3月15日土曜日、アメリカの対イラク戦争に反対するデモに参加した。


3月15日土曜日、アメリカの対イラク戦争に反対するデモに参加した。

大学時代からの長いつきあいで旅行社を経営する山田さんの誘いであった。「旅行業は、戦争が始まれば重大な損失を被る平和産業なんやからね。これは、いわば会社の命運を賭けた悲痛な訴えなんですよ」という割には、楽しそうにプラカードづくりに精を出している。よく聞いてみると、娘さん息子さんもいっしょに参加されるとのこと。子どもたちにとっては、初めてのデモだそうで、学生時代にベトナム反戦デモによく参加した山田さんのような世代にとっては、子どもたちと同じような経験を分かち合える喜びもひとしおなのであろう。もちろん、私も同様である。でも、私の場合は、娘はアメリカ、息子は登校日、連れ合いは海外出張で、一人での参加である。ちょっと山田さんをうらやましく感じた。私以外には、その日、偶然チケットを受け取りにやってきたお客さんが成り行きでついてきた。

ゼッケンになんと書こうか。いろいろ悩んで、ブッシュイズムに一矢報いてやろうと次のような文句をひねり出した。
 「
The Ignorant President of the Super Power and Dictators of Small Countries are Equally Dangerous!」これを色とりどりのポスターカラーでA2版の厚紙に書き、さらに、その日本語訳を別の厚紙に「超大国のおまぬけな大統領と小国の独裁者は同じく危険!」と書いて、2枚の厚紙をひもで結び、首から前後に振り分けにつるして歩くことにした。山田社長は、シンプルに「No War」と書いた。

会場の扇町公園には、たくさんの人々が集まっていた。久しぶりのデモである。ベトナム反戦デモの世代に比べて、参加者の掲げる個性的なプラカードや扮装などが新鮮だった。他方、変わらないものとして、労働組合や組織動員された人々の掲げる大きな旗やのぼりなども目に入った。さすがにヘルメット組はいなかった。
 会場で山田さんは娘さんと息子さんを捜し、しばらくして娘さん一行を発見。娘さんは、友達を誘ってきていた。二人とも今年の春から大学生になるのだという。携帯電話を掛けると、苦もなく居所がわかる、そういう便利な時代になったのである。
 一方、携帯電話をなくしたという息子さんは、結局、中之島に着くまで見つからなかった。

雨は止んでいた。しかし、風があった。厚紙に書いた振り分け式のゼッケンは、ばたばたとはためき難儀した。ちょっと字数が多すぎたため、効果ももう一つであった。懲りすぎて失敗するいつもの悪い癖が出てしまったと、後悔した。
 警察は、昔のように威圧的ではなかった。しかし、ちゃんと要所は押さえて抜かりがない。大衆行動に対する規制のノウハウは確実に進歩しているようだ。それに対し、デモ参加者のデモカルチャーはもう一つだった。声のかけ方、唱和の仕方、歩き方、パフォーマンス、どれをとってもイマイチ。日本人のある種の政治文化が確実に衰退してしまったことを示していた、なんて、評論家ぶっても仕方がない。
 若い人が多かったし、英語のシュプレヒコールなんかしていたところが新奇だった。ベトナム反戦デモの時なんか、英語のシュプレヒコールにどこか抵抗あったが、そんなことはもうなかった。しかし、アメリカ領事館の前を通るんだから、一応、英語の垂れ幕の文言にもう一つ工夫をしてもらいたかったな、などとも思った。

社会学者の橋爪大三郎氏は、かつて彼が深く信じていた共産主義のイデオロギーが幻想となった今、無意味な反戦デモではなく、「議論」こそ必要なのだと新聞に書いていた。そういう「議論」はどこでやっているのだろうという疑問はさておき、私は彼ほどには共産主義のイデオロギーには傾倒することはなかったが、ベトナム反戦デモに参加したし、今も、こうしてイラク反戦デモに参加している。私が反戦デモに参加するのは、自分の高邁な政治信条の実現のためというより、こういう時に、訳知り顔のエリートたちが仕切っているアメリカや日本の政府の思い通りにはしてやらないという生理的な反応なのだと思う。国際関係の専門家によれば、世界規模で起こっている反戦デモがフセインに対して誤ったメッセージを送ることになるかもしれないし、その結果、国際社会にとってより厄介な事態を招来するかも知れないという。しかし、たとえイラク問題の解決がより難しくなったとしても、それによって大量に人々が死を強制される事態が少しでも先に回避できることを私は望む。
「ヒロシマ原爆が太平洋戦争の終結を早めた、だからヒロシマの人々の大量の死は必要だった」というアメリカの論理にすこしでも疑問をはさむ余地があると思えるのなら、今回のイラクに対する攻撃も、躊躇する十分な理由があるというべきなのである。死の恐怖の前には、人々は平等である。アメリカ人がテロによる不条理な死を免れたいと思うことに道理があるのなら、イラク人がアメリカ軍の侵攻に巻き添えになって死ぬことを免れたいと願うことにも道理がある。そして、この2つの願望にともに正当性があると思えるのなら、北朝鮮のミサイルに当たって死ぬことの不条理さから日本人が免れたいと思うからといって、それと引き替えにアメリカのイラク侵攻に支持を与え、イラク人を不条理な死に導くことを認めることにはならないのである。私たちは、地球に等しく生きる人間として、あちこちの政治権力に対して、自分の生命が抹殺されないよう求める生理的な権利があるし、だれもその表明を妨げることはできない。恐いときに「恐いと言うな、平気だと言え」という、これこそ、絵に描いたようなメイルショービニズムではないか。

いくつかの繁華街と大通りを通って、解散点の中之島公園まで歩き、デモはつつがなく終了した。さすが顔の広い山田さんは、あちこちで顔見知りと出会い、挨拶を交わしていた。その後、川端のベンチに腰掛けて、今年夏に企画する中国旅行のリーフレット印刷の打ち合わせをしていた。打ち合わせ相手の印刷屋さんも、ちゃっかりデモに参加していた。
 その後、息子さんと落ち合って、中之島公会堂のレストラン、中之島倶楽部に6人で席をとった。洋風の前菜を銘々注文し、フランス産のワインを開けた。娘さんの進学を祝って、2本目も空けた。フランスワインは、久しぶりであった。硬意地に筋を通して、ムルロアでのフランス核実験以来、フランスワインを絶っていた。イスラエルのワインは、一度も飲んだことはない。他方、南アフリカのワインは、マンデラ氏が大統領に就任したのを祝うのをきっかけに解禁した。そして、今回のフランスの行動を評価して、フランスワインを解禁した。反対に、カリフォルニア・ワインとスペイン・ワインを今後絶つのである。そういううんちくをぐだぐた言いながら、ワインを飲むのもまた楽しかった。

中之島公会堂は、ずいぶん美しく修復されていた。関西に戻ってきて、初めてのデモで久しぶりに中之島公会堂を再訪し、この二十数年の時差を一気に飛び越したような不思議な感慨に襲われた。
 自分は年をとり、肉体の衰えを背負い込んだが、戦争にはやるアメリカの粗暴な精神はいつまでもそのままのように思えてならない。私たちは、いつまで、そのような厄災とつきあい続けねばならないのだろうか。心が暗くなるのは、今年で五〇歳になる肉体のせいばかりではないと思えるのだった。