アメリカと日本のはざまで〜ハワイ日系人のあゆんだ道〜

『季刊民族学』97号 2001年8月


「もう日本に帰らんと決心したの」
 「オカサンが亡くなってからね。『あー、ここにおったらオトサンを心配させる。みんなを心配させる。どこか行きたいな。』思ったら、ジンクロウさんがハワイから帰ってきて、それで私と結婚して、ハワイに来たの。17歳のときよ。」

 今年九七歳になる日系移民一世のノナカ・タカノさんは、一九一九(大正七)年、福岡県八女群の農家からハワイに移民してきた往事をまるで昨日のように語った。最近の彼女は、カウアイ島ハナペペに夫と開いたノナカ・ファームのラナイ(ハワイ式ポーチ)に腰掛けて一日を過ごすことが多いのだが、そんなタカノさんを囲みながら、彼女の長い長い人生の物語に私たちは耳を傾け続けた。
 当時ハワイへの渡航は、船で一一日間かかったという。船は一旦ホノルルに着き、そこから小さな船に乗り換え、一昼夜かけてカウアイ島ナウィリウィリ港沖に着く。港は浅く船は接岸できないから、さらにボートに乗り換え、数人ずつ上陸した。港から夫が暮らすマナというカウアイ島最西端の村には、自動車でさらに数時間かかった。
 柳行李1つを持って、合計一二日間もの長く苦しい旅だった。

「それでね。私、もう日本に帰らんと決心したの。もう船がこんなに揺れて。酔って酔って。もうあれで私、日本にもう、もう帰らん思うた。本当よ。」

「昔の者は本当に苦労してるのよ」
 彼女の日本人移民としての長い人生はこうして始まった。当初は、彼女も他の移民たちと同様、「耕地」と呼ばれる砂糖キビプランテーションで働いた。
 プランテーションの労働は、朝六時から夕方五時まで、休憩は昼食時のわずか三〇分の過酷な一一時間労働であった。作業区域は男女別で、仕事の内容は、男性が収穫期のキビの刈り取りやトロッコへの積み込みなどの力仕事。女性は、刈られたキビを束ねたり、草刈りや「コリリ」と呼ばれるキビの切れ端を拾い集める補助的作業を分担したという。日給は男性が一ドル、女性が七五セントときわめて低いものであった。
 炎天下の作業は辛く、水すら満足に飲めなかったと彼女は語る。のどが乾くと水の入った桶を担いだウォーターボーイを大声で呼び、ミルクの空き缶で作られた柄杓で水を一杯だけ飲むことができたのだと。

 「水でも飲みたいときに自分で飲まれないの。水が要るときに『Water boy!』って言ったらそれが来おったの。水をこう配って歩くでしょ。じゃから、あんたが飲んだのを私が飲んで、また次の人もそうして。・・・昔の者は本当に苦労してるのよ。」

 タカノさん夫婦は、実入りの少ないプランテーションでの労働から脱出を図ろうとさまざまな副業を手がけた。月二ドルで白人家庭から洗濯の仕事を引き受けたりもした。
 そうして貯めた資金と頼母子から借りた資金を元手に、一九二五年にハナペペに土地を借りて農業を始めた。その後、借地を少しずつ買い取り、現在のノナカ・ファームに発展させた。この農場で男子四人と女子三人の七人の子どもを育てた。
 一九四一年、日本軍の真珠湾攻撃で日米戦争が始まった。戦争中は、日本人は夜間の外出禁止や自動車の運転の禁止など、さまざまな制限を受けた。監視される窮屈な生活。しかし、その中から多くの日系二世兵士が出征していった。タカノさんの息子たちもそれぞれ日系兵として兵役に就いた。
 戦争中は、地元の基地に農作物を納めて家計を支えた。戦後も変わりなく農業を続け、現在の豊かなノナカ・ファームを築き上げた。
 現在、三五名の孫、五九名のひ孫と八名の玄孫がいる充実した老後を過ごしている。

ハワイ日系人の生活史を探る
 数年来カウアイ島ワイメア地区を拠点にハワイ日系人たちのライフヒストリー調査を続けてきた。ハワイ日系人の生活史研究は、かつて一世たちを対象に精力的に行われた時期があった。アメリカ本土やハワイ側では、第二次戦争中の日系人迫害に対する賠償問題や大戦中の日系人二世部隊に対する再評価や顕彰などの動きもあって、ひきつづき関心が受け継がれてきたが、日本側からの関心は、移民世代が代を重ね現地化するにしたがって遠のいたようにみえる。今日のハワイ日系社会では、タカノさんのような一世たちの多くはすでに鬼籍に入り、二世たちの多くも高齢期を迎え、三世四世、さらに五世の時代に入っている。
 このような時代の流れの中で、私たちの調査は、日本語を話すことのできる最後の世代である戦前に日本語教育を受けた二世たちを対象に、彼らのライフヒストリーを記録する作業を数年来続けてきた。彼らは太平洋戦争で出身国が敵国となる特異な体験を持ち、アメリカと日本との間にあって、また、多民族複合文化というユニークな条件をもつハワイ社会にあって民族的なアイデンティティを複雑に揺れ動かされた世代である。彼らの肉声に耳を傾けることで、アメリカ本土とは別の、ハワイ日系人固有のアイデンティティを浮き彫りにしたいという願望がこの根気のいる作業を続けさせてきた。
 また、日本語を話す多くの二世たちは、すでに八〇歳を超える年齢に達しており、このままでは、彼らの経験と歴史が時間の闇に沈んでしまうという焦りもあった。
 学生たちの協力もあって、すでに四〇名を超える日系人たちのライフヒストリーが収集されるまでになっている。
 
ハワイ日系人の歴史
 ハワイ日系人の歴史は、近代における日本の海外移民の歴史でもある。ハワイに最初の日本人移民が行われたのは明治元年に当たる一八六八年であった。この明治元年のハワイ移民たちこそ、近代の日本移民史の黎明を告げる移民者たちであった。
 以来、日本からのハワイ移民は、一九二四年にいわゆる排日移民法によって移民が完全に禁止されるまで、移民の形態は変わったものの脈々と続けられ、ハワイ人口の約四割が日本人移民とその子孫によって占められるまでに増大した。
 この間、日本は急速な近代化を遂げ、経済的にも軍事的にも東アジアにおける新興国家として、その勢力を伸張させていったが、ハワイへの日本人移民も、そのような日本の勢力の伸張を背景にハワイ社会でのプレゼンスを増大させていった。戦前のハワイにおける社会的緊張の主要な部分は、ハワイ社会で支配的な地位を確保していたアメリカ系白人社会と最大の移民集団であった日本人社会の間から派生するものであった。
  太平洋戦争以前のハワイにおける日本人移民の歴史は、移民制度の変化に応じて、およそ次のように分けることができる。
 黎明期(一八六八〜一八八四年)、官約移民期(一八八五〜一八九三年)、私約移民期(一八九四〜一八九九年)、自由移民期(一九〇〇〜一九〇七年)、呼び寄せ移民期(一九〇八〜一九二三年)、禁止期(一九二四〜一九四六年)
 この時代区分に従いながら、戦前におけるハワイ移民の歴史を概観してみたい。

 (1)黎明期
 最初のハワイ移民は、ヴァン・リードによって周旋され、明治元年に政府の正式な出国許可を持たずにハワイに渡った。この移民たちを現地では、「元年者」と特別に呼んでいる。このいわば、「違法」な渡航に対し、明治政府は反発し、しばらくの間ハワイ移民を凍結したが、その後、カラカウア王の訪日を機会に王の要請を受けて本格的な移民派遣の検討に入った。これには、西南戦争後の不況という国内の事情も深く関係していたと思われる。
 (2)官約移民期
 その結果、日本政府は一八八五年に正式にハワイ王朝政府との間に移民条約を締結し、条約にもとづく契約労働者の派遣を意味する「官約」移民を開始した。
 官約移民では、移民たちは渡航後、契約にもとづきプランテーションに割り当てられ、厳しい農業労働に従事した。
 初期の契約労働には、移動の自由もなく、労働時間についての規定も曖昧で、早朝から夕暮れまで長時間労働を強いられ、また、住居もみすぼらしいキャンプに多数の労働者が雑居するなど、過酷な条件のもとでの就労を余儀なくされた。この辺の事情は、ロナルド・タカキ『パウハナ』が詳しい。
 (3)私約移民期
 しかし、一八九三年、先住民の権利強化を意図する女王リリウオカラニの憲法改正を阻止しようと、アメリカ系白人農場主たちの手によってクーデタが勃発、ハワイ王朝は崩壊し、ハワイは共和国体制に移行した。その結果、移民条約も消滅し、移民は移民個人とプランテーション会社が直接契約を結ぶ私約移民の形態に移行した。
 この時、実際に日本側で移民の周旋に当たったのが移民会社だった。しかし、移民会社による移民は、高額の渡航費を取り、契約条件の周知も不十分なきわめてずさんなものだったので、現地に到着した移民者からの不満や条件の不履行など多くの社会問題を発生させた。
 (4)自由移民期
 その後、一八九九年にハワイはついにアメリカに併合され、その領土となった。米西戦争の勃発によって、当時スペインの影響下にあったフィリピンに艦船を派遣するに当たって、中継基地としてのハワイ真珠湾の重要性がアメリカ政府において再認識されたことがこの併合の背景にあった。
 このハワイ併合によって、ハワイ移民は、合衆国国内の移民制度や労働諸法の適応を受けることとなった。契約労働は廃止され、日本人移民たちは、原則的に移動の自由と労働者としての諸権利を認められることとなった。
 一方、このとき、すでにハワイに定着しつつあった日本人移民の多くは、渡航自由となった米本土に大挙して移動したため、カリフォルニアを中心に日本人移民脅威論を巻き起こすこととなった。
 「行こかメリケン、帰ろかジャパン、ここが思案のハワイ島」
 というホレホレ節の一節は、この時代の日本人移民たちの心情をよく表している。プランテーションの労働歌であったこのホレホレ節は、ハワイ日系人のアイデンティティ・ソングとして、新しい世代にも歌い継がれている。
 (5)呼び寄せ移民期
 一九〇七年に日米間で日本からの移民を原則禁止する紳士協定が結ばれると、組織だった移民は停止された。しかし、それに替わって、個人が移民法の枠内で親類や肉親を呼び寄せる「呼び寄せ移民」が始まった。
 冒頭のノナカ・タカノさんの場合のように、ハワイにすでに渡航している日本人男性が、写真や縁故を頼って配偶者をハワイに呼び寄せる結婚が増加した。呼び寄せによる結婚の増加は、日本人移民の定着を示す証拠でもあった。しかし、結婚相手についてろくに知らされないうちに渡航した花嫁たちにとっては、不幸な結婚であった場合も多く。この時期、ハワイ日本人社会では離婚が急増した。
 定着傾向にあった移民たちは、耕地での労働条件の改善に目を向け始めた。当時、耕地の労働はまだまだ過酷で、低賃金であった。これを不服とし、日本人労働者たちは、賃上げと労働条件の改善を掲げて、一九〇九年と一九二〇年に大きな労働争議を起こした。ストライキは、切り崩しに会い労働者側の敗北に終わったが、これをきっかけに、耕地の労働条件は格段に改善の方向に向かった。しかし、ストライキに示された日本人たちの組織力と団結力は白人社会の中で排日の機運をいっそう拡大することになった。この経過については、ドウス昌代『日本の陰謀−ハワイオアフ島大ストライキの光と影』が詳しい。
 (6)禁止期
 一九二四年にアメリカの移民法の改正によって成立したいわゆる「排日移民法」によって、日本からの移民は全面的に禁止され、ハワイへの日本人移民も、これを機会に完全に停止された。しかし、この時期までに、ハワイに渡った日本人は、二〇万人を超え、また、ハワイで誕生した日系人二世を加えて、ハワイにおける日本人(日系人)人口は、戦前期で総人口の約四割を超えるまでに発展したのである。
 以来、日本からの移民の再開は、太平洋戦争終結後の一九四六年を待たねばならなかった。

プランテーションでの生活と経営者の温情主義
 さて、話をはじめに戻そう。
 日本からの移民が始まった当初は、移民の大半は男性で、短期の出稼ぎ指向であった。これら移民一世たちは、ほとんどがプランテーションでの契約労働に従事した。労働者は民族グループごとに居住地を指定され、耕地の傍らに数十個程度の住宅がまとまったキャンプと呼ばれる住宅集合体がこれら労働者たちの主要な生活の場となった。たとえば、カウアイ島の場合ではマカウェリにはキャンプ#1、#2などと通し番号をふった複数のキャンプが設営されていた。労働者たちは、朝そこから仕事に出勤し、労働を終えるとふたたびキャンプに戻った。他方、彼らの家族は一日をその中で過ごすのが常だった。子どもたちは、キャンプから学校に通い、早朝や午後は、キャンプの中にある仏教寺院が開いている日本語学校に通って日本語を学んだ。私たちのインタビューに答えてくれた多くの二世たちのほとんどが、このキャンプの中で子ども時代を送っており、数多くの懐かしい体験を語っている。
  プランテーションは民間会社によって経営され、ハワイ全体としてみれば、有力な五つの大財閥が影響力を行使したが、それぞれの島には大小多数のプランテーション会社があり、カウアイ島ではロビンソン・ファミリーに代表されるような有力な企業が存在していた。これらプランテーション会社の所有者たちの大半はアメリカ系白人で、アメリカ南部の綿花栽培地帯における農場主のように地域社会の中で特権的な地位を占め、その多くは、不在地主化していた。農地や会社の売買も頻繁に行われたようで、耕作上の都合で、長年住み馴染んだキャンプが取り壊されて農地になったり、また、キャンプの統合によって住居を移動させられたりということがしばしば起こった。
 しかし、労働者の雇用や福利については、家族的温情主義(パターナリズム)の伝統が存在し、農場主たちは移民労働者に対して、彼らの故郷と比べてよりよい生活条件を確保することに努めた。たとえば、ワイメア地区のプランテーションの経営者はファイア一族であったが、ファイア家の人々と従業員家族との関係は、階級的な主従関係を有しながらも、家族的な紐帯の側面も色濃く持ち合わせていた。
 ところで、このプランテーション経営者のパターナリズムを以て、ハワイの民族関係が融和的であることの例証とする立場があるが、それは皮相な見方である。先述のロナルド・タカキ『パウハナ』も指摘するように、このパターナリズムは、太平洋の離島という条件のためにアメリカ本土と比べて労働力を確保しにくかったハワイの砂糖キビ・プランテーションが、低い賃金水準を維持するために採用した労働者管理政策上の一つの選択枝以上のものではないという見方が今日有力である。

一世から二世へ
 さて、一世の定着が進むと、蓄財を果たして小規模の小売業を始めたり、また、都会であるホノルルに移って、他の賃金労働に従事する者も現れるようになった。このような傾向は、二世になると一層強まった。
 他方、プランテーションにとどまった人々も、二世の世代に入ると、耕地での仕事の内容が機械の修理や操作、管理労働など、熟練度の高い職種に移っていく傾向が認められた。また、二世の女性たちは、親元で暮らしながら洋裁学校に通い、裁縫の技術を習得し、縫子として家計を助けた。 
 社会移動という観点からみると、日系社会は単純労働を中心とした一世から、より高い教育機会を得て多様な職種へと展開する二世へと、水平垂直の両方向ともに放散化する傾向を示したと言うことができる。これは日本人だけに限らず、ハワイにやってきた多くの移民集団に共通していえることである。これに対し、ハワイ先住のハワイ人たちは、社会の相対的低層に放置され、滞留することを余儀なくされた。
 ところで、一世から二世への世代交代をもたらした要因として、太平洋戦争の影響は計り知れない。
 真珠湾攻撃の勃発によって、それまで一世の影響力の下にあったハワイ日本人社会は、その指導者たちが本土の収容所に連行されたり、また、日本政府との強力なパイプであった日本総領事館が閉鎖されたりしたこともあって、急速に一世からハワイ生まれでアメリカ国籍をもつ二世世代に指導力の交代が進んだからだ。

二世進出の光と影

 ハワイ日系人の社会進出を考える上で見過ごしてはならないのは、太平洋戦争への二世男性の従軍である。日系人部隊として知られる第一〇〇大隊や第四四二連隊のヨーロッパ戦線でのめざましい活躍は、信頼を獲得したモデル・マイノリティとしての日系人を象徴する「神話」でもあるが、この日系人部隊の三分の二がハワイからの志願兵であり、ハワイ日系人の社会移動との関係からみると、帰国後支給された除隊兵に対する学費援助(GIビル)によって彼らが手にした教育機会により実質的な意味を見いだすことができる。
 ロバート・マツナガ故上院議員やダニエル・イノウエ上院議員など、この日系人部隊に参加した日系2世世代から戦後のハワイ社会を担う有力なリーダーが輩出しており、調査地のカウアイ島でも有力な日系人実業家や政治家などに日系人部隊出身者が多数含まれている。このように、二世たちは、四割という人口を背景に公務員や教員など公共部門を中心にした中級の専門職種に進出することで社会上昇の機会を掴んだ。
 ただ、今日、これら第二次大戦に日系人兵として従軍した世代は、すでに余生を過ごす時期に達しており、日系人部隊の存在がそのままハワイ社会における日系人の地位形成に影響を及ぼした時期は、過去のものとなっている。
 とくに兵役に関わらなかった女性たちの地位上昇は、男性に対して相対的に低いレベルにとどまる傾向にあった。この傾向は、とりわけ女性の教育に熱心でなかった一世の直接の影響下にあった二世の女性に強く現れているように思える。今回の調査対象者の中でも、二世女性の多くが、強い教育への意欲を持ちながら、そのような障壁のために希望通りの教育機会を得ることができなかった辛い体験を持っている。

揺れ動く二世たちの心

 ハワイが太平洋戦争における重要な補給基地の役割を担うようになると、大量の兵士や軍属がアメリカ本土からハワイにやってくるようになった。ドロシー・ハザマらの『Okage Sama De−The Japanese in Hawaii』によれば、本土からやってきたアメリカ兵たちがハワイに持ち込んできた本土の文化や生活習慣、個人主義的なライフスタイルは、ハワイ生まれの若い二世たちに貪欲に吸収された。多くの日系人家庭では、一世の親と二世の子の世代間で価値観のギャップを引き起こしたという。
 たとえば、親のいうなりにハワイに嫁いできた一世の女性たちとは異なり、ハワイ生まれの二世たちは、結婚相手の選択においても、自分の感情や価値観に従おうとした。また、他の民族集団と比べて同民族内の結婚が多かった日系人の中でも、二世の世代では、異文化間の結婚も徐々に拡大していった。
 日系二世たちは、ハワイ日本人社会におけるいわば「戦後派」として、20世紀後半のハワイを生き抜いてきたのである。
 また、日本語しか話せなかった一世たちとは異なり、多くの二世は、家庭では日本語を使うものの学校や職場では、英語を不自由なく使い、また、同世代集団の中では、民族グループの壁を境界を超えて、ハワイアン・ピジンと呼ばれるプランテーション独特の英語を共通語として使う生活を送ってきた。そのため、民族の境界を超えて、ハワイ生まれハワイ育ちとしての共通の我々意識を育んできた。この我々意識は、「土着」を意味するハワイ語に語源を持つ「カマアイナ」意識と呼ばれている。

流出する三世たち

 しかし、そうはいうものの、二世たちは反発しながらも、一世が持ち続けていた長幼の序列や家族的結合の尊重などの価値を共有していることもまた事実であり、この点に関しては、より個人主義的な傾向を強く持つ三世世代との葛藤を内面に深く秘めているともいえる。たとえばタカノさんのように、一世と同居する二世の家族はすくなからずあるのには、このような家族的価値の現れといえるかもしれない。これに対して、三世あるいは四世の子ども世代と同居している二世家族は、私の調査対象者の中には、ほとんどいないし、一般的にみても、きわめて少数である。
 一世に反発しながらも、日本人として「伝統」や日本人としての意識を保持してきた二世に対して、戦後生まれの三世たちの多くは、ハワイ日系社会の発展の限界を意識し、より高い職業機会を求めて、生まれ育ったコミュニティを離れて、首都ホノルルのあるオアフ島か、あるいは、アメリカ本土に移住する傾向が認められる。
 彼ら三世の多くは、多文化社会としてのハワイの空気を生まれた時から呼吸し、てきたため、日系人としてのエスニック意識を強烈に覚醒させる経験を持たない。この点をみれば、三世の一般的傾向は、コスモポリタン的であるといえるかもしれない。しかし、その一方で、ハワイを離れ、アジア系人口の少ない本土で生活する経験を持った三世の中には、逆にアジア系としてのアイデンティティを強く持つようになる傾向が認められるという。このような傾向の背中を押しているのが、近年、激しさを増しつつある先住民族ハワイ人による民族運動である。先住民族の激しい自己主張と分離主義的な傾向は、同じハワイに生きる者として三世以降の世代の若者たちにルーツとしての「日系」を意識させるのかもしれない。

高齢化し、拡散する日系人
 いずれにせよ、ハワイ日系人は、世代が降下するに従って、ハワイ以外の地域への拡散(ダイアスポラ)的傾向を示しつつあるということができるだろう。しかし、それは反面、日系人人口の頭打ちを招来することにもなっている。
 私の調査地であるカウアイ島をはじめハワイの日系社会は、急速に高齢化の傾向を示しつつあるのである。たとえば、一九九〇年の統計では、ハワイ州人口全体に占める日系人の人口は、二二・三パーセントであるが、六〇歳以上の高齢者層についてだけみると、ハワイ全体の高齢者中の三八・四パーセントが日系人によって占められている。
 これに加えて、本土経済への結びつきが強まる中、本土からの白人人口の流入も増加しつつあり、二世の進出によって築かれた社会経済上の地位も脅かされつつある。かつては日系人たちが占めていたポストに本土出身の白人たちが就く傾向があちこちで認められるようになった。
 しかし、これらを別の観点からみれば、一つの民族グループとしての日系人が高齢化しても、他の若い民族グループが存在するすることで、社会全体としては若さを維持できるという多民族社会ならではの強みをハワイの社会は保持しているということもできる。
 ハワイはアメリカの一州であるが、本土とは異なったユニークな歴史背景を持ち、過半数を超えるグループが存在しないという民族構成の特徴を一つとっても、本土の常識は当てはまらない。
 多文化主義の大儀のもとに、逆に民族グループ間の対立と分離が進行するアメリカ本土の状況を横目で睨みながら、ハワイの人々は、そして日系人は、今後どのような道を選択するのであろうか。ハワイ日系社会は、今、静かに変化の時期を迎えている。