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私の戦争体験

台湾からの船は神戸に着いたが、沖に暫く停泊させられ私たちの緊張はいやが上にも高まっていった。“どうした?何かあるのか?”“機雷があるらしいぞ。”など言い出す人もいた。数時間の後、何とか岸壁についてほっとしたものである。祖父が迎えに来ていた。

神戸に一泊して、特急かもめで母の実家がある静岡へ向かった。母の実家にはまだ両親が健在で、母の兄にあたる伯父の家族と一緒に生活していた。家は旧東海道の街道筋にあり、その頃はまだ松並木が点在していて昔の風情を残した所だった。祖父はこの辺りの地主の四男で祖母は古庄の旧家稲葉家の出である。伯父夫婦は共稼ぎで小学校の教師をしていた。子供が四人いて、私はこんな中でもみにもまれて強くなっていった。左の写真は私が7才の頃の昭和16年7月(戦争の直前)、台湾から一時帰国して上原の母の実家に滞在した時のもの。前列真ん中が私、まわりは 今まで一人天下でわがままいっぱいだったのが、そうはいかなくなった。食べ物もいやなものを我慢して食べざるを得なくなった。例えばさといものずいきとか、ごじごじした所などとても喉を通らなかった。しかし、おじいさんが丹精した農作物は豊富にあってうれしかった。里芋やじゃがいもの塩ゆでがとても美味しかったのを覚えている。おじいさんと一緒にトマトを収穫に行ったり、山へ茸とりに行ったりしたこともあった。

9月から私は有度国民学校に通い始めた。母も着物を縫ったりして少しずつ収入を得るようにしていたが、戦時下では着物を作る人も少なくてらちがあかなかった。こんな時、母の兄の伯父が東洋製缶清水工場の寮母の職を探して来てくれた。母もそれを引き受けることにして、私達は清水市入江岡の東洋製缶寮に住むようになった。学校も5年生から岡国民学校に転校した。この頃の私は母の実家で覚えた読書欲が高じていていろいろな本を読みあさっていた。中でもシエラザードの語る千一夜物語は、まか不思議な物語ばかりで興味をそそられた。

私が岡国民学校在学中に南海大地震がおこった。清水市内でも所によって家が倒壊したり傾いたりの被害をうけた。丁度理科の時間で、笛の原理を習っている時だった。ぐらぐらっと来て、皆机の下にもぐったが、私は何故か冷静に荷物をまとめて逃げる準備をしていた。その日の午後の太陽は黄色く、あたり一面が黄土色で無気味な光景だった。その上空襲警報も発令されて、落ち着かない一日だった。

後に知ったがこの日静岡市が空襲を始めて受けていた。サイパンからB-29が飛んできて本土空襲は日常茶飯事になっていった。首都圏を空襲した後、残った爆弾を帰り道に落として行くこともあった。爆弾が直撃した跡は直径10メートルぐらいのすり鉢状の大穴があいてすごかった。防空壕の中にいて近くに落ちると、土がざーっと降って来たものだった。学校へ通う時は防空頭巾と防毒マスク、三角巾、包帯などの入った非常袋を持参し、夜も逃げだし可能の状態で寝ていた。胸には血液型を記入した名札を付けていたものである。

清水市が本格的に空襲を受けたのは、昭和20年7月に入ってからだったと思う。その頃私達は危険を感じて、夜になると母の実家に帰って寝るようにしていた。電車道を通って帰ったこともあった。寮の人も一人二人と出征していって少なくなっていた。その夜清水市は駿河湾から艦砲射撃を受け、空からは焼夷弾を、丸に十文字を描く様に落とされ、更に無差別に降りそそがれた。逃げ出した人もアスフアルトに足をとられて焼死する人が多かった。清水市郊外の母の実家辺りにも焼夷弾がいくつか降って来るのを目撃したが、斜めにほとんど地面に平行に落ちてきて家の中に突き刺さるのだ。

翌日寮に行って見たら、焼け落ちて黒焦げになった柱が無惨な姿をさらしていた。台湾からもち帰った荷物も、アルバムや掛軸など大半が消失した。寮の隣りには水産試験所の所長さん一家が住んでおられたが、“焼夷弾が三発落ちたんですが、みんな消してなんとか焼けないですみましたよ。”と言われ、焼け残った家の中をかたずけておられた。寮の人は空襲警報がでたらさっさと梨畑に逃げてしまったので焼け落ちてしまった。お隣りの息子さんは当時旧制静岡高等学校に通っておられたが、後に東京大学法学部の教授になられた関寛治氏である。後年私を覚えていて下さった事を知ってうれしかった。

寮が焼けると同時に母は失業し、再び実家での生活が始まった。この頃になると食料事情は益々厳しくなって、ぎすぎすした人間関係を露にするようになっていた。寮での食事にも海藻麺というまずい食べ物が配給になってご飯に炊き込んだのを食べさせられたが、実家に戻っても食事は別々にして、惨めな思いをした。時々祖母がこっそり焼芋を渡してくれて、私はそれで生き延びたような気がする。

私は岡国民学校からもう一度有度国民学校に代わり、元のクラスにもどった。4年生の時一緒に絵を書いて遊んだ友達が空襲で亡くなっていてショックだった。6年生になると中学校や女学校入学試験にそなえて、受験する人は居残り勉強を始めた。教育勅語や歴代天皇の名前を丸暗記したりもした。

“朕惟フニ我ガ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我ガ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我ガ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ依ス 爾臣民父母ニ孝ニ‥‥‥‥‥”という文章は何度聞かされたことか。毎日遅くまで皆で勉強するのは結構たのしかった。

昭和20年8月15日、正午に天皇陛下の特別放送があるから家に帰ってお聞きするように言われて、早々と帰宅して神妙にラジオに耳を傾けた。

“我汝臣民に告ぐ。本日未明敵国米英両国に対しポツダム宣言の受諾を通告せしめたり。気運の赴くところ堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍んでよって三代の安泰を計らんと欲す。‥‥‥‥”
の玉音放送があり、重々しく耳に残ったけれど、
“何を言われたかわかった?”
“よく分からないけど、つまり日本は負けたのかなあ。”
と言うことが分かり、
“いざというときには神風が吹くのじゃあなかったの?”
と、にわかには信ずる気になれなかった。皆敵が侵入して来たら竹槍でやっつけるつもりでいた。進駐軍がやって来たら従姉妹達は安倍川上流の梅島の山奥に逃げる事を本気で考えていた。しかし事態は思ったより平穏に過ぎた。教科書の墨ぬりが行われ、万世一系を説く歴史は塗変えられ、現人神の天皇は人間天皇に変身した。私達は教育勅語よりボツダム宣言を覚えるように方針を変更した。

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