濃縮小説「ずん胴世界」

これは、てるさんの「ずん胴小説祭」参加作品であったりします。

 土砂降りの雨があがったその晩、その男は宿屋にやってきた。
 乗っている馬と、着古してはいるが上等なマントの生地を見て、上客だと判断し、女将はいそいそと男を案内した。
「馬には水をやってくれ。飼い葉はいらない……それから、私も夕食はいらない。部屋に葡萄酒を持ってきてくれ」
 マントに身を包んでいてよく分からないが、男の声はまだ若かった。ただ、老練な女将でも、その年齢はまったく推測がつかなかった。
「お名前はなんとおっしゃいますか」
 いちばん上等の葡萄酒とグラスを部屋にもっていったとき、女将はその男に聞いた。
「……ギルマン」
 男は手紙を書きながら、振り向こうともせず答えた。

 それから三日間、男は外出しなかった。部屋でなにか書き物をしているようだった。女将が不思議がったことに、まったく食事をする気配がなかった。
 四日目に三人の老いた僧が宿屋を訪れた。三人とも、黒い僧衣をまとっていた。三人はあの男の風体を説明し、その人に会いたい、会えなければせめてこの書状を渡してほしい、と女将に頼んだ。男は会おうとはしなかった。僧たちはやむなく書状を女将に託し、立ち去った。

 翌日から男は外出した。それも夕方に出て、翌日の昼頃になって帰ってくるのであった。宿ではただ寝ていた。そうして夕方になると、また起き出して外出するのだった。
 黒衣の僧は手紙を書いた。
「マスター殿。彼は当地にてギルマンと名乗り、『雄鶏亭』に寄宿しております。われらの書状を渡すも、錬金術にも長命術にも通ぜず、として拒絶いたしました。われらの調査によれば、夜刻になると街の売春宿へ赴き、そこで翌朝まで乱痴気騒ぎのよし。彼は本当に我らの探したるサン・ジェルマンなりや。再度の調査をお願いします」

 僧も知らなかったことに、男は売春宿でなにもしていなかった。ただ、すべての妓を集めるよう店主に命じ、出てきた妓を眺めながら、酒を舐めているばかりだった。どんな美人の顔も、どんな美しい姿態も、どのような媚態も吐息も、男の心を動かさないようだった。そうして朝になると、妓のひとりひとりに銀貨を握らせ、帰ってゆくのだった。

 街のすべての売春宿を巡り終えて、男は吐息をつきながら宿に帰った。そして女将に、翌日宿を立つと伝えた。男は部屋に戻ると呟いた。
「……この街にも、ソフィアはいなかった」
「バビロン、ナイル、カルタゴ、ローマ……、敦煌、長安、マドラス……どこにもいなかった」
 男は老師の言葉を思い出していた。

「かつて人間は、天の恵みを受けていた。それは”気”といってもよい。”知恵”といってもよい。人間は天からのエネルギーを受けて、神にも匹敵する力を持っていたのじゃ。天の恵みを効率よく受け、そして全身に行き渡らせるため、そのころの人間の胴体は円筒形に近かった。いわゆる、”ずん胴”じゃ。
 ところが人間の力が神にも近くなったことに恐怖した神は、人間の胴体を真ん中で捻りあげ、天からの恵みが受けられないよう、五体に行き渡らないようにしてしまった。それが”くびれ”じゃ。くびれが生じた人間は、天からの恵みを失い、無力で無知なまま、神を恐れて生活する愚かな生物へと落ちぶれてしまった。
 ”くびれ”が生じる前、恵みをもっとも多く受けたもの、それが”完徳者”じゃ。その名をソフィアという。神はその者の力を奪うことはできなかった。しかし、その記憶を奪い、賤しい肉体へと閉じこめた。ソフィアはそれからずっと、賤しい肉体に転生しながら生きておる。
 神に奪われた恵みを、われわれが取り戻す為には、ソフィアが必要じゃ。探すのだ、ソフィアを」

「あれから千年……いや、二千年近いか」
 そこまで思い出したところで、男は外の物音に気づいた。
 女の泣き声がする。若い。あの女将ではない。
 部屋から出てみると、階段の下で女将がみすぼらしい娘を殴っていた。娘は、「すみません、すみません」と言うのみで、抵抗もしない。ただ涙をこぼしている。
「あら、申し訳ありません。……いえね、ちょっとこの子が粗相をしたもので」
 作り笑いをする女将の横でうずくまっている娘は、二十にはなっていないだろう。襤褸を着て、割れた皿を抱えている。それよりも男の気を引いたのは、その体型であった。
「この娘は?」
 男の問いに、女将は饒舌に答えた。
「いえ、私の遠縁に当たる娘なんですが、疫病で両親とも死んでしまって。街の酒場に踊り子として雇われたんですが、まあごらんの通り、胸がちっとも出てない、腹がぽっこり出ている、こんな哀れな体型でござんしょう、たちまちお払い箱になりましてね。しょうがないもんだから、ここで下働きをさせているんでございますが、動きは鈍い、失敗ばかりする、それで飯だけは三人前食うんですから、ほとほと困っているのでございますよ」
「ちょっと、この娘と話をさせてくれないか」
 そう言って娘を階上の部屋に導き入れた男を目で追って、女将はひとりごちた。
「まったく、変な趣味さね、あんな娘っ子に目をつけるなんて。お金持ちってのは、ああなるんかね」

「名はなんという」
「サキと申します」
「服を脱いでくれないか」
 男の言葉に、一瞬びくっとした娘は、それでも覚悟を決めたように、薄汚れた服を一枚づつ脱いでいく。
 やがて、羞恥に全身を染めた裸身が、男の前に立つ。そこで見たのは。
 みごとなほど隆起のない胸。少年のような尻。そして、胸と尻をつなぐ、輝かしいほど起伏のないウエスト。
「……ソフィア!」
 男の口から思いがけず、その言葉が洩れた。

 翌日の朝。男と娘は、馬車に乗り込み、宿を出た。駿馬と下働きの役たたずの娘を交換できた女将は、ほくほく顔で部屋の掃除をしていた。
「私……なにも知らない……なぜ?」
 娘はまだ戸惑った様子で、男に小声で語りかけた。
「そのうちに思い出す」
 男は楽しげな様子で、御者に指示しながら答えた。
「時間はたっぷりあるさ」
「私たち、どこへ行くの?」
「パリだ」男はますます楽しそうに、馬車の椅子にふかぶかと腰を下ろした。
「もうすぐ革命が起こる。次はアメリカ」
 そう言った男は、最後に付け加えた。
「そして日本」


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