私の生い立ち

第一章 生い立ち

私が生まれたのは昭和27年1月だった。
3つ年上の姉、6つ年上の兄、そして9つ年上のもう一人の姉がいた。
4人兄弟の家族は、いまでも珍しいが、当時でも、かなり珍しかったようだ。
その頃は、ようやく終戦のすこしあとで、まだ生活は戦後の様子がのこっていた。
庭には、鶏小屋があって、鶏がひとつがいいた。
毎朝、鶏が生んだ卵を生卵にして、お醤油をすこし入れて家族6人で分けて食べた。
家は、田園調布にあった。
父の勤めていた会社が、戦前からの古い会社だったので、
社宅が田園調布にあったのだった。
すぐ近くには多摩川があり、巨人軍の練習場があった。
母は、当時としては、すこし風がわりな教育方針をもっていたようで、
一番上の姉はピアノをならい、二番目の姉はバイォリンを習ってた。
兄はこちらは普通に、ソロバン塾に通っていた。
当時は、社長さんの家にしか、ピアノなどないのが普通だったので、
ずいぶん近所からは、めずらしがられたようだった。
しかし、私の家は、ちっとも金持ちではなく、どちらかといえば、貧乏な
部類の家庭だった。
当時はまだ、電気釜や、洗濯機などの電気製品はどこの家庭にもなかった。
冬は、家族6人が4畳半で、コタツに入って過ごした。
コタツは、床下に穴を作って、練炭で火をつける昔風のコタツだった。
当時は、子供たちは、中学生から小学生くらいまでが、一団となって、
メンコや、ベーゴマ、ビー玉、コマ回しや、カクレンボなどで遊んでいた。
私は、年がまだ小さいので「ミソッカス」と呼ばれ、あまり仲間にはいれて
もらえなかった。
ある日クリスマスの日家族全員が出かけて、私だけ一人家に残されていた。
私は一番ちいさかったので、出かけるときは、
いつも一人だけ家に置いておかれることが多かった。
家族が帰ってくると、
姉が、大きな包をあけて、それから色のついた木の切れ端を私の前で
いくつも並べてみせた。
それは、私へのクリスマスプレゼントに買ってきた積木だった。
私の家では、クリスマスのとき以外はおもちゃを買ってもらうことはなかった。
私は、そのときから、いつも積木で遊ぶようになった。
私は、あるとき母に連れられて、電車に乗った。
小さな部屋に連れられていくと、小さな机の上に積木をつんであるのが見えた。
机の前に座った女性の一人がその積木を、ばらばらにすると、私にさっきと
同じように組むように言った。
私は、すぐにさっきと同じように積木を組んだ。
それが、幼稚園の入学試験だった。
私は、やはり田園調布にある幼稚園に通うことになった。
同じ田園調布といってもかなり遠くて、電車で通う毎日だった。
そのときから、私の人生は、すこし道をはずれてしまったような気がする。
幼稚園の募集は、一年保育と、2年保育が同じ定員になった。
母は、一年保育と2年保育がそれぞれ別のクラスだと思ったらしい。
しかし、一年保育のクラスはもともとなかった。
一年保育の募集定員は、2年保育の生徒が、エスカレータ
方式で上にあがっていく定員だった。
一年保育の試験は、いわば補欠募集だったのだ。
ほかの生徒は、全部が全部、もう一年間もその幼稚園ですごしてきた生徒だった。
私は、歌も歌えず、はさみも使えず、友達もできず、クラスのおちこぼれ
でしかなかった。

第二章 小学校

ようやく小学校にあがるとき、母は私をキリスト教の小学校に入れることにした。
私のいた幼稚園のなかにはその小学校に通う生徒が多かったせいもあるらしい。
私立の小学校は、当時はあまり、普通の家の子供が通うような所ではなく、
会社の経営者とかのお金持ちの子供が行く所だった。
男女共学の学校だったが、クラスは男子1クラス、女子2クラスに分かれていた。
校庭のまん中には線が引かれて、男子と女子は、分かれて遊ぶことになっていた。
その小学校では一年生のときから英語の授業があった。
先生はイタリア人のシスター(キリスト教では修道女をシスターと言う)
だったので、習ったのはイタリアなまりの英語だった。
キリスト教の学校ということで、毎年クリスマスパーティが開催された。
全員が講堂に集まって、クラスごとにクリスマスキャロルを歌っい、
クリスマスにちなんだ劇が演じられた。
神父さんが、サンタクロースに扮して、生徒全員にクリスマスプレゼント
が配られた。
小学2年か3年生くらいのとき皇太子の御成婚があった。
私はまだ子供だったせいもあって、まったく何の興味もなかった。
しかし、私の担任だった女性の先生は、
その御成婚にはずいぶ感激していたようだった。
数日たった、絵の時間に先生は、ご成婚の絵を書くようみんなに言った。
私はそれを聞いて困ってしまった。
当時は、御成婚のテレビ放送がみたくて、多くの家庭が白黒テレビを購入していた。
クラスのほかの生徒の家には、みんなテレビがあって、御成婚のテレビ中継を
見たようだった。
私の家には、テレビなどあるはずもなかった。
先生は、テレビがない家庭があることなどまったく考えにも及ばなかったようだった。
私は、渡された白い画用紙になにも書けなかった。
どうやらほかの生徒の様子をみて、
馬車を書けばいいらしいと言うことには気が付いた。
しかし、私にようやく描けたのは、金色の洗面器のような絵だった。
私小学校三年のとき、引っ越すことになった。
もう子供達ももみんな大きくなり、いまの社宅では狭すぎるということが、
理由だったようだ。
実際にはほかにも理由はあったのかもしれないが、私の知るところではなかった。
姉や兄達は、引越しをひどくいやがっていた。
私は引越しが初めての経験だったでずいぶん喜んだものだった。
引越しの当日は、なにもかもが初めての体験で楽しくてしょうがなかった。
しかし、引越しの翌日、学校からかえって、いつものように家をでたとき、
私は、やっと姉や兄達があれほど引越しをいやがった理由が分かった。
私の家の玄関の前には、いままで見慣れた近所の風景はなかった。
いつも遊んだ遊び場所は、もうどこにもなかった。
近所の子供達も、もうそこには誰もいなかった。

第三章 中学時代

 小学校を卒業すると、こんどはすぐ近所の区立の中学に通うことになった。
ちょうど校舎が立替中で、私のクラスはいまにも崩れてしまいそうな古い、
木造の校舎だった。
私は、しだいに地元の友達とも親しくなった。
 しかし、中学一年のとき、また家を引っ越さなければならなかった。
父の会社では、ばらばらになっていた社宅を統合して、
団地にまとめ社員を住まわせる方針にしたとのことだった。
新しい社宅は、三鷹にある会社の中央研究所のとなりだった。
団地といっても、それらしい建物が二つ並んで立ているだけだった。
すぐ隣はグリーンパークと言って、米軍の家族の住宅だった。
こんどの中学は歩いて20分ほどのかなり遠い距離だった。
私と同じ時に転校生がもう一人いた。
4月の新学期の最初の授業で、二人が教室の生徒たちに紹介された。
最初にもう一人の転校生の女の子が自己紹介の挨拶をした。
彼女は、勢いこんだ様子で、いろいろ新しい学校への期待を口にした。
次に私の番になった。
私は、中野四中からきた今村ですと、ひとこと言っただけだった。
私が初めて、コンピュータの話を読んだのは、当時の学習研究社の
学習雑誌だった。
その雑誌には、おまけに実験セットがいろいろついていたので、
私は中学にいるあいだ、毎月買っていた。
水ガラスのなかに作るケミカルガーデンや、顕微鏡のスンプセットなど、
今思いだしても楽しいおまけが、毎月ついてきた。
あるとき、その雑誌にコンピュータの紹介が載っていた。
そこには、人間はリンゴをみると、それがリンゴだと理解できるが、
コンピュータにリンゴを見せてもリンゴだと理解できないという説明が
書いてあった。
私は、同級生に得意になって、コンピュータはリンゴをできないと説明したが、
同級生は私がなにか、おかしなことを言っているような顔つきだった。
 中学での生活は、私にとって一番思い出深いものになった。
冬になると何度か雪が降り、みんなで外に出て雪合戦をした。
中学3年になるとクラスの中は、
みんな高校受験のことで頭がいっぱいなようだった。
私が高校の入学試験を受ける年度から、都立高校は、学校群方式になった。
一部の都立高に人気が集中するのをさけるために、学校を2つか3つ組にして、
どこに入学するかは抽選で決めるという方式だった。
自分で入る学校を選べないため、生徒には不人気な改革だった。
しかし、入試が3教科(英語、国語、数学)だけになったのは、私には都合がよかった。私は結局、受験勉強らしいことはなに一つせず、近所の都立高校に入学できた。

第四章 高校時代

 高校の授業が始まって真っ先に先生にいわれたことは、
これからは、中学の時よりずっと大変な受験勉強をしなければいけないとの
お説教だった。
しかし、あいかわらず私は、勉強など全然しなかった。
 高校一年のとき、また引越しをすることになった。
今度は父が会社を定年退職して、立川の団地を退職金で購入したせいだった。
私は、中学の時代をすごした、なつかしい場所を離れなければならなかった。
立川に移ってからは、二度と近所に遊び友達ができることはなかった。
 私が高校を過ごした時期は、世界中がずいぶん乱れた時期だった。
ベトナム戦争や、中国の文化大革命やら。
そして音楽は反戦フォークソングが流れていた。
70年安保を控えて、大学紛争が激しさを増していた。
どこの大学もバリケード封鎖のため、授業もまともに行われなくなっていた。
高校二年の春、とうとう東大の入試が中止になった。
ちょうど次の年受験を迎える私たちは、来年度も中止になるのではと、
不安な気持ちだった。
大学紛争の中心となっていた学生運動の各セクトは、高校にも紛争広げようとして、
高校生を対象にして、オルグ活動を始めた。
私の高校にも三鷹反戦会議という、学生運動の組織があるらしいとの噂がながれていた。そして、その組織の委員長が生徒会の委員長に立候補した。
しかし、その活動は他の生徒には相手にされなかったようで、
生徒会長に当選したのは、一学年下の2年生だった。
 その年の秋は、高校の生徒達にとって、難しい時期になった。
ある日の新聞に高校でバリケード封鎖が行われたとの記事が載った。
いよいよ大学紛争が高校にも飛火してきたのだった。
場所は都立の名門校と言われている高校だった。
しかし、私の高校は名門校であるはずもなく、だれもバリケード封鎖など誰も考えも
しなかった。
そんな時、当時の自民党の佐藤栄作政権のもとに、高校生の政治活動を禁止する、
通達がだされた。
高校生は、デモにいってはならないということのようだった。
私の高校からは、デモにいく生徒もいないようだったので、
私たちには関係ないような話に思えた。
 しかし、ある朝、状況は一変した。
社会科研究会の数人の生徒が、朝門の前でビラを生徒に配っていた。
先生が気が付いたときには、もうビラはほとんど配り終えていたようだった。
ビラには全校の生徒総会を開く呼びかけが書かれていた。
その目的は、高校生の政治活動禁止通達に反対するということだった。
生徒の間でバリケード封鎖をおこなうという噂があるので、
それに先手をとって、バリケード封鎖の口実をなくしてしまうのが、
目的だと社会科研究会のメンバーは言っていた。
生徒会規約によると、生徒のうちの必要な数の請求があると、
生徒総会を開催しなければいけない。
規約に決められているので、先生がたは開催を中止させることができなかった。
体育館に一人一人が自分の椅子をもって集まると、生徒総会が開催された、
社会科研究会の代表が、高校生の政治活動禁止に反対して、
教育委員会に、反対の意見を文章にまとめて送付するとの議題を提案した。
先生がたの意見や、生徒会長の意見などが行われた後、採決になった。
議案に賛成するものが起立し、クラスごとに集計がとられた。
見回してみると3年生はほとんどが男子も女子も起立していた。
圧倒的な多数で議案は可決された。
 その後、教育委員会に送付する文面を各クラスごとに協議することになった。
私のクラスでも、授業をホームルームに切り替えるように先生にたのんでみた。
たぶんそんなことは、させてもらえるはずはないとみんな思っていた。
しかし、先生に授業をホームルームに切り替えるように頼むと、
それを断わる先生は誰もいなかった。
先生達の間では、ともかく生徒を刺激するようなことはしないと言うことで、
話がまとまっていたようだった。
私たちは、他のクラスとの合同ホームルームを開いたりして、
いまの高校の教育について、そしていまの世界について、
多くの意見を出し合いみんなで考える機会を何度も持つことができた。
先生達は、なに一つ、生徒達に指図をするようなことはなかった。
はねあがった生徒の一部がバリケード封鎖に走ることをなによりも先生達は
恐れていたようだった。
生徒達のあいだでは、こんどの何日にバリケード封鎖があるとかの、
噂がなんどとなく繰り返し流れた。
朝学校にいってみると、校門にパトカーが止まっていたり、
近所の空き地の草むらを、警察官が大勢で調べたりしていた。
 しかし、秋の文化祭が無事に終わると、
学校はしだいに落ち着きを取り戻していった。
東大の安田講堂の封鎖が、機動隊の導入で、解除されると、
来年の東大入試が中止されることは、なさそうな見通しになった。
また、他の大学でも、紛争は下火になり、入試の中止はなさそうな気配だった。
たとえ大学に入っても紛争でどうせ授業がないからと思っていた、
3年生達も受験の準備をしなければならなくなってきた。
バリケード封鎖の噂はその後、
何度も流れたが結局何も起きる事なく、私たちは卒業を迎えた。
 私は、2年浪人して大学の数学科に入り、大学院の2年間の生活のあと、
就職することにした。
第五章 就職
 私が就職先を探してい頃は、今と同じように不景気で就職は最悪の状況だった。
私は、就職するならコンピュータの会社がいいと思ってF通の入社試験を受けた。
学校推薦を受けていたので、私は何の問題もなく入社できると思っていた。
それで、ほかの会社は一つも受けていなかった。
いままで私の大学では、学校推薦で不採用になった例はほとんどなかった。
しかし、しばらくして不採用の通知が来た。
もう就職活動はどこの会社でもほとんど終わっていたので、
私は途方に暮れてしまった。
同じ数学科の学生はもうみんな就職がきまっていた。
 私が就職が決まらないのを聞いて、私の指導教官の先生が、
証券会社を紹介してくれた。
コンピュータの経験者がほしいとのことだったが、
私はコンピュータのことなど何も知らなかった。
数学をやっていれば、コンピュータくらいだいじょぶでしょうと、
先生が言ってくれた。
私は、面接にでかけたが結局社風にあわないとかの話でまた断わられた。
 私はもうどうしようもなくなってしまった。
それで私は、教室の就職案内の部屋にいき、
まだ入社試験をやっているところを探した。
会社の名前はどれも聞いたことのないものばかりだった。
どうゆうわけか、ほとんど全部がコンピュータのソフトの会社だった。
どの会社に就職したらいいのかまったく分からなかった。
それで、私は資本金を一社ずつ調べて、一番資本金の多い所にすればいいと思った。
一番資本金が大きいのは一億円という会社だった。
私は、そこの入社試験を受けることにした。
入社試験の手続きの書類も就職の教室に届けられていたので、
私は書類に書き込んで、その会社に行った。
私は、会社の受付で入社試験の書類を持ってきたと受付の女性に告げた。
受付の女性は、私をみると会社説明会を行っていますから出てくださいと言う。
私は、会社説明会というのは、ほんとうに会社の説明をする会だと思っていた。
それで、説明はうけなくていいですから試験だけ受けますと答えた。
受付の女性は、それで私の出した書類を受け取った。
そのときの私は、会社説明会で入社試験や面接をして、
内定を決めてしまうのが、通常のやりかただというこをまったく知らなかった。
今になって思うと、よくまあ、入社出来たものだと感心してしまう。
それでも、入社試験の日取りの通知がきて、試験の数日後採用の通知があった。
 4月1日に会社に出かけると、すぐに入社式があった。
新入社員の代表が一人歩み出て、誓いの言葉を述べた。
あとで聞いた話だが、誓いの言葉はいつも総務部長が用意して、
新入社員に渡しているとのことだった。
そしてすぐに、入社の研修が始まった。
それから、夜になると、全員が新宿に行かされた。
新宿の京王プラーザホテルのスターライトの間で、
新入社員歓迎パーティが開かれた。
そこは、高層ビルのかなり高い階の広間で、
窓の外にはきらめく夜景が広がっていた。
新入社員の一人一人が学歴と名前を呼ばれて、先輩に紹介された。
35人近い新入社員のほとんどがいわゆる有名大学出身だった。
しかし、留年したりしている場合が多かった。
 研修が始まって数日たつと、しだいに会社の内情が、
新入社員の耳にも伝わってきた。
社員がせいぜい150人くらいしかない会社なのに、
新入社員を35人とったと言う話しもあった。
そう言えば、新入社員歓迎パーティへ出席している社員はずいぶん少なかった。
長くいる会社ではなさそうだなという話がもう、
入社研修のときささやかれていた。
コンピュータのプログラムの研修が最後にあった。
講師になっていた先輩の社員が、コンピュータの経験がある人手をあげてと言う。
私を除く全員が手を上げていた。
次にコンピュータが初めてな人と言われ、
手を上げたのは当然のことながら私一人だった。
研修は一週間で終わり、あとは、各プロジェクトに配属された。
 私が配属されたのは、三鷹にあるY電気の工場だった。
そこでは、高炉(鉄を作る溶鉱炉のこと)の制御をするシステムを鉄鋼会社から
請け負って作っていた。
工場を制御するプログラムはプロセスコントロールといって業界では、
略してプロコンという話だった。
それに対して、事務処理はオフコンと言い、同じコンピュータのプログラムでも
両者はまったく別の世界だとの研修で聞いたのを思いだした。
私は、まったく役にたたなかったため、いろいろな先輩をたらいまわしされて、
結局書類の整理のような雑用だけやらされていた。
 一月ほどたって、もう会社を辞めた新入社員がいるとの話が伝わってきた。
入社式のとき、誓いの言葉を述べた社員とのことだった。
専門学校出身で、すぐに使い物になる社員だったので、さっそく
毎晩徹夜で作業をやらされて、一月目に辞表を書いたという噂だった。
その話が伝わると、新入社員の間には動揺が広まっていった。

第六章 淡路島

 私は新入社員のなかでも、一番役に立たなかった。
それで、私の仕事はづっと雑用だけだった。
 秋になって、突然課長に呼ばれた。
どうしても人手がたりないから、私に今度の仕事をしろと言うことだった。
淡路島の生コンプラントの制御の仕事だった。
ほかの仕事がいそがしくて、手があいているのが、新入社員3人だけで、
そのうちの一人が私だった。
今度使うコンピュータの説明書だから読んでおけと、本を何冊か渡された。
私は、その説明書を読んだが、なに一つ理解できなかった。
設計は私たちにはとても出来ないので、課長が自分でやるから、
その通りプログラムを作れと言われた。
 仕事はほとんどはかどらないまま、
淡路島に行かなければならない期日になってしまった。
郵便でおくるのは、心配だからというので、
私と課長はプログラムを打ち込んだ紙カードを持って淡路島に行くことにした。
一人づつが紙カードを3箱とリムーバブルカートリッジディスクを、
一つ運ぶことになった。
リムーバブルカートリッジディスクは直径30センチほどの、
UFOの様な形をした円盤だった。
紙カードは一箱が2千枚だった。
私は、これはとても重くて持てないと思い、
前日に秋葉原のニッピンにいって登山用のショイコを買ってきた。
課長は両手に紙袋を会社からもって来ていた。
私は、登山用のリュックに紙カードとディスクを入れて立ち上がろうとした。
やっとのことで立ち上がったが重くてほとんど歩けなかった。
山に行ったときでさえ、こんな重さのリュックは背負ったことがなかった。
課長もほとんど歩くことができずに、紙袋の片方を持って10メートル進んで、
戻ってきて片方を運ぶとうい、しゃくとり虫のような歩きかたでやっと運んでいた。
 淡路島の工場に着いたとき、生コンの工場は、まだ工事中で、
コンピュータ室だけができあがっていた。
課長と、私を含めた3人の新入社員は毎朝9時から午前2時までコンピュータ室で
プログラムを組んだ。
課長は最初、私たち新入社員3人を工場に置いたまま自分は帰る予定だったそうだが、
さすがにそれは出来なかったという。
東京では、課長が行ったきり帰ってこないので、たいへんだったらしい。
宿舎は工場の方で用意してくれたが、倉庫の隅をベニア板で、
囲っただけの部屋だった。
 淡路島に来てから一月ほどたった頃にはだいたいプログラムもできあがり、
試しに生コンを作ってみようということになった。
工場長を前に、みんなが不安な気持ちで見守る中をスイッチを入れた。
コンピュータ室の外から工場の機械が動く音が聞こえてきた。
工場の中の様子が監視カメラでコンピュータ室のモニター画面に映し出されていた。
それを見て、誰かが生コンができてると言うのが聞こえた。
無事に工場が動いたのは奇跡とかいいようがなかった。
できあがった最初の生コンは、工場長がみずから工場の正面の玄関に流して
固めていた。
 淡路島から帰ってきた時には、私はほかの新入社員が出来る程度の仕事は、
一通りこなせるようになっていた。
私は、それからプログラマーとして仕事をするようになった。
 私の次の仕事はまたY電気の高炉の仕事だった。
その次は九州の小倉にある、圧延工場の仕事だった。
一つの仕事はだいたい3月から半年くらいで、次から次へと仕事が回ってきた。
 就職してから7年たって、私は会社を辞めた。
その時、同期に入社した社員で残っていたのは私を含めて3人だけだった。

第七章 二度目の学生生活

 会社を辞めたあと私は、さる大学の研究所に研究生として入所した。
入学試験を受けて入学する学生と違って、研究生というのは、
研究室の教授が許可をだせば試験を受ける必要はなかった。
しかし、学生と違って何年教室にいても、卒業の資格は得られない身分だった。
会社にいたときに財形貯蓄で作った貯金で、何年生活できるか計算してみた。
ちょうど3年半は生活できる計算だった。
私は、会社にいたときから考えていたアイデアを実現させようと、
プログラムを組み始めた。
私が作ろうとしたのは、医学実験用の画像認識システムだった。
 私がプログラムを組んでいると、ちょうど通りかかった教室の先生に、
タッチタイプで打っていないと指摘された。
それを聞いて私はびっくりしてしまった。
私のいた会社でタッチタイプで打てるのは、英文科出身の女の子だけだった。
タッチタイプの打ち方でプログラムを作るプログラマーなど私は見たことがなかった。
しかし、医学系の大学では論文はみんな英語で書くので、
ほとんどの人が、タッチタイプをマスターしているとの話だった。
私は、それを聞いてタッチタイプの練習をする決心をした。
タイプ練習ソフトのカタログをいろいろ集めてから、
ちょうどよさそうなタイプ練習ソフトを選んで私は練習を始めた。
しかし練習は、なかなかはかどらなかった。
あまりよく出来た練習ソフトでかったと、練習を続けるうちに思うようになった。
そのタイプ練習ソフトはベーシックで書いてあったので、
私はプログラムを書き換えて、自分で練習しやすいように改造した。
そんなことで、どうにかこうにか2週間ほどで、
自己流から、タッチタイプに切り替えることができた。
それから、3ヵ月ほど練習すると、もうタッチタイプをマスターしたと
言える程に、速く打てるようになった。
 画像認識システムの開発も順調にすすんで、
バクテリアのコロニーカウントのソフトや、不定期DNA計測のソフト、
電気泳動の解析ソフトなどを次々と作成した。
生化学会や、癌学会、細菌学会、免疫学会などで、成果を発表することができた。
出版社からも、原稿依頼が来たので、
私は雑誌に医学分野におけるパソコンの画像認識について何度か原稿を書いた。
 私の作成した画像認識システムを大阪の化学会社の研究室で使うことになった。
不定期DNA合成の計測という目的だった。
大阪で私をまっていた実験の担当者は、ピンクのトレーナを着た、
かわいらしい女性だった。
その研究室では、みんなそのおそろいのピンクのトレーナを着ていた。
そのトレーナにはイラストと一緒に英語で「私たちはミュータント(突然変異)」
という意味の言葉が描いてあった。
研究室のみんなでお金を出し合っておそろいのトレーナを作ったのだという話だった。
私は男性もそのトレーナを着なければいけないのですかと彼女に聞いてみた。
すると、それは本人の自由意志ですと彼女は答えた。
すぐわきの研究室の壁に張紙がしてあるのが見えた。
そこには「秘密の花園」とかいてあった。
彼女は私の視線に気が付いたらしくて、会社のサークルですと説明してくれた。
よくあるQCサークルのようなものらしかった。
そこの部署は、もともと女性の社員が多かったので、先輩がサークルの名前を
「秘密の花園」とつけたそうだった。
それ以来、その名前が代々受け継がれてきたという事だった。
ただし、いまはサークルは二つに分かれて、「本家秘密の花園」と、
「元祖秘密の花園」になっていますと彼女が付け加えた。
私は、それを聞いて両手で頭を抱え込んでしまった。
彼女は私の仕草を見て、頭を抱えないことと言ってかわいらしく微笑んだ。
 東京に帰ってから私は、自分の作った画像認識システムに、
彼女の名前「MIKA」をつけることにした。
そうすればもう一度彼女に会える機会があるような気がした。
そしてその時以来、私は作るソフトに必ず彼女の名前をつけるようになった。
続く