95-11-01
社会学教育と映像利用

『放送教育開発センター研究紀要』1996年3月
英文アブストラクト
The Use of Visual Media in Sociology Education

  The recent progress of media technologies necessarily causes drastic changes of teaching methodology of university education.
  The purpose of this research was to clarify the use of visual teaching materials for sociology education. Two hundred university/college instructors teaching sociology were selected as respondents and asked by the questionnaire. The research was conducted in 1993. Effective responses were obtained from 53 percent of the respondents.


はじめに

 社会学における映像利用に関しては、大きく2つの領域があると思われる。第1の領域は、社会学研究において映像を活用することであり、第2の領域とは、社会学教育において映像を活用することである。
 この第2の領域に関して、実際に映像がどう活用されているか、1992年に調査が行われた。本論では、その調査結果をもとに、実際に大学における社会学教育の現場で映像がどのように活用されているか、その傾向の一端をあきらかにしたい。

A.社会学教育における映像活用の動向

 通常、社会学における映像活用というと、たとえば、放送を前提としたNHK制作の教育番組や放送大学の放送・ビデオ教材の制作、その先駆的な試みとしてのイギリスの公開大学(オープン・ユニバーシティ=OU)などの諸番組などに見られるように、社会学教育の映像化を指す場合が多い。このような分野は、大学教育における映像活用として従来から技術や手法の蓄積が計られてきた。(1)
 これらの経験における映像活用の主な目的と手法は、つぎのようなものであった。
 まず、1.番組を担当する講師が映像に登場し、講義を行う場合。2.当該の教育番組が取り上げるテーマに関する事例の提示のために活用される場合。3.テーマに関係するインフォーマント(情報提供者)のインタビューが映像として収録される場合、の3種類である。
 たとえば、日本の放送大学の社会学関連番組では、おもに、1.のタイプの利用が圧倒的である。放送大学におけるテレビ番組の制作パターンは、つぎのようなものである。
 まず、放送大学の番組は、通常、1回45分の番組が15本で1科目を構成している。多くの番組は、スタジオあるいはロケ先で担当講師が実際に口頭で行う講義を収録し、それを編集して、45分の番組にまとめあげる。この45分の番組をベースに、必要な資料映像を挿入することで、最終的な番組に仕上げていく。つまり、あらかじめライターが書いた放送台本にもとづいて、ディレクターが番組内容を構成していくのではなく、番組の内容と進行は、おもに担当講師の指揮によって決定される。したがって、番組の流れは、講師次第であり、用意された教材映像は必ずしもすべて利用されるとはかぎらない。教材映像の入手先は、放送大学がすでに所蔵している素材映像、当該の番組の中でロケによって収録された映像、NHKの資料映像ストックの中からデーターベース検索され、使用料を支払って利用されるものの、おもに3つのタイプから構成されている。
 このような素材映像の特徴から、放送大学における教育は、おもに、放送番組の視聴によって行われる形態をとることとなる。映像のほとんどは、講義を担当する講師のバストショットから構成されている。(2)このようなタイプの教育映像は、中国の電視大学の番組にも共通してみとめられるものである。
 これに対し、イギリスの公開大学の社会学関連番組では、映像教材は、主テキストではなく、あくまで補助教材として、学習の動機付け、あるいは、学習の補助的な知識の提供を目的として制作される。したがって、番組の中では、担当講師の講義風景は比較的少ない。反対に、多くの番組がドキュメンタリー形式、つまり、タイプ2.のロケ等の収録映像で構成された番組か、あるいはタイプ3.のインタビュー番組の形態をとっている。(3)
 イギリス公開大学のような映像利用の形態は、一般に、英連邦系の国々の遠隔教育や放送教育でよく見かけられるものである。たとえば、カナダやオーストラリア、ニュージーランドの大学レベルの遠隔教育でも、このような形態の映像利用が多く認められる。
 教育番組として制作された映像は、日本の場合も、イギリスの場合も、ビデオテープに変換され、市販されている。この市販された番組を通常の大学での講義に活用することも、ごく少数ではあるが行われている。しかし、これらの映像教材は、価格も高く、また、45分という時間の長さや、とくに、日本の放送大学の教材では、番組の中に講師が登場して口頭で講義を行うため、一般の教室での利用が難しい場合が多い。その結果、一般の場合では、社会学教育における映像利用の主要な部分として、いまだこれらの教材は、十分利用されていないのが現状である。

B.社会学教育における映像活用の実態調査

 それでは、通常の大学における教壇レベルの社会学教育の場で、映像素材を活用する場合、実際どのような映像が、どのような方法において利用されているのだろうか。このような問題関心にもとづいて1993年に大学レベルの社会学担当教員および関連領域の教員に対して質問紙調査を実施した。(4)この調査結果を参考に、社会学教育における映像利用の現状をあきらかにしてゆくことにしたい。
 なお、本論では、紙数の都合と表現上の煩雑さを避けるため、詳細な数表の掲載は行わなかった。詳細な数表に関しては、すでに、放送教育開発センター研究資料004-J-93『人文・社会科学教育・研究法における映像の高度利用に関する調査資料−映像利用の社会学テキストに関する評価調査結果』(1994年1月25日)の中で公開されているので、それに譲りたい。

1.調査の方法

 調査は、1993年に行われた。調査対象者の全数は、200名であった。映像利用の大学教育番組の開発や研究に携わってきた放送教育開発センターの客員教官および研究協力者の全員(65名)および、それら客員教官と研究協力者を軸にして、大学に在職している教員および大学で社会学関連科目(5)の講義を担当している研究者の中から残りの135名をスノーボール方式(6)でサンプリングし、郵送で質問紙を送付し、回答をもとめた。
 調査対象者の選別に関して、このような方法を採用したのは、本調査の目的が統計的なデータの収集にあるというより、社会学教育における映像利用の具体的な事例を豊富に収集するということにあったからである。つまり、放送教育開発センターという高等教育における映像利用に関して先駆的な研究に携わっている研究機関の研究に関わる研究者や教員を軸に調査対象者を選ぶことは、映像利用に積極的な関心をもつ層を抽出できると考えたのである。調査を終わって結果的にみれば、この措置は豊かな質的事例を収集する上で効果的であった。しかし、反面、調査結果の量的な分析は、社会学教育の現状を的確に反映するものではないかもしれない。この点に関しては、本報告から一般的な知見を導く上で注意が必要であることを喚起しておきたい。
 結果として、106名から回答が寄せられた。回収率は、53パーセントであった。
 次に、回答者の基本属性を、簡単に記しておきたい。

2.回答者の基本属性

a.性別

 回答者に占める男性の比率は非常に大きく、88.4%であった。これに対し、女性はわずか8.5%であった。これは、大学に在職する社会学系教員に占める女性の数の少なさを示しているが、さらに加えて、放送教育開発センターの社会学系の客員教員における女の比率の小ささを反映していると思われる。しかし、実際に社会学研究に関心をもち、社会学会に加盟する女性研究者の数は、これよりもっと大きな比率を示すものと予想される。したがって、本調査報告は、この点に関して、ある程度のバイアスを含んでいることをあらかじめ記しておきたい。

b.年齢

 回答者の年齢分布は、25〜34歳が15.1%、35〜44歳が36.8%、45〜54歳が18.9%、55歳以上が27.8%、無回答が1.9%となった。大学教育においてもっとも指導的な立場をもつと思われる45〜54歳の回答が少なかった。

c.所属機関

 回答者の所属機関のタイプ別の属性は、国公立大学(4年制)が37.7%、私立大学(4年制)が44.3%、短期大学9.4%、国公私立研究機関が3.8%、その他が2.8%、無回答が1.9%であった。国公立大学(4年制)が相対的に大きな比率を占めたのは、放送教育開発センターの客員教官・研究協力者に国立大学の教官が相対的に多数を占めるからであり、それが反映されたものであると思われる。
 
3.調査結果の概要

 設問は、多岐にわたったが、その中から本論文の目的にそって、(a)教室講義での映像メディア利用状況、(b)映像メディアの利用に関する意識、(c)映像メディアの利用条件に関する要求、の3つの領域に関する質問について報告しておきたい。
 また、質問では、これら3つの領域の質問に加えて、(1)実際に教室授業で使用した映像ソフトやその活用方法、(2)授業で使用したいと思う映像、(3)映像教材等を教室で使う条件、(4)映像利用に関する具体的提案、の4つについても、自由記述で回答を求めた。これについては、つぎの分析の部分で詳しく結果の方向と分析を行なう。

a.教室講義での映像メディアの利用状況

(1)大学の講義で、ビデオなどの映像教材を使った経験
 「大学の講義で、ビデオなどの映像教材を使った経験」に関しては、「ある」と回答したものが、71.1パーセント、「ビデオなど映像教材を使える設備があるが使ったことはない」と答えたものが、18.9パーセント、「設備的に映像教材を使える環境にないので使ったことはない」と答えたものが、5.7パーセント、無回答が3.8パーセントだった。

(2)ビデオなどの映像教材の使用方法
 「ビデオなどの映像教材の使用方法」について、前問で「ある」と答えた回答者(76人)に複数回答を認めて質問した。
 「テレビからの録画を学生に視聴させた」が82.9パーセント、「市販の映画やビデオソフトを学生に視聴させた」が61.8パーセント、「自分で収録、編集した映像を学生に視聴させた」が31.6パーセント、「大学教育用に制作された映像教材を学生に視聴させた」が31.6パーセント、無回答が1.3パーセントであった。
 テレビ録画や一般のパッケージ・ソフトの利用が過半数に達しているのに対し、自作の映像の利用は約3割程度にとどまっていた。また、大学教育用ソフトの利用も3割強程度にとどまった。全体の傾向としては、映像利用は自作派は少数で、規制ソフトの利用が圧倒的であり、その中でも、利用の多いのは、放送番組、一般ビデオソフト、大学教育用ソフトの順になっていることが分かった。

b.映像メディアの利用に関する意識

 映像メディアの利用に関する意識を明らかにするため、4つの刺激文に対して、それぞれ5段階の反応を用意し、回答者の反応を得た。この回答の傾向をまとめたものが図1である。この図から次のようなことがいえる。
 まず、大多数の回答者が、講義への映像メディアの活用に対して肯定的な反応を示した。
 また、映像メディアの利用が大学教育の本質をゆがめるという意見、映像利用が講義の質の低下を招くという意見など、映像利用教育に対する批判的な意見に対しては、過半数の回答者が否定的な反応をしめしたが、その比率は、映像利用の効果を認めた比率よりも低かった。
 他方、映像メディアの利用が教員の地位を脅かすのではないかという意見に対しては、多数が否定的な見解を示したが、その比率は映像教育の効果を認める回答の比率より低いことが明らかになった。

c.ビデオなどの映像教材を教室で使うために必要な条件

 「ビデオなどの映像教材を教室で使うために必要な条件」について複数回答を認めて質問した。「設備や教室環境の充実」と答えたものが74.5パーセント、「映像を使った教授法の開発」と答えたものが50.9パーセント、「大学教育用のビデオソフトなどの映像教材の充実」と答えたものが61.3パーセント、「映像とマッチしたテキストの開発」と答えたものが42.5パーセント、「映像機器等に関する教員の研修」と答えたものが23.6パーセント、無回答が7.5パーセントであった。
 過半数の回答者が、メディア設備・教室環境の整備やソフトの充実を求めた反面、教員のメディア利用訓練を重視する意見は少数に留まった。また、教授法の開発を挙げたものが、ほぼ半数あった。
 このような回答傾向をまとめると、大学の教育環境が立ち後れている現状を反映してか、設備や教材など物質的な側面の充実をまず求める意見が主流を占め、利用のノウハウやトレーニングなどを求める意見は少数に留まる傾向を示した。

C.分析−大学レベルの社会学教育における映像利用の実態と傾向

 調査結果の概観を得たところで、以降、質問項目と属性項目間のクロス分析、また、自由記述の回答についての質的な分析を併せて行いながら、社会学教育における映像利用の現状と問題点について分析を進めていきたい。

1.映像利用の傾向

a.映像利用と回答者の属性との関連

 映像メディアの利用経験をたずねる質問の回答傾向を属性別に集計、分析した。これを利用経験があると回答したものだけの比率でみると、女性教員、短大教員などの群が相対的に映像メディアの利用経験が高いことが分かる。これに対し、55歳以下、男性教員などの群で映像メディアの利用経験が他の群に比べて低くなっている。(図2参照)
 一方、私立大学(4年制)と国公立大学(4年制)との間では、この図を見る限り、あまり差が顕著ではない。しかし、利用経験がないとの回答を所属機関別にみてみると、「ビデオなど映像教材を使える設備があるが使ったことはない」と答えたものが、私立大学の25.5パーセントに対し、国公立大学は15.0パーセントあった。これとは逆に、「設備的に映像教材を使える環境にないので使ったことはない」と回答したものは、私立大学が2.1パーセントだったのに対し、国公立大学では10.0パーセントもあった。
 つまり、国公立大学では映像メディア環境の整備の遅れが原因で映像利用が妨げられている一方、私立大学では、設備に関しては国公立大学よりはましだが、他の原因で利用が進まないことを示唆している。ということは、国公立大学では、まず設備の充実が当面の課題と言うことだが、それを満たしたとしても、つぎの段階として、私立大学のように、他の障害要因が明らかになってくるのではなかろうか。
 つぎに、映像利用の方法(利用の能動性とメディア操作に関する技能的側面)と属性の関係をみてみたい。映像教材の使用方法をたずねる質問の回答傾向を属性別に分析した。(図3参照)ここで掲げたメディア利用に関する4つのパターン(テレビ録画の利用、市販一般ソフトの利用、自主制作の利用、教育用ソフトの利用)のなかで、もっとも簡便で能動性と操作性の低い利用のパターンとして「テレビ録画の利用」、逆に、もっとも能動的で相対的に高いメディア操作技能を必要とする「自主制作の利用」の2つの利用パターンが属性によってどのような差異を示すかを検討してみたい。(図4参照)
 まず、「自主制作の利用」では、55歳以上、短大、45〜54歳などの群で利用が高く、女性、35〜44歳などの群で相対的に利用が低かった。逆に、「テレビ録画の利用」では、女性、25〜34歳などの群で利用が高く、55歳以上、国公立などの群で利用が低かった。
 女性は、ビデオソフトなどメディアの利用一般については、非常に高い受容性を示したものの、その利用方法をみると、「テレビ録画の利用」などが中心で、能動性や操作性に関して相対的に低いレベルの利用、つまり、受動的な利用に限られる傾向があることが分かった。
 他方、55歳以上の群は、メディア利用に対する一般的受容性は高くないものの、反面、その利用の方法をみると、教材を「自主制作」するなど、能動性と操作技能性の両面において、相対的に高度な利用をする傾向が認められた。これは、おそらく、調査対象者のこの年齢集団の一部にヘビーユーザー(とくに、放送教育開発センターの客員教員や研究協力者など)が含まれていることによるものと考えられるが、いすれにせよ、メディア利用への受容性の高さが、映像メディアの利用方法における能動性や技能性と直接的に結びつくとは限らないという知見を、この調査結果は示したのである。

b.実際に使用された映像の傾向

 実際に利用された映像のタイトルについて、複数回答でたずねたところ、全体で64人の回答者から182件の回答が得られた。これらを、(1)テレビ番組からの録画、(2)映画ビデオソフト、(3)教育用ビデオソフト、(4)その他のビデオソフト、(5)自主制作映像教材、の5つカテゴリーに分類した。回答者が挙げたタイトルの数は、(1)放送番組からの録画が、68タイトル(69件)、(2)映画ビデオソフトが、63タイトル(76件)、(3)教育用ビデオソフトが15タイトル(17件)、(4)その他のビデオソフトが14タイトル(17件)、(5)自主制作映像教材が3件であった。(表1参照)
 さらに、それぞれのカテゴリーごとにその特徴をまとめた。

(1) テレビ番組からの録画
 NHK(総合・教育)放送の番組からの録画の使用が非常に多かった。とくに、NHKスペシャルやNHK特集、海外ドキュメンタリーなどの利用が目立った。内容的にみると、「人体」や「人間は何を食べてきたか」、「ザ・ブレイン」などの大型シリーズ番組、また時事問題や社会問題、海外の民族や風俗を紹介するドキュメンタリー番組の使用等が目立った。また、これら以外にも、定時報道番組の特集や地方局が制作する単発の報道番組の利用もあった。
 一方、民放では、報道番組の中の特集企画番組の録画利用が多く見られ、また、ドラマ番組やクイズ番組の利用も見られた。

(2) 映画ビデオソフト
 映画ビデオソフトの利用は、きわめて旺盛だった。外国映画や日本映画の秀作が多岐に亘って活用されていた。回答された63タイトルの映画ソフトのうち、日本映画は12タイトルで、他は外国映画だった。利用された外国映画の多くは、ハリウッド製のアメリカ映画であったが、それ以外にも、ヨーロッパ映画を中心とした歴史的な秀作が活用されていた。ただ、アジア映画に関しては、中国映画が少数とりあげられているのを除けば、その利用は非常に低調だった。
 作品では、「羅生門」、「十二人の怒れる男たち」、「戦艦ポチョムキン」などの作品の利用が顕著(3人が回答)で、それに続いて、「フルメタルジャケット」、「2001年宇宙の旅」、「国民の創生」、「勝手にしやがれ」、「カリガリ博士」、「アンダルシアの犬」などの作品が複数の回答者から利用したという指摘を得た。

(3) 教育ビデオソフト
 教育用ビデオソフトの利用に関しては、放送番組の録画利用や映画ビデオソフトの利用に比べて15件と低調であったものの、放送大学の放送教材の活用が5タイトルと多かった。また、内容との関連でみれば、エイズや性教育などの保健領域のソフト、人権教育に関するソフトなどが目立った。
(4) その他のビデオソフト
 その他のビデオソフトでは、ビデオリリースを当初から目的とした小プロダクションのドキュメンタリーや放送素材からビデオ用にリメイクされた記録映像作品、宗教団体の布教ビデオ、海外広報ビデオなど、使用者の目的に応じて多様な利用がみられた。ただ、件数では、14件と教育用ビデオソフトについで低調だった。

(5) 自主制作映像
 自主制作映像を利用していると回答したものは、3件に留まった。具体的には、たとえば、フィールドで得た映像を編集したエスノグラフィック・フィルム/モノグラフィックフィルムや在日韓国・朝鮮人のシャーマニズム儀礼を自分で収録したものなど、自分が研究者として携わった社会調査の際に撮影された映像を利用する場合があげられた。
 ただ、どのような講義内容との関連でこれらの番組録画やソフトが使用されたかは、質問紙の量的制約のため、不明である。
 しかし、全体としての特徴を記述すれば、映画ソフトと放送番組の録画がきわめて多岐に亘って多数活用されていることが明らかになった。他方、教育用ビデオソフトの利用は意外と少なかった。これは、もともと大学における講義科目の性質からみて、中等教育のような大量の教材需要が見込めないため、品質の高い教材映像の制作が行われにくい環境があるからだと思われる。

2.メディア利用に関する意識

 映像利用の社会学教育に対する調査対象者の意識を属性別に分析を試みたが、ここでは、とくに年齢階層群との関連を主に論じることにしたい。年齢階層群の中で、最も若い世代である25〜34歳の群と最も年齢の高い世代である55歳以上のの群とを全体との関連で比較したのが、図5である。
 このグラフでも明らかなように、年齢の高い世代に比べて、若い世代の調査対象者群の方が映像メディアの必要性をより強く意識する傾向がある。この傾向は、映像メディアの利用に関する否定的見解に対する態度についても認めることができる。つまり、映像メディアの利用が大学教育の本質を歪めるという見解、あるいは、教員不要の教育に道を開くという見解、あるいは、講義の質の低下を招くという見解に対し同調する傾向が、年齢の高い世代の方が若い世代に比べて、やや高くなる傾向が認められた。
 このような傾向は、同様に男性より女性に、また、4年制大学(国公立・私立)より短大に属する調査対象者群で映像メディアの利用により強い積極性を認めることができた。

3.映像メディアの利用条件に関する要求

a.映像メディアの利用条件と回答者の属性との関連

 ビデオなど映像教材を教室で使うためにはどのような条件が必要かをたずねた質問に対する回答について属性別の傾向をみたのが図6である。性別の特徴的な傾向をみると、まず、年齢階層に関しては、高い年齢の世代ほど、「映像機器等に関する教員の研修」の必要を求める傾向が認められた。また、同様に、「映像とマッチしたテキストの開発」に対する要求も高い年齢の世代の方がやや強く現れた。
 これは、年齢の高い世代がメディアのハードウエアに対する不適応感を強くもっていること、また、逆に活字への執着を強く持っていることを反映しているのかもしれない。
 つぎに、所属機関についてみると、設備では充実しているはずの私立大学(4年制)の方が、設備面で遅れている国公立大学より、「設備や教室環境の充実」を強く求める傾向を示した。これは、この設問と映像教材の使用経験の有無とのクロスでも同じような傾向が認められた。つまり、映像教材使用経験が「ある」と答えた回答者の方が、「ない」(「設備があるが使ったことはない」と「使える環境にないので使ったことがない」との合計)と答えた回答者より、設備や教室環境の充実をより強く求める傾向が認められたのである。
 同様に、「映像教材使用経験」の有無について「ある」と答えた群の方が、「ない」と答えた群より、「大学教育用のビデオソフトなどの映像教材を充実」を求める傾向が認められた。
 これは、より頻繁に映像メディアを利用している層ほど、メディア機器や教材ソフトへの要求も高くなることを示唆するものである。つまり、映像メディアをより積極的に利用しようとするほど、ハードとソフトの両面でメディアに対する要求は強くなるが、逆に、メディアを利用しない層にとっては、機器・設備や教材ソフトの充実度がどのようなレベルであっても、無関心状態のまま留まるということでもある。メディア接触の経験がさらなるメディア接触を呼ぶという循環がここでも認めることができたのである。

b.映像利用に関する要求と意見

 映像利用についての要求と意見は、いくつかのタイプに分けることができた。まず、(1)使用したい映像の分野や内容に関する要求と意見、(2)映像へのアクセス方法や編集の形式についての要求と意見、(3)講義時間などカリキュラムに関連した要求と意見、(4)教室環境における映像の利用設備や大学の教育条件についての要求と意見、などである。

(1)使用したい映像の分野・内容に関する要求と意見
 具体的なタイトルをあげた要求も含めて、多種多様な映像に関するニーズが指摘された。これらの要求や意見を分類・整理する適当な枠組みをすぐに見いだすことは困難であったので、とりあえず、表2のように整理を試みた。
 まず、最大の特徴といえるものは、これら映像に対する要求のほとんどが、特定の社会現象についての事例や心理実験の記録、問題提起のための資料映像など、講義の素材映像を求めていたことである。つまり、映像の中で社会学を講義する教材ではなく、あくまで講義の補助として利用できる教材を求める傾向が顕著であった。
 これらの映像素材に対する要求を具体的にみれば、たとえば、心理学の実験記録映像、人混みや暴動など集合行動の事例に関する映像、職場や労働現場を記録した映像、社会問題をあつかったドキュメンタリーや報道番組の録画などである。
 ただ、内容やジャンルでは、回答者の専門分野や関心領域の広がりにあわせて、緩やかな特徴が認められた。
 たとえば、歴史的な記録映像に対する要求では、地方史に関する映像、戦前の日常生活に関する映像、教育史に関する映像、戦史に関する映像、高度成長期の生活に関する映像などが認められた。
 また、海外の社会事情や文化などに関する映像に対する要求では、どちらかといえば文化人類学系の関心に近いものでは、宗教儀礼、葬祭、結婚儀礼、民間習俗に関する映像記録、いわゆる民俗誌映画、フィールド調査の記録映像などに対する総合的な映像データベースに対する要求がみられた。
 また、どちらかといえば教育社会学系の関心に近いものでは、少数民族やエスニック・グループの生活や文化に関する映像、人間発達の文化差に関する映像、各国の教育制度や教育行動に関する紹介映像に関する要求がみられた。
 また、海外と同様に、日本の民俗や歴史に関する映像資料を求める要求もみられた。
 また、教育関連では、教育制度、教師教育や教育実践など教育関連の映像に関する要求もみられた。
 さらに、映画の古典や質の高い放送番組など、映像文化それ自体に対する利用要求もみられた。
 また、その他、特定の分野に限定せず、「日常的すぎてTV番組にならないもの」、「複数の異なる立場の見解を提示してくれるような映像」、「テーマに沿った事例を紹介した映像」、「教科書の内容と対応する専門的な映像」など、教材映像としての要求もあった。
 しかし、逆に、「教育用につくられたものというのはインパクトが不足しがちである」として、既成のビデオソフトの長所を指摘する見解もみられた。

(2)映像へのアクセス方法や制作・供給体制についての要求や意見

 映像に関する要求には、内容に関する要求と同様に、必要な映像へのアクセス方法に関する要求、あるいは、映像の制作体制に関する要求もみられた。

(a)放送映像へのアクセスとの関連
 まず、テレビ放送された番組を教材として利用する場合のアクセスについて要求や意見がみられた。たとえば、「大学教育用のものを作らないでも、NHKや海外のドキュメンタリー作品にはすぐれたものが多い。ただそれらへのアクセスがより容易でなければならない」、「NHK資料センターの映像データベースは世界一であり、この世界一のデータベースを高等教育教材として活用する方法を検討していただきたい」といったように、NHKなどの放送局が所有する豊富な映像の教育利用を強く求めるものである。さらに、これを実現する上での障害として、放送録画の利用に関する著作権上の制限を問題にする意見もあった。

(b)制作・供給システムとの関連
 放送局やビデオ制作会社など、既成のソフト制作・供給システムの問題に関しは、「公的機関で高い水準のものを系統的に製作して欲しい」という要求や「高等教育用の映像教材の充実したアメリカの研究機関と提携して共同制作してほしい」といった制作体制に関する要求がある一方、「映像ソフトの入手に関する南北問題、つまり、大都市圏と地方との格差を解消すべきだ」という要求もあった。

(3)講義時間など大学カリキュラムに関連した要求や意見

 映像利用を進めるために講義時間との関係や、教材ソフトの様式など、多様な要求がみられた。
(a)講義の時間的制約との関連
 カリキュラムと関連する要求の中でとくに多かったのは、90分という講義時間の枠で通常の映画ビデオを視聴する際の時間配分に関する問題である。たとえば、「映画は放映時間が長く授業で利用が難しい」、「限られた時間である程度まとまった映像作品を見せることは説明のための時間を不足させる」といった意見である。
 したがって、このような長時間の通常映像ソフトではなく、短時間の資料/素材映像に対するつぎのような要求もみられた。たとえば、「10〜15分くらいのコンセプトフィルムやビデオ教材」、「毎時間の講義で話題にすることを端的に示す映像の断片を編集したもの」などについての要求である。
 逆に、映像に合わせて講義時間等のカリキュラムを変え、「クラスサイズを小さくし、フレキシブルな時間割の態勢を組むことが必要」であるという要求もあった。
 通常の映画が視聴に長時間かかるため、「授業時間に上映する気はない。5〜6本でも上映する教師がいるとすれば、講義案を作る手間を省く怠慢な教師だ」という見解を示す回答者もいた。

(b)その他カリキュラムとの関連
 映像利用をさらに進めることによって、社会学教育のカリキュラム自体の変更を求める主張もみられた。つまり、「ビデオ教材の内容と講義内容が有機的に統合」することや映像利用について「年間カリキュラムのシノプシス作製前に事前の検討」することなど、社会学の教授内容の革新を求める意見である。映像を積極的に利用することは、たんに教材に変化が生じるだけでなく、社会学教育全体の革新が必要であるというものである。

(4)教室環境における映像の利用設備や大学の教育条件についての要求や意見

 一方、教室での映像の利用に関して、メディア設備などのハード面の充実を求める要求が非常に多かった。その背後には、視聴覚教室の利用頻度が増加し、需要に対応できていないという現状認識がある。さらに、視聴覚教室という特別の環境ではなく、板書やノートテイキングが自由にできる一般教室でのビデオ視聴機器の充実を求める要求が多かった。
 ビデオ視聴だけではなく、コンピュータ、マルチメディア対応など、多様な映像メディアを利用できる教室環境を求める要求も出された。そして、それらの機器の操作を担当する専任助手の配置や、教員に対するメディア研修の必要も合わせて指摘された。
 つぎに、視聴設備だけでなく、教材映像の制作や加工・編集に必要な機器設備に関する要求もあった。「自分や学生自身が撮影したものが使えるような編集設備」、「スティル写真などをモニター用の映像資料に変換する装置」、「タイトラー、エディター」などの必要性が指摘された。
 これら設備と並行して、大学の映像ライブラリーの充実を求める要求も高かった。

(5)メディア・リテラシー等に関する意見

 映像利用のための条件のひとつとして、映像の理解に関するリテラシーの必要が主張された。つまり、映像を社会学的にどのように解釈し、また、社会的現象としての映像についてどう理解するか理論的な枠組みと方法論を獲得する必要性を指摘する意見である。
 たとえば、「学生が一面的な理解に陥ったり、映画というメディアの持つバイアスを考慮しなかったりする危険」を指摘したり、「映像の作られた社会的背景、映像表現論、映像の内容を用いた社会学の講義が並行して行われる」必要性を指摘する意見がみられた。また、今回の『ビデオで社会学しませんか』のような映像を社会学教育に利用する試みに対して、「映像の『記号』がどんなものか。『モンタージュ』の法則はどうなっているのか。それらをまともに論じた日本語の映像論が一冊も存在しないことが残念で、私が書くしかないという決意を固めさせ、激しい怒り(エネルギー)をひきおこさせてくれた」と激しく反発する回答もみられた。
 最後に、映像を講義に活用することに対する教員の意識変革や旧世代の偏見を克服することの必要性を訴える「メディアを利用する講義を嫌悪する旧世代の無理解と偏見に対して闘うことが必要である」という見解もみられた。
 また、「総じてこのような映像あるいはマルチメディア教育における問題などを話し合える同僚か同学の志が周囲に少ない」ことが問題であるという意見もあった。
 また、「教授法よりも、映像に負けない教師の話術が必要」という意見もあった。

D.まとめと展望

1.映像メディアの教育利用をめぐる2つの方向

 社会学に限らず、一般的に高等教育における映像利用の方向には、2つの方向があるのではなかろうか。1つは、放送番組やパッケージビデオなどの映像メディアによって社会学を講義する形式をとる方向である。この方向は、すでに放送大学やNHK教育放送の番組などで試みられてきたものである。つまり、講義それ自体を映像化する試みといってよい。この場合、講義というのは、教員の姿が登場する場合も、登場しない場合もある。また、放送番組のように一方向的なコミュニケーション形式の場合もあるし、マルチメディアのように双方向のインタラクティブな形式の場合もある。しかし、いずれにせよ、教員による講義に代わって映像メディアが講義全体を統合的に提供するのである。このような映像メディアの利用法は、教員による教育コミュニケーションの代替として、構成されるものである。このような映像ソフトを仮に講義ソフトと呼ぼう。
 一方、もう1つの方向は、教員が教室空間の中で、映像を教育コミュニケーションの補助的手段、つまり、教材としての一つとして利用する場合である。この場合、教室空間というのは、現在の大学講義室のように物理的な広がりのある空間の場合もあるし、電子的ネットワークの中に仮想された空間である場合もある。しかし、いずれにせよ、この空間では、映像メディアは教員の判断にもとづいて、教育活動の全体を構成する1つの素材として利用されるのである。このような形式の映像ソフトをここでは仮に素材ソフトと呼ぶ。
 従来、放送大学やイギリスの公開大学が制作してきた映像教材は、1の講義ソフトの利用を前提とするものである。この場合、映像は教員に代わって社会学を講義する位置を獲得している。つまり、学生に対面するのはメディアであって教員ではない。これに対し、今回の調査で明らかになったように、社会学を担当する教員たちが要求する映像教材は、1の講義ソフトではなく、2の素材ソフトであった。
 通常、講義ソフトを制作する場合、制作者はそれが講義を全面的に代替する場合を想定して可能な限り統合的に、別のいい方をすれば、排他的に内容を構成する。もちろん、制作者は、このような講義ソフトが教員による講義を全面的に代替できると考えているのではない。多くの場合、講義ソフトとはいうものの、教員が講義の中で素材ソフトとして利用できるように、事例を豊富に加えたり、インタビュー取材を加えたりとさまざまな配慮も行う。
 しかし、調査結果で一部示されたように、このような講義ソフトを教室空間で利用する際に生じる教員からの抵抗や反発は、制作者の予想をはるかに超えて大きいのである。
 教育が成立する空間をミクロポリティクス的な観点でみた場合、このような講義ソフトを使用した場合に教室空間に働くドミナントな力は、映像メディアに集中する。学生たちは、メディアの指示に従って事例を視聴したり理論を検討したり思考したりすることを求められる。メディアは、この場合、事例を提供する装置であると同時に、教員に代わって言説を展開し正解を与える特権的な位置を確保する。メディアがこのような特権的な位置を確保してしまった場合、教員にはいかなる位置が残されているだろうか。せいぜいメディアが「託宣」する情報に対して、補足的見解を加えることができるに過ぎない。それは、あきらかにメディアが教員の地位を剥奪する事態である。
 メディアに奪われた力を取り戻すため、教員がもしメディアが「託宣」する情報に異見や異議を加えたとするなら、たしかに、奪われた特権はふたたび教員の側に復帰するかもしれない。しかし、メディアによってはるかに効果的に説得的に「託宣」された情報に異議を唱えることは、かなりの困難を伴う。それは、メディアの説得力を凌ぐ必要があり、それなら、始めからそのような強敵であるメディアなど利用する意味がないのである。
 多くの場合、教室空間には、統制力の源泉でありかつ主体である教員が2人以上存在することは避けられる。したがって、いわゆる講義ソフトが教室空間内部で教員によって使用されることは、見かけの容易さや着想のよさとは異なり、教員にとって本質的に忌避されるのである。
 教員がドミナントな力を発揮する教室空間において、その教員自身によって受け入れられる映像教材は、必然的に権力の二重性を伴わないという条件を満たすものにならざるを得ない。そして、そのような映像教材は、すでに述べたような素材ソフトなのである。
 実際、素材ソフトに対する教員の要求をみれば、そのようなソフトが当面どのような性格のものであるかあきらかになってくる。
 第1に、時間が短かく、1つの素材ソフトが取り扱うトピックは1つであること。具体的な時間数をあげることは難しいが、経験的に、60秒から長くて150秒程度。この程度なら、講義の主題に対する好奇心と関心とを持続しながら、参考事例としての映像に寄り道できるぎりぎりの時間となる。
 第2に、概念的なものより事例的なものであること。教室空間で教員が使用できる最大のコミュニケーション手段は言語である。言語のもつ概念的な性格に比べて、映像のもつ具象的な性格は事例の提示に効果的である。したがって、教員は、事例提示の一部を映像の使用によってあがなうことができるのである。
 第3に、映像の中にトーキングヘッドとしての講師が登場しないこと。すでに述べたように、教室空間における2人以上の教授者の存在は避けられるべきだからである。
 ただし、第2の要件に関しては、概念の提示や理論の解説などの目的にも、映像を使用することは可能であるし、今後、必要であろう。たとえば、コンピュータによるグラフィクスやヴァーチャル・リアリティの生成機能によって、社会学の抽象性の高い概念や理論構成を3次元の仮想空間に図示したり、社会変動の時間的変化をアニメーションによって視覚化することも可能となろう。ただ、これらは、制作に関する装置環境や時間コストの点からみて、これらの技術を使った社会学教材の開発はほとんど行われておらず、多くの教員の知るところとはなっていない。今回の調査回答に概念的な教材映像ソフトを求める要求が少なかったのも、そのような現状を反映するものと思われる。しかし、近い将来、この領域で新しい試みが行われるべきであることを指摘しておきたい。

2.映像社会学をめぐる2つの方向

 つぎに、映像メディアを社会学教育に活用するに当たって、社会学と映像との関わりに関する固有の問題を考えてみたい。今回の調査回答者からも指摘されたように、社会学教育に映像的な手法を用いる前に、映像とは何かという問題を社会学的に解決しておく必要があるという主張がある。この主張に対して基本的に同意すべきであろう。
 ここでは映像とリアリティの関係に関する問題に限定して議論するが、たとえ社会学教育用にある特定の社会現象の事例を提示するために慎重に吟味され制作された素材ソフトであっても、それが制作者の手によって表現されたものである以上、それが制作者の価値・信念にもとづいて取捨選択と編集を受け、ひとつの作品として提示されることを免れない。したがって、映像記号によって表現された「事実」をそのまま「現実」として理解することに異議がとなえられることは当然であろう。よって、社会学が深く社会的事実の認識のあり方を議論してきたという伝統を考えれば、映像を素材とする社会学教育が映像解釈の方法や映像の制作理論や制作過程に対する理解としてのメディア・リテラシーの上に初めて成立すると考えることは、きわめて当然のことだといえる。
 このように映像に関する社会学的なリテラシーの獲得は、映像を社会学教育に利用する際の重要な要件であるし、また、映像に対する批判的な観点や相対化された視点なしに事例として提示された映像を理解することは、社会学的認識との矛盾関係にあるはずだからである。
 現在、そのような問題関心を扱う社会学の領域として映像社会学が存在する。(7)そして、この映像社会学の研究領域の一つとして、記号論的な映像解釈を始め、今日の映像メディアを生産する社会システム(たとえば、映画産業、テレビ・プロダクション、広告産業など)のもつ社会的性格とそれがもたらす影響の問題をひろくメディア・リテラシーとの関連の中でとりあげる試みが行われている。(8)
 このような試みは、社会学教育に対する映像利用と並行して進められる必要があり、その成果はたとえば映像社会学という講義科目として還元されるべきものであろう。
 しかし、それは、映像の解釈に関する社会学的な理論や枠組みの上にしか、社会学教育への映像利用が成立しないということを意味しない。映像社会学ですら、その一つの領域として、映像の教育利用への関心を強く意識してきた歴史的な過程がある。(9)
 社会学教育に対する映像利用は、ビデオやマルチメディアなどの電子メディアの使用を待つことなく、教室でスライドを映写したり、資料に写真や図版を使用した時点ですでに開始されている。そのことは、これまであまり自覚的に語られてこなかったし、今でも、気づかれていない場合が多い。
 また、今後の実際的な展開を予見した場合、社会学教育(だけではなく、高等教育のあらゆる局面)における映像利用は急速に進むだろう。
 映像を記号論の立場からとらえることは、映像と現実とは別のものとして取り扱うことを前提として成り立ち、映像を言語テキストと同様の枠組みを使って解釈したり分析したりする立場をとる。つまり、映像を言語をはじめとする記号一般と区別せず同様に取り扱うことを意味する。その前提にたつとすれば、社会学教育が映像を社会現象の事例として使用するしたり、教育の手法に活用したりすることに対して、特別に異議を申し立てることは矛盾しているといわなければならない。
 というのも、教育が記号の交換によって成立するコミュニケーション活動以外の何ものでもない以上、映像だけを他のコミュニケーション手段と分離して特別に取り扱うことに正当性を見いだせないからである。そのような立場は、映像というコミュニケーション手段を特殊視し、映像という記号の集合体が何か深遠な解釈を要する難解な体系を有しているというある種の事大主義的な思考を含むものである。
 この点に関して、記号論的な視点から議論をつけ加えておきたい。
 指摘されるように、映像のもつ外示的な物語組織の総和である説話がもつ意味に関しては、物理的な視聴力があれば基本的に理解可能なものである。もちろん、映像が言語や音響を含み込んだ総合的なコミュニケーションの手段である以上、映像の中で使用される言語が理解可能なものであるという制約は当然あるし、また、映像の中に撮し込まれた世界が、それが撮影された時間と空間の制約を受ける以上、その時空をなんらかの方法で共有している場合でしか、映像の外示的意味の理解が成立しないこのとは留意しておく必要があろう。(10)しかし、これらの点を考慮に入れても、映像は明らかに言語より柔軟性をもっている。他方、共示的な意味に関しては、送り手がもつ文化体系に対する理解や解釈枠組みなしには理解に限度がある。(11)
 ということは、少なくとも教育への映像利用が外示的な物語構造の理解のレベルに留まるならば、教育利用の目的はそれなりに果たされることになる。
 例をあげて説明したい。映画「ガンジー」(12)において、集合行動を表現した2つのシーンがある。1つは、イギリスによる塩専売権の独占に対抗して塩の生産に着手した国民会議派の運動員に対する警察隊の弾圧シーン(集合行動1)。もう1つは、パキスタンの分離のため国境で遭遇したヒンズー系難民とイスラム系難民の衝突シーンである(集合行動2)。社会学的な術語を用いれば、アッテンボローは、この映画で前者を組織行動と表現し、後者を乱衆行動として表現したといえる。
 ここで、その2つのシーンの外示的な意味を映像から読みとるためには、集合行動1の表現については、隊列を組んだ行進、リーダーとおぼしき人物の指揮や演説(映画ではイスラム教の導師らしき人物の演説)、分担された役割の遂行(映画では女性たちによる救護活動や警官たちの決められた手順による殴打)のなどの様子が理解できればよく、集合行動2については、衝動的な事態の発生(映画では死んだ子どもを抱えた男の投石)、入り乱れた乱闘(映画では難民の群の激突)などが理解できればよい。実際、これら映像の外示的な意味を理解するには、字幕すら必要としないだろう。
 一方、この映像の共示的な意味を解釈するのは容易でない。たとえば、集合行動1についてみれば、イスラム導師が演説の最中掛けていた不気味な黒い丸眼鏡の意味は何なのか、非暴力で抵抗し、あえて警官によって打ちのめされる運動参加者たちを捉えるカメラ視線がローアングルなのに対し、それを鎮圧する警官を捉えるカメラがハイアングルであるのはいかなる意味か、また、交互に現れる両者のカットの時間が徐々にせわしなくなるのは何故かなど、その解釈は記号論や映画理論の理論や枠組みを抜きには成り立たないだろう。
 そして、そのような解釈を通して、アッテンボローがこの2つのタイプの集合行動に対してどのような評価をしているか、映像に暗示された意味をくみ取っていかねばならないのである。
 ただ、教育利用という側面から考えれば、アッテンボローの集合行動に対する評価を明らかにすることが決定的に重要なことではない。アッテンボローの映像に含まれた共示的な意味の解釈として、この監督が実は組織された行動を愛し、乱衆行動を恐怖していたとして、それがもしこの映画を教材として視聴する学生たちが集合行動を価値自由に理解する妨げとなるなら、そのことを教員が口頭で注釈すれば済むし、また、この映画とは別の視点で描かれた集合行動の映像(13)をあわせて提示すればよいのである。
 このように、社会学教育に映像を利用するにあたって、その素材映像をどの水準で理解することが当該の映像を利用する効果を満たせるのかを十分配慮すれば、メディア・リテラシーの十分でない学生たちに対しても、映像の利用を進めることができるはずである。
 以上の2項を要約すれば、つぎのようになろう。
 まず、映像教材に関する一般的な要件については、教室空間で使用される映像教材は主に素材ソフトであり、それは講義ソフトでは代替できない。この素材ソフトがもつべき要件は、時間が短く1ソフト1トピックであること、事例提示的であること、映像の中に教員が登場しないこと、の3点である。
 他方、映像利用に関する社会学固有の問題については、社会学教育への映像に際して、映像に対する社会学的なリテラシーを学生に求めることは、映像のより深い理解を獲得する上で重要ではあるが、それがないからといって、映像利用ができないわけではない。どちらも並行しておこないうるものであることを最後に述べ、本稿を閉じることにしたい。
    

[註]
(1) わが国における高等教育レベルの映像教材の体系的な開発・研究はおもに放送大学およびその関連機関である放送教育開発センターの手によって担われてきた。高等教育の分野以外の初等・中等教育や生涯学習に関しては、NHKの教育放送の経験や放送教育に関わる民間放送局の連合体である民間放送教育連盟が存在している。
(2) たとえば、「地域社会学」では、主任講師が口頭で行う講義がスタジオで収録され、その講義に併せて、あらかじめロケによって収録されている素材映像をインサートしている。番組の中には、担当講師が野外にでて講義を行う場合もあるが、その場合でも、あくまで講師の口頭の講義に併せて、映像素材がインサートされていく形式をとる。したがって、インサート素材が用意できない場合は、講師の口頭の講義だけで番組は構成されることも多い。
(3) たとえば、都市問題に関する番組では、カメラが都市問題と取り組むソーシャルサービスの機関を訪問し、そこで働くワーカーにインタビューし、それらを構成して番組に仕上げている。このような番組では、担当講師は一切登場せず、そのかわり、ワーカーのモノローグが番組のほとんどの部分を占めることになる。インタビュー番組以外の形式では、ドキュメンタリー形式が使われる。
(4) 1992年以来、人文社会科学の教育・研究における映像の高度活用の研究が、放送教育開発センターの特別研究課題のひとつとして進められてきた。この研究プロジェクトの一環として、教室講義に映像を活用することを前提に、それに適した教科書の試行的な開発研究が行われた。その研究の成果として、1993年3月に『ビデオで社会学しませんか』(山中速人代表執筆、有斐閣)が出版された。当該の質問紙調査は、この教科書に関する社会学担当教員による専門家評価を行うことであったが、たんに教科書の評価を行うだけでなく、社会学教育に関する映像利用の実態に関する質問もあわせて行い、社会学関連分野の大学教育においてどのように映像の利用がおこなわれているかを明らかにしようと努めた。
(5) 関連科目とは、社会学、社会学概論、社会学原論、社会調査法、また学部・学科レベルで社会学教育を行っている大学では、いわゆるハイフォナイズドな社会学(たとえば、産業社会学、地域社会学、農村社会学、都市社会学、法社会学、知識社会学、理論社会学、など)さらに、教育関係学部では、教育社会学、その他、一般教養レベルの文化人類学、コミュニケーション論、比較文化論などの社会学関連科目である。
(6) スノーボール方式とは、一般に、文化人類学や地域調査などのフィールドワークなどで採用される調査対象者の選出方法である。つまり、すでに接触があり、ラポールが形成されているインフォーマントを軸に、その人的ネットワークを手繰って、調査目的に適した対象者を雪達だるま式に選出していく方法である。今回の調査でこの方法を採用したのは、本調査の目的の一つが、研究プロジェクトに関連して製作した社会学テキストを被調査者に送付し、その評価を求めることにあったためである。その際、社会学関連の科目を担当していない教員や研究者に国費で購入した高価なテキストを送付する非効率性を排除しようと考えたのである。被調査者の選出にあたって、学会に登録している研究者群を母集団とすることは妥当であると思われたが、そこからランダムにサンプリングした研究者がかならずしも社会学関連科目の教育に関与しているとはかぎらなかったため、非該当者の排除をより確実にできる抽出方法としてスノーボール方式を採用した。
(7) Harper, Douglas. Visual Sociology: Sociological Vision, The American Sociologist, Spring, 1988, pp.54-70.によれば、American Journal of Sociology の創刊号には、写真による社会学エッセーが掲載されていたと言われる。
(8) たとえば、Harper, Douglas.前掲書、pp.67-68。Hyatt, Kenton S.Documentary Images: Visual Information Made to Order, Visual Sociology, spring,1992,pp.68-79.などの論文が挙げられる。
(9) たとえば、 Psathas, George, Teaching Visual Sociology in Japan, Visual Sociology Review,summer, 1991, pp.33-37.やFrancis, Roy G.Teaching Students to See, Visual Sociology Review, 1991, summer, pp.44-46.などの論文
(10) たとえば、亘明志はウォースの指摘を引きながら、映像をめぐる送り手側と受け手側のコミュニケーションのギャップが生じる原因として「信念の体系に照らして映像を解読したり、意味付与したりするために、映像の流れが分節される。この映像の流れを分節する役割を担う装置を『物語組織』と呼ぶ。この『物語組織』がもっとも映像に密着してその意味を解読する装置であり、『感覚装置』に含まれる文化的、社会的、心理的諸要員に規定されて、その都度、作動するのである。」と述べている。『映像社会学序説』広島修道大学総合研究所、1988、p.15.
(11) Monaco, James, How to Read a Film: The Art, Technology, Language, History, and Theory of Film and Media,Oxford University Press, 1977.p.136によれば、「映画は文化の所産であるから、映画には記号学者が説話(外示の総和)と呼ぶものを超えた響きがある。たとえば、バラの映像が『リチャード三世』の映画に現れたとき、それは単なるバラではない。なぜなら、われわれは白いバラと赤いバラの共示を、ヨーク家とランカスター家の象徴として知っているからだ。」これらは、文化的に決定された共示なのである。
(12) リチャード・アッテンボロー監督、ジョン・ブライリー脚本、1982年、イギリス=インド合作。
(13) たとえば、エイゼンシュタイン「戦艦ポチョムキン」や岡本喜八「ええじゃないか」などが挙げられよう。

[参考文献]
Francis, Roy G.Teaching Students to See, Visual Sociology Review, 1991, summer.
Harper, Douglas. Visual Sociology: Sociological Vision, The American Sociologist, Spring, 1988.
Hyatt, Kenton S.Documentary Images: Visual Information Made to Order, Visual Sociology, spring,1992
 Monaco, James, How to Read a Film: The Art, Technology, Language, History, and Theory of Film and Media,Oxford University Press, 1977.
Psathas, George, Teaching Visual Sociology in Japan, Visual Sociology Review, summer, 1991.
亘明志『映像社会学序説』広島修道大学総合研究所,1988.
 ウォーレン,ピーター(岩本憲児訳)『映画における記号と意味』フィルムアート社,1975.
山中速人(執筆代表)『ビデオで社会学しませんか』有斐閣,1993.
山中速人(編)『人文・社会科学教育・研究法における映像の高度利用に関する調査資料−映像利用の社会学テキストに関する評価調査結果』放送教育開発センター研究資料004-J-93,1994.