くだらな日記(2001年5月)


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5月30日(水)
 納豆スパゲティが好きだ。
 いや、単にスパゲティを茹で、バターをからめて、カラシとタレで練った納豆を乗っけるだけなんだけど。スパゲティの食感と、バターの香りと脂っこさ、納豆の匂いとネバネバがうまくハーモニーをかもし出して、絶妙の味わいなんです。納豆の食べ方としては、あつあつご飯に乗っけるより好き。スパゲティの食べ方としても、クリームソースや明太子に匹敵するトップクラスだと思う。トマト系のソースは苦手なので。
 で、今日も納豆スパゲティを食べようとしたのだが、今回は趣向を変えて、マヨネーズを混ぜてみようかな、と。最近、マヨネーズ納豆というのもスーパーで売り出しているし、マヨネーズ納豆のサンドイッチも美味いし、試してみようと。
 ……あ、失敗。マヨネーズとバターの脂身が重複して、くどくなりすぎた。


5月29日(火)
 ワインの通信販売についてきたパンフレットを読んでいたら、ソムリエの磧本修二という人と女優の羽田美智子(元COCOのメンバーじゃないよ)が対談していたんだけど。そこでの羽田語録。
「チーズはさっぱりしたのが好きで、食べた瞬間に『メェ〜』って言っちゃいそうな山羊臭いのはダメなんです」
(ブルゴーニュ・マゾワィェール・シャンベルタンを飲んで)「なにか、少し酸っぱめの、爽やかな……若い女の子の味がする」
 おいおいおまえはレクター博士かい。
 しかしながらソムリエの方も「馬の鞍の味のするワイン」とか「濡れた子犬の香りのワイン」などと言っているので、この勝負引き分け。ソムリエって、こういうムチャな形容詞を考えられないと勤まらないのでしょうか。私にはまだムリだ。
 宇都宮先生あたり、そういう妙な用語を集めてくれないかな。それにしても、コサキンってまだあったんだ。


5月28日(月)
 いよいよ、あと一ヶ月ちょっとで参議院選挙。ブームで小泉自民党に入れるなんてつまんないぞ! いま、もっとも熱い政党、それが自由連合だ!
 なんせ公認候補が凄い。前回の選挙にも立候補して、「私は面白半分に立候補したんじゃありません。100%ウケ狙いで立候補しました」と東京都民に演説した漫画家・高信太郎(党役職は文化局長)、「職業・タイガーマスク」というのがナイスな佐山サトル(スポーツ文化部長)と、同じくプロレスラーで「何やっても勝ちゃあいいんだよ」が口癖の堀田裕美子(スポーツ文化部次長)。東大卒のプロ野球選手が売りだったが、引退後、高田文夫に「大リーグのレポート書いてきたんだけど、まるでカラッ下手。受験頭と世間の頭の良さは別だね」と言わしめた小林至(都市局長)。都知事選と府知事選に立候補していちやく人気者になった羽柴誠三秀吉(幹事)。そして極めつけが、あの笑顔が何より怖い、泣く子も黙って海に沈むと評判の、ヨットスクール戸塚宏(総務)。
 あ、それから「武道通信」主宰の杉山頴男さんも。この人、前に私の掲示板に書き込んでこられたことがあるんですよね。だから「さん」付けちゃう。ち、ちょっと怖いし。なるほど、週刊プロレスと格闘技通信の編集長だったのか。知らなかった。
 それにしても自由連合、石原都知事のことを「盟友」と持ち上げているけれど、その盟友と都知事選で戦った羽柴誠三秀吉を公認してるというのはどういうことだろう。

 隆慶一郎「一夢庵風流記」(新潮文庫)を読む。
 前田慶次郎という人物を最初に知ったのは、司馬遼太郎の「関ヶ原」だった。そこでは前田ヒョット斎というふざけた名前で、「家康にへつらう腑抜けばかりの大名の中で、上杉だけは漢なり。道ある世ぞと知らせるため、ヒョット斎はるばるまかり越したぞ」などと言う。その後、原哲夫の「花の慶次郎」で主人公を勤めるが、うかつにもそのときには、同一人物とは知らなかった。まあ、奇人変人のたぐいですな。
 よく言えば隆慶一郎の自家薬籠中の人物、悪く言えばおきまりのパターン。自由人、いくさ人、かぶき者、少年の心を保つ人物、といったキーワード通りの人物像というか。ちょっと白土三平に似ているかな。階級闘争とか身分制度とかの図式を持ち出すと、せっかくの面白い物語が興醒めになってしまう、というあたりが。もっとも、例外的に「風魔」は好きです。あれは図式的な構造が、かえって笑えるところにまで達している。
 すいません、ちょっと採点が辛くて。佐高信をはじめ、アンチ司馬の人間が決まってかつぎ上げるのが隆慶一郎なので、司馬派の私としてはどうしても党派的根性が出てしまうのです。
 司馬遼太郎に比べると、隆慶一郎の小説がどうも平板に思えてしまう。というのは、前出のような図式的用語を多用するところも原因なのだが、主人公の造形にも関係しているのかな。隆慶一郎の主人公は、ほれぼれするようなスーパーヒーロー、立川文庫的英雄、完璧超人だ。その点、前田慶次郎と鬼麿と松永誠一郎を入れ替えてしまっても、まるで違和感がない。うーん、世良田二郎三郎は、ちょっと違うかな。
 それに比べると、司馬遼太郎の主人公は入れ替えがきかない。別に人物造形がより深いわけではない。司馬小説はテーマ小説だから、主人公もそのテーマに沿った、いわば、「テーマ別機関説的ヒーロー」なのだ。だから坂本龍馬と土方歳三は交換がきかない。隆慶一郎は「普遍的神授説的ヒーロー」だから、主人公はいつも同じ理想的属性をそなえる。神に愛されたとしか言いようのない完璧超人。
 とはいっても実は、司馬と隆は、けっこう似ている部分もある。隆慶一郎は小林秀雄の弟子だったそうだ。完結した人生を高みから見下ろすのが好きだった小林秀雄の史観は、司馬遼太郎に通じるものがある。そのへんが、生きてのたうちまわってる人間が好きな坂口安吾に嫌われたところでもあるが。


5月27日(日)
 田口ランディ「忘れないよ!ベトナム」(幻冬舎文庫)をなんとか読み終えました。自分で自分を誉めてあげたい。
 第一印象通り、この本自体がひとつの長い人生相談でした。「インドで人生観変わったよ」と語る人の変形みたいなもんかな。癒し系というか和み系というか。この人の小説が売れている理由もわかります。私は読む気しないけど。
 ビル・プロンジーニ「凶悪」(講談社文庫)は、久々の「名無しのオプ」ものの翻訳。最初に新潮文庫で読んだころから、もう二十年以上が経過しているのですね。とうとう主人公とケリーが結婚してるし。
 芸風も初期の地味な展開から、ドンパチ出しまくりの派手な展開になっています。初期の方が好きだったんだけどなあ。初期のころは、たいがい末尾で犯人が死体を前に放心していて、「あたしがやったのよ」などと呟いたりして、それが何とも風情がありました。それが今では、レイプしまくりされまくり、近親相姦尊属殺人なんでもありだもんなあ。なんでもこの後の作品では、親友のエバハートが自殺するそうだ。主人公とケリーが幸せならいいのかよ、と言いたくなります。

 最近の大相撲はなんかプロレス化しつつありますね。今日の優勝決定戦なんか、もろ猪木対アンドレのたたずまいでした。怪我してる方が勝つ、というプロレスの法則を忠実に守ってるし。朝青龍とか琴光喜はタイガーマスクの役どころかな。ダラ大関連中は坂口とか木村健吾ですね。

 プロレスといえば、大阪プロレスではタイガースマスクを登場させたらしい。いや、タイガーマスクでなくタイガースマスク。縦縞コスチュームで阪神帽とハッピ、背番号は31。あきれかえるほど弱いらしい。そこまで似せてどうする。私の推理では、次にユニバーサルマスクが登場すると思います。


5月26日(土)
 人生相談といえば、漫才ブームのころ、上方のお笑いの人が大挙して深夜放送やってました。1時から3時まで、やってました。オールナイト一部、パックインミュージックの時間です。それでなぜか、みんな2時30分になると人生相談の時間になるのです。鶴光もつるべも紳助ものりおも、みんなやってました。なんかイヤでした。紳助なんか、しまいにゃ1時から3時まで人生相談やってました。自分のこと「兄ィ」と呼ばせてました。それを毎週聞いている自分もイヤでした。私の知る限り、深夜放送で人生相談をやったことのない上方のお笑いの人は、坂田利夫だけです。間寛平はなんかやりそうで怖いです。アホの坂田えらい。


5月25日(金)
 田口ランディ「忘れないよ!ベトナム」(幻冬舎文庫)を買ったのだが、一ページ目で挫折。
 ちょっと前に語尾がどうのこうのという話があったのだが、わたし、女性で「……なんだよ」「……だね」「……でさ」という書き口のひと、駄目なんです。すっごい押しつけがましさと馴れ馴れしさを感じて、生理的に駄目なんです。
 昔の深夜放送にもよくいたよね(<やめろ)、そーゆーの。バービーボーイズの杏子さん(漢字、合ってる?)みたいな。なんかやたらに人生相談とかしそうで、リスナーに「アネゴ」とか呼ばれていたりして。ううう。


5月24日(木)
 ひょんなきっかけからベトナムに行きそうな。
 もともとベトナムに在住していた知人がいて、それが旅行を計画しているそうなので、よければひとくち乗せてもらおうと声をかけていたのだ。ま、おととしのタイだって、最初はベトナムに行くつもりだったし。
 経験者と一緒だとなにかと便利だね。ぼったくりの被害も少ないし、道に迷うことも少ないし、どこにあるのか分からないホテルに放り込まれることもないし、カツアゲも食らわないし、すげー治安の悪い土地でふるえながらホテルから一歩も出ず衛星放送でクレヨンしんちゃんを見続けることもないし。しかしオレは、一体どんな旅をしてきたんだ。
 いやまあ、現地に詳しい人は便利です。市場とか案内してくれるし。ホビロンという、孵化直前の有精卵のゆで卵も食わせてくれるし。犬も食わせてくれるそうだし。なんでもハロン湾には、伊勢海老のようなシャコがいるそうだし。
 それにあなた、なんかこの旅行では、サパというハノイのさらに北の町に行くそうです。少数民族トレッキングツアーだそうですが、なによりかにより、サパには、「ラブ・マーケット」というものがあるんだそうですよ奥さん。ラブ・マーケットですよ。ラブですラブ。淫靡だよなあ。男が意中の女性に歌を贈る集まりだそうですが、要するにむかしの日本の「相聞歌」みたいなもんでしょう。うはうは。やっちゃいますよ。「野守は見ずや君が袖振る」とか詠めばいいんでしょう。わはは。ベトコン美人ゲッチューだ。アオザイだといいな。いやいや、少数民族衣装もいいぞ。黒モン族とかいう、花ゆめのキャラのような少数民族もいるそうだし。うけけけけ。


5月23日(水)
 昨日の日記に関して、「いや、マジで広田さくらは女子プロ最強です」とのメールが来ました。なんでも、ガイアの練習ではグラウンドで広田にかなう選手がいないとか。千種もメイメイも子供扱いだとか。
 ううむ、こういう、「意外な選手最強説」というのは、どこのプロレス団体にもありますね。「日本プロレスでは吉原にかなう者なし(これは普通か?)」とか、「全日の大熊元司はセメント最強」とか、「新日の星野勘太郎は道場殴り込みのボクサー・空手家数百人の腕を折った」とか、「実はスペシャルマン&カナディアンマンが最強超人」とか。
 今のプロレスではどうかなあ。新日では、そういう地味に強い選手は、藤田とか安田とか、みんな飛び出てるからなあ、ウラ強豪選手がいなくなっているかも。ノアだったら、志賀が最強だと楽しいんだが。じつは秋山も森嶋も、志賀に頭を下げて勝たしてもらってるとか。でもやっぱり、佐野とか斉藤とかが最強なのかなあ。


5月22日(火)
 日曜深夜、というか月曜早朝といったほうがいい時間帯に、女子プロレスのTV放送をひさしぶりに見たのですが。
 誰か教えてください。豊田真奈美は、なんであんなに太っちゃったんですか? フリーになって給料あがり過ぎたんですか? 逆に金がなくて、ハンバーガーばっか食ってますか? 試合数激減でヒマを持て余していますか?
 メインのデスマッチはどーでもいいや。フットスタンプしかできない伊藤薫と、「健介ウーマン」と言われるくらいつまんない試合内容の堀田裕美子の試合だ、デスマッチにでもしなけりゃ盛りあがらんだろう。
 やっぱり女子プロの将来は、広田さくらが背負っている(笑)。


5月20日(日)
 そうか、そうだったのか。
 先日飲みに行ったあと、先輩のN間口さんのお宅に泊めてもらった。氏の新居は信濃町の駅前にある。翌日、昼飯を食いに出たら、なんかゴージャスで悪趣味なビルが、でーんと建っている。その屋上にはフランスでもイタリアでもない三色旗が。
「あれ、創価学会の婦人部のビルなんだよ」
 とのこと。その向かいには、やはりゴージャスで悪趣味なビルが。
「あれは創価学会の青年部のビルだ」
 やれやれ。さらにその隣には、さらに悪趣味なビル。
「あれは慶応病院」
 そうでしたか。
「いや、このへんは創価の人ばっかりでな、そのせいか近所にロクな食い物屋がないんだ。おばちゃん連中がエビフライを食ってるような、まずくて高い店ばっか」
「創価の人って、食い物にこだわらないんですかね」
「粗食なんじゃねえの? 学会員のタレントやスポーツ選手はいるけど、料理人は聞いたことないもんな。おまけにこの奥に大先生の邸宅があってな、夜なんか酔っぱらってふらついてると、電柱の陰とか庭の中から、じろじろ睨まれるんだよ。バットなんか持ち歩いたらもうえらい騒ぎ。おかげでこのへんじゃ、痴漢や暴走族は皆無だけどな」
 けっきょく駅前でソバを食ってN間口さんと別れました。本を買おうとおもって、駅前の書店に入ったら。
 いきなり店頭のワゴンには「まんが人間革命79巻」とか、「池田大作 人生のことば」とかてんこ盛り。なぜか一緒に、サッカー選手のロベルト・バッジオの自伝やビデオもあって、一瞬不思議に思ったのですが、そういやバッジオは学会員でした。
 地下に「おみやげ、仏具」のコーナーがあったので、これはもしかして、と行ってみたら、予想通り創価グッズ総ざらえ。N間口さん、こんな面白い店があるなんて、もっと早く教えてくれればいいじゃないか。
 とりあえず購入したのがこれ。三色旗、携帯ストラップ、完勝スローガンの貼り紙、学会必勝はちまき、オマケでもらったスローガンの卓上飾り。
 ストラップを携帯につけてみたのがこれ。これできみも今日からモテモテさっ。ちなみにノムさんは学会員ではありません。それはアンチノムが流した悪質なデマです。
 ところでこの旗をバルコニーに立ててみたのはいいのですが、それからやたらと宗教の勧誘の方がこられるようになったのには閉口しました。なんとかならんだろうか。


5月18日(金)
 偶然見つけたのだが、「あて字辞典」ってサイトが面白い。歌謡曲の中で使われた、本来の読みと違う漢字を収集・分類したページ。いちばん多く使われているのが「時間」と書いて「とき」と読ませるやつだとか、一番多用しているのがアルフィーの高見沢だとか、なかなか勉強になる。為にはならないが。
 この手のあて字を多用していた歌手というと、昔ならさだまさし、という印象があるのだが、ここではさだまさしは未調査らしくまったく載っていない。高見沢以上という可能性もあるな。
 まあ、「時間」が「とき」だとか、「理由」が「わけ」ってのはわからないでもないが、「生命」と書いて「メロディ」と読ませたり、「仕組み」と書いて「もの」と読ませるのは、ちょっと無理なんじゃないかい、GLAYさんや。でも最大にぶったまげたのは、サザンの「01MESSENGER〜電子狂の詩」です。「進化く」と書いて「さばく」ってのは何なんだ。イワシからサバへ進化したとでもいうのか。わけわからなすぎ。RAMARの「Wild Flowers」もスゴいぞ。「20世紀」も「21世紀」も「歴史」もぜんぶ「とき」だ。教科書で「20世紀から21世紀への歴史」とかあったらどうするんだ。きしゃのきしゃはきしゃできしゃできしや。


5月16日(水)
 MIUの深海生物ボトルキャップキャンペーンは終了したらしく、コンビニでもオマケつきのMIUを見かけなくなった。まだミツクリザメとホウライエソが残っているのに。
 「仕方ないから田舎のオモチャ屋でもめぐって売れ残りを探すか」などとよその掲示板に書き込んでいたら、なんと近所の薬屋で売れ残りを発見。しもうた。うちは田舎じゃったか。
 ということで売れ残りを二本入手したのだが、コウモリダコとセンジュナマコで、どちらも重複。いちばん造形の悪いコウモリダコが四つも溜まってしまった。どーすんだよ。オニキンメも三つ、センジュナマコも三つ(蓄光バージョン含)溜まっちまったし。だれか交換しませんか。


5月15日(火)
 ときどき夢の中で小説を書いていることがあるというか、夢の情景を文章化しながら見ていることがあるのだが。たいがい夢の中ではとんでもない傑作で、「これを忘れちゃならない。これをそのまま書いたら直木賞間違いなし!」とか勢いこんで目覚めて、あらためて夢を思い返すと「馬の耳くそはでかい」というフレーズだけだったりして、がっかりすることがたびたびなのだが。今日のはとくにひどかった。
 いつものようにすらすらと文章化された夢を見て、寝ながら「おお、これはもう出来上がってるじゃないか。カンペキな小説ばい!」などと喜んで、忘れないうちに目覚めよう、とがんばって起きたのですが。
 よく思い出してみると、女の子が五人揃って、「悪は許さない! わたしたち、セーラー戦隊!」などと叫んでいる話で、女の子が変身してメカボディになったりして、もうあとのストーリーは書くもがなでしょう。
 これ、完璧に「セーラーファイター」のパクリだよなあ。書くにことかいて、三流特撮のパクリをやるようになったら、人生もどん詰まりだよなあ。と、朝早くからしみじみと自己嫌悪にむせぶのでした。


5月14日(月)
 今のオートレースのCM(藤岡弘に部下の女の子が告白するやつね)は、なんだかやたらにタイミング外れまくり。会話もなんか妙すぎ。女の子の演技もヘン。ちゃんと作るつもりでこれだったら、相当ヘタクソだが……たぶん意図的にズラしてるんだろうな。なぜそんなことしているのかは不明だが。
 それはともかく、テレビ埼玉、そればっか流しすぎ。野球のイニングの切れ目で、必ず一回流れる。たのむよ。覚えちゃったじゃないか。ああ、また流れた。


5月13日(日)
 日記読み日記から火がついて、掲示板にまで波及したので、恥ずかしながら文体論をまた。
 kazu-pさんが投稿されているというので、2ちゃんねるの「文章虎の穴」を覗いてみたのだが、なんともはや。kazu-pさんのでない、別な人の文章の批評で、「改行が多すぎる」というのがあったのだ。それが、私の駄文よりも改行は少なかったのだ。
 いまの若い人は、こんなにも改行を嫌っているのか。これなら、テキスト庵が「改行のない段落文体」を推奨しているのもわかる。
 しかし私は、数行にわたってみっちり文字で埋まっていると、なんか暴力的な感じがして、どうも嫌なのだ。かといって、段落と改行は、明らかに意味が違うのだ。だからちょっと困ってしまうのだ。
 私が改行が多いのは、あきらかに手本とした司馬遼太郎や東海林さだおの改行の多さに引きずられたせいなのだが。テキスト庵に今まで登録しなかったのも、「段落文体」にこだわりがあったからなのだな。

 朝日新聞の日曜版で、韓国で犬を食べた話が載っているのだが、なんか不愉快。「最悪の旅」とか、「ふと魔がさして」とか、「食べてはならない」とか、「人間の横暴」とか、ネガティブなキーワードばかり並んでいるのだ。
 そもそも犬は家畜であって、家畜を食うのには何の問題もない。牛や豚や羊と同じだ(動物を食うこと自体問題だという論者もあるが、その話はこの際除外)。犬や猫を食うことを野蛮なように言うのは、アングロサクソン系の馬鹿野郎だけである。自分はアジア人をさんざん食い物にしたくせに。
 そういえば昔、本多勝一が「カナダ・エスキモー」のルポを朝日新聞で連載したとき、エスキモーが犬を虐待するくだりを大幅にカットされた事件があった。なんでも当時の社主だか編集長だかの夫人が愛犬家(偏狭な意味で)で、このような犬に残酷な記事はまかりならぬ、と禁じたそうな。当時、アジア人に残酷な北爆の記事は載っていたのに。朝日の体質はあれからまったく変わっていないのだろうか。<なんかえらそう
 私は残念ながら、まだ犬を食ったことはない。ぜひとも食ってみたいと思っているのだが。しかし記事の後ろにあった乾燥ムカデ、あれもうまそうだな。


5月12日(土)
 煙草はおいしい。
 煙草のほとんどは税金である。
 ビールはおいしい。
 ビールもほとんどが税金である。
 発泡酒の税率は、ビールほどではない。
 発泡酒よりビールの方がおいしい。

 結論、税金はおいしい。

(アサヒの発泡酒は、うまくはないが凄いです。なんか、「スーパードライより味の濃いものを作ったら発泡酒の沽券にかかわる!」とばかりにアサヒ技術陣が総力を結集した感じです。もっと別なところに結集してほしかったなあ)


5月11日(金)
 へろへろ。
 大阪在住のうねうねさんが東京に来られているというので、迎撃して飲み会しました。いちおう私が幹事ということなので、最初は酒もセーブして酔いすぎないように注意していたのですが、次第にどうでもよくなってきて、全員揃ったころにはすでに投げやりの飲んだくれ。しかしよく飲んだな。六時から店に入って、十一時半の閉店までトグロを巻いていました。
 初対面の女性と二回目にお会いする女性がいらしておりまして、これがどちらも好対照なくらい天然。なんというのか、アッパー系の天然とダウナー系の天然が並んでいる風景でありまして、なんだか無性に楽しかったです。
 楽しすぎて、時間のたつのを忘れてしまい、気がついたら深夜の一時。しもうた、天然はこっちだったか。
 とりあえず帰れる人は帰り、うねうねさんは新宿のホテルに。帰れない人はカプセルホテルへ入り、私は漫画喫茶へ。「コンデ・コマ」を読破しました。あの漫画だと、ハッケンシュミットがチキン野郎でゴッチが強いような書き方ですが、プロレス研究者によると、むしろハッケンシュミットの方が強かったそうな。ゴッチは、アメリカの資本家のバックによる金力と、汚い手口(全身に油を塗り、ハッケンシュミットが掴めないようにした)で勝利すると、あとはハッケンシュミットのリベンジ要求を拒否し続けたそうです。
 漫画喫茶で始発まで時間を潰し、吉野家で二百七十円の牛丼を食い、家に帰っていままで寝ていました。ただれたせいかつ。


5月8日(火)
 なんとも恥ずかしい限りなのである。
 町田康「夫婦茶碗」(新潮文庫)を読む。町田康を読むのは初めてだ。そう、恥ずかしいんだけど、初めてなんです。そして凄かったんです。宇能鴻一郎かおのれは。
 こんな面白い小説があるなんて、教えてくれればいいじゃないか。そう駄々をこねようとしたのだが、考えてみればWebでも雑誌でも町田康は盛んに紹介されておる。そして賞賛されている。教わってはいたのだが、それを活かさなかったのは私だったのだ。
 おまけに恥ずかしいことがある。むかし、雑文の大家にお会いしたとき、こう言ったことを今でも覚えている。
「雑文の調子で、どんどんどんどん続けて、小説にしちゃえばいいかもしれないんですよね」
 馬鹿。それこそ町田康そのものではないか。無知をさらけ出してどうする。さらに、私のこの言を聞いた雑文大家は、なんだか微妙な表情で、こう言ったことさえ覚えている。
「いや、そうはいかんだろ」
 あのとき、私はこの否定の言は、文学的可能性を示しているものだとばかり思っていた。そして件の雑文大家の消極的態度に失望さえ感じたのである。違いました。大家が言ったのは、町田がもういる、という生態学的ニッチを示しているものだったのだ。ああ、そういえばあのときの大家の表情がいまになって如実に思い出される。あれは、確かに嘲笑と軽蔑と困惑と憐憫が混じり合った表情だった。なんて恥ずかしいことを言ってしまったのだ。俺は俺は俺は俺は。
 ここまで恥をかいたのだからついでに恥をかいてしまうが、私は現代日本文学についてはまったく知らない。柳美里も乃南アサも山田詠美も読んでない。彼女らが最近の小説なのかどうかも知らないくらいだ。現代世界文学についてもさらに知らない。「まったく」よりも「さらに」知らない、という状況が存在すれば、だが。そういえば、「チーズはどこへ消えた?」の便乗本「バターはどこへ溶けた?」がベストセラーだそうですね。パクリって儲かるんだな。こうなったら三匹目の泥鰌本、「ミルクはどこに行った?」を出しましょう。へなちょこ人生訓本と思わせておいて、実は雪印大阪工場潜入ルポ。話がそれた。
 だから私の本棚にあるのは非現代文学ばっかりである。内田百間、太宰治、坂口安吾、横溝正史、司馬遼太郎、吉行淳之介、星新一、ディケンズ、トゥェイン、モンゴメリ、みんな死んでおる。死体安置所のようなものだ。その中でわずかに、小林信彦、東海林さだおなどが「生きててすみません」というように小さくなっている。
 そういえばノンフィクションの棚には、「ナチス狂気の内幕」「ムッソリーニを逮捕せよ」「スターリン・ジョーク」「生き残った帝国ビザンティン」「古代エジプト」「渤海国の謎」「琉球王国」「北朝鮮の最高機密」などなど、どれもこれも死んだか死にかけた国の本ばかりである。
 ひょっとしたら、死体フェチなのかもしれない。


5月7日(月)
 北朝鮮関係の本を読んでいて思うのだが、朝鮮半島の人の姓名は読みやすいね。
 まず、姓の種類が少ない。なんでも、金「キム」、張「チョン」、李「リ」、朴「パク」の四種類で、朝鮮半島の八割以上を占めるそうだ。全部でも二百数十種しかないらしい。十万近いといわれる日本の姓に比べると、はるかに少ない。
 次に読みが一定している(らしい)。たとえば北朝鮮のあの一族でみると、初代が金日成で「キムイルソン」と読む。息子は金正日で「キムジョンイル」だから、ははあ、日は「イル」か、となる。そういえば日本も「イルポン」と呼んでいたな。さらに、孫は金正男で「キムジョンナム」。なるほど、正は「ジョン」なのだな。そういえば大木金太郎こと金一「キムイル」が連れてきたレスラーで、朴松男「パクスンナム」というのがいたから、男は「ナム」か。こういった具合で、一日くらいあれば、朝鮮半島の全姓名が読めるようになるような気がするのだ。
 日本ではこうはいかない。たぶん、姓名研究の権威、佐久間英氏でも、日本の姓名を全部読めるとは豪語できないのではないか。
 最初に書いたように姓の種類が多いうえ、読みが一定でない。漢音呉音訓読みに当て字が混在し、わけがわからない。たとえば小林が「こばやし」と読むのだと聞いて、ああ、小は「こ」か、と思うと、小沢は「おざわ」だったりする。小は「こ」か「お」なのだな、と思っていると、少林寺と書いて「しょうりんじ」と読ませたりする。武者小路と書いて「むしゃのこうじ」だったりする。小枝と書いて「さえ」だったりする。果ては小鳥遊と書いて「たかなし」だったりする。こうなると外国人は、小が「こ」なのか「お」なのか「しょう」なのか「こう」なのか「さ」なのか「た」なのか、わけがわからなくなってしまうのだ。
 ということで何が言いたいのかというと、ときどき私に「下条さんの名前を下條と書いてしまってごめんなさい」と謝られる方がおられるのですが、お気遣いなさらずに。どっちでもいいんです。私も使い分けてましたから。死喪状などと書かれると、さすがにいい気はしませんが。
 細かいことを言うと条の字にも異字体があって、下半分が木の場合とホの場合があり、私の下条はホの条らしいのだ。だからといって、そんな字はふつう使えないしねえ。ハンコだって全部木になってるし。


5月6日(日)
 また尻馬に乗ってしまいました。それにしてもありがちなオチでごめんなさい、ぽいう様、くろ様。

 今日の戦果。センジュナマコ(蓄光バージョン)、ザラピクニン、オニキンメ。センジュナマコは蓄光バージョンと本物が見分けにくい。あとはホウライエソとミツクリザメなのだが。それにしてもオニキンメ(2個)、コウモリダコ(2個)のダブリが痛い。
 なんとなくありそうな次期シリーズへの希望。メガマウス。チューブワーム。ミツマタヤリウオ(稚魚)。ボウエンギョ。ハダカイワシ。ギンザメ。オオグソクムシ。タカアシガニ。シンカイコシオリエビ。海洋堂は軟体動物より節足動物のような硬質のムシが得意そうだ。全身蓄光バージョンでなく、発光器蓄光バージョンを望みたい。


5月5日(土)
 いやあ、いい味だしてるな北朝鮮。
 金正男の偽造パスポートでひと笑い。あの顔でもう一度笑わせてくれて、「ディズニーランドに行きたかった」で大爆笑。ツカミは完璧。おまけに素晴らしいのは朝鮮総連。「そのような事実はない」というコメントでどっと笑いをとる。うーん、素晴らしい。「世界最後の秘境」「アジアの魔窟」という異名に恥じないよ北朝鮮。
 笑うだけ笑わせておいて、森山真弓の「そのような人物の入国は確認しておりません」発言で、おいおい、日本も北朝鮮と同じやんけ、とコケさせる手腕も見事。大爆笑させておいて、最後に苦いものが残るという、まさに風刺の見本。ああ、こんな素晴らしいものが書けるようになりたい。


5月4日(金)
 NHKの大リーグ中継を見たのだが不愉快だった。
 BSでなく地上波での放送なのだが、なぜか森口博子をゲストにしている。森口の罪ではない。あれはああいう馬鹿なふるまいしかできないのだから。ゲストに呼んだ放送局が悪い。それにしても、嵐とかミニモニ。ならともかく、森口程度のゲストでは、ファンを視聴させる力もなく、野球を見たいと思っている人間を怒らせ、マイナス材料でしかないと思うのだが。一種の論功行賞かもしれない。おまけに試合の途中で糞つまらんドラマを流してやがる。そういうことをやるのなら、野球は中継するな。せめて教育テレビでリレーせよ。スポーツ中継は完全放映するのが当然で、それができない局は中継する資格がない。野球中継を途中でぶった切るような悪行の報いはてきめんで、イチローの打席になったところで中継が切れた。これでNHKに抗議の電話が殺到したかと思うと、嬉しくなってくる。

 買い溜めていた本を片づける。
 「メグレ警視の事件簿」全3巻(シムノン、偕成社)は、メグレファンにはうれしい短編集。子供向きのシリーズとはいえ、漢字にふりがなが振ってある以外には、まったくリライトしていないと思う。そのあまりにシュートな編集方針は嬉しいのだが、不安も感じる。はたして小学生がこのような本を読んで、楽しめるのだろうか? 金田一やルパンほどの派手さもなく、ホームズやブラウンのような意外なトリックもないメグレを。メグレ警視のキャラクターは地味で、しかも推理の冴えよりも地道に犯人の思考を追うことによって事件を解決し、その犯罪の多くは人間関係のもつれからくるもの。こういう物語を十歳の少年少女が楽しめたら、そっちのほうが変ではないのか? という気がしてならない。

 「魂のラリアット」(スタン・ハンセン、双葉社)はハンセン引退記念出版。本を書いたあとで、鶴田の死去、全日の分裂とやたらに追記があるのはご愛敬。プロモーターや同僚に歯に絹着せぬ評価を下しているのが面白い。ビル・ワットは嫉妬深くて冷酷なプロモーター、ディック・マードックはそのワットにゴマをするチキン野郎、ブルーザー・ブロディは若いころの過酷な経験から人間不信になってしまった、などなど。サンマルチノとの試合ではショック死が六人出た、などというあやしげな記述もあるが。

 「火星の人類学者」(オリヴァー・サックス、ハヤカワ文庫)は同著者の前著「サックス博士の片頭痛大全」に続いて、おおいに不安をかき立ててくれる。七人の精神疾患を抱く患者の症例を追いながら、疾患とその克服について書いているのだが、その症例がいかにも身近なものに感じさせてくれる、著者の筆力はまたも冴えている。
 さすがに大脳性色盲の症状が自分に当てはまるとまでは信じていないが、たとえばトゥーレット症候群。身体の痙攣と罵り言葉や汚い言葉を吐く症状は、古来から「悪魔つき」としておそれられた。まさかこんな症状が自分に当てはまるとは思ってもみなかったが、たとえばチックの症状。痙攣するほどではなくても、たとえば瞼がぴくぴくしたり、ある種の行動をしないではいられない、というのもチックなのだそうだ。瞼や顔面が時折痙攣することはあるし、たとえば眼鏡がずり落ちるのが我慢できず、始終指で眼鏡を上げているし、たとえば阪神が守っているときは腕を組んでいれば点を取られないと信じている(もちろん、この法則はしばしば破れるが、信念は変わらない。これも強迫神経症のひとつの特徴)。また行動だけでなく、ある耳新しい言葉に敏感に反応し、その言葉を意味もなく繰り返すという症状もあるらしい。あたかも、私が「シクシクシク」と意味もなく繰り返すように。
 トゥーレット症候群とは、抑圧を抑圧しきれないため、言動にそれが噴出する、そんな症状であるらしい。私が車の運転を長いことしていないのは、技術の低下もあるが、運転中に、マナーの悪い対向車やバイクに体当たりしてやりたい衝動をしばしば感じ、その衝動をいつか抑えきれなくなるのではないかと心配したからである(気に食わぬ人間や車に体当たりする夢は、今でもよく見る)。ひょっとしたらトゥーレットかもしれない。
 さらに不安なのは、「最後のヒッピー」に登場する、一種のロボトミーされた青年の症状である。彼は記憶を定着することができない。だからつねに「現在」しか存在しない。そのため、つねにやや鈍い微笑を浮かべ、心労というものがないので快活である。それはともかくとして、私を最大の不安に陥れたのは、次のような文章である。
「彼には現実感、覇気、人格の深みがなく、軽薄で冗談好きである。節度、思慮深さ、抑制が破壊されているため、患者は自分自身にも周囲にも、当意即妙に軽薄な反応をする。この症状の患者はとくに、だじゃれや語呂合わせを連発する。重大なこと、ささいなこと、崇高なこと、ばかばかしいこと、すべてをいっしょくたにして、短絡的で無思慮な反応をしめすのみだった」
 ……嗚呼。
 自閉症の動物学者を書いた表題作は、司馬遼太郎書くところの村田蔵六を連想させる。ひとの感情や心理を思いやることのできない人物。挨拶やお世辞が言えない人物。すべてが整然としたシステムの中で合理的に動いていると信じて疑わず、嫉妬や悪意から嘘をついたり騙したりする人物が存在することを信じられない人物。村田蔵六ならまさに、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」や「マクベス」を見たあとでこう言っただろう。
「彼らが死んだのは当たり前です。ああなることはわかっていた」


5月3日(木)
 きょうの戦果。センジュナマコ。蓄光かと思って喜んだのだが、そういう塗装でした。


5月2日(水)
 深海生物フィギュア、ほんとうに発光するやつがある、との情報を教えていただきました。ほんとうに作るやつがいるかっ。嘘から出た真じゃないかっ。海洋堂の連中はおいらと同程度の脳味噌かいっ。嘘のつき甲斐がないじゃないかっ。シクシクシク。

 というわけで、またぞろMIUの買い出しへ。
 薬局へ行く途中のセブンイレブンに寄ってみると、500ミリリットルの小型ペットボトルに、オマケがついているではありませんか! しかし、値段が140円。1.5リットルで168円と、0.5リットルで140円。ううむ。
 俺は液体のほうには興味ないのだ、むしろ邪魔なのだ、分量3倍で値段が1.2倍だろうが、それは決してお得ではないのだ、とみずからを叱咤激励しながら、4本購入。
 しかしついにお買い得精神に負け、薬局にも行く。1.5リットルを2本購入。そして、下痢防止に征露丸も購入。
 きょうの戦果。オウムガイ。チョウチンアンコウ。フクロウナギ(蓄光バージョン)。コウモリダコ*2。オニキンメ。ダブってしまった。オウムガイのような硬質なものの造形は、さすがにいい。


5月1日(火)
 きのうの深海生物フィギュアなんだけど、できが悪いと思っていたコウモリダコに意外な能力があることを発見。
 なんと、コウモリダコの発光器は、暗闇でちゃんと光るのだ。律儀に発光塗料を塗っているのだな。きっとチョウチンアンコウも、そうなのだろう。なかなか凝ったことをやる。さすが海洋堂。

 ……という話を読んで、フィギュアを暗闇に持ってった人、さあ手を挙げなさい。


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