大 和 田 橋 

八王子市大和田町〜同市明神町 






 大 和 田 橋

  甲州街道が八王子市街地の北側を

 流れる浅川を渡る橋で、昭和10年

 に一部が流失し、同16年に復旧改

 修されて現在の橋の姿になったよう

 です。こうして戦前に復旧工事を完

 了した事が、幸いにも多くの八王子

 市民の命を救いました。(注1)







 大和田橋の親柱


  多摩地域の橋としては珍しくモダ

 ンなデザインの親柱が残されていて

 一級国道の橋らしく趣のある姿とは

 思いますが、同時期に八王子市西部

 に造営された多摩御陵(注2)への

 橋という位置付けがあったのかも知

 れません。







 橋梁部分


  構造としてはRCゲルバー・ラー

 メン構造で、その後の通過車両の重

 量増加や耐震構造強化の為に、鉄骨

 で補強されるなど、幾度となく改修

 工事が行われているようです。なお

 先の大戦の空襲の際には多くの市民

 がこの橋の下に避難したそうです。



注1・・・先の大戦の終戦直前の8月1日に、八王子市街地が大規模な空襲に遭って多くの住民が

  犠牲になりました。橋の上にも50発ほどの焼夷弾が落とされたそうですが、この大和田橋の

  下に避難した住民たちは橋に守られて助かったそうです。その悲惨な戦争の記憶を留める為に

  車道は改修されましたが、歩道上には焼夷弾の落ちた跡が保存されています。


注2・・・JR中央線高尾駅北東の丘陵地に造営された大正天皇の御陵で、大正天皇は大和田橋が

  完成する前年に亡くなりました。一方で同じ甲州街道の橋で、大和田橋の前年に架橋された日

  野橋の親柱は、ほぼ同時期に架橋されたのに変わり映えしない親柱で、この一年の違いが橋の

  デザインに影響を与えたのかも知れません。当時は御陵に近い場所に皇室専用の鉄道の駅が設

  けられ並木も整備されるなど、付近の施設面でも様々な配慮がなされていたようです。

   ちなみに、その後に貞明皇后陵が造営され、さらに近年になって昭和天皇・香淳皇后の御陵

  も造営されて正式名称は武蔵陵墓地と変更されていますが、長い間親しまれた多摩御陵の呼び

  名の方が一般的なようです。




 銀 杏 並 木

  八王子市の追分交差点から高尾駅

 付近までの甲州街道沿いには、多摩

 御陵造営に合わせて銀杏並木が整備

 されました。

  それから100年近く経って大き

 く成長した銀杏並木が、秋の黄葉の

 季節には美しく色付きます。






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