くだらな日記(2011年4-5月)


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5月13日(金)
 「悶絶!アーマージャック」が付録についた古雑誌を買ってしまいました。今それを見ながら、しみじみと自己嫌悪にひたっております。ひとむかし前のゲーム系エロ雑誌テイストですわ。
 しかし二セットモンスター(ニセモン)のピカチンはアウトでモザイクだらけやのに、チンブレードを駆使するファイナルヒーロー、コスール・サンドハーン(冒頭でテ○ファ人形を犯す)はオッケーって基準が不明や。そのへんの古い体質はようわからんな。なあ野村はん。


5月9日(月)
 金本という選手は去年から「もうレフトの定位置からショートまでもワンバウンドでしか投げられない」という事実が確定している。昨年からずっとこのままである以上(どういうわけか関西スポーツ新聞では遠投が月に10メートルずつ伸びているが、事実に合致しない以上、「フセインインキン大作戦」に類する記事なのだろう)、急激に回復する見込みはゼロ。そういう輩に外野を守らせるのは、監督の敗退行為、野球協約違反で球界永久追放に該当する。
 まだしも3割30本塁打くらい打てば、守備には目をつぶって、という言い訳が立つのだが、実情は1割1本。こんなもん、イチロー並みの超絶外野守備でも、余裕でベンチである。
 そしてまた長打力も衰えきって、30本はおろか、フルイニング出しても2桁打つかどうか怪しいレベルである。先日の大ファウルはポール際特有の風にうまく乗せた、伸びるんだけど切れる打撃のマジック。
 となると金本選手のたったひとつ残ったとりえは、選球眼とバットコントロールの巧みさである。桧山選手なら片膝ついて三振する落ちる球も、金本選手なら当てることはできる。桧山選手なら力なく振って三振する外角に逃げるスライダーも、金本選手なら見逃すことができる。
 と、いうことは、金本選手を活かすことができる唯一残された職場は、桧山選手に代わって左の代打になることしかない。
 ただし局面は限られる。一発の可能性が薄いのでホームランが欲しい場面では役に立たない。バットコントロールの巧さが災いして、変に引っかけたゴロの可能性も高い。金本はきわめて鈍足のため、1塁ランナーが2塁でフォースアウトになった時点で、ゲッツーは約束されている。つまり代打金本に適した場面は、ツーアウト満塁、ノーアウト23塁など、ゲッツーはないからとにかくバットに当てて3塁ランナーを帰してくれ、というシーンである。
 では、金本に追いやられた桧山を活かすことができる職場は? ない。


5月8日(日)
 先日の替え歌の元歌「突撃!アーマージャック」の所在を聞かれたのでリンクを貼っておきます。いいのかな、こういう貼り方でも。

「突撃!アーマージャック」オープニングテーマ曲

「突撃!アーマージャック」オープニングテーマ曲(youtube版)

【ニコニコ動画】突撃!! アーマージャック「俺が正義だ アーマージャック」

【ニコニコ動画】突撃!! アーマージャック「緑を守れ」

【ニコニコ動画】突撃!! アーマージャック「暗黒街の掟」

 なんつーか、テーマ曲もドラマも、ツッコミどころ多すぎて逆になにもツッコめないという素晴らしい作品ですね。

 さらに派生作品と言えるのかどうかわかりませんが、「悶絶!アーマージャック」も制作されている模様です。見た感想は、「1980年頃に蛭児神健と幼女嗜好の面子がペドロリ同人誌やプチパンドラでやってた、バービー人形と特撮ヒーロー人形の人形劇そのまんまやん」でした。よい子のみんなは、お父さんお母さんに「見てもいいよ」と許可をもらってからクリックしてね。

「悶絶!!アーマージャック 第01話」

「悶絶!!アーマージャック 第2話」

 ちなみに「悶絶!アーマージャック」は13話まで制作されているそうなのですが、3話以降は探しても動画が削除されている。パワーアップしてしまったのかもしれない。諸事情により一部変更された第4話を含む全13話を収めたCDが「メガストアギミックス Vol.8」という古雑誌の付録としてあったそうなのですが、現在ではそれを入手するよすがもない。「突撃!アーマージャック」全3話なら、制作したアマプロの製品を取り扱っている店(東京なら板橋のMONSTOCKという店らしい)で入手できるかもしれないのですが……。


でもやっぱり、替え歌だとこれが一番ぴったりくるかな。

突撃!アーマーヤンキー

 ソマリアの海に 血なまぐさい風が吹く
 沈めろ!殺せ!砲撃!アーマーヤンキー

 子供だからと 手加減するな
 どうせ 相手は野蛮人
 海賊どもをぶっ潰せ! 根拠地を焼き払え!

 いいぞ 僕らの 世界を守るアーマーヤンキー 

 中東の砂漠に 今日も血の雨が降る
 潰せ!テロ組織!襲撃!アーマーヤンキー

 命乞いされても 容赦はするな
 所詮 相手はビンラディン
 いつか絶対撃ってくる 殺られる前に殺るんだ

 いいぞ 正義と 自由を守るアーマーヤンキー

「おい!そこのチャンコロ野郎! なぜ俺様の作戦にケチをつけるんだ?
 そうか、よーし、おまえのような人権抑圧国家には軍事と経済のダブル制裁攻撃だ!
 (ドカーン)(アイゴー!)イーッヒッヒッ、どうだ思い知ったか!
 日本のみんなも死にたくなかったら俺様の言うとおりカネを出せ!基地よこせ!血を流せぇぇぇぇぇ!」

 国連軍には手柄をやるな
 邪魔をするなら爆撃だ
 ニグロどもは八つ裂き イスラム教徒は皆殺し
 いいぞ!その調子だ!平和を守るアーマーヤンキー


5月7日(土)
 罵倒ばっかりでも始まらないから、阪神首脳陣のよく見える悪性新生物、真弓監督と久保ピッチングコーチについて考察してみよう。
 真弓監督は継投については久保コーチに一任、打者の指導は片岡と和田の両打撃コーチに一任していると言われている。すると残る仕事はスタメン作成と控え選手の起用くらいなのだが、どうやらそれすらやっていないらしい。
 というのは、スタメンにおいては、打率1割ちょっと、走者としては鈍足、しかも守ってはレフトの定位置からショートの中継にすらワンバウンドでしか投げられないという障害物を6番に置いていることであり、控えの起用においては、得点圏打率が2割ちょっと、振り遅れたセカンドゴロと腰砕けの三振の確率がひじょうに高い役立たずをわざわざチャンスで起用するからである。他に選手がいないわけではない。ホームランを打った選手もチャンスに強い控えもいるのに使わない。そこが異常な点である。
 このふたりとも韓国系の選手であるため、在日系の悪質なタニマチが球団に圧力をかけてスタメンと代打をゴリ押ししているとの噂がある。実際のところはよくわからないのだが、そう考えないと説明がつかない。もしも真弓監督が完全な狂人であると仮定すれば、話は別であるが。
 つまり真弓監督は監督としての仕事はなにもしていない。しているのは試合前に新聞記者と雑談するのと、試合後にもっともらしく敗戦の言い訳をするくらいである。
 むろん監督は全能ではない。多かれ少なかれ歴代の阪神監督は、無力感に悩んできた。野村監督などは自分の立場を、カネと人事にはかかわらせてもらえない「スナックのチーママ」と自嘲していた。しかし歴代阪神監督と真弓監督が異なる点は、どうやら真弓監督がその無力感に悩んでいないらしいところだ。
 残念ながら阪神は、悪質なタニマチによってしばしば監督の采配や人事が動かされてきた。金田監督は江夏と大喧嘩のあげく追放されたし、ブレイザー監督は地元大阪の人気新人・岡田を使えという圧力に抗したため解任された。このような騒動にならなくても、安藤監督は「これ以上やったら精神がもたない」とまだ任期を残しながら辞任し、中村監督は阪神暗黒時代の5年を耐え、6年目についに胃を壊して辞任した。
 これらの歴代監督に比べても、真弓監督の無力は相当なものだと思われるが、そのわりに本人が無力感を感じている節はない。ひょっとすると真弓監督は、「キン肉マン2世」に登場するチェックメイトのように、痛みを感じない特異体質(チェックメイトは肉体的痛み、真弓監督は精神的な痛みという違いはあるが)なのかもしれない。

 真弓監督が「精神的苦痛を感じない特異体質」なら、久保投手コーチは「なんでも棚にしまっちゃう人」なのではないだろうか。どうも久保コーチは、開幕前に投手をすべて整理して棚にしまいこんじゃうようである。そこで評価が固定し、その後の試合での内容がどうであろうと、貼ったラベルをなかなか剥がそうとしない人であるらしい。
 先発投手は久保、能見、岩田、スタンリッジ、メッセンジャー、下柳。勝ちパターンの試合では小林、久保田から藤川につなぐ。あとの榎田、渡辺、福原などは中継ぎの便利屋として適当に使う。このラベルを開幕時に選手に貼って、そのまま棚にしまっちゃったようなのである。
 その結果、榎田がいくら期待以上の好投をしても先発では使わない。小林があまりにも酷い投球だろうが、勝っている試合の終盤で使って逆転負けを重ねる。頑固というよりここまで来ると馬鹿である。

 結局のところ阪神がこの後好転するとしたら、悪質タニマチの圧力が薄れてまともな選手起用をするようになり、久保コーチが投手陣の棚卸しを早々に行って投手起用を現在の実力に適応させることだが、どちらも今のところ望み薄である。
 真弓監督に関しては関係ない。彼は無力であり、無責任であり、したがって無益無害な存在であるからである。彼が現在害をなしているのは、外部の圧力をそのままヘラヘラと受けているからであり、彼自身に起因するものではないのである。「馬鹿監督」とか「ダメ監督」という分類にすら当てはまらない、真弓は一種の巨大な無なのである。


5月6日(金)

突撃!真弓ジョー監督

 怒りの甲子園に 血なまぐさい風が吹く
 壊せ!潰せ!突撃!真弓ジョー監督

 榎田つぎこめ手加減するな
 どうせ中継ぎ消耗品
 コバヒロを今日も出せ! 球児も引きずり出せ!

 いいぞ僕らのスーパーヒーロー 真弓ジョー監督

 憎しみのドームに 今日も血の雨が降る
 潰せ!チャンス!真弓ジョー監督

 林がよくても 試合に使うな
 所詮 奴らは台湾人
 いつか絶対帰国する それより金本使うんだ!

 いいぞ正義のスーパーヒーロー 真弓ジョー監督

「おい!そこのハナたれ小僧! なぜ俺様の采配を褒めないんだ?
 そうか、よーし。お前のようなアンチはダブルストッパーでサヨナラ負けだ!
 (カキーン)(ぎゃあああ)イーッヒッヒッヒッ、、どうだ思い知ったかぁぁ!
 よい子のみんなも死にたくなかったら俺様の采配を褒めろ!称えろ!褒め称えぇぇぇぇい!」

 先発陣には手柄をやるな 邪魔をするなら交代だ!

 選手のプライドは八つ裂き 若手の出る芽は皆殺し

 いいぞ その調子だスーパーヒーロー 真弓ジョー監督

 しかしこの歌(元歌:「突撃!アーマージャック」)、歌ってるのがワタナベツネオなんだよね……ナベツネバージョンの替え歌の方がしっくりきそうな気もする。


4月19日(火)
 野村哲也を精神分析してみる。
 スクウェア・エニックスの社員であり、ファイナルファンタジーシリーズのデザインを手がけた野村哲也の、異種生物やモンスターに関する偏愛から考えてみたい。
 ファイナルファンタジーのマスコット的動物といえばチョコボであることに異論を持つ人はいないだろう。独立して「チョコボの不思議なダンジョン」というゲームが制作されたほどの人気者であるが、野村哲也はどうやら、チョコボに憎しみを持っているようなのである。
 チョコボはかつて、主人公とともに広大な大地を駆け抜ける、自由の象徴でもあった。しかし、野村が制作に参加したといわれている「ファイナルファンタジー7」においては、チョコボは厩舎に幽閉され、人間の手によって交配され、レースに使役されているのである。「ファイナルファンタジー10」では、ミヘン街道という限られた場所でしか移動できず、あまつさえモンスターに襲われるというイベントさえ用意されている。「ファイナルファンタジー13」に至っては、ザコキャラのアフロヘアの中で飼育されるという屈辱さえ甘んじて受けているのである。
 このような一貫した、チョコボの自由な移動を憎み、人間の手によるコントロールを求める野村哲也の感情は、どこから来るのだろうか。
 鳥は精神分析においては男性性器の象徴として知られている。自由に羽ばたき、走り回る鳥は、男性性器の奔放な運動を象徴している。
 つまり野村哲也は男性性器の野性的で奔放な運動を憎み、これを消し去るか、もしくは人為のコントロール下におくことに異常な情熱を燃やしていると考えられるのである。おそらくは自己の男性性器が自由な運動を行えず、これを消し去るか、もしくは自分の意のままに運動するようにできないかという欲求を持っている、と考えられる。
 このことは他のキャラクターからも傍証が得られる。野村哲也デザインとして知られる小動物的キャラのモンスターとしては、サボテンダーとトンベリが知られている。サボテンダーはむろん、サボテンのデザイン。植物は一般に女性性器の象徴であるが、棘を持つ植物であるサボテンは、「歯を持つ女性器」、つまり男性のペニスを食いちぎる女性器の象徴であり、去勢不安のあらわれである。トンベリがおもむろに近づいては包丁で男性性器を切断する、去勢不安の象徴であることは言うまでもない。(ただし、サボテンダーの造型は男性性器そのものであり、それがすぐに逃げるという習性から、ペニスを失う恐怖を象徴しているという見方もできる)
 また野村が関わったファイナルファンタジーにおいては、父親の象徴ともいえるラスボスが妙に影が薄い。8ではラスボスが女性の魔女、10と13では女性器の象徴である植物、もしくは女性器を連想させるデザインである。10のラスボス、エボン=ジュの牢獄の中に、父親的存在のジェクトが幽閉されているのは意味深長である。
 逆に「乗り越えるべき壁」である兄貴分キャラが豊富である。7のセフィロス、8のサイファー、10のシーモア。彼らは父性的存在ではなく、主人公の念者として手ほどきをする、同性愛的な存在である。
 つまり野村哲也は男性性器の不能と去勢不安に悩み、性器を人為的にコントロールするか、然らずんば無視するか、というコンプレックスを抱いた結果、父親的なるものの観念を意識から消し去り、そのため潜在的もしくは顕在的な同性愛的傾向に移行するに至った、と推測される。
 野村哲也のお気に入りである、ティファ、リノアといった、知性をやや欠き、肉体的魅力に充ち満ちた女性キャラに囲まれてはいるが、しかし決して男性性器が欲望を充足することはできない。そのためサイファー、セフィロスのような逞しい男性に犯されたいと念ずるに至る。それが野村哲也が作品世界に紡ぎだした、みずからを幽閉する牢獄である、と推測される。


4月18日(月)
 犬食文化考。
 もともと犬食文化は、東アジアとポリネシアに広がる文化であった。これを動物虐待という偏見は近代欧米文化に毒されたものの見方であるが、ここではその偏見をあげつらうのではなく、なぜその偏見が生じたか、を考えたい。
 おそらくはその根本は、東アジアと欧米の主食である穀物、米と小麦の違いから生じた。
 米はご存じの通り、温暖な気候と豊富な水分さえあれば、単位面積当たりもっとも豊富な生産性を誇る。これにより、温暖な気候とモンスーン気候による豊富な雨量をもつ東アジアでは、古代の時点から大量の人口を支えることができた。ヨーロッパ全土の人口が億に達しなかった中世の時点でも、インドと中国はすでに億を突破し、日本ですら数千万の人口を保っていた。
 しかし東アジアの人口圧は、肉食を困難にしていた。
 同時代のヨーロッパであれば豊富にあった、耕作に適さない地(草原なら牛や羊、森林なら豚の飼育に適していた)が少なかったのである。山地の乏しい草を食うヤギなら日本に適していたかもしれないが、日本にヤギがもたらされたのは近代以降である。そして中国やインドには山地も少なかった。
 牛や羊といった反芻動物は、人間の食用に適さない草を食料として育つという利点があり、ヨーロッパの(小麦栽培にすら適さない)痩せた草原で飼育されたが、そのような土地は、大量の人口によりくまなく耕作されていた東アジアにはなかった。豚はヨーロッパでは人間の食い残しや、森林に実るドングリを餌として育つが、東アジアでは食い残しも少なく、森林はさらに少なかった。(中国も古代までは森林があちこちにあったが、やがて始まった鉄の冶金のため大量の木材が伐採され、森林が消滅したという説がある。おそらくはそれと、農民による森林の耕地化と、両方の原因によるものだろう)
 まず中国について考えてみよう。中国では漢の時代までは羊や牛を食うことが行われていた。「牛耳る」という言葉は宴会で牛を調理する際に、主宰者が耳を切ることから生じた言葉であり(現代でもモンゴル人は、羊を客に供する際に耳をナイフで切らせる)、また牛に代えて羊を犠牲にせよと命じた王の逸話もある。中国古代は、殷、周、秦と北方遊牧民族の色濃いコムギ文化を持つ国家が続き、漢もその影響下にあった。漢のあとの三国志の時代、南方の呉国は肥沃な国土のわりに人口が少なく、しばしば他国から人間を略奪していたことからも、北方優越の実情がわかる。
 それがおそらく唐の時代あたりから、南方のコメ文化が色濃くなり、牛や羊に代わって、豚が食用肉の主流となる。宋の時代は、北方民族に侵略されて南宋に移るように、はっきりと南方優越である。北方民族が中国を制した清の時代にあっても、文化は南方的であった。「随園食単」にある肉料理に豚料理が圧倒的であることからもそのことがわかる。
 インドについてはどうか。これはインドの古典「リグ・ヴェーダ」から推測することができる。紀元前ごろのインドでは、少なくとも支配階層は牛肉を食い、酒を呑む、享楽的な生活を送っていた。おそらくはアーリア民族の風習であろう。ところが紀元後、牛肉食はタブーとなり、酒も忌まれるようになった。紀元前に歌われた酒の神ソーマ賛歌が、紀元後には歌われなくなったのである。これはインドの急激な人口増加により、使役牛を食うこと、穀物を酒にして飲む贅沢が困難になったため、タブーとして禁じられたのだとする人類学者マーヴィン・ハリスの推論は、だいたい正しいものと思われる。
 つまり東アジアは、欧米に比べ単位面積の人口が多いため、牛や羊、むろんのこと北アジアの馬や西アジアの駱駝を食用にする贅沢は許されなかったのである。
 そうすると残る食肉は豚である。豚は食肉マシンとしては比類ない。餌として与えたカロリーから得られる肉量では、豚があらゆる家畜の中で最多である。しかし豚は、草を食う牛や羊と違い、人間が食えるような食物しか食えないという欠点がある。つまりヨーロッパのような森林がない地域では、残飯が豊富にないと養えないのである。これは犬と同様の条件である。
 生産性では豚が優るが、豚は犬に比べると大量の食料を要求する。したがって東アジアでは、食料豊富な地域では豚、乏しい地域では犬が食用とされた。特にポリネシアのような島では顕著である。タロイモが多量に取れる島では豚が飼育され食用にされたが、貧弱な島では乏しい食物を人間と犬が分け合い、さらに乏しい食肉源として犬が供された。
 それはわれわれ日本人も同様である。縄文時代の遺跡からは、食用にされたと推測される、肉を削り取られた痕跡のある犬の骨が出土している。われわれ東アジアの貧しかった人間は、犬と食料を分け合い、犬に食肉を分けてもらって生活していたのである。
 以上に述べたような文化的背景を別としても、犬食をタブーとする根拠は何であろうか。「犬は賢いから」というのであれば、小型犬よりは豚の方が知能が高い。そもそもその根拠であれば、鯨を食うことも拒否しなければならぬ。しかも犬は鯨のような野生動物ではなく家畜であり、資源枯渇を心配する必要もない。犬を食うことがヤバンであるとする根拠は、何もないのである。


4月7日(木)
 もちろん私は被災者の人になにもできません。
 でも、公民館や仮設住宅で老人が「うちに帰る」と大騒ぎしていたら、ちょっとだけ優しい気持ちになってあげてください。
 認知症になりつつある人にとっては、すべてが未知なのです。まわりの人も、住むところも、食べるものも。
 認知症の人をもし健常な人ならばどんな感じかとたとえるなら、こんな環境に置かれているのです。
 自分が希望しないのに、勝手に新潟から粗末な船に乗せられて、将軍様の像が立つ平壌へつれていかれる。そこでトウモロコシの粥だけを食わされ、餓死者が転がる街道を通り、貧弱なターミナル駅からわけのわからない旧式な列車でさらに北へ連れて行かれる。なんだかロシア人のような白人の多い駅で降ろされたと思ったら、さくらえみのような巨漢の女性に腕を捕まれ、シベリア鉄道らしき汽車に無理矢理乗せられる。連れて行かれたコンパートメントでは、巨体のロシア人がウォッカをラッパ飲みしながらじろじろとこちらを見ている。むろん言葉はまったく通じない。ツングース系ロシア人らしい、モンゴル語しか喋らない係員に強引にパジャマに着替えさせられ、狭く固いベッドでようやくまどろんだと思ったら、強引に揺り起こされ、パジャマのまま寒風吹きすさぶ冬の早朝のプラットフォームに降ろされる。持っていたはずのスーツケースはどこかに行ってしまった。係員はどこにもいない。わめいても叫んでも、誰も出てこない。財布やパスポートがあったはずだとポケットをさぐるが、どうしたことか、そんなものはまったくない。そういやパジャマでなく、背広のズボンに貴重品を入れていたはずだ。背広はどこだ。パニックになりかかる自分をようやく抑える。ああ自分はこの見知らぬ国の見知らぬ駅で、自分を証明するなにものも持たず、最後の頼みの綱の金も持たず、いったいこれからどうなるのであろうか。ようやく無愛想な男が出てきて、コップの水を飲めという。なんだか怖いので拒否したが、抑えつけられ、むりやり飲まされた。変な味だ。毒じゃないだろうか。男に「ロシア?」「タシケント?」「バクー?」「ワルシャワ?」「プラハ?」「イリエスク?」「コルホーズ?」「ラーゲリ?」と知っている単語を並べてみたが、まったく反応がない。ここはシベリアだろうか。ひょっとしてこれが、シベリア抑留ってやつなのか。
 とまあ、こんな環境に自分が置かれたら、ちょっとは不安になりますよね。察してあげてください。


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