皇室と戦争とわが民族

1960年 新東宝

キャスト:嵐寛寿郎(神武天皇)嵐寛寿郎(東条英機)細川俊夫(近衛)沼田曜一(田中)明智十三郎(森)宇津井健(畑中)天知茂(椎崎)菅原文太(上原)

監督:小森白

「日本民族の政治と歴史は神武天皇によってその幕が開かれたとされている。神武天皇とその軍は日本を安楽郷とするために、郷土日向を出発し、大和を目指して進軍した。大和の豪族の長髄彦は民を苦しめ、暴威を振っており、神武天皇の軍と長髄彦の軍は壮絶な戦いを演じた」

戦いは神武天皇に不利な展開になるが、金色に輝く鳥が、神武天皇の杖にとまり、長髄彦の軍はそのまぶしい光に幻惑され、総崩れとなり、大和の地は平定される。神武天皇は橿原で即位式を行い、ここに日本の起源が発せられたと言われるようになる。それから2600年の月日は流れるが、日本民族は幾多の困難に会いながらも、皇室を中心として今日の発展を遂げていく。

昭和12年7月4日、中国盧溝橋で爆破事件が発生。近衛内閣は緊急閣議を開き、中国派兵を巡って御前会議が開かれる。陛下は兵を出すことは真に平和につながるのかと疑問を呈し、今後の見通しを聞く。板垣陸軍大臣は一カ月以内に終結すると自信満々で答える。陛下は一日も早く兵を引き上げるようにと命令する。しかし軍の見通しは甘く、日中戦争は長期化の様相を見せる。

こうした中で日独伊三国軍事同盟が成立する。陛下は世界を敵に回しかねないこの同盟を危惧したが、軍の巨大な力はいかんともすることができなかった。近衛総理にドイツとソ連が開戦したと話す松岡外相。「独ソ開戦となると日本の立場は微妙なものになりますな」「三国同盟の立場から、また赤色勢力の駆除という見地からも、日本はソ連を粉砕すべきだと思います。アメリカが日本に高圧的な態度をとるのも、アメリカが日本を見くびっているからであります。ソ連とアメリカ相手の戦争は日本にとって宿命です」松岡は自分の意見を陛下にぶつけるが、陛下はソ連の実力を過小評価してはならない、戦争は避けるべきであると意見する。

近衛総理は日米平和交渉に期待するが、米英はABCDラインを結成し、経済封鎖を計る。日米交渉は打ち切り、中国からの撤兵はありえないと主張する東条英樹。御前会議で陛下はもしアメリカと戦うとどれくらいの期間で解決するのかと質問する。三カ月で十分だと答える杉山参謀総長。陛下は日中戦争の時も一カ月で終わると言いながら、四年近くたってもまだ解決していないと不満を漏らす。杉山は中国は広いと言い訳すると、陛下は太平洋はもっと広いと言い、戦争をすると相手はアメリカ一国ではないと言う。

しかし軍の勢いは増すばかりであり、近衛総理は退陣して、東条英機が総理となる。アメリカは和平の条件として満州や中国大陸から無条件で撤退すること、日独伊産国軍事同盟を無効にすることなどを突きつける。あまりにも過酷な条件であると呟く東条。「事は重大。充分論議し結論を得たいと思います」東条は陛下に戦争やむなしと告げる。陛下はあくまで戦争反対を唱えるが、閣議決定に逆らうことはできず、昭和16年12月8日、日本は太平洋戦争に突入する。

建国以来2600年、わが日本帝国は戦いに負けたことがない、と力説する東条。彼の言葉通り、日本軍は連戦連勝するが、ミッドウェー海戦で敗れて以来、戦局は一変してしまう。「戦い疲れた国民はひそかに平和を望んでいた。しかし政府や軍部は、狂気のように、本土決戦・一億玉砕を叫び、遮二無二国民を戦争にかりたてた」

1945年6月22日、陛下は鈴木首相、阿南陸軍大臣、梅津参謀総長、東郷外務大臣、米内海軍大臣、豊田軍令部総長を呼び、自分はどうなってもいいから戦争を早く終わらせ、国民を苦しみから解放したいと言う。話し合う六人。「陛下の終戦の意志が漏れると、強硬派の軍人は、陛下は側近に脅されていると曲解するに違いない」「ここにおる六人だけで秘密裡に事を運びたいと思います」

7月26日、ポツダム宣言の内容をキャッチする日本政府。「日本の領土は明治維新の前に戻れということですな」「戦争犯罪人の処罰。軍隊の武装解除。相当きつい条件ですね」「陛下はなんと言われるか」ポツダム宣言を読んだ陛下は明るい表情で、これで戦争が終わり、国民が救われる、戦争終結に努力するようにと言うが、軍部はポツダム宣言は日本を侮辱するものだと激高する。

広島と長崎に原爆投下され、ソ連は満州に侵攻する。陛下は戦争終結の動きはどうなっているのか、と激昂する。それを受けて、最高戦争指導会議が開から、ポツダム宣言受託か否かで議論は沸騰する。「天皇の地位を確約することを条件にポツダム宣言を無条件で受託するしかないと思います」「戦争責任者を自国で処分することといかなる占領も受けないという条件でないと、ポツダム宣言受託に反対です。海戦では負けているが、戦争では負けていない。陸軍と海軍とでは感覚が違う」御前会議で、日本は降伏するべきとまだ戦うべきという意見を陛下に具申される。陛下は最終結論を出す。「ポツダム宣言を受諾せよ。私の任務は祖先から受け継いだこの日本を未来永劫子孫に伝えることである」

近衛師団の若手将校である畑中少佐、椎崎中佐、上原大尉はあくまで戦うべきだと、森近衛師団長に直訴するが、森は陛下の意志に背くことはできないという。「近衛師団は陛下直属の師団だ。陛下の御命令以外に兵を動かすことはできん」「閣下。閣下の師団命令が国家を救うのです。命令書はできております。御捺印お願いします」「ならん。我々はただ陛下の御命令のみによって動くのだ」しかし森はあくまで拒否するので、畑中たちは森を殺し、命令書を偽造してクーデターを起こそうとするが、東部軍司令官の田中大将はそれを察知し、クーデターは鎮圧される。天皇陛下万歳と叫んで自決する畑中たち。

8月15日、終戦の玉音放送が流される。「この日この時、私たちは永遠に忘れることができない。戦争は終わった。あの凄惨な戦いは終わったのだ」8月30日、連合軍最高司令官マッカッサーは日本に現れ、日本は軍の統治下に置かれる。連合軍はただちに占領政策を行い、ポツダム宣言に基づき戦争犯罪人の逮捕を開始した。かつての指導者はA級戦犯として次々と逮捕され、自殺未遂の東条英樹も獄舎につながれる身となった。

平和は訪れたが、国民には貧苦と飢餓の日々が待っていた。食糧危機は日本全土におよび、米よこせデモはいたるところで行われた。国民はもはや政府を相手にせず、世田谷区の米よこせデモはまっすぐ皇居まで押し寄せた。この事態を憂慮した陛下は、自らマッカッサー元帥に会い、国民は食糧不足に悩んでいる、国民を飢餓から救ってほしいと訴える。マッカーサーは、一国の元首が国民のために食糧援助を願ったことは西洋の歴史にない、と感服し、食糧確保を確約し、進駐軍が無血進駐できたのは陛下のおかげだと感謝する。

陛下は全国民を見舞うため、日本全国巡幸を三年間にわたって行い、国民は歓喜の表情を浮かべてこれを迎える。日本国民は徐々に立ち直りを見せ、昭和26年5月、マッカッサー元帥を日本を後にする。昭和26年11月、18歳になった皇太子殿下の立太子礼が行われ、陛下の顔に笑みが広がる。

日本は落ち着きを取り戻し、平和を楽しむ国民とともに陛下も野球観覧や相撲観戦を楽しむようになる。昭和34年4月10日、皇太子殿下と美智子様の婚礼が行われ、皇室は国民に近づく存在となる。昭和35年2月23日、皇孫浩宮の誕生は日本国中を喜びの声に包んだのであった。

★ロロモ映画評

「日本民族の政治と歴史は神武天皇によってその幕が開かれたとされている。神武天皇とその軍は日本を安楽郷とするために、郷土日向を出発し、大和を目指して進軍した。大和の豪族の長髄彦は民を苦しめ、暴威を振っており、神武天皇の軍と長髄彦の軍は壮絶な戦いを演じた」

戦いは神武天皇に不利な展開になるが、金色に輝く鳥が、神武天皇の杖にとまり、長髄彦の軍はそのまぶしい光に幻惑され、総崩れとなり、大和の地は平定される。神武天皇は橿原で即位式を行い、ここに日本の起源が発せられたと言われるようになる。それから2600年の月日は流れるが、日本民族は幾多の困難に会いながらも、皇室を中心として今日の発展を遂げていくのであった。

映画は昭和35年2月23日、浩宮の誕生で終わり、これからも日本は皇室を中心に発展を遂げるであろうという余韻を残しますが、ロロモは天皇制を支持する者でも否定する者でもないという中途半端な考えの持ち主ですが、皇室で生まれるといろいろ制約が多くて大変だろうなという感慨を抱く者でありまして、皇室で生まれなくてよかったと不遜なことを考えてしまうわけです。

ということでこの映画が公開された1960年に浩宮こと現在の皇太子が生まれていますが、彼は幼稚園から大学まで学習院で学び、学習院大学では音楽部に所属しヴィオラを担当。それまでの皇族が生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、彼は史学、中世の交通史・流通史という人文科学・社会科学に近い分野を専攻。1983年から1985年にかけて、オックスフォード大マートン・カレッジに留学して、テムズ川の水運史について研究しました。

皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図り、公務の傍ら1991年には、ケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与。学習院女子大国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっています。2007年11月、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任しますが、日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初めてのころでありました。

彼の趣味はスポーツと音楽を中心に幅広く、特に登山に関しては、登山専門誌「岳人」や「山と渓谷」などに、幾度かエッセイを寄稿。登山のほかにはテニスとジョギングを好み、ヴィオラは、友人知人や演奏家を招いた際などに私邸で演奏するほか、学習院OB演奏会のオーケストラなどで演奏。1986年10月19日、ファンであった歌手柏原芳恵の新宿東京厚生年金会館でのコンサートに行き話題となります。小学生の頃はジャイアンツのファンで、末次利光選手を贔屓にしていたといわれ、1988年の夏の甲子園の開会式後の始球式を務め、2009年の夏の甲子園の開会式に出席しました。

彼はおそらく次の天皇になりますが、彼が1960年生まれで、ロロモが1961年生まれということで勝手に親近感を抱いていますが、彼のこれまでの生き様を見ると、今までの皇室の偉い人とは違って、どこか世俗的なところがあり、彼が天皇になると日本もなんとなく変わるんじゃないかとロロモは思ったりしますが、彼が末次ファンというのはなかなか渋い選択ですが、やはりジャイアンツファンなのかと思ってしまうのでありました。(2013年4月)

得点 11点

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