95-03-31
メディアと観光 −ハワイ楽園イメージの形成とメディア−


1 メディアが作る「楽園」
 メディアがイメージの形成に果たす役割を批判的に論じたバスティンの『ザ・イメージ』は、今日でも重要な指摘を含んでいる。ブアスティンによれば、マス・メディアの発達のおかげで人々は現地にゆく以前にすでに現地についてのおおかたのイメージを作り上げている。彼は、このようなメディアによってあらかじめ与えられた出来事を擬似イベントと呼び、そのたとえに、観光地の絵はがきや宣伝写真をとりあげ、これらの視覚メディアによって内面化された美しい観光地のイメージを、観光客たちはいってみれば、「再確認」するために現地を訪問すると述べた。
 マスメディアが生産し続ける大量のイメージは、今日、それ自体人間にとっての新しい「現実」となりつつある。リップマンは、このようなメディアによって作られた「現実」を擬似環境とよんだが、このような事態に直面する私たち現代人にとって、イメージと「現実」を偽物と本物としてはっきりと区別することはますます困難になりつつある。
 現実とはややずれて形成された対象物のイメージが、逆にその対象物自体に影響を及ぼしていく。このような現象こそ、今日におけるイメージと「現実」との関係のあり方だからである。
 このことは、現代の観光にまつわるイメージの問題を考える際も当てはまるのである。観光という人間行為は、元来、旅することが目的化された行為である。したがって、観光には旅行に出る前に、すでに旅の目的地についてのイメージが形成されていなければならない。つまり、旅行者にとっては、すでに内面に形成されたイメージを確認するために、はるばると旅にでるのである。
 したがって、この観光という行為をビジネスとして成り立たせるためには、買い手の要求に応じた目的地のイメージが組織的に生産され供給されなければならない。近代のメディアはこのようなイメージの供給にもっとも強力に関与してきたのである。
 ここで取り上げるのは、ハワイである。1893年、砂糖きびプランテーションの開発によってハワイの経済的支配に成功したアメリカ系白人植民者たちが起こしたクーデタによって、ハワイ王朝が倒されて以来、政府は、率先して観光開発を進めてきた。
 今日、ハワイが太平洋の楽園として、世界屈指のリゾートに成長した背後には、「楽園」ハワイのイメージを作り上げてきた政府や観光企業、メディア産業の存在があった。今日、「楽園」のイメージそれ自体が消費の対象となり、大量の広告媒体によって市場に供給され、人々の欲望を喚起し、またたく間に陳腐化されてゆく。このような事態は、観光地としてのハワイの価値をも自壊させかねない。
 この「楽園」イメージの大量生産、大量消費に積極的に関わってきたのは、本土のメディアだった。近代のメディアは、「楽園ハワイ」の造成にどう関与したのだろうか。この章では、写真と映画を取り上げ、「楽園イメージ」がどのように形成されていったかをみることにしたい。

2 観光写真と先住民女性
 「楽園」ハワイが世界に普及していった過程には、写真の存在があった。写真によって拡大再生産されたイメージがまだほとんど訪れる人もいなかったハワイの文化の「意味」を決定的してしまったのである。
 1839年にダゲールによって発明された写真というメディアは、19世紀の後半には、拡大する植民地主義を反映してエキゾチズムを基調とする旅行写真家という職業をすでに成立させていた。湿式コロジオン法を用いる当時の写真は、感光材料が乾かないうちに現像を済まさなければならないという不便なメディアであったが、マキシム・デュ・カンをはじめ多くの旅行写真家たちは、はるか中近東やアフリカに遠征し、さまざまな旅行写真を発表した。
 ハワイに写真が持ち込まれたも早かった。ハワイ諸島で最初にダゲレオ・タイプによる人物撮影の広告が出されたのは、1845年ころといわれている。
 写真はハワイ語ではパイキイ(Pa'i Ki'i)と呼ばれた。パイは、印刷するとか判を押すなどを意味し、キイは、絵とか映像を意味する言葉だとされている。ハワイの初期の写真家には、クリスチャン・ヘデマンやヒューゴ・スタンジェンウオルドなどがいた。彼らは、写真師としてハワイにやってきた人々だった。かれらの多くは、ハワイ諸島の各地にちらばり肖像写真屋を開業し、依頼者のポートレイトを撮影することで生計をたてた。
 当時、彼らが生業として撮影した写真には、ハワイ王朝の王族たちの肖像写真、成功をおさめた宣教師たちの家族の写真などが多数ある。また、それ以外にも、アメリカ本土やヨーロッパ向けに美しいハワイの風景写真なども多数撮影された。これらに混じって先住民たちの生活や風俗をおさめた風俗写真も多数見ることができた。
 1920年代に入って、ハワイが観光地として定着するようになると、ワイキキやダイアモンドヘッドを始めとする風景写真を印刷した絵はがき、先住民のフラ・ガールや物珍しい風習を撮した絵はがきなどが数多くみやげ物として販売されるようになった。絵はがきを流行らせたのは、ヨーロッパにおけるアールヌーボーとそれに続くアールデコの運動であった。安価に大量に芸術的感動を大衆に伝えようとしたアールデコの精神が生み出したこれら絵はがきは、世界中に広がり、ハワイももちろんその例外ではなかった。
 また、製版技術の発達によって新聞が写真を掲載するようになると、写真ジャーナリズムがハワイのあらゆる出来事を記録するようになり、また、多くの写真家の個人的なコレクションとして無数の写真が撮られていった。
 ハワイの写真家たちは、つねにふたつの矛盾する要求に曝されていた。ひとつの要求は自分の内部から生じてくる「真実」の記録者であらんとする欲求であり、他のひとつは、太平洋の楽園を求める人々の夢に「写真」という具体的イメージを与えなければならないという「社会的」要求であった。ハワイの写真家たちのこのような矛盾が最も端的に現われたのは先住民の女性を被写体に選んだ時だった。
 ハワイについて撮されたこれらの写真の中でフラを踊る先住民の若い女性の写真は、その数や種類の豊富さで他を圧倒していた。19世紀の最後から今世紀の初頭にかけて、ハワイでは大量のフラ写真が有名無名の写真家によって撮影され、ヨーロッパやアメリカに持ち出されたのである。
 これらのフラガールを撮影した風俗写真の中で、ヌード写真は確実に一つの類型を形づくるものであった。
 これらの時期に撮影されて現在も残されているフラ・ダンサーのヌード写真は、当時、ヨーロッパとくにフランスで隆盛を極めた女性の裸体写真ときわめて共通する特徴を有していた。それは、未開の野蛮な風俗を紹介するという一見博物学的体裁をとりながら、その内実は男性の性的嗜好に奉仕することを目的に撮影されたのである。
 これらのヌード写真を飾る女性たちのとるポーズは、娼婦たちがカメラの前で職業的にとる種類のポーズと酷似していた。これらの女性たちは、かならず裸体の上半身をあらわにし、あきらかに「絵画的に」つくられたポーズをとっていた。
 この写真に限らず、非着衣の先住民の写真が学術的体裁を施されて実際は性的な嗜好の対象とされるのは、19世紀末の写真状況に共通の傾向であった。ジョージ・レヴィンスキーによれば、人種についての医学書に擬した雑多なポルノグラフィーが世紀末に数多く現われたという。
 しかし、この時代のハワイは、キリスト教の支配によって、女性の風俗はきわめてビクトリア的規範によって統制されていた。上半身をあらわにすることはもちろん、膝さえ公衆の前では隠すことをもとめられた。
 したがって、これらのフラガールのヌード写真は、写真という特権的メディアを持つ近代男性社会が、ハワイとりわけ先住民女性に対するイメージの形成を支配したことを示唆している。宣教師たちが持ち込んだキリスト教は、裏文化としての裸体写真も同時にワンセットでハワイの社会に持ち込んだのである。
 先住民の文化は、このような手続きによって、確実に「性的挑発者」としての意味を加えられていった。

3 ハリウッド映画とハワイ
 ハリウッドが「太平洋の楽園」にその営利的関心を向ける最初の大きなきっかけは、南太平洋の人々やロマンチックな風俗にいち早く注目し、ドキュメンタリーとして映像化したR・フラハティの「モアナ」であった。
 エスキモーと過ごした生活を映像化した「ナヌーク(極北の怪異)」(1922年)で映画界におどりでたR・フラハティは、1926年に、南太平洋の孤島の原住民たちの暮しや風俗を題材にした記録映画「モアナ」をパラマウントの資金で製作した。残念ながら、このドキュメンタリー映画は、興業的には成功しなかったが、パラマウントはファラハティに、これを下敷にラブロマンス劇映画、「南海の白影」(1928年)を製作させ、ヨーロッパで最初に公開されたサウンド映画として大きな成功を収めた。
 太平洋の楽園のイメージは、ハリウッド映画によってさらに、映像と音声を加えられ、大衆的な規模に拡大されていったのである。
 ハリウッドによるハワイ映画の製作は、1920年代に本格的に始まった。1930年代に入ると、音楽と踊りをふんだんに取り入れたミュージカル形式の映画が次々と製作公開されていった。美人女優のジャネット・マクドナルド主演の「レッツ・ゴー・ネイティブ」(1930年)、キング・ヴィダー監督の「バード・オブ・パラダイス」(1932年)、ディズニーの「ハワイアン・ホリデー」(1935年)、ベティ・グレイブル主演の「ソング・オブ・アイランド」(1942年)などが続々と製作されていった。
 これらのハリウッド製のハワイ映画の中で最も興業的に成功し、高い評判をとった映画は、キング・ヴィダー監督の「バード・オブ・パラダイス」だったといってよい。このRKO製作の映画は、ハワイに旅したプレーボーイが原住民が崇める火の神ペレにいけにえにされようとしている原住民の処女(ドロレス・デル・リオ)と恋に落ちるという冒険とロマンスたっぷりの音楽娯楽映画であった。
 「バード・オブ・パラダイス」に限らず、この時期のハリウッド製ハワイ映画に登場するフラ・ガールたちは、背後のラインダンサーなどの例外は除いて、ほとんどが、白人女優たちだった。
 たとえば、1926年の「アロマ・オブ・サウスシーズ」ではポーランド系女優のギルダ・グレイが腰蓑をつけてフラを踊った。1926年の「フラ」で先住民の娘役で主演したクララ・ボウは、「イット」でハリウッド製のセックス・シンボルとして脚光を浴びる白人女優である。また、ジャネット・マクドナルドも、もちろん、フィラデルフィアの白人家庭に生まれたミュージカル女優だったし、「バード・オブ・パラダイス」のドロレス・デル・リオも、エキゾチックな面立ちはしているが、メキシコ生まれのヒスパニックだった。彼女たちに共通するのは、ハリウッド女優としての性的な魅力だった。
 先住民出身の女性ダンサーがハリウッドの銀幕でフラを踊るのは、「ソング・オブ・アイランズ」のヒロ・ハッティ(本名、クララ・インター)まで待たねばならなかった。しかし、この映画でも、ラインでフラを踊るの踊り子たちはもちろん白人で、絹糸のように細く切り込まれたセロファンの腰蓑を艶めかしく身にまとい、足にはバレーのトウシューズを履き、胸には木の葉の形にデザインされた小さなブラジャーをつけていた。
 恐慌の時代の退廃主義は、ハワイ映画に登場する女性たちをいっそう官能的に振舞わせた。フラの踊り手たちにセロハンの腰蓑をつけさせ、バックから照明を当てることによって、彼女たちの下半身をシルエットで透かし見せるといった撮影効果も使われた。
 このような間接的な暗示的性表現が多用された理由の理由のひとつは、アメリカ映画製作者配給者協会(MPPDA)が1930年に作った自主規制だった。そして、直接的な性表現を禁じられた映画人たちにとって、ハワイ映画は「もともと裸の未開人をありのまま撮る」という口実を与えてくれたのである。
 これによって、ハワイといえば、上半身裸で腰蓑をつけた魅惑的なフラ・ガールたちが出迎えてくれるというステレオタイプが定着していったのである。
 このような錯覚の元をたどれば、辺境ドキュメンタリー映画の開祖であるフラハティーに起源があるように思えてならない。
 「ナヌーク」で極限の自然と闘って生きる人々の威厳と精神性をえがき続けたフラハティは、「モアナ」でも同様のものを期待した。しかし、実際にフラハティたちが現地にやってくると、そこに住む住民たちは、キリスト教の宣教師たちによる文化変容を経験した後で、人々は敬けんなキリスト者に変貌していた。南洋の野生の怪異を求めてやってくる映画人たちは、これに失望し、文明接触よって変化を見せ始めた「現在」の風俗を撮影することを拒否し、先住民たちに「伝統」の儀式や風俗を再現することを求め、入れ墨の風習まで再現させた。
 先住民の間では明らかに混乱が生じた。それまで白人たちは島にやってきて人々に文明を説き、「服を着ろ」と説教していたのに、今度は、同じ白人が異教徒のものとして排撃してきた伝統の風習や儀式を好み、「服を脱げ」と要求してきたからである。
 ここにマスコミの「やらせ」報道の原型がある、といっては言い過ぎだろう。しかし、フラハティーの意図がどうであれ、先住民側の立場をまったく無視していたことにはかわりなかった。ある時は文明を押し付け、ある時は「野生的」であることを要求したのである。その結果、文明対自然という近代社会の矛盾をそのまま先住民の社会に押しつけたのである。

4 イメージの政治
 マルクス主義的な言い方をすれば、メディアが作り上げるイメージは、あきらかにマスメディア・システムという近代のイメージ生産手段の所有関係を投影している。大量に送出されるイメージの真偽を判断する尺度は、リップマンがいうように、本物か偽物(複製)かというような単純なものではもはやないかもしれない。しかし、そこにはあきらかに、作り出されたイメージがもたらすさまざまな利益の分配過程における不平等が存在するのである。
 そして、メディアが生産したイメージの「正しさ」を問題にするということは、今日の状況では明らかに、そのイメージによって不利益を被った社会的少数者の権利の回復と共通の文脈を持っている。
 ハワイの政治学者であるエリザベス・バックは、社会がひとつの文化を獲得してゆく過程自体が政治的なプロセスであると述べている。この政治力は、強い勢力をもつ多数派(たとえば、白人)が弱い力しかもたない少数派(ハワイ先住民)に対して配分する文化的意味付け(つまりイメージ)の決定に作用する。バックは、フィールドとしてハワイを選び、連邦国家であるアメリカの中でハワイが「ポリネシアの風光明美な観光地」としての意味付けを配分され、それ以外の発展の可能性を否定されている現実を分析している。
 観光地のイメージが形成される過程で生じる不平等は、その社会の少数派の人々や民族グループに重大な影響を及ぼしているといっていいだろう。観光を握る経済的多数派が少数派に対して一方的に与えるイメージ(たとえば、官能的なフラガール)は、メディアの影響力によって、少数派の自己イメージを破壊し、再構成してしまう。
 このようにして、近代の観光メディアは、経済的多数派にとってより都合の良い伝統文化や未開民族を作り出していった。本章でみたように、メディアの利益と興味にしたがって、ハワイに「楽園」のイメージを与え、その先住民に対しては、「楽園の住人」というイメージを与えつづけたのである。
 しかし、それでは、少数派の人々は、多数派が支配するメディアによって、観光の道具としてのイメージを与えられつづける以外に道はないのだろうか。
 この問題について最後に、ひとこと、最近の傾向を述べておきたい。
 今日、少数派の人々は、80年代に世界に広がった人権運動をとおして手にいれた諸権利を行使して、マスメディアをつうじて一方的に作られた差別的なイメージの廃棄と訂正を要求するようになってきている。多くの差別反対運動が、メディアにおける差別的表現の追求に高い重要性をおくようになってきている。そして、この点については、既存のマス・メディアはあきらかに弱点を示しているのである。
 たとえば、ハワイに関してみれば、JTB出版の観光ガイドブックによるハワイ先住民に対する差別事件のケースがある。
 1989年、日本を訪問したハワイ先住民運動リーダー、エリック・エノス氏の目的の一つは、日本交通公社が出版した観光ガイドブックに読者レポートの形式を借りて掲載された、先住民居住地区を「恐い」とする差別表現に謝罪と訂正を求めた。このエノス氏の抗議に対し、交通公社側は全面的に非を認め、現地住民に謝罪の書面を送り、この本を全面回収し、記事の差替えを行なっている。
 また、中京圏で発行されていた月刊誌旅行雑誌『パックン』中に、ハワイ先住民女性に対する売春を連想させるマンガが掲載されたことに対して、市民団体が抗議し、反論記事の掲載が確約された。
 これらは、ほんの一例に過ぎない。国際的なネットワークを使って、これまで一方的に観光によってイメージの搾取を受けてきた人々の反撃が始まったといってよいだろう。観光は、このような現実にどのように対応していくのだろうか。現状は、まだきわめて流動的である。

[参考文献]
Atkins, Thomas R. (ed.), 1975, Sexuality in the Movies, New York: Da Capo Press Paperbook.
バーナウ,エリック, 1978,『世界ドキュメンタリー史』(近藤耕人訳)日本映像記録センター.
ブーアスティン、ダニエル、1964『幻影の時代』(後藤郁美・後藤和彦訳)東京創元社。
Brown, Desoto, 1982, Hawaii Recalls: Selling Romance to America, Nostalgic Images of the Hawaiian Islands: 1910-1950, Honolulu: Editions Limitted.
Davis, Lynn, 1980, Na Pa'i Ki'i: The Photographers in the Hawaiian Islands: 1845-1900,(Bernice P. Bishop Museum Special Publication 69) Honolulu: Bishop Museum Press.
濱野保樹, 1991,『メディアの世紀−アメリカ神話の創造者たち』岩波書店.
サドゥール,G、1980、『世界映画史』(丸尾定訳)みすず書房
Schmit, Robert C., 1988, Hawaii in the Movies 1989-1959, Honolulu:Hawaiian Historical Society.
山中速人、1992『イメージの<楽園>観光ハワイの文化史』筑摩書房
山中速人、1993『ハワイ』岩波新書
コミュニケーション・コーナー

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[アブストラクト]
 今日の観光は、他の消費行動一般がそうであるように、マス・メディアが提供する情報や欲求によって生じるひとつの消費行動であるといってよいでしょう。そこには、メディアと観光産業が結びついた強固な複合体の形成がみられます。ここでは、ハワイを事例に、そのような複合体が、産出した写真や映画の分析を通して、ハワイに対し「太平洋の楽園」としてのイメージがどう与えられ、また、現地で生活する先住民たちにどのようなイメージを与えられていったかをみます。

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差別表現

ワンポイント・アドバイス+練習問題
 日本のテレビや雑誌などで繰り返されるハワイ風のイメージのルーツは、じつは、ハリウッド映画や観光写真の中にあったというのが種あかしです。ここで、この章の練習問題をひとつ。みなさんも、ハワイに限らず、いろいろな観光地のテレビCMや雑誌広告、観光ガイドブックなどを集めてみて、その観光地のイメージがどのようにして作られてきたか、また、作られつつあるか調べてみましょう。そして、そのようなイメージが現地の人々の生活や文化にどのような影響をあたえるかを考えてみましょう。