このようなやり方をホリスティック・アプローチと呼んでいる。したがって、方法論的な一貫性はない。
 ただ、ひとつ特徴といえるのは、参与観察に関して、研究者として観察する立場を堅持して、対象の地域や社会運動に第3者として関わるのではなく、実際にソーシャルワーカーとして地域で福祉活動の役割を担い、あるいは、先住民運動の協力者としてある種の役割を果たしながらフィールドワークを続けることである。このような調査方法はアクションリサーチと呼べるかもしれない。対象とする社会に自らを影響因子として関与させるといえばよいだろか。
 ソーシャルワーカーは問題を抱える地域や社会集団に直接関わる。私の役割は、低所得者住宅に住む難民・移民たちの家族の適応プログラムを運営することだった。また、運動の協力者として先住民運動に関わるということは、現地で、あるいは日本で、彼らの活動を効果的に進めるために情報を提供したり、交流活動を行ったり、また、ときには企業や行政との対決に加わることでもあった。
 このような積極的な参加によって得られた知見は、たんなる参与観察とは異なり質的な深さをもっている。しかし、それは同時にバイアスを当然含んでもいる。また、特定の当事者の側に参加し活動するということは、その社会運動や組織の指導者たちが社会問題に対して主張する言説(つまり原因や利害をめぐる考え方や言論)と、それから自由であり続けようとする研究者自身の態度との間に葛藤を生じさせることもある。それは、また、行政や福祉機関の側の言説からの影響についても同様である。
 しかし、社会問題をめぐっては実は、中立性の確保とか客観的な観察といった社会学の立場それ自体が一つの言説なのである。そこで、私は、現象の観察と記述にあたって、対象に対する積極的な参加を選択したのである。
 
b道具−映像メディア
 80年代のはじめ、低所得者用住宅団地(KPT)でフィールドワークをしているとき、自分が面倒をみている人々の写真を撮り始めた。英語がともに不得手な私とクライエント(ソーシャルワークではサービスの対象者をそう呼ぶ)の間にあって、写真はコミュニケーションを始める数少ないきっかけだった。子ども、老人、若い娘、さまざまな人々の写真を撮って、それをきっかけに人間関係を築いた。中には、写真に写ることを拒む人々もいたが、その理由を探ることで、その人々の職業や生活の一部が見えた。人物だけでなく、バンダリズムによって破壊された住宅の施設や解体され放置された自動車、ラオス難民たちが造った無許可の畑など、地域に関する多くの出来事や生活環境を映像で記録した。映像で記録することは、自分の記憶を補強するだけでなく、それを他者に見せ、また、住民自身に見せ、その映像を解釈してもらうことによって、自分では気づかない発見があった。
 それ以来、フィールドワークには必ず映像メディアを携帯する習慣が身に着いた。その後、先住民の町の調査では、カメラの他にビデオカメラも利用するようになった。普及し始めた携帯用の8ミリビデオカメラをさっそくフィールドワークに利用することにした。8ミリビデオも、たんに記録の道具として使用するだけでなく、カメラといっしょに液晶モニタも持参し、撮影した映像をフィールドで再生し、先住民運動のリーダーや住民たちにみせ、反応を探った。
 また、テープレコーダではなく8ミリビデオでインタビューを記録することも積極的にした。身ぶりや顔の表情など、音声ではこぼれてしまう情報をビデオは確実に拾い上げることができるからである。
 8ミリビデオカメラは、その後、生活調査への応用へと利用の範囲を拡大させた。これはハワイでの調査ではないが、タイの都市生活者のライフスタイルの欧米化を明らかにするため、住宅内の生活財の種類と配置を8ミリビデオを使って部屋から部屋へと収録し、さらにそれをコンピュータでデジタル処理して個々の生活財をデジタル画像として取り出した。そして、それらを分類することによって家庭内における生活財のマッピングを行い、ライフスタイルの変化と民族意識の関係を分析する方法を考案した。
 また、マッキントシュのクイックタイムなど、デジタル圧縮技術がパソコンでも簡単に使えるようになったので、ビデオで収録したインタビュー記録をデジタル動画化し、コンピュータ上のひとつのファイルとして検索したり分析したりすることも可能になった。現在では、インタビューの整理やテープ起こしは、もっぱらコンピュータ上のデジタル動画で行っている。
 コンピュータは、もちろん、統計データの分析や文書処理、調査対象者の個別情報のデータベース管理などにも活用している 。これらの用途については、すでに十分周知されているので繰り返さない。いずれにせよ、情報メディアとしてのコンピュータは、これからのフィールドワークに欠くことのできない道具であることは言をまたない。

図 フィールドワークにおける映像データの処理システム

4 終結
 大きな枠組みとしてハワイについての調査研究は現在も進行中であり、終結について今適切な記述ができる状態ではない。しかし、個々の調査は、すでに終結したものもある。たとえば、KPTでのフィールドワークは83年に終了している。その後の同住宅団地のサモア人移民については、法政大学・山本真鳥教授(文化人類学)が本格的に継続しておられる。私は、同教授から最近の動向と変化について情報を得るよう努めており、同教授がくださる新しい知見から多くのことを学んでいる。
 一つの調査対象地域を単一の研究者が長期にわたって調査し続けることは、冒頭に述べたように職業的研究者にとっても、学生にとっても難しい。だから、同じ地区で調査を行う研究者同士は十分に連絡をとり情報を交換しあうことが必要であると思われる。
 その際、自分のあとから同じ調査地へ入ろうとする次の調査者に対して、コンタクト・パーソンのリストなど自分が調査でえたさまざまの情報を提供することを惜しんではいけない。以前、私が関わっている地区とは別のハワイの先住民運動について取材をしていた日本人ジャーナリストに対して、意見の交換をしようとある団体を通して連絡をとったところ、反応がないばかりか、体よく断られてしまった経験がある。ジャーナリストは研究者と違い自分の集めた情報の交換を敬遠する傾向があるのだろうか。いずれにせよ、そのようなやり方が研究者のものでないことは確かである。

5 論文と発表
 これまでの調査は、定型的な学術論文にまとめるというより、エッセーとして発表してきた。実際、フィールドワークから得られる知見は、論文の形をとりにくい。自分の意見や経験を得るに至った過程などを含むエッセーとしてまとめることの方が自然であった。フィールドワークの報告というのは、どちらかといえば、統計的なデータの分析や抽象的な概念に彩られた記述というのとは違って、具体的な事例の記述が中心であり、研究者だけでなく、ひろく一般市民も読むことが容易である。この点を考えれば、発表メディアが学術的かどうかは、あまりこだわる必要はない。
 私の仕事についていえば、『ハワイ』(岩波新書)は、ハワイの一般案内書としても読まれ、4万部近い部数が出版された。その結果、この本を読んで私のフィールドを訪問する日本人旅行者が少なからず現れるようになった。現地の町では、それらの旅行者をどのように受け入れるか、また、それをどのように町興しにつなげるかという新たな問題が生じるようになった。交流団の派遣やオルタナティブな訪問者のための宿泊施設の建設などの動きが、新たに生まれた。
 このように、フィールドワークの結果を発表するということ自体が、対象に大きな影響を与えてしまうのである。したがって、どのような時期に、どのような形で発表するかは重大で、十分に考慮しなければならない問題であることを指摘しておきたい。

6 今後フィールドワークをする人へ
 社会学者が社会問題に関わるとき、社会学者の役割には大きくいって2つある。1つは、統計調査の手法などを用いてその問題の程度をすでに明らかになっているいくつかの測定可能な変数によって代表させ、その程度を定量的に捉えたり、問題に関する人々の意識を世論調査の方法をもちいて測定したりすることである。
 一方、他の1つは、フィールドワークによって問題の渦中に身を投じ、問題の実態を質的な観点から記述することである。多くの場合、そのような記述は既知の社会学的な言説で語られる結果に終わるのだが、時にして、このような記述をとおして、その問題に社会が与えているある種の理解の枠組みに対して新たな理解の枠組みを提示することができるのである。
 社会問題の実態を明らかにし、その中で苦しむ人々の存在を社会に知らせ、その過程をとおして問題解決の方向とその手段を考えることは、社会学を志す者にとって、すべてではないが、あいかわらずひとつの重要な課題であることに変わりない。そのような作業にとって、フィールドワークは、欠くことのできない学問的手段であり続けている。社会学者はフィールドワークをとおして社会問題に関わり、その解決のための社会的な機能を果たすことができる。
 もちろん、このような問題解決と深く関わるフィールドワークであっても、それは社会学が社会科学である以上、科学的な研究の前提として守られなければならない手続きや方法論上の制約や約束事があることは言うまでもない。
 しかし、たとえ社会学者が、フィールドワークが純粋に社会調査のひとつの手段として確固とした位置づけを与えられると主張したとしても、そのような認識と立場を社会問題の渦中に生きる人々が寛容に理解してくれるとは限らない。
 社会学者が社会問題に関心を抱く過程を考えれば、社会学者がその問題の存在を知り学問的な関心を持つ以前に、すでにその問題はジャーナリズムや行政等によって認知をされていることが多い。社会学者は、いわば問題の二番手あるいは三番手として問題に関心を寄せ始めるのである。社会学者は、すでに誰かによって発見された「問題」をあさりにやってくる。そこでは、すでに問題に関わっている人々が存在し、紛争が進行中だったり、そうでなくとも、社会運動が活動し、行政が事業を着手したりしている。
 したがって、実際、フィールドワークを進めることは、その社会問題に関わる多様な人々(つまり、当事者である住民や被害者、社会運動家、行政担当者、ソーシャルワーカー、警察、ジャーナリストなど)と深く関わることを意味し、その中で、「研究する」という社会学者のいわば個人的な目的とは別に、問題と関わる人々のそれぞれの立場に発する期待や要求に応えることが求められるのである。
 社会調査のプロフェッショナルとして問題に関与する場合、人々は、それぞれの立場で、調査者に対して問題の解決に関する自分の主張を支持する調査結果が出されることを期待する。このような調査は行政によって行われることが多いから、必然的に社会学者は、行政の一端を担う役割を果たすことになる。当然、そのような社会学者のあり方に対する批判が、問題の解決をめぐって異なった立場に立つ人々から提出されることも予想される。社会問題をめぐる調査は、したがって、「中立性」を信奉する社会学者にとって危険な仕事なのである。
 一方、後者の場合も、程度の差はあれ、同様の問題を抱えている。社会問題の当事者に深く関われば関わるほど、客観的な現象の記述が困難になってくる。また、海外の特定の運動や組織を参与観察の対象に選ぶ場合、とりわけ、それが行政や官憲と対立するような状況にある場合、その国の市民権をもたない研究者は入国の制限を受けたり、ハラスメントを受けたりすることも多い。多くの場合、その存在は「問題の周辺をうろつく物好きな学者」といった気軽な存在の仕方が許されないことも覚悟しなければならない。私自身もアメリカ入国に際して、そのような経験を何度かした。
 研究の自由という、普段は口にするのが気恥ずかしい言い回しが、リアリティをもって覚知できる瞬間がそこには確かにあるのである。