傀儡と呼ばないで

 ちょっと歴史に興味がある人なら、「家康、秀忠、家光、家綱……」と徳川15代将軍を暗唱できるかもしれない。もうちょっと興味がある人なら、「尊氏、義詮、義満、義持……」と足利16代15人将軍も暗唱できるかもしれない。しかし鎌倉将軍を暗唱できる人は少ないのではないか。たぶん聞いてみても、
「頼朝、頼家、実朝、あとお飾りのちびっ子将軍だっけ?」
 ということになるんじゃないかと思う。まあ、おおむねそれで合っている。「お飾り」「ちびっ子」という言葉に、それぞれちょっとだけ異論があるにせよ。
 なにしろ実朝のあとの鎌倉幕府の将軍ときたら、文豪司馬遼太郎でさえ、
 ―征夷大将軍は源氏の出の者にしか授けられない―
 などと、かつて存在した事実すら抹殺するかのごとき文章を書いているくらいなのだ。
 今回はそんなかわいそうな将軍たちを紹介してみましょう。

残念賞としての摂家将軍

鎌倉4代将軍・藤原頼経:将軍在位1226(9歳)〜1244(27歳)
鎌倉5代将軍・藤原頼嗣:将軍在位1244(6歳)〜1252(14歳)

 鎌倉幕府3代目の征夷大将軍、源実朝には子供がいなかった。
 そのため最初は2代将軍・頼家の息子、善哉を猶子として跡継ぎに考えていた。猶子とは養子よりも軽い親子縁組で、財産や家の相続をともなわない養子みたいなものだ。この場合、北条氏に殺された2代将軍の息子だといろいろさしさわりがあるため、3代将軍の息子ということにして箔を付けようとしたわけだ。系図ロンダリングとでもいうべきか。
 ところが頼家の息子をかつぎあげて北条氏を打倒しようという、和田一族などの陰謀があったため、善哉は出家させられて跡継ぎから外された。法名を公暁という。のちに実朝を暗殺する実行犯である。
 なまじ関東出身で近親者だと、政治的陰謀にまきこまれやすいと考えた北条政子は、京に上洛し、朝廷からの養子下向を奏請した。後鳥羽上皇の乳母である卿二位兼子は、このとき上皇の皇子、六条宮雅成親王か冷泉宮頼仁親王を下向させる密約を政子とかわしたという。
 ところが実朝が暗殺されると、後鳥羽上皇は態度を硬化させる。おそらく幕府はまもなく倒せるという読みからだろう。鎌倉幕府からの二度の奏請にもかかわらず、親王下向を拒否したのだ。

 やむなく鎌倉幕府は、源氏にゆかりの貴族から将軍候補者を選ぶことにした。こうして選ばれたのが、左大臣九条道家の息子、三寅である。
 三寅の母親は西園寺公経の娘倫子。倫子は鎌倉初代将軍、源頼朝の妹の孫にあたる。
 このかぼそい血のつながりだけでは征夷大将軍としての説得力に欠けると考えたのだろう、幕府は三寅を源氏とより強い絆で結びつけようとする。
 まず三寅の後見人に北条政子が立った。政子は実朝亡きあと、将軍家御台所として、将軍家の行事いっさいを取りしきっていた。実質の第4代将軍である。
 さらに三寅が元服し、藤原頼経と名乗って9歳で征夷大将軍になると、2代将軍頼家の娘で3代将軍実朝の猶子になっていた竹御所と結婚する。竹御所は血筋も源氏嫡流ど真ん中であり、北条政子亡き後は将軍家御台所の地位を引き継ぐ。結婚時の年齢は竹御所28、頼経13。姉さん女房というより母さん女房と言った方がいいくらいの年の差だが、頼経を源氏に婿入りさせるためには、どうしてもこの婚姻が必要だったのだろう。

 こうして藤原頼経は晴れて源氏の長者として名実ともに征夷大将軍となり、将軍家の行事をとりしきる身分となった。
 将軍家の行事として大事なのは、正月に御家人たちの年賀を受け、主従の誓いをあらためて交わすこと、流鏑馬や巻狩など武事を主催すること、朝廷の使者を引見すること、頼朝以下将軍家累代の菩提をとむらうこと、源氏長者として鶴岡八幡宮などに参拝すること、等々である。
 つまりこの時代、政治は北条氏執権、統帥は源氏長者藤原頼経と、征夷大将軍の機能が二分化されたといってもいい。将軍が完全に傀儡になったわけではないのだ。
 将軍が傀儡でないことは、将軍がのち強制的にその地位を奪われることでも、逆説的に証明している。

 さて頼経の妻となった竹御所は、4年後に男児を身ごもるが、子供は死産、竹御所も死ぬ。このころから将軍頼経の身辺も、なにやらきな臭くなってくる。
 将軍・藤原頼経と執権・北条泰時の関係は良好だったが、泰時が死んで孫の経時、その弟の時頼が執権になると、将軍との仲がぎくしゃくしてきたらしい。個人的な好悪の情というより、執権権力が不安定になり、政権争いが激化したためと考えられる。
 寛元2年(1244)、息子の頼嗣が6歳で元服すると、即日征夷大将軍宣下。鎌倉5代将軍・藤原頼嗣である。
 これが将軍頼経の意思か、執権経時の強制なのかはよくわからないが、まだこのときは平穏だった。前将軍頼経は「大殿」と呼ばれて将軍頼嗣の後見となり、むしろ将軍在位時より自由にふるまうことができた。
 しかしその2年後、執権経時が死に、弟の時頼が執権となると、兵乱が起こる。
 寛元4年(1246)5月には北条(名越)光時のクーデター未遂が発覚し、光時は伊豆へ流罪、弟の時幸は自害する。このクーデターは前将軍頼経を奉じて執権時頼を討つもくろみだったらしい。
 このため同年7月には、前将軍・藤原頼経は京都に戻される。このときはまだ、頼経は担ぎ上げられようとしただけで、危険ではあるが本人に罪状はない。
 このとき、側近の三浦光村は別れを惜しんで涙したという。将軍と御家人の主従関係も18年、情が移るのも当然だろう。
 ところが翌年、三浦一族が北条一族に滅ぼされる宝治合戦が起きる。このとき三浦光村は、
「頼経様の時代、父君の九条道家が反北条のクーデターを企み、三浦一族を誘ってきたが、兄の三浦泰村が逡巡したため執権時頼を討つことができなかった。かえすがえすも残念である」
 と語った。
 さらに建長3年(1251)、了行法師、長久連、矢作左衛門尉らのクーデター計画が発覚。これに頼経の父の九条道家が噛んでいたことが発覚したため、すべては終わった。
 征夷大将軍・藤原頼嗣は廃され、京へ送還。その父親である元将軍・藤原頼経はじめ、その父方の九条一族は勅勘をこうむり、没落する。それに代わって朝廷の親鎌倉派として勃興するのが、元将軍頼経の母方、西園寺家である。
 のち勅勘は解けるが康元元年(1256)、頼経、頼嗣あいついで死去。
 頼経、頼嗣の死の直後、執権北条時頼は出家する。あるいは摂家将軍の没落に関して、みずからを責めることがあったのだろうか。

貴種・親王将軍

鎌倉6代将軍・宗尊親王:将軍在位1252(11歳)〜1266(25歳)
鎌倉7代将軍・惟康親王:将軍在位1266(3歳)〜1289(26歳)

 摂家将軍を反執権勢力の九条、三浦ともども厄介払いした北条氏は、いよいよ念願の親王下向を奏請する。
 これを拒否する力は、もはや朝廷にはない。さいわい後嵯峨上皇、その息子後深草天皇は、北条氏のおかげで即位できたような存在である。ふたつ返事で後嵯峨の長男、宗尊親王を下向させる。
 弟が後深草、亀山とあいついで即位したのに、長男の宗尊親王が即位できなかったのは、母親が蔵人木工頭・平棟基の娘という低い家柄の出身だったからだ。後深草、亀山の母は太政大臣・西園寺実氏の娘。勝負にならない。
 宗尊親王が鎌倉へ下向したのは建長4年(1252)。ときに宗尊親王11歳。鎌倉に迎えられて即日宣下を受け、鎌倉幕府第7代の征夷大将軍となる。

 3代将軍の実朝ほどではないとはいえ、宗尊親王も和歌には堪能だったらしい。歌集もいくつか残している。
 もっともその歌は、

見ずしらぬさきの世までもつらき哉と 物思ふ身と生まれけむ
なげきわび物思ふ比は郭公 わがためにのみなくかとぞ聞く
今もよはややすく捨てむ年ふとも 身の思出のあらしとおもへば

 などと、あまり威勢のいいものではない。
 それでも鎌倉の政情は安定し、文応元年(1260)には前執権・北条時頼の猶子、宰子と結婚。その4年後には長男の惟康王が誕生している。
 前執権・時頼が義父となり、自信もつけたのだろう。みずから政務を執ろうとする。鶴岡八幡参拝の式次第について時頼と宗尊の指示が異なり、御家人が困惑することもあった。

 ところが弘長3年(1263)に義父の北条時頼が死去、その翌年に執権・北条長時が死去したあたりから、身辺がきなくさくなってくる。新執権には北条政村、次期執権というべき連署には北条時宗がつく。このふたりは、宗尊将軍を警戒していた。
 文永3年(1266)6月、宗尊親王謀叛との噂が流れる。これは誰と誰が立ちあがるとかいう具体的な人名も計画もない、根拠薄弱なものだったらしい。
 しかし政村と時宗は敏速に反応する。金沢実時、安達泰盛らと密談し、月末には宗尊親王の征夷大将軍を廃し、7月4日には宗尊親王を京都へ送還する。
 宗尊親王追放の日、鎌倉では名越教時が勝手に兵十数騎を集め、抗議のデモを行った。名越教時はその6年後、兄の時章、北条時輔とともに討たれる。いわゆる二月騒動である。
 京へ送り返された元将軍・宗尊親王は痛憤し、

帰りきてまた見んことも固瀬川 濁れる水のすまぬ世なれば
虎とのみもちいられしは昔にて 今はねずみのあなうよの中

 と詠った。

 このへんの内紛から将軍廃立への流れは、前の摂家将軍の最後をコピペしたかのような有様だが、北条氏が実際にコピペのような行動をするのでいたしかたない。
 外戚が出てくる→殺す→御家人が出てくる→殺す→傍流が出てくる→殺す→家臣が出過ぎる→殺す→外戚が出てくる→殺す(以下ループ)というコピペ的権力闘争に終始したのが北条執権得宗家の歴史で、あまりのコピペに飽きられ、滅亡した。しかしそれはまだ先の話である。

 時頼・政村が第7代将軍に就けたのは、宗尊親王の嫡子、惟康王だった。文永3年(1266)7月、あわただしく従四位下・征夷大将軍の宣下をうけたときまだ3歳。征夷大将軍の最年少記録である。記録といえば、元服前の幼児が将軍になるのも王号をもらうのも史上初である。
 文永7年(1270)、7歳でようやく元服。このとき臣籍降下し、源朝臣の性を賜る。これは鎌倉の奏請によるものなのか、朝廷の意向なのか、よくわからない。
 源惟康となったことで、惟康王が鎌倉将軍家に養子入りしたと誤解されることがよくあるが、これは違う。臣籍降下した元皇族に賜る源姓は、「その血筋の源は天皇である」という程度の意味。鎌倉将軍家は清和源氏、惟康は後嵯峨源氏と、はっきり出自と血筋が異なる。

 政村に代わって執権となった北条時宗のもとで、征夷大将軍源惟康の地位は、しばらく安泰だった。
 というのもいわゆる元寇、文永の役と弘安の役が起こり、将軍どころの騒ぎではなかったからである。
 おそらくこのころに結婚したはずで、娘が生まれているが、妻の名も娘の名もよくわからない。

 ようやく元寇が落ち着き、心労のため衰弱した執権時宗が死に、北条貞時が次の執権に就いたあたりから、将軍の地位も怪しくなってくる。
 それはいつものように、反北条の政権抗争から始まった。
 最後の有力な反北条武力闘争といわれる、霜月騒動である。
 霜月騒動で討たれた主な御家人は、安達泰盛をはじめとする安達一族、そのほか小笠原、足利、伴野、伊東、武藤などの有力御家人である。
 これら御家人は、執権得宗の北条貞時に密着する内管領・平頼綱に対抗して、将軍惟康に親しかった。
 惟康もこのとき23歳。確証はないが、疑惑を生じさせるには充分な年齢である。

 そして弘安10年(1287)、将軍源惟康は、親王宣下をうけ、惟康親王となる。
 いちど臣籍に降下した人間が皇籍に復帰することは初めてではないが、きわめて稀である。
 かつては光孝天皇急病のため、その息子源定省が宇多天皇になり、その兄弟も皇籍復帰したことがある。これは時の関白・藤原基経の勢威をはばかって、光孝天皇が子息をすべて臣籍降下させてしまったという、異常事態が産んだ異常事態だった。
 むしろ惟康親王は、源兼明の例に近いか。兼明は左大臣だったので、藤原氏からすると邪魔な存在だった。かといって源高明のように陰謀をでっちあげる種もない。そのためむりやり皇籍に戻し、無力な皇族にして棚上げしたのである。

 案の定、2年後の弘安12年(1289)、惟康親王は征夷大将軍の位を奪われ、京都へ送還される。そのときの乗り物は粗末な張輿をむしろで包んだ代物で、しかもそれに逆向きに乗せられていたという。ほとんど犯罪人のような扱いである。世人は「親王は京へ流され給ふ」と言ったという。そのとき28歳。

 京では特にとがめられるようなこともなく、自由に行動できたらしい。惟康親王は嵯峨に隠棲し、出家する。
 晩年の慶事といえば娘が征夷大将軍・久明親王に嫁いで次の征夷大将軍・守邦親王を産んだことだろうか。
 いや、あるいはこの慶事も惟康親王には、鎌倉のどろどろした権力争いに子孫が巻きこまれる、凶事の予兆に見えたかもしれない。
 嘉暦元年(1326)、死去。享年63。

最後の将軍

鎌倉8代将軍・久明親王:将軍在位1289(14歳)〜1308(33歳)
鎌倉9代将軍・守邦親王:将軍在位1308(7歳)〜1333(32歳)

 惟康親王の征夷大将軍廃立には、鎌倉幕府の権力闘争だけではなく、朝廷内のお家騒動もからんでいた。
 いわゆる持明院統と大覚寺統の二朝並立である。
 惟康親王は姉が亀山天皇の後宮に入り、妹は後宇多天皇の妃になっている。どちらも大覚寺統の天皇である。
 対抗して持明院統は惟康将軍と対立する、執権・北条貞時、内管領・平頼綱に接近した。
 これが成功して、惟康親王に代わる8代将軍には、持明院統の後深草天皇の皇子、久明親王が就く。

 惟康親王が京都へ送還されるのと入れ違いに、久明親王は鎌倉へ下向する。
 正応2年(1289)、9月に惟康親王が送還。10月には久明王に親王宣下、元服、征夷大将軍宣下。10月末には鎌倉下向という、あわただしいスケジュールだった。ときに久明親王14歳。
 永仁3年(1295)には前将軍・惟康親王の娘を娶り、正安3年(1301)には息子の守邦親王が誕生する。

 しかしめでたいのもそこまで。あとはだんだんと身辺がきな臭くなってくる。
 正応6年(1293)、内管領・平頼綱が誅殺される。頼綱は久明親王の将軍就任の功労者。これで鎌倉における後ろ楯が薄くなった。
 正安3年(1301)、大覚寺統の後二条天皇が即位、同じく大覚寺統の後宇多上皇が院政をはじめる。これで京における後ろ楯も薄くなった。
 嘉元2年(1304)、父の後深草上皇が崩御。
 コ治元年(1306)、妻(惟康親王娘)が死去。

 櫛の歯を抜くように後ろ楯がいなくなった最後を飾るように、久明親王もあっさりと抜かれる。
 徳治3年(1309)、特に理由もなく征夷大将軍の位を奪われ、京都に送還される。強いて理由をつけるとしたら、33になってしまったその年齢だろうか。
 むしろ33になるまで将軍でいられたのは、後ろ楯も有力御家人の側近もいない、まったく無力だったからとも言える。

 久明親王に代わって徳治3年(1308)、鎌倉幕府第9代征夷大将軍に就任したのは、久明親王の息子、守邦親王である。
 これは久明親王よりもさらに無力だった。
 どのくらい無力かというと、嘉暦2年(1327)、頼朝ゆかりの三嶋大社への参詣を、将軍・守邦親王に代わって執権・北条高時が行った、というくらいに無力であった。
 そのとき守邦親王は26歳。病気でもない。
 征夷大将軍に残された、源氏長者として宗教儀礼を行う権利すら剥奪されてしまったのである。
 一般に摂家将軍や親王将軍に浴びせられる「傀儡」という悪口は、この親子に限っては妥当なものと思われる。

 しかしこのあまりの無力っぷりが、守邦親王の命を救ったと言えないこともない。
 鎌倉政権は終末を迎えようとしていた。
 正和5年(1316)には暗愚で有名な北条高時が執権に就任。
 文保2年(1318)には後醍醐天皇が即位。やがて後醍醐天皇は親政を始め、倒幕へのはかりごとをめぐらせるのである。
 幕府は守邦親王を廃立し、新たに幼い親王を将軍に迎える準備はしていた。しかし後醍醐天皇の倒幕さわぎで、それどころではない。そのおかげで守邦親王は幕府滅亡まで26年、征夷大将軍の位にあった。鎌倉幕府では最長不倒記録である。

 元弘元年(1331)、倒幕の陰謀が漏れ、後醍醐天皇は廃位、隠岐に流罪となる。
 しかし楠木正成、赤松円心、護良親王らが挙兵。反幕府勢力は大きくなり、やがて足利尊氏、新田義貞も鎌倉を見限って朝廷側につく。
 そして元弘3年(1333)5月22日、新田義貞率いる数万の軍勢が鎌倉を攻める。前執権・北条高時以下、北条一族と家臣、1153人は東勝寺で大量自殺。これで鎌倉幕府は滅亡。

 しかし鎌倉幕府の征夷大将軍、守邦親王は、あまりに無力なため、見逃してもらったらしい。
 北条一族自刃の巻きぞえを食らうこともなく、守邦親王は将軍職を辞職し、出家。その年の8月に死んでいる。
 死因は明らかではない。鎌倉で死んだという説と、京に戻ってから死んだという説がある。まあ、この騒然とした世の中で、無力な元将軍なんて、どっちでもよかったんだろうな。

 ところが守邦親王は、このとき死んでいないという説まである。
 守邦親王は鎌倉幕府滅亡後、埼玉県比企郡の角山八幡神社梅香岡に身を隠し、梅王子と名乗って、ひそかに幕府復興をもくろんでいたという。
 面白い話だが、それならなんで、北条高時の遺児、時行が起こした中先代の乱に呼応しなかったのか。時行の軍勢は比企郡あたりは完全に制圧していたのだ。まさか自分を傀儡にした高時の息子には協力できないとか、そんな理由ではあるまい。

 そんな哀しい歴史をもつ、摂家将軍、親王将軍のお墓にお花をたむけてやってください。
 と言いたいところだが、この6人の将軍、いずれも墓所が不明となっている。
 これが一番哀しい話かもしれない。


戻る          次へ