“お稲荷さんの思い出”の読後感想(Ling Chang, 在オークランド、USA)

Chang(張)さんはこのホームページを通じてイーメール友達となった台湾生まれのアメリカ人です。私のお稲荷さんの思い出と、定子のページの大陸横断記録を読んで以下のような感想文と簡単な自伝を寄せてくれました。ご本人の承諾を得て掲載します。酒井)

以前このホームページの何処かで一度触れた“清水”、さては次郎長親分の清水港かと疑った。それが今度の“思い出”で、予想したとうり、だから嬉しく成った。大東亜戦争が激しく成る頃、日本人は本島人(台湾人)の皇民化に大童だった。話すは勿論日本語、名前も日本名で改姓名。大きい兄さんは張の弓を差し引くと長が残る長谷川が良いと主張した、でも小さい兄さんは家が清水祖師廟の近くで清水街ならやはり清水と一人で決め、召集された時の名前も清水だった。ちなみに兵役は勿論国民の義務であるべき、でも当時の日本人は天皇陛下が特別に本島人に賜えた権利だと唱えた。

日本からの矢野サーカスは未だ覚えている。私が六、七歳の時なら昭和十三年頃か。幼稚園の広場を利用しての興行の呼び物はやはりオートバイ、サーカス。木作りの桶では無く、鉄板のバーで編んだ球、後年ニューヨークのクインスの万国博覧会場の地球儀を見た途端に“これだ”と思い出した。もともと地面で走るオートバイを桶の二次元に、更に立体交差の出来る三次元の球にまで発展させた業者の魂胆には舌を巻いた。爆音けたましく縦横左右に跳び通うオートバイの凄さは今でも忘れられない。テントに溢れる馬糞の匂いに鎖に繋がれた可哀相な象も併せて記憶する。

忍術秘伝の巻は台湾流に言えば大道芸人に“打拳売膏薬”だろう。私も“繋牛入壷”、大きい牛を小さな壷に入れる秘術を見たくて最後まで待つたがとうとう披露して呉れなかった。帰り支度を始めたその人に約束どうり見せて呉れと頼んだが、“馬鹿言うな、誰がそんな事が出来るか”とどやされた。

トンボ釣りをやつたのは多分小学五年の頃だった。水の上での細いトンボは水トンボ、普通の黒いトンボは只のトンボ、ヤンマトンボは銀の色をしたヤンマだからギンヤンマ、でも発音は確かギンヤマで私が勝手に当て字して銀山と呼んだ。トンボ獲りに指をぐるぐる回すのは同じ、でも私たちは背後から接近する戦法。捕らえたトンボを糸につなぎ、三尺ぐらいの竿でエツクス(X)字に振ると共食いの銀山が来る。オスの銀山で釣れる銀山は喧嘩に来る奴だろう。メスの銀山で釣るのはサカリの為。どうしてX字に振る訳は今でも不明、一旦銀山が飛び掛かつたら、今度は自分を中心にしてぐるぐる回り、徐々に高度を落として地面に着いたらすばやく手つかみする。獲れた銀山は羽根を揃えて左手の指に挟む。何匹も挟み、どうだと皆にみせる。アメリカで銀山にお目にかかるのはどうした事か希。そう言えば夏のセミは皆無。七年に一度生まれるセミは或州では見物との事実に仰天した。

“定子さんの北米横断記”の読後感想

家内と同じく狗とし生まれの定子さんの旅行記は面白く、台湾の思い出に優るとも劣らなかった。貴方たちに遅れる事、数年で私も北米を西から東へ一人で“グレイハン バス”で横断した。学校を出て七年目、家内と二人の子どもを残しての一人でのアメリカ自費留学でした。ロスから北上し貴方たちと逆の道をたどり、“ハムバーガ アンド ミルク”以外の注文を知らずに、アイオワからミゾリで最後にテネシー大学の大学院へ落ち付いた。オークランドで家族と再会したのが三年後で、それからずっと今でもオークランドに永住しています。

貴方たちの旅行に利用したヴォクスワーゲンはミニバスだとばかり思い込んでいたが、写真で黄金虫のビートルと知り舌を巻いた。その車に家族四人(半)と荷物、さぞ大変だっただろう。あの頃のビートルは一千CC以下で四十馬力も出たら良い方だ。子離れしたら大陸横断を計画して手に入れた私のミニバスのキヤンパは上下二段のベッドにキツチン、冷蔵庫つき、水冷式エンジンに自動変速のヴォクスワーゲン、エイヤコンも有るから夏でも快適だ。残念ながらキヤンプに利用するだけで, 大陸横断へはとうとう行かなかった。もったいないが、そろろ引退させようかと顧慮しています。

末娘がハーヴアードの医科大学へ行き研修に住院で前後十年もボストンに居た関係で、度々米国東部を訪れ各地を回った、でもエールへはどうした事かとうとう行きそびれた。ニューヨークは苦学生の時、夏休みのアルバイトでの皿洗いが忘れ難い。軍港サンデアゴ、は冷戦後の海軍軍縮で一度経済不振、でも最近は元気を取り戻し、大都市へと変貌する、ラホヤア周辺は特に凄まじい。加州を南北に縦貫するサンワキンヴァレ(貴方の言うカリフォーニャ、ヴァレ?)は今でもその名に恥ずかしく無く、米国の“果物篭”として毎年全国に果物を届ける。その集散地のフレスノは何時行つても暑い。あの美しいヨセミテ谷を“優山美地”に当て字した中国人は見上げた者だ。その谷は今でも昔に変わらず美しい。自動車の谷間乗り込みを禁止してからもう長い。人々は谷の手前で車を止め、そして電動の車に乗せられて谷間に入る。何度か岩崩れがあり、犠牲者まで出したが、それでも遊客は後を絶たない。夏休みのヨセミテは銀座よりも人出がする程だ。高層建築物の少なかったオークランドも今では当時のサンフランシスコをも凌ぐ程に高い建物が林立する。バークレーは何から何まで人に先進んで始めるのは周知のとうり。六十年代の自由思想と反戦に始まる暴動、それからヒツピ族の誕生、家の二人の娘の母校でもあるバークレー大学は今でも時代の波に乗り毎年の様にノーベル賞、受賞者を出し続けています。車の停泊場に困る大学内にはノーベル受賞者特別停泊場もあるのはバークレーらしくて面白い。旧金山、サンフランシスコは太平洋時代の到来に近くの毎月六十四人の百万長者を産むシリコンヴァレの影響を受け住宅値段はウナギ登り、香港、台湾、それに東南アジヤからの移民と資産の流れ込みで五十年後にはシカゴに追いつくとで驀進を続けています。海辺に沿う高架道路は地震で破壊され、取り壊された後の広い道にはヤシの木が植え込まれました。貴方たちの泊つたYMCAは確かあの高架道路の横だったのにと前週そこを通りがけに探したら、新しい高層建築物の蔭にひつそりと隠れて、未だ健在でした。六十年代は夢の様なアメリカの“良き時代”、一杯のコーヒーが何と五セントに国内切手四セント、覚えていますか、ガソリンは一ガロンがたったの20セントでした。

“自伝”

下手の横好きの写真を初めてから最早四十年にも成る、溜まつた写真の量は莫大だ、それに昔から家に有る古い写真、その一枚一枚には思い出が有り物語も有る。何時か写真集でも出版するかと時々考える。作文も好きならとて、一頁毎に写真一枚に随筆一篇ではと始めたのが私の自伝。家の親父が篭に入れられ隣村の張家に売られた物語に始まる私の自伝は日本語にするか漢文か、それとも英語にするかには随分迷った。小学校六年止まりの私の日本教育、それでも数十年来、毎週数冊の日本書籍を読み続けた為か、日本語はすらすらと書ける。でも最後に決めたのは残念ながら一番下手な英語、それは私たちと娘たちとの間に共有する只一つの語言だからです。ダンスやゴルフの合間に打つ自伝のワープロでの進度は遅い、それでも面白い。亡き母の事に触れると一人で涙ぐむのも一度ならず。埼玉県に住む私のペンパール(本当に手で書く書簡のペンフレンド)から“日本では最近自伝を書くのが流行っている”と聞いたのは何時かの事、図らずも定子さんがその一人と知り、同道の誼で大変嬉しく思つた。

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