クスノキ物語

酒井 均   

5月は衣替えの季節です

5月はクスノキが衣替えする季節だと知ったのはつい最近の事です。常緑樹とは落葉しないものと思い込んでいましたから、私の植物の知識はお恥ずかしいものです。そこで早速デジカメ片手に北ハイツとその周辺を歩いてみました。

クスノキは江戸川区の区木だけあってこの辺りでは一番目につく木です。しかし北ハイツ内はお掃除が行き届いているせいか、或は先日の強風のせいか、なかなか落ち葉は見つかりません。やっとこれはと思うシーンにぶつかったのがここにご紹介する写真です。

花壇手前の植え込みで丸くかられた灌木の頭に落ち葉が積もっています。その上を見ると確かにクスノキです。近づくと若い葉に混じって、老いたる葉たちが最後の瞬間を待っています。その直下では土に帰るか、或は煙と消えるか、落ち葉たちがつかの間の語らいをしているようです。

クスノキは鹿児島、熊本、佐賀、兵庫の県木に指定されていることからも分かるように、もともと中西日本から更に台湾や中国南部など温暖なアジア地域に分布する木です。関東地区でクスノキを街の木としているのは江戸川区のほかには大田区と調布市だけだそうです。大変な長生きで日本全国の巨木ベストテンのうち9本はクスノキだそうです。なかでも有名なのは鹿児島市の蒲生町八幡神社の「蒲生のクス」で推定樹齢1500年、樹高30m、目の高さの幹周りが22.4mもあるそうです。

ちなみにクスノキの漢字には樟と楠があります。私は楠木正成から楠をまず連想しますが、広辞苑には樟・楠と出ていますから樟の方が正統なのでしょうか。同辞書によると楠は南國から渡来した木という意味のようです。

清新町の一番大きなクスノキはどれでしょうか?私は今のところ、よく焼き芋屋の出る団地の入り口(写真下)の右のクスノキがこの辺りでは最大の巨木と勝手に思い込んでいます。西葛西の駅から北ハイツに向かって歩いてくると真っ先に迎えてくれるのがこの2本のクスノキです。

 面白いことに、ほかのクスノキはほとんど下から見上げるだけですが、このクスノキだけは陸橋を渡りながら上から、といっても人間でいえば、腰の上当たりから見下ろすことが出来ます。衣替えの様子を探りながら陸橋を渡っていてふと面白いことに気づきました。この巨木の頂上では若葉に混じってなんと花が咲いていたのです。小さな花ですが図鑑と較べてみても間違いなくクスノキの花です。体に似合わず芥子粒のような花ですが、この季節クスノキは衣替えをしながら子づくりにも励んでいたのです。念のためこの巨木の根もとを調べると落葉が一杯たまっていました。

秋になると黒褐色の小豆大の実がなります。これをついばんだ小鳥が離れた地で糞をしながら種まきをしてくれます。体に似合わず小さな花を咲かせるのはクスノキが子孫繁栄のために身につけた叡智だと知りました。

クスノキ受難の歴史-樟脳

クスノキの葉をもんで鼻に近づけると、独特の香りがします。樟脳の匂いです。樟脳といっても、はじめは子供の頃、母がタンスの中に入れていた虫除けか、樟脳のドイツ名カンフルからきた強心剤のカンフル注射を連想する程度でした。しかしこの機会にと思ってインターネットで調べてみて驚きました。あの「虫除け」が日本の近代化に大きな役割を果たしていたことが分かったからです。そこで樟脳について少しインターネットの受け売りをしながらご紹介します。

清新北ハイツも最近は光ファイバーのお陰でネット検索が大変容易になりました。これに加えて、所蔵する文書や画像をデジタル化して公開する機関がふえ、貴重な資料を自由に閲覧することが出来るようになったのも嬉しいことです。一例として神戸大学付属図書館の公開サイトで昭和初期の日本樟脳の内外向け商標をご覧下さい。それぞれの画像を更に拡大できます。

ただインターネットで見る情報は必ずしもすべて正しいとは限りません。私は出来るだけ正しいと思われるものを選んだつもりですが、それでも間違いを犯している可能性は否定しません。皆さんがこれはおかしいなと思われる節があったら教えてください。私の受け売りの元になったサイトの中で主要なものは文末にリンクを貼ってあります。

樟脳は日本でも江戸時代からクスノキの葉や木片から水蒸気蒸留という方法で盛んに製造されていました。その始まりは、秀吉の時代、薩摩の島津義弘が朝鮮から連行した陶工たちです。幕末には薩摩藩と土佐藩が樟脳の製造に力を注ぎました。当時樟脳は薬品、殺虫剤、香油などとしてヨーロッパ各国や中国でもてはやされていました。両藩はオランダを通じて樟脳を輸出し莫大な富を得ましたが、このお金によって倒幕から明治維新への道が開けたと言います。

江戸時代の樟脳製造を示す画としては宝暦4年(1754年)に刊行された「日本山海名物図会」のものがあります。九州大学デジタル・アーカイブで公開されている同書の「樟脳製法」をご覧下さい。

明治政府も樟脳がもたらす富を受け継ぎましたが、明治28年(1895)クスノキの多い台湾を領有するや生産量は飛躍的に増加しました。そのため1898年には台湾で、次いで1903年には日本全国で樟脳の専売制度を始めます。クスノキを県木とする上記4県に専売事務局をおき、樟脳の生産を国家事業として発展させました。

 この間、アメリカでセルロイドが発明され、その材料として用いられる樟脳の需要が飛躍的に伸びました。セルロイドは始めてのプラスチックですが、成形加工がしやすく写真乾板から、おなじみの人形、万年筆、玩具、食器、家具、模造象牙などあらゆる種類の製品に応用され、その需要は飛躍的に伸びていきました。皆さんも「青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド」と歌った覚えはありませんか?写真は今年で48才になる娘が生後数ヶ月の頃のセルロイド人形です。このほかにも天井からぶら下げてぐるぐる回るおもちゃなど、あのころの家庭にはセルロイドのおもちゃがゆき渡っていました。あのセルロイドを作るのに、重さにして4分の1の樟脳が必要だと知って驚きました。

こうした事情に加えて、クスノキの分布が日本と中国、台湾に限られていることから、樟脳は明治政府を潤す最重要な輸出品となり間もなく世界の需要の40%を満たすまでに成長しました。富国強兵を唱えた明治政府がこのお金で買ったのは勿論軍備、特に軍艦でした。明治37年(1904)には日露戦争が始まりました。東郷大将率いる帝国艦隊が日本海でバルチック艦隊を打破ったのはこの年です。樟脳がバルチック艦隊を打ち破ったといっても過言ではないようです。日露戦争当時の内地での樟脳生産量を神戸大学図書館所蔵の資料からから見ることが出来ます。

樟脳生産量はその後更に増加し、明治45年には内地150万斤(1斤=約600グラム)、台湾700万斤で世界の8割を占めたと報じられています。私もそうですが皆さんの多くも塩やアルコールの専売制度は知っていても、樟脳まで専売だったとは知らなかったのではないでしょうか?生産量の殆どが輸出され、国内に出回ったのは薬用など僅かだったからです。

しかし日本の樟脳の全盛時代も大正時代に入ると影がさして来ます。第一次大戦(1914年−1918年)中にドイツで、松脂からとれるテルピン油を原料として、安価な合成樟脳が大量に作られるようになったからです。また燃え易いセルロイドに代わってポリエチレンなどの第2世代の合成樹脂が現れたことも大きな痛手でした。

戦後は台湾を失った上に、自然保護のためクスノキから樟脳を作ることが抑制されたこともあって、樟脳の専売制度は1962年に中止となりました。

以上樟脳について書いて来ましたが殆どが亜細亜大学教授の安部桂司氏の「しょうのう」で買った日本海軍からの受け売りです。

ふれあい祭りで売られるクスノキ

クスノキにとって江戸時代から昭和初期までの約400年はいわば受難の時代でした。九州や台湾の深山幽谷で何百年もの間、静かに育ったクスノキが、樟脳のために次々と伐採されていったからです。神戸新聞 は既に1912年(明治45)6月16日の記事で、「(樟樹の伐採によって)次第に樟樹が消滅し今日では僅に神社仏閣の境内又は森林中に少しづつ散見せらるるに過ぎない、古来樟樹と言えば土佐を連想する程で土佐は樟樹が繁殖して居った、処が今日では其土佐も殆ど絶滅に瀕して居る」と嘆いています。あれからほぼ100年、樟脳ブームも去りクスノキの受難の日々は終わりました。

ここまで書き終わって気がつくと今日は「清新町・臨海町ふれあい祭り」です。太鼓の音を聞きながらあることを思いだし、慌てて飛び出しました。お目当ては江戸川伝統工芸保存会です。いきなはっぴの職人さんが売っているのはクスノキの香木です。タンスに入れると虫除けになるというのです。何年か前のふれあい祭りで見たのを思いだしたのです。職人さんはタンスの引き出しに入れるには1000円の袋を買いなさいと勧めましたが、私は小さな引き出しに入れるんだ、といって1.5cm角、長さ6.5cm4本が入った袋を500円で買いました。残念ながら九州のクスノキだそうですが、あの懐かしい香りは変わりません。

この職人さんによると、現在クスノキから樟脳を作る工場は九州に一軒しかないということでした。そこで帰りにマルエツの2階売り場で聞くと合成殺虫剤ばかりで天然樟脳はおいてありません。丁度居合わせた若い薬剤師さんをつかまえて、ついつい「樟脳艦隊、バルチック艦隊を破る」などと受け売り談義をしてしまいました。彼は迷惑顔もしないで「大学では習わなかったことを勉強出来ました」と喜んでくれた上に,私の買ってきたクスノキ片の香りまでかいで呉れました。

職人さんに聞いた話をもとにインターネットで調べると、確かに今でも天然樟脳を製作販売している会社が福岡にありました。会社のサイトで製造法を 見て下さい。別のページには木材チップ1トンから20kgの樟脳しかとれないと書いてあります。かっての全盛期にどれだけのクスノキが消費されたか想像もつきません。天然樟脳が合成殺虫剤によって駆逐されたいま、清新町のクスノキも、のどかに衣替えと子作りをしながら、私たちと同じように平和を楽しんでいるのです。

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