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鎌倉七口-朝比奈切通・・・・その3
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坂道修造を物語る石地蔵 右の写真は切通しの坂の途中にある石地蔵像です。朝比奈切通には江戸期の石仏や庚申塔、道路供養塔などが多く見られます。『新編相模国風土記稿』に「峠坂 村中より大切通に達する坂なり延宝の比浄誉向入と云ふ道心者坂路を修造し往還の諸人歎苦を免ると云。此僧延宝三年十月十五日死、坂側に立る地蔵に、此年月を刻せしと【鎌倉誌】にみゆれど、今文字剥落す、」とあります。写真の石地蔵像がここで語られている地蔵ではないかと伝えていますが真意は定かではありません。 |
等幅で直線的な切通し。路面がぬかるんでいる。
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『新編鎌倉誌』そして『新編相模国風土記稿』に浄誉向人という僧がこの切通し道を修造していることが書かれているようですが、そうすると現在の朝比奈切通は延宝年間(1673〜1681)前には大がかりな工事が行われていて、それ以降の姿ということも考えられるのです。鎌倉時代、仁治年間に北条泰時が監督して開削したという道の姿はだんだん遠のいて行くようです。
左の写真は峠の西手前にある南無阿弥陀仏と書かれた供養塔で安永九子天(1780)十二月吉日、峠坂道普請、世話人、人足、志主、各連中などの文字が見られます。 |
右の南無阿弥陀仏の供養塔の隣には左の道造供養塔もあり文化九壬申(1812)とあります。これらの供養塔は江戸時代に度重なる工事があったことをうかがわせ、またこの道が江戸時代にも盛んに利用されていたことがわかります。
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朝比奈切通の峠付近から西側を撮影
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朝比奈切通の峠で大切通の崖岩
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誰もが見過ごす岩 左の写真は峠の大切通の直ぐ手前を撮影したものです。何やら道の両脇に大きな岩があります。注意して観察しなければ気に留めずにそのまま見過ごしてしまう岩ではあります。この両サイドの岩は或いは峠の施設に関係したものなのかも知れません。両岩に挟まれるように逆茂木があってここを通る通行人を監視していた関所のようなものを想像したりできるのです。ここ朝比奈切通に限らず鎌倉七切通などには、良く観察すると不思議な地形が見られますが、それらが何であったか想像してみるのは楽しいものです。 |
大切通 右の写真は朝比奈切通の峠部を撮影したものです。ここを境に西が鎌倉市で東が横浜市になります。『新編相模国風土記稿』に「朝比奈切通 鎌倉七口の一なり、孔道大小二あり、十二所村境にあるを大切通と云ふ道巾四間許、大切通より一町程を隔て東方村内にあるものを小切通と呼ぶ道巾二間許、共に鎌倉より六浦への往還に値れり、」とあります。ここでいう大切通は写真のところと思われます。写真の切通しは約18メートルほど垂直に切り落とされているということです。 |
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謎のレリーフの仏像 大切通の崖壁に上の写真の仏像と思われるレリーフの像が彫られています。この像についての資料が見つからなかったので、何の仏像でいつ頃に作られたものなのか詳しいことはわかりませんでした。像の大きさは子供の等身大ほどです。 荒削りされた岩壁 平場の発掘調査 そんな中でも大切通頂上に存在する15メートル四方ほどの平場の調査では現地表から20センチ下で泥岩塊を敷き詰めた層が確認されました。泥岩塊層は20センチほどの厚みがあり、この泥岩塊は切通し堀削に伴って発生した岩屑を利用して切通し直上に敷き平場を造成したものと推定されています。出土遺物が無いために造成の時期は不明のようです。なるほど、切通し工事で削られた岩の塊は切通し近くの平場を造成するのにそのまま使用されていたということです。 |
朝比奈切通の名の初見 鎌倉七口についての古い文献は『玉舟和尚鎌倉記』で、ここでは七口の全てを「坂」と記述されていて、朝比奈切通に該当する坂は「峠坂」で金沢口としています。そして朝比奈切通という名前で初めて登場するのは『金兼藁』で万治2年(1659)に著者が鎌倉に来て滞留遊覧したときのもので、「切通之間一町、両崖高十丈。殆如絶壁、不生艸木。」とあり切通しが高く絶壁の如きであるように記されています。おそらくこの頃から鎌倉切通が一般的に知られるようになっていったのではないでしょうか。 |
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