青春18きっぷを三倍(の年齢で)楽しむ方法

 JRの快速電車までならばどこまでも乗り放題の青春18きっぷ。その名称から、高校生大学生しか使用することを許されないものだと思っている人も多いが、実は全年齢で使用可能だ。
 ただし青少年に見聞を深めさせるという趣旨から割引を行っているので、販売や使用にはいくつかの制限がある。
 まず使用可能期間は学生の春休み夏休み冬休みに該当する、3月と8月と1月。夏のきっぷは7月と8月いっぱい販売されるが、使用可能期間は7月20日から9月10日までの間。この期間に5回の旅行が可能だ。
 きっぷは一枚だけ発行され、それに5回のハンコを押す欄がある。昔は5枚綴りのきっぷだったらしいが、金券ショップにバラ売りされたため変更されたらしい。出発の際に駅員にきっぷを提示して日付印を押印してもらい、その日のうちはJR各駅できっぷを示せば日付を確認したうえで通過できる。
 乗車できるのはJRの快速までの電車のみ。第三セクターに移管されたしなの鉄道などの路線や、JRでも特急や新幹線は利用できない。快速の指定席は、指定席料金を別に払えば乗車できる。
 いろんな制約はあるが、料金が安いのと、途中下車勝手次第ということは魅力である。たとえば東北まで足を伸ばした帰りに宇都宮で途中下車し、餃子でビールということもできる。房総一周した帰りに西船橋で途中下車し、ホルモンでホッピーも可能だ。

 そんなわけで私は、夏の青春18きっぷ、5回分11,850円と、ポケット時刻表566円を購入し、トシをわきまえず旅に出るのだ。


7月30日(木) 吉田の光雄さん、なんで身上つぶした
 きょうは白河の関を見に行く。
 司馬遼太郎も書いていたが、関西出身者には、白河の関というのは異国的なロマンチシズムがあるのだ。白河の関のむこうには、金売り吉次、胡馬のいななき、野蛮で剽悍な野武士たち、目のぱっちりとした東北美人がいる。長崎や沖縄が南方系欧州系琉球系椰子の実系呂宋助左右衛門系ロマンなら、東北には北方系ロシア系アイヌ系蝦夷錦系高田屋嘉兵衛系ロマンがある。

 家を6時半ごろ出発。遊びに行く時間じゃないよなあ。
 大宮を7時13分発の東北本線快速ラビット号に乗り込む。こんな時間でも、けっこう通勤通学客で混んでいるが、30分もすれば通勤圏内を過ぎてガラガラとなる。
 東北本線の普通電車はやたらと乗り換えがある。まず8時18分、宇都宮で降りる。ここで向かいのホームの黒磯行き東北本線に乗り換える。ここからは自動ドアではなく、ボタンを押して扉を開ける方式になる。
 9時34分、黒磯で降り、郡山行き東北本線に乗り換え。10時4分、ようやく目的地の白河に到着。
 白河はいかにも城下町という感じの静かな駅だった。駅から白河城が見える。石垣と、かなり細身の華奢な天守閣が見える。

白河駅 小峰城

 駅前の観光案内所でバスの確認をして愕然とする。
 あてにしていた11時発の白河の関行きは、土日しか運行しないということなのだ。平日は午後3時発しかない。さてどうしよう。
 やむなく、3時まで駅前で時間をつぶすことにする。
 まずは駅前から見えたお城に向かう。駅からすぐのところに、お城のある公園が存在する。
 石段をのぼると再建天守閣がある。小峰城というのだそうだ。
 このお城は寛政の改革の松平定信が城主だったことで有名だが、建設したのは丹羽長重。織田信長の重臣、丹羽長秀の息子である。織田家は信長の安土城、秀吉の大阪城、秀吉家臣だった加藤清正の熊本城など、築城にすぐれた人材が多いことが特徴的だが、丹羽長秀も城のみならず、琵琶湖を横断する快速軍船を建造するなど、建築に優れた才能をみせた。おそらくは近江の穴生衆という、石垣積みに熟練した集団や、法隆寺以来の大規模建築にたずさわってきた、岡部又右衛門など大和の工匠らの才能をフルに駆使し、また彼らの能力を吸収していったのだろう。
 2011年の大地震で石垣がかなり崩れたそうだが、奇妙なことに丹羽長重が建設した江戸時代の石垣はびくともせず、明治以降に補修された石垣だけが崩れたということだ。これも名城伝説のひとつかもしれないが。
 天守閣もそのとき傾き、修復工事の末、ようやく今年から入場可能になったということ。さっそく登ってみたが、階段や床の木材に鉄砲の弾痕がいくつか残っている。これは建築に使った杉材が、幕末の戊辰の役、奥州白河口の激戦で受けた鉄砲だとのこと。
 ほとんど梯子のような階段をよじのぼって最上階に達するが、薄暗くて見晴らしがない。わずかに石落としや銃眼、格子から外が見えるが、ぜんぶ下向き。ま、守りという観点からは遠くより下を見守るほうが大事だわな。しかしこれじゃ、神に近づいたなんて壮大な気分にはなれんなあ。
 公園にある白河集古苑には松平定信ゆかりの古文書などがあるらしいが、残念ながら定休日だった。近くの茶屋でひと休みする。小峰城を美少女化した「小峰シロ」というキャラのコーナーがあったが、これも時代の趨勢か。

天守閣 小峰シロ

 この茶屋は売店も経営していて、というか、お土産屋の片隅に喫茶コーナーがあるといったほうが正確だ。汗をぬぐい、アイスコーヒーを飲みながら、観光案内所で貰ったパンフレットを読む。
 観光案内パンフレットの常で、白河駅近辺のうまいもの屋を紹介しているわけだが、その中に「スナックじゅん子」という飲み屋があった。はて、なにか聞いたことがあるというか、懐かしい名前だ……とおぼろな記憶を辿って、ようやく思い出した。

 あなたは伝説のプロレス団体、WJを知っているか。
 2002年末、新日本プロレスで浮いた存在になっていた長州力が「猪木の知恵袋」「新日の悪代官」「プロレス仕掛け人」「ゴマシオ」等の異名を持つ寝業師、永島勝司と組んで設立したプロレス団体。「目ン玉飛び出るストロングスタイル」をキャッチフレーズに、北海道のスポンサーが出した支度金2億円を使っての佐々木健介、天龍源一郎、大森隆男、大仁田厚、鈴木健想らの引き抜き、プロレス記者や金村、金石などの元プロ野球選手ら(長州の人脈なのだろうか)を集めた屋形船貸切の旗揚げパーティ(おみやげのメロン付き)、横浜アリーナでの旗揚げ戦、長州天龍の旗揚げシングル6連戦とプロレスファンの目をむく企画を打ち出していった。
 しかし肝心の試合内容が伴わない。衰えた長州力は天龍との6連戦をこなすことができず途中でリタイア(天龍が男気を見せ、自分の負傷欠場ということにした)。その後もタッグで登場して試合時間のほとんどを若手にまかせるなどのショボい試合が続いた。横浜アリーナの旗揚げと同日に日本武道館で開催されたノアの大会では三沢と小橋が激闘、解説した高山善廣は「きょう、ヨソの試合を見に行った奴はバカだな」と名言を残している。
 おまけに長州と永島のツートップが金銭感覚ゼロ。永島は前述の旗揚げパーティや、都内一等地の事務所開設、超豪華巡業バスや社用車セルシオのキャッシュ購入を行えば、長州はサイパンで豪遊し2億円を旗揚げ前に使い切るというていたらく。
 なにしろ所属レスラーが名前だけのロートルとプロレスを知らない若手ばかり、身体を張って試合できるのが佐々木と大森くらい、でもこの2人もプロレスの試合運びがヘタクソな塩レスラーという状態で、リングの中ではショボい限りの有様だった。なにしろ佐々木は新崎人生と対戦して人生の見せ場であるロープ拝み渡りを途中でつぶしてブーイング、長州も大仁田との電流爆破デスマッチでいちども電線に触れずにブーイングというていたらくだ。しかしリング外では、ジャイアント落合の練習場での事故死、格闘技戦で使用した金網が試合中に倒れかかり若手が総出で抑える、1枚買ったらもう1枚プレゼントという無限連鎖の入場チケット、長州に反旗を翻した鈴木健想が長州の運転手を続行していることが判明、「ワールド・マグマ・ザ・グレーテスト」決勝戦にベルトが間に合わず、地方大会の中止連発、後楽園ホールダブルブッキング事件、給料不払いのため鈴木健想が「生活できない」と退団、谷津嘉章の退団とスポーツ紙での内情暴露、巡業バス売却、高速道SAでうどんをすする天下の長州力、などなど、話題に事欠かなかった。
 そのひとつがこの「スナックじゅん子」。ふつうプロレス団体の地方巡業の問い合わせ先は、その地域のチケットぴあやプロレスショップなどが行うが、WJの白河大会は、「お問い合わせ:スナックじゅん子」とあったため、「なんだこのスナックじゅん子とは」とプロレスファンを驚かせ、中にはわざわざスナックじゅん子を探訪する物好きもいたくらいだ。
 残念ながら夜まで白河にいなかったため、スナックじゅん子探訪はまたの機会に。

 駅前に戻りそのへんをうろうろする。
 日本人画家のイコンで有名な白河の教会があるというので、地図とスマホで探し回った。
 ようやくそれらしい教会をみつけたが、なんだかそんな歴史のありそうな教会ではない。そもそもイコンを収蔵するスペースもありそうにない。
 でも白河教会とちゃんと書いてあるもんなあ……と思ったが、いや待て、これはプロテスタント教会だ、プロテスタントがイコンを使用するだろうか、と疑念がわいてきた。
 よく調べたらやっぱりイコンがあるのはギリシア正教の教会であって、別に存在していた。まあ、それも意外と小さい教会だったが。

白河教会(マチガイ) 白河教会(ハリストス)

 ハリストス教会の近くには皇徳寺というお寺があって、そこには戊辰の役、白河口の戦いで戦死した新撰組隊士の墓があるという。
 菊池英という隊士の名前には聞き覚えがなかったのだが、パネルを見て、ああ、英五郎かと納得した。そっちの名前の方がなじみがある。同姓同名の山口組の親分がいて、この新撰組隊士にあやかったんだとずっと思っていたが、いま調べてみたら、これも有名な侠客の大前田英五郎にちなんだのだとか。織田信長に心酔して織田丈二とつけた親分もいたし、けっこうヤクザの歴オタ率も高いと思ってたんだよ。
 そっちも拝んだけど、でも、やっぱり一緒にお寺に葬られている、小原庄助さんの墓の方が、私には親近感があるなあ。なんせ朝寝朝酒朝湯の人だ。わが先達。

 駅前の楽蔵という、物産館や食堂が集まったスペースの、休憩所の二階に、その英五郎が戦死した奥州白河口の戦いを説明した「白河戊辰見聞館」というのがある。戦いで使用された武器や甲冑、書簡、戦いを説明したパネルなどが展示されている。
 戊辰の戦いといえば、はじまりの鳥羽伏見、白虎隊の会津若松城、ガトリングガンの長岡、おしまいの函館五稜郭などが有名だが、この白河口の戦いも激戦だった。
 なにしろ関東と東北の接点であるからして、奥州列藩同盟としては、白河はどうしても守らねばならない砦である。
 当時の白河は天領で城主はいなかった。奥羽列藩同盟はここに、会津藩総督西郷頼母以下千人余、仙台藩参謀坂本大炊以下千人余、これに棚倉藩や二本松藩も加えて総勢3000弱の兵を集結させた。会津藩には、山口次郎こと斎藤一隊長率いる新撰組も参加しており、これに英五郎こと菊池英も加わっていた。土方歳三は宇都宮城攻防戦で足指を負傷し、日光で療養中であった。
 いっぽう新政府軍は、薩長を中心に兵数約700。数の上では劣勢だが、最新鋭の銃砲を持っていた。
 明治元年5月1日、新政府軍と列藩同盟軍は白河口で激突。ところが会津藩と仙台藩の連携のまずさ、仙台藩参謀坂本大炊と会津藩副総督横山主税の開戦早々の戦死、西郷頼母の実戦経験のなさと優柔不断、薩長と大垣藩の最新鋭の銃砲の威力などが絡み、列藩同盟軍は惨敗する、このとき新撰組は107名のうちおよそ60名が戦死するという死亡率の高さであった。
 この白河口の惨敗をみて、秋田藩が同盟から離脱。秋田の佐竹家はもと常陸の戦国大名で、関ヶ原の後に徳川家によって石高半減、秋田国替えの処分を受けており、もともと徳川家に忠誠を尽くす理由はまるでないとはいえ、とにかく東北の一丸が崩れたわけで、これが奥羽列藩同盟の壊滅のきっかけとなった。
 ちなみにこの戦いで、薩摩藩の竹川直枝も戦死している。彼も元新撰組隊士で、清原清の名前のほうが有名である。伊東甲子太郎率いる高台寺党の残党で、流山で捕らえられた近藤勇を識別して打ち首に追い込んだ人物でもある。

英五郎の墓 小原庄助の墓

 このへんからぽつぽつと雨が降るようになってきた。
 駅前の蕎麦屋で粘れそうな門構えの店がふたつあるが、「第一藤駒」は定休日。「大福家」にもぐりこんだ。
 カウンター席でミニ割子蕎麦とビールを注文。そばはいかにも城下町らしい上品な細めの味で、小せいろ三段。とろろ、山菜、なめこのたれでいただく。
 さらにそば刺身、そば味噌を頼む。残念ながらそばがきはなかった。もちろん日本酒も頼んで、3時までの1時間半ほど、えんえん飲み続ける。
 店員のおねいさんに聞いたが、地元の人でも白河の関は自家用車で行くところという認識らしく、「え、バス出てるんですか?!」と驚いていた。
 日本酒2合、生ビール1、ミニ割子、そばみそ、そば刺身で3,000円ちょっとだった。

 ようやく3時になり、店を出て駅前のバス停に向かう。
 3時25分の白河発に乗り込み、終点の関の森公園へと向かう。運賃660円。
 畑がずっと広がる中に小さな丘陵があり、そこが白河の関の跡地であるらしい。丘陵とそのまわりの平地が、「関の森公園』となっており、「奥の細道」でこの地を訪れた、芭蕉と曾良の銅像が建っている。どうも私は、芭蕉と曾良というと、「ギャグマンガ日和」の爆笑コンビを連想してしまい、曾良が芭蕉を殴打するため腕をふりあげているようにしか見えない。
 小丘陵をぐるっと回って、ちょうど反対側に白河の関跡がある。丘陵の頂上には神社と、関のものらしい土塁がある。

芭蕉と曾良 小原庄助の墓

 4時15分の折り返しバスに乗り、5時ちょっと前に白河駅に戻る。東北本線の上りまで1時間ほどあるので、和菓子屋でおみやげのプリン饅頭を買ったり(食べた人の話によると、凍らせてない雪見だいふくみたいな味らしい)、物産店でそば粉を買ったり。
 6時8分白河駅発の東北本線で黒磯乗り継ぎ、宇都宮で途中下車。
 もう8時近く、有名どころの餃子屋はだいたい閉まっている。
 有名店「みんみん」の駅前ホテルにある支店がまだ開いてるとのことで行ってみたが、行列してたので断念。
 まず「宇都宮餃子館」に入り、ほろ酔いセットとかいう、生ビールと焼き餃子と揚げ餃子とメンマと枝豆のセットを注文。あとでビールもう一杯追加。焼き餃子はうまいが、揚げ餃子は塩胡椒を振って食うのが好きだなあ。残念ながら食卓には塩胡椒はなかった。
 もう一軒行こうということで、これも駅前の「餃天堂」へ。ここも人気店らしく、10人くらい入るカウンターにびっしりだったが、幸運にも入れ替えで入れる。ここではビールと、「餃天堂セット」という、焼き餃子5個、水餃子3個のセットを注文。丸っこい小判型の焼き餃子はみっしり肉が詰まっていて、店員の言う通り普通のたれにマヨネーズをあえて食うとうまい。水餃子は緑色で、スープに酢醤油ラー油を垂らして食う。こちらは淡泊な味。
 宇都宮から大宮経由で家にたどりついたのは、夜も11時近くだった。


8月5日(水) 暴走里見八犬伝
 5時17分、最寄りの駅を出発。これはもはや遊びに出かける時間ではない。地引き網でも引くつもりか。
 と思いながら赤羽で京浜東北線に乗り換えたのだが、なんとこんな時間帯でも、行楽仕様の乗客で満員。なんなんだこいつら。
 こいつらのほとんどは私と同じく東京駅で降り、新幹線の乗り場に消えていった。カネのある奴らはいいなあ。
 私は地下を遙かにくだり、地獄の三丁目あたりで京葉線に乗り込む。
 6時10分発の電車もほぼ満員だが、乗客の過半数は舞浜駅で降りる。君たちはディズニーランドか。ここで乗客数は3分の1、平均年齢は3倍となる。
 終点の蘇我で乗り換え。7時10分発の内房線は、これも通勤通学客で満員。家を出てからかれこれ2時間、背広と学生服に囲まれて吊革につかまり、ちっとも旅行という気分になれない。
 けっきょく、旅行気分が出てきたのは、7時半過ぎに木更津を過ぎてからだった。

 8時4分、佐貫町で下車。駅前にコンビニもない、田舎駅である。
 ここから歩いて1キロちょっとで、東京湾を見下ろす大観音にたどりつくはずなのだ。
 といってスマホの地図を見ながら国道を歩きはじめたが、なかなか目的地が見えない。ようやく到達した看板には、「この先山頂まで1.5キロ」という表示があり、その先には、けわしい山道がある。
 私は素直に駅まで引き返すことにした。
 東京湾大観音は、8時53分発の内房線の車窓から、ちらりと見えた。
 ああ、あんなとこまで歩かないでよかった。

東京湾大観音の看板 東京湾大観音

 上総湊あたりから内房線は海の近くを走るようになり、旅行気分はいっそう高まる。
 海のむこうに山が見えるのでなんだろうと思ったが、富士山だった。
 館山到着は9時38分。オレンジ色の屋根の、ちょっとしゃれた駅だ。駅前は広いし土産物屋や食い物屋が並んでいるし、白河駅よりは観光地っぽい。
 駅前の観光案内所でバスの便について尋ねるついでにパンフレットをいくつかいただく。
 この青春18きっぷ旅行、いちばん役に立ったのが観光案内所、次がスマホ、3番目がポケット時刻表、4位はデジカメ、5位から14位までなくて15位が私の天性の勘。そのくらい観光案内所は便利だった。スマホも食い物屋情報や地図表示など便利なんだが、調子に乗って使っていると夕方ごろにバッテリーが切れるという現象を起こす。デジカメもWG−4GSは半日でバッテリーが切れるが、こちらは交換バッテリーを持ち歩いてすぐ替えられるからいい。スマホも交換バッテリーを持ち歩ければなあ。
 どうやら館山城公園から野島崎灯台までを結ぶバス経路はないらしく、お城から駅近くまで戻って乗りかえるとのこと。
 9時50分発のバスに乗り込み、10分足らずで城山公園に着く。運賃190円。
 市街地にぬっと天守閣だけ見えるのはちょっと異様な光景だ。松本城にもちょっとそんなところがある。

館山駅 館山城

 バス停からすぐのところに公園入口がある。それから坂道をのぼって15分くらい、汗だくになって天守閣まで到達する。東京湾観音まで歩いていたら、この天守閣にはたどりつけなかったと断言できる。
 この館山城には城壁も石垣もない。ないのも当然、江戸初期に里見家が取りつぶされ、館山城は完全に破却されたのだから。この天守閣だって、そもそも館山城に天守閣があったかどうかも不明で、福井の丸岡城を真似て作ったまがいものである。白河城のように図面があるわけでもないから、コンクリート造りで立派な階段もエレベーターもある。
 まがいもののおかげで、上り下りも快適だし、最上階にはぐるりと東京湾相模灘太平洋を見渡す展望テラスも存在する。風が爽快。
 このお城の1階2階は、南総里見八犬伝の物語や資料の展示室となっている。
 まあ、この館山城、1589年に里見義康が城らしいものを築き、息子の忠義が1614年には改易されて城も破却されたのだから、わずか築25年、図面もなんにも残ってないのもしかたがない。
 公園のふもとには博物館があり、里見家やそれ以前以降の歴史展示を行っている。
 里見茶屋は定休日なのかシーズン外なのか、休みだった。八犬伝もなか、買いたかったんだがなあ。

館山城 お城から見る富士

 バスで駅前のNTTビルに戻り、野島崎灯台行きのバスに乗り換える。1時間弱で野島崎入口に到着。運賃590円。
 バス停から灯台までは10分ほど南に歩く。観光用の湾岸道路の先に灯台公園があり、土産物屋や磯料理屋などが数軒並んでいる。
 灯台にもむろん登ってみる。77段の螺旋階段を上ってこれでしまいかと思ったら、また梯子みたいな階段をよじ登って、ようやく最上階へ。ここも展望テラスからぐるりと海を眺めることができる。
 最初は館山駅近くの評判のいい定食屋でメシを食う予定だったのだが、ランチの時間内には戻れないので、野島崎灯台で食事する。さしみ定食と生ビール2杯で2,500円。汗かきながらあちこち登ったもんで、ビールがうまいこと。さしみではやはり名産のアジが脂がのっててうまい。
 ついでに土産物屋で、おみやげにびわゼリーを買う。名物の鯨のタレを勧められたが、あまり好きでもないので辞退。

野島崎公園 灯台から

 ところで灯台の手前に厳島神社という、航海安全を祈願する社があるのだが、その入口になぜかこんな、男根をかたどったご神体?が存在する。その隣には、
「平和の愛鍵 男根七不思議 ぶらぶらすれども落ちもせず 金があれども通用せず 竿があれども干しもせず 金があれども光なし 縫い目あれどもほころびず 玉があれどもうてもせず 天を仰ぐこともなし されど恋を成就し、子宝に恵まれ、すぐれた御利益のある祠也」
 と掲示してある。
 こういうのを見ると、なんだか野島崎灯台も、コンドームをかぶった男根に見えてくる。

ご神体 灯台

 1時43分のバスで館山駅まで戻り、内房線が来るまで1時間ほど時間をつぶす。土産物屋でびわようかんとテングサを買ったり、喫茶店でアイスコーヒー飲んだり。
 館山駅前の土産物屋にはこんな看板があり、「里見家を大河ドラマに!」と力を入れている。
 地方観光都市はだいたいこんな感じで、草燃えるの足利市とか、真田丸の沼田市とか、宮本武蔵の美作市とか、もう放映されたり放映が決まってるところは余裕で「○○年のNHK大河ドラマ放映!」と宣伝する。いっぽう、ここ里見家の館山市とか、伊能忠敬の香取市とか、北条家の小田原市とか、塚原朴伝の鹿島市とか、明智光秀の長岡市とか、宇喜多直家の岡山市とか、まだのところは「ぜひとも次の次の大河ドラマはウチに!」としゃかりきで署名活動したりする。中にはドロナワで有名作家に執筆を依頼したりもする。やはり大河ドラマって、影響は大きいんだろうな。最近の視聴率と内容はちょっとアレだけど。
 しかし里見家は、大河ドラマ無理だと思うぞ。なにせ、田舎大名でほとんどの戦が田舎大名同士、せいぜい北条氏との戦いで、信長秀吉家康といった天下人との戦いがいちどもないから知名度がない。しかも江戸時代初期につぶれたので地元の伝統がとぎれている。取り潰しの理由も、当主がボンクラなうえ大久保長安事件のとばっちりと、威勢の上がらないこと限りない。フィクションの八犬伝だけが頼みの綱ではねえ……って、まあ最近の大河ドラマは、八割方フィクションだからいいのか。

里見家を大河ドラマに

 3時7分の内房線に乗り、3時50分終点の安房鴨川到着。向かいの外房線に乗りかえ、2分後には発車。
 最初は安房小湊で途中下車し、日蓮が生まれたとかいう誕生寺と、近くの鯛の浦に寄ってみるつもりだったのだが、駅から寺までのバスの時刻表をスマホで確認して断念した。えらく連絡が悪いのだ。JRを降りてバスが来るまで30分待ち、そこからバスで戻ってきてJRが来るまで30分待ち、あわせて1時間を浪費してしまうのだ。
 結局このまま、外房線を最初から最後まで乗ることに決定。

 外房線もわりと海岸近くを走っているので、車窓からの景色はなかなか美しい。
 乗客のほとんどは海水浴か合宿の帰りっぽい若い男女。青春18きっぷの正当な利用者だな。それが疲れてるのはわかるんだが、私の正面に座った女性など、首をがっくり折って熟睡してるもんだから、脱色した長い髪の毛がおどろに垂れて、もともと丸顔なもんだから怪獣ウーのような姿になっている。あ、まぼろしの雪山に出てくる美しいウーではなく、酷使のため毛が汚れてあちこちすり切れてる、ウルトラファイトのウーね。
 こちらの外房線も大原あたりで通勤通学帰りがわんさか増えて、すっかり旅行気分が消えてしまった。

 18時3分、外房線終点の千葉に到着。ここから総武線に乗りかえ、西船橋で途中下車。
 駅から5分くらいのところにある「よっちゃん」という串焼き居酒屋へ。平日で、まだ時間的に早めだったので、並ばずになんとか入れた。
 ここはホルモンの串焼きが名物。どちらかというと脂身系が得意で、「よっちゃん串」というマルチョウをぶつ切りにして串に刺し焼いたのがうまい。カシラ、ハラミの串焼きもうまい。
 そしてここには樽生ホッピーがある。頼むとジョッキで持ってきてくれる。いつものホッピーが外房線系荒々しさなら、樽生ホッピーは内房戦的優しさとでもいおうか。いや自分でも何言ってるのかわからないが。
 さらにここには「西船パンティー」「西船ブラジャー」なる謎のドリンクメニューがある。韓国人らしいおねいさんにそのメニューを、いや、セクハラとかそういうわけじゃなく解説してもらったら、
「ブラジャーはブランデーとジンジャエール、パンティーはパインジュースと紅茶ね」
 とあっさり言われた。
 あんまり甘くなさげなブラジャーを頼んだが、まずまずのお味でした。Dカップってとこかな。
 このお店は店員にも特色がある。無口でもくもくと串を焼く中老の店主、日本語も客あしらいも流暢な韓国人のおねさん、その後輩っぽい韓国人女性2名、まだ新米っぽい恰幅のいい中南米系おばさん1名、という構成。
 西船橋で呑んだので、家に帰ったのはまた10時過ぎでした。


8月27日(木) しずかさや滝にしみいるみんみんみん
 平日休みがあれば出かけようとして様子をうかがっていたんだが、どういうわけか休みの日に雨が降ることが多く、気がついたら18きっぷの使用期限切れが近くなってきた。残りの日程で3回の旅行はムリ。
 ということで今回は、たまたま来ていた母親をまきこんで2回ぶん消費の暴挙に出る。

 母親連れということであまり無理はさせられない。ということで今回は8時ちょっと前に家を出て、8時31分大宮発の東北本線に乗り込むという温和な日程。
 小金井で乗りかえ、9時51分に宇都宮着。向かいのホームから出る、10時3分発の烏山線に乗り込む。
 ……つもりだったが、出発直前になっても電車が来ない。ホームを見渡したら、遙か遠くにちょこんと停まってる電車がある。そう、烏山線はわずか2両編成なので、ずっと後ろで停まっていたのだ。あやうく乗り損なうところだった。
 この電車はアキュムという愛称の蓄電池駆動電車。ゆくゆくは烏山線の全列車が蓄電池駆動になるんだとか。
 宇都宮から宝積寺までは東北本線の路線と同じだが、その先、下野花岡から終点の烏山まで7駅が烏山線オリジナルとなる。終点の烏山以外の駅は無人駅で、改札もないからスイカも使えない。支払いは先頭車両で運転士に行う。
 10時57分、烏山着。駅前に「うなぎ蒲焼き 鮎塩焼き」と書いた店があるが、人がほとんどいないさびれた印象。あちこちに祭りのポスターが貼ってある。「山あげ祭り」という、7月末に行われたお祭りの時だけ、この駅もにぎやかになるらしい。

アキュム 烏山駅

 このへんは「八溝そば街道」と呼ばれるそば屋が並んでいるらしい。
 いちばん大きな割烹そば屋が定休日なので、駅から歩いて5分くらいの「つね屋」に入る。
 店構えは小さな街に普通にある定食屋という感じ。メニューも盛りそばざるそばという冷たい系よりも、天丼カツ丼タンメンカレー等の温かい系のほうが多い。
 11時の開店早々だが、先客がもういるらしい……と思ったら、店主だった。
 天ざるとざるそばとビールを頼み、「トイレはどこですか?」と聞いたら、「向かいのスーパーでお願いします」とのこと。
 瓶ビールを呑みながらしばらく待つと、蕎麦が出来てくる。盛りは普通だが、母親は「多い」とこぼす。藪くらいの量に慣れてしまっているらしい。
 蕎麦もつゆもしっかりとうまい。天ぷらもサクサクして美味。

 そば屋からまた5分ほど歩き、島崎酒造へ。ギャラリーのような店内に入ると、「奥の方に試飲コーナーがありますからどうぞ」と言われる。吟醸酒大吟醸生酒、洞窟で醸造した本店限定の洞窟酒、リキュールや梅酒など、十数種類の酒が並んでいる。
 洞窟酒も面白い味だったけど、いちばん美味く感じたのが普通の生吟醸酒だったので、その四合瓶を購入する。1,500円くらいだった。
 そば屋の先に大きなお寺があって、その脇に和菓子の店が2軒ある。美与志堂という店に入り、おみやげの鮎最中のほか、鮎瓦せんべい、高菜饅頭などを購入。

 12時29分烏山発の電車に乗り、隣の滝駅で下車。無人駅なのでバスの停車場に屋根がついた程度の設備しかない。
 国道を歩いて5分ほどすると、橋がふたつ並んでいる。ここが龍門の滝の入口。
 休憩所と売店を兼ねた「ふるさと民芸館」からすこし降りると、滝壺に到達する。かなり飛瀑の水しぶきが強く、うっかり近寄るとびしょ濡れになる。
 この滝の上を通る烏山線の電車が鉄ちゃんの格好の被写体らしいが、私がそれをやると、写した電車が乗るはずの電車なので、家に帰れないことになる。

 ふるさと民芸館で展示品を見て時間をつぶす予定だったが、展示しているのは地方の昔話や伝説のビデオと、竜がドラゴンボールのように喋るギミックのみ。
 しかたないので橋のそばにある茶店で一服しようと行ってみたら、茶店でなくラーメン屋だった。
 申し訳ないがビールとお茶だけ頼んで、30分ほど景色を眺めながら呑む。

滝駅 龍門の滝

 3時34分発の電車に乗り、4時11分に宇都宮到着。
 JRの駅前からバスに乗って5分かそこらで、東武宇都宮の駅前に到着。
 ここには「みんみん」の本店、「正嗣」という、宇都宮餃子界でもツートップの人気店が並んでいる。
 正嗣はビールがない、餃子を食うしかないという情報をあらかじめ入手していたので、「みんみん」に並ぶことにする。
 店の前にたむろしてる数名のところに並ぼうとしたら、行列の最後尾は道路の向かいにある駐車場の方だ、と言われた。ざっと20人くらいの行列だ。平日のハズレ時間にこの行列、みんみん恐るべし。
 待ち時間の間に、3軒ほど向こうで同じくらい行列している正嗣に行ってみる。どうやら持ち帰り餃子は、並ばずに帰るらしい。冷凍生餃子5人前30個、保冷剤付きで1,200円。
 30分ほどしてようやくみんみんに入れた。むろん相席。むろんビール、それから焼き餃子と揚げ餃子を頼む。
 焼き餃子はわりとさっぱりした味で、いくらでも食べられそう。揚げ餃子は塩胡椒を振りかけて食いたいって感想は、前回と同じだ。普通の生ビールを頼んだが、「餃子浪漫」という地ビールにすればよかったなあ。
 家に帰って焼いて食った正嗣の餃子は、みんみんよりちょっと濃いめの味だった。
 帰りに近所のスーパーの地下にある「来らっせ」という店も覗いてみる。ここは餃子テーマパークのようなところで、「みんみん」をはじめとする餃子店30店ほどが週変わりで出店するとのこと。
 そこから南方には、宇都宮城の櫓がぬっと顔を出している。

みんみん 宇都宮城

 その宇都宮城まで歩いてみた。
 堀に囲まれた城趾は、宇都宮城址公園となっており、土塁の上にある櫓が2つ復元されている。土塁に囲まれたすり鉢状の低地は、いまは芝生が植えられ、犬の散歩道として重宝されているらしい。
 隣接する資料館の図面など見ると、どうやらすり鉢状の低地は、もともと天守閣などの建造物でなく、屋敷があったらしい。
 とすると日光参詣の将軍様ご一行も、その屋敷に宿泊して、堀と土塁に囲まれ、櫓から見下ろされて一夜を明かしたのだろう。櫓から軍勢が夜討ちでもしてきたらひとたまりもない。そのへんが宇都宮釣り天井の伝説を産んだのかなあ。
 この宇都宮城も、戊辰の役の攻防戦で土方歳三ら旧幕府軍に攻められ、全焼している。このとき土方が足指を負傷してリタイアしたのは白河城のくだりの通り。

土塁と櫓 城址公園

 母親が宇都宮で夕食も食べて帰りたいというので、店を物色してみたが、宇都宮駅前で餃子屋でも飲み屋でもない飲食店を探すのが、こんなに大変だとは思わなかった。
 けっきょく、以前みんみんで食おうとして断念したホテルに入っている、すしざんまいで食って帰る。


9月2日(水) 真田のお城は難攻不落
 いよいよきっぷの有効期限もあと1週間。もはや今日しかない。雨でも行かねばならぬ。
 というわけで雨傘をかかえて、7時前に家を出る。
 7時21分発の籠原行きに乗るのがいいか、7時30分発の高崎まで行く電車を待つのがいいか、どちらも高崎に着くのは同じ時間だし、としばらく悩んだが、こんな混んだ大宮駅で待つのはいやだと先の電車に乗った。これが正解。熊谷で乗りかえたらベンチで座れて安楽だった。このころには雨もやんでいた。
 9時15分、5分ほど遅れて高崎に到着。ここで上越線に乗りかえる。9時26分、高崎発車。
 上越線の電車はみてくれは東海道線と変わらないが、ついに扉の開閉方式が手動となった。これまでも黒磯から先の東北線だとか、木更津より先の内房線外房線だとか、烏山線だとか、ボタンを押して扉を開閉する方式の電車はあったが、人力でこじ開けるのは初めてだ。
 上越線はがら空きで、待望の4人掛けシートに座ることに成功したが、なんだか車内が尿臭い。それもそのはず、トイレのある車両だった。

 上越線は利根川の上流に沿って北上。利根川もこのへんまで来ると、下流の大河ではなく、渓流という感じになる。
 10時13分、沼田着。思ったよりひなびた感じはなく、駅前に土産物屋も食い物屋もちゃんとある。
 ただやたらに起伏のある街だ。駅前から東に、まっすぐ上り坂が見えている。

沼田駅 沼田駅前

 沼田城趾公園までは、沼田駅から直線距離にして1キロ弱。
 楽勝と思って歩きはじめたが、なんだか道がぐねぐねして、いっこうに目的地に近づかない。
 そのうち目もくらむような石段をえんえんと登らされる羽目となり、息を切らし汗を流しながらよじ登る。
 以前の東京湾大観音のときもそうだったが、スマホのグーグルマップでは高度が表示されない。
 沼田城趾は、山岳といっても過言でないほどの断崖絶壁の上に位置するのだ。
 考えてみれば沼田城は、山岳戦ゲリラ戦を得意とする真田昌幸が奪取し、関東の要地としていたほどの城である。そんじょそこらの努力でたどり着けるはずがなかったのだ。

 まあしかし、苦労して登る価値のあるところだった。
 沼田城址公園はよく整備されており、沼田城の石垣、もと沼田城下にあったという鐘楼、句碑や義人の頌徳碑、太平洋戦争で散華した兵隊の慰霊碑、なぜかクジャクやウサギの小屋まである。
 展望は絶景。沼田市街地や利根川を見下ろし、はるか武尊山や尼ケ禿山をのぞむ。

城址公園から 城址公園から

 もっともこの沼田城、真田家のものであった期間はそんなに長くない。
 1580年に真田昌幸が北条氏の版図だった沼田城を奪取。その後、北条氏に奪い返されたりしながらも息子の真田信之が継承。1681年、信之の孫信利が沼田藩を召し上げられ、城は破却されてわずかに石垣が残ることになる。要するに百年だ。
 しかしその百年の間に、ドラマになるトピックスが何回も起こったのだから、沼田市が「真田の里」と売り出すわけだ。
 最初は真田昌幸と徳川家康の終生続く確執、いや息子の信繁(幸村)までを巻き込む天下の大騒乱のきっかけとなった事件。昌幸は沼田城と岩櫃城を奪い、当時主君にしていた武田の版図にしたのだが、すでに武田は5年前に長篠の戦いで織田軍に大敗、衰運きわまって真田を援助する力もなかった。82年に武田氏が滅亡すると、はじめ信長、次いで北条氏、そして家康に服属した。
 ところが1585年、家康が北条氏との話し合いで沼田を勝手に北条に返却したから、さあ昌幸は激怒した。
「沼田はわしが自力で奪った地、家康に貰ったものではない。なにを得手勝手な」
 と家康を見切って秀吉に服属し、人質に次男の信繁(幸村)を送った。
 家康もそのままにするわけにいかず、1万近くの軍勢で真田の本城、上田城を攻めるが、真田得意のゲリラ戦と山岳戦の前に惨敗した。数年間の戦闘が続いたが、家康軍は真田の前につねに敗れていた。「家康は真田が苦手」というイメージは、このとき確立する。
 1589年、秀吉の裁定で、沼田は北条氏に戻されたが、なぜかこのときは昌幸、おとなしく従った。しかし沼田城のすぐ北にある名胡桃城だけは真田家に残すことを許された。
 さて1600年の関ヶ原の合戦。昌幸は家康に従って上杉討伐のため佐野まで来ていたが、そこで石田三成からの密書が届けられた。真田家はここで討議のすえ、上田城の昌幸と次男の信繁(幸村)が大阪方につき、沼田城の長男信之が家康方についた。
 昌幸は関東をひきはらって上田に戻る途中、沼田に立ち寄り、
「信之は家康について不在だし、ついでにこの城ももらっていこう」
 と信之の妻に書状を送り、城に入れるよう要求した。
 ところがこの妻、小松姫といって徳川の猛将、本多平八郎忠勝の娘だ。この娘を嫁に迎えるについても、昌幸は「わしはれっきとした大名だ。いわば家康と同格だ。その家康の家来の娘などとんでもない」と猛反対し、やむなく家康が小松姫を養女にしてようやく嫁入りしたのだが、まあどうでもいい。
 かつて小松姫の婿捜しに、家康が浜松城へ大名子息たちを集めたという伝説がある。
 このとき小松姫は青年たちのマゲをつかんで顔を上げさせ、ひとりづつしげしげと眺めた。
 みんな腹が立ったが、なにしろ家康のお気に入りの娘、後難を避けてされるがままになっていたが、たったひとり、信之だけは「無礼ではござらぬか!」と怒った。これで小松姫は信之の嫁になる決心をしたとか。
 そんな娘だから、父親においそれと城を明け渡したりはしない。
「夫の言いつけでなければ城は開けるわけにはいきません。強いて入るというなら、弓矢を馳走するまで」
 と返答した。これには昌幸も
「さすがは名に聞こえた平八郎の娘じゃ」と苦笑し、上田城へ帰ったという。

鐘楼 沼田城石垣

 沼田の駅前に戻り、昼食をとる。
 沼田には「上州沼田とんかつ街道」というものがあるという。
 もともと上州は養豚が盛んで豚肉が美味いところ。
 沼田駅から老神温泉まで、片品川に沿った街道を「日本ロマンチック街道」と呼ぶが、この同じ道を「上州沼田とんかつ街道」とも呼び、とんかつの名店が15ほど散在する。
 沼田駅前の「山彦」はこのとんかつ街道には参加していないが、とんかつ定食が有名な店。
 薄暗い店に入り、とんかつ定食とビールを注文する。開店早々なので客は誰も居ない。店内は山荘風のこしらえで、「山と渓谷」のような登山雑誌が山と積み上げてある。
 店主が厨房に入ってしばらくして、「うわっ、しまった!」という声が聞こえてきた。
 なにか料理に失敗したのかと思っていたら、私より10分くらい後で入ってきた客に、「すいませんねえ、ロース仕入れるの忘れちゃって、もう一枚しかないんですよ。とんかつは、あと30分くらい待ってください」と謝る。
 どうやら私のとんかつが最後の一枚らしい。
 その後、もう一組の客もそう断られて帰っていった。みんな、別なメニューを頼もうとはしない。やはりとんかつが突出して一番人気であるらしい。
 ようやく出てきたとんかつは、さすが一番人気らしく、肉厚ゆうに5センチはある。脂身は少なめの肩ロースかな、みっしり肉が詰まってる、という感じ。

山彦 とんかつ

 「沼田駅から徒歩15分」の沼田城で疲労困憊した私が、「後閑駅から徒歩20分」の名胡桃城を断念しても、だれが責められようか。
 沼田駅で土産のこんにゃくまんじゅうとやらを買ったり、待合室で時間をつぶす。沼田駅は待合室の椅子にもホームのベンチにも、地元寄付のクッションがあって、いかにも奥ゆかしい。
 1時15分発の上越線で渋川まで戻る。ここで吾妻線に乗りかえるため、1時間ほど途中下車。
 しかし渋川はなんにもないところだ。田山花袋の「温泉めぐり」では、
「渋川の町はちょっと面白い特色のある町だと思う」
 とあるが、今はその片鱗も感じられない。
 たしかに渋川は交通の要所である。高崎から東京へ向かう高崎線、前橋から水戸に向かう両毛線、沼田から越後湯沢へと向かう上越線、草津に向かう吾妻線、さらに伊香保、草津など近隣温泉へ行くバスが出ている。けれど、単なる通過点だ。
 そばでもちょっと食おうと思って、駅前にあるでかい店に行ってみたら「とんでん」だった。さすがに戸田で食える店に、わざわざ渋川で入るのはねえ。と思って土産物屋を探したが、どうやら駅コンビニの一角と、薬屋の一角で売ってるだけらしい。
 もっともこの薬屋の女店主がいい人だった。「今日はお暑うございますねえ」に始まって、近隣の観光案内とおすすめの土産物紹介をしてくれ、最後に「暑いから気をつけてくださいね」と塩飴をくれた。渋川にはなんにもないが、人情はある。

 2時24分発の吾妻線に乗り込む。こっちもガラガラで、先頭の4人掛けシートを独占。まあ、今どき草津へ電車で行く人もあんまりいないのかもしれない。
 2時57分、群馬原町に到着。上州岩櫃城があるので、この駅も「真田の里」の幟があちこちに立っているが、「真田忍者の里」ってのはいったいなんなんだ。真田忍者といえば猿飛佐助が思いつくが、あれは信州鳥居峠の郷士の息子、霧隠才蔵は備中竜王山の山賊の頭領だったはずだ。

群馬原町 群馬原町駅

 駅前の観光案内所で、岩櫃城まで行く方法を聞く。
「そうですね、この駅からなら、県道を西に進むと入口があります。そこを登っていくと登山口があって、そこから城趾まですぐですよ。まあ、歩いて1時間くらいです」
 ふむふむ、1時間なら、戻ってきて4時すぎ、ちょうどいい時間だな。
「帰りも同じ、1時間みてもらえれば」
 ……え?
 1時間は片道ですか?

 ということで岩櫃城は断念。
 駅から撮影した岩櫃山と、駅前のお城っぽい温泉でガマンしました。

岩櫃山 岩櫃城温泉

 せめてなんか食って時間をつぶそうかと思ったが、ちょうど時間が悪い。とんかつ屋もそば屋もランチタイムと夕食の間で準備中。わずかにラーメン屋と焼肉屋は開いていたんだが、なんかそれもなあ……と、駅前をうろうろして過ごした。
 3時34分の電車に乗って、そのまま高崎まで行く。そこで高崎線に乗りかえ、6時ちょっと前に熊谷で途中下車。
 熊谷駅から5分ほど歩き、住宅街になりかかったあたりに、「立ち小便禁止」の看板とともに、業者搬入口にしか見えない入口がある。これぞ知る人ぞ知る熊谷の居酒屋、「秀萬」である。
 だだっぴろい店内にずらりと低いテーブルが並び、白いビニールのテーブルクロスがかかった姿を「海の家」と称する人が多いが、私にはお通夜の会場に見えた。もっとも供する料理のほとんどは生臭物、それも海の生物がほとんど。
 カニが売りの店らしいが、ひとりでカニは量が多すぎるので回避。生魚は「刺身」としか書いてない。日替わりらしい刺身は、きょうはマグロの赤身と中トロだった。刺身は分厚いのが5きれずつで680円、ホタテは2枚380円と、安いのが特色である。その代わり醤油皿はプラスチックなど、随所にコストカットされている。
 合間合間には店員が駅弁のように、木箱を首からぶらさげて売りに来る。今日は生ウニを450円で売っていた。
 酒は剣菱。一合徳利と枡が来て、枡に注ぐのもセルフサービス。杉の枡は新品の木の香りこそしないが、使い込まれてしみこんだ酒の香りがする。
 この店は海産物とバランスをとるつもりか、帰りに山の幸をくれるのが決まりらしく、今日はリンゴをもらった。
 家に帰ったのは10時過ぎ。

熊谷


 8月にこういう無理をしたもんだから、9月に体調を崩して何回か寝込んだ。
 どっとはらい。


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