プッチーニ:『蝶々夫人』

第8章 『蝶々さん』歌姫列伝
ジェラルディン・ファーラー

 
                               Farrar

ジェラルディン・ファーラー
(1908年 Britannica.より)


ジェラルディン・ファーラー( Geraldine Farrar:1882年 - 1967年)
 ファーラーは米国マサチューセッツ州メルローズに生まれたソプラノ歌手です。1901年、ベルリンの宮廷歌劇場でグノーの『ファウスト』のマルグリット役でデビューし、大きなセンセーションを巻き起こしました。同劇場には3年間在籍し、その間、著名なドイツのソプラノ歌手リリー・レーマンの下で研鑽を積み続けました。ベルリンでは常に彼女の崇拝者に囲まれていましたが(100人近くの求婚者がいたとか)、その中にはドイツのヴィルヘルム皇太子もいて親密な関係があったとされています。なお、ベルリンの宮廷歌劇場ではドイツ語で歌うのが通例だったマルグリット役を、ファーラーはイタリア語以外では歌わないと主張したとされています(オリジナルのフランス語でもなかったことになります。メトロポリタン歌劇場における初演もイタリア語上演だったとされていて、当時がそれが慣例だったと考えられます。)。

 その後、モンテカルロ歌劇場で3年間活動しましたが、デビュー曲はエンリコ・カルーソーと共演した『ラ・ボエーム』でした。米国に帰国後の1906年11月26日、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場において『ロメオとジュリエット』でデビューを飾っています。その時の彼女をニューヨーク・タイムズ紙のリチャード・オルドリッチは次のように批評しています。

 「ファーラー嬢は、海外で名声を博したアメリカ人歌手の一人として祖国に戻ってきました。(中略)彼女はリリック・ソプラノの役を演じる女優として、最良の表現へと導く優れた天性の資質を備えているからです。彼女は魅力的で、優雅かつ親しみやすい人柄の持ち主であり、その舞台姿は人を惹きつけると同時に、ジュリエットらしい少女のような瑞々しさも湛えています。彼女は並外れた才能を持つ歌手と言えます。その声は豊かで深みのあるソプラノで、本来の性質や柔軟性においてはリリック・ソプラノでありながら、いくぶん暗めの音色とドラマティックな資質も併せ持ち、劇的なニュアンスを表現する力にも長けています。歌唱は総じて伸びやかで自然な発声であり、フレージングや発音も優れていますが、ヴォーカリストとして完全に完成されているわけではありません。例えば第4幕の二重唱では、ある種の硬さが見られるなど、全面的には称賛しきれない点もありました(The New York Times)。」

 別の新聞、ニューヨーク・トリビューン紙でも同様に「ファーラー嬢は極めて温かく迎え入れられ」、「メトロポリタン歌劇場の聴衆から世界屈指のオペラ歌手の一人として認められる地位を確立した。」としつつも、「もし彼女が、劇的な場面が終わった時に過度な自己主張を半分に抑え、動きや身振りをいくぶん控えめにしたなら、彼女の成功を喜ぶ同胞たちにとって二倍も素晴らしい存在となっただろう。」さらに、「台詞回しは雄弁かつ真実に満ちており、ニュアンスや声色の選択には確かなセンスがうかがえるが、高音域を無理に出そうとする時だけは、その官能的な魅力が声から幾分失われてしまうのが惜しまれる(The New York Tribune)。」とネガティヴな点も指摘しています。何故この評を長々と引用したかというと、このわずか3か月後に『蝶々夫人』の米国初演でファーラーが蝶々さんを歌った時、プッチーニがあまり評価しなかった理由がこの新聞評の中から推し量ることができると考えられるからです。

 メトロポリタン歌劇場は、1907年の1月と2月にプッチーニの作品を6週間続けて上演すると言ってプッチーニを米国に招いています(第7章参照)。実際は他の作品もいつものように上演していたのでしたが、調べてみると1906-1907年シーズンだけでも、プッチーニの作品は41回も舞台に上がっていました(『ラ・ボエーム』15回、『トスカ』11回、『マノン・レスコー』4回、『蝶々夫人』11回)。

 そんな中、1907年2月11日に、メトロポリタン歌劇場で初演となった『蝶々夫人』のタイトルロールを演じたのがジェラルディン・ファーラーでした。どういう経緯でファーラーが歌うことになったかについての資料は今のところ見つかっていません。11月26日にメトロポリタン歌劇場デビューしたばかりのファーラーが、翌月の12月に『蝶々夫人』のニューヨーク公演を聴きに行ったということはわかっています。ヘンリー・サヴェージ率いるキャッスル・スクエア・オペラ・カンパニーによる『蝶々夫人』の米国巡業公演の一貫として、1906年12月に特別公演(3つの幕をそれぞれ異なるソプラノ歌手が歌う)がニューヨークで上演されたのでした。そしてその客席には、メトロポリタン歌劇場初演の準備をしていたジェラルディン・ファーラー(蝶々さん)を始め、劇場の歌手たち、リナ・カヴァリエリ(マノン)、エンリコ・カルーソー(ピンカートン/デ・グリュー)、アントニオ・スコッティ(シャープレス/レスコー)、ポル・プランソン(メフィストフェレ/ロラン神父など)らの面々が座っていたのでした( FJ Szabó 著『The Record Collector Volume 66 No.1 』2021 )。

 このメンバーを見て興味深いのは、ファーラーは『蝶々夫人』のメトロポリタン歌劇場初演を2月に控えていて、リナ・カヴァリエリも『マノン・レスコー』のメトロポリタン歌劇場初演を1月18日に控えていたということです。二人が揃って『蝶々夫人』を12月に観に行ったそのタイミングが微妙で、その時点で『蝶々夫人』と『マノン・レスコー』のタイトルロールを誰が歌うか決まっていたのかどうかということです。もし、決まっていなかったとすると、それを決めるために『蝶々夫人』を観に行ったとも考えられます(もちろん、メトロポリタン歌劇場の支配人がその選択権を歌手たちに与えていたことが前提になります。)。誰が歌うか決まっていたとすると、単純にファーラーが勉強のために観に行くのに仲間がゾロゾロついて行ったことになります。一方で、『蝶々夫人』と『マノン・レスコー』の両方に出演することになるエンリコ・カルーソーが、単にこれから共演する二人の若い女性歌手を観劇に誘ったということだったのかもしれません。

 『マノン・レスコー』は1907年1月18日にメトロポリタン歌劇場初演として上演されています。第7章で触れましたように、プッチーニはその公演当日にニューヨーク港に到着し、第1幕終了後になんとか客席に滑り込んだことで知られています。マノンを歌ったリナ・カヴァリエリに対する当時の新聞にはこう書かれていました(2月21日、フィラデルフィアにおける地方公演)。

 「マノン役のカヴァリエリは、その類まれな美しさが、よく似合う美しい衣装によって一層際立っており、彼女の個性もまた、視覚的な面でこの役に理想的でした。劇的な表現の可能性を完全に理解しているとは言えませんが、彼女の演技には第1幕で素朴さが感じられ、その後の場面でも哀愁や誠実さがうかがえました。もっとも、カヴァリエリは演技が過剰になりがちな傾向があり、身振り手振りも凝りすぎていて、必ずしも適切あるいは優雅とは言えないことが多々ありました。この役の音楽は、彼女の声の良さを活かすには音域が低すぎる部分が多く、彼女は実質的に低音域をほとんど持たないため、効果的な歌唱ができるのは高音域に限られていました。公演のハイライトであり、最も大きな喝采を浴びたのはカヴァリエリとカルーソーの二重唱でしたが、そこでの成功は主にテノール歌手であるカルーソーの功績によるものでした(Philadelphia newspaper)。」


 話しをファーラーに戻しましょう。メトロポリタン歌劇場における『蝶々夫人』の初演(1907年2月11日)に対して、プッチーニ自身は満足だったようなのですが、蝶々さんを演じたファーラーの出来栄えにはあまり感心しなかったことは既に第7章で述べました。ここでは、当時の新聞評をいくつかご紹介します。

 「言うまでもなく彼女の容姿は魅力的であり、日本人女性になりきったその身のこなしは、優雅さと繊細な身のこなし、微笑みをたたえた熱意と従順さ、優しさと穏やかな憧憬、そして終盤における張り詰めた抑制された苦悩に満ちています。彼女は無数の美しいポーズや身のこなしのレパートリーを持ち、それらをあらゆる場面で効果的に活かす術を心得ている。感情的な緊張の高まりを、彼女は豊かな表現力で描き出し、打ちひしがれた絶望や悲劇的な決意を込めた歌唱は極めて雄弁で、魅力的かつ強烈な劇的熱情を込めて歌い上げていました(The New York Times by Richard Aldrich)。」

 「『蝶々夫人』は、ファーラー嬢にとって、その素晴らしい演技力を発揮する新たな機会となりました。時折見られる過剰な動き――第1幕の喜劇的な場面と同様に、第2・第3幕の悲劇的な場面でも不可欠な“静けさ”を損なってしまうような動き――さえ抑えられれば、彼女の役作りはほぼ完璧なものとなるでしょう。立ち居振る舞い、身振り、歌唱表現、表情、そして動きのすべてに、雄弁さと優美さが満ちています。彼女は演技と歌の両面で深い哀愁と説得力を持って表現し、昨晩の公演では多くの観客の涙を誘いました。少女から大人の女性へ、そして悲劇のヒロインへと変貌していく過程が、唐突さを感じさせることなく、真に力強く美しく描かれています。彼女の姿はまさに美しい幻影のようであり、その成功は完全なものでした(The New York Tribune by Henry Krehbiel)。」

 これらの批評は、先に引用した、ファーラーがこの劇場デビューで歌った『ロメオとジュリエット』に対する批評と極めた似た内容のものになっていることに気付きます。誉め言葉はともかくとして、彼女の「過剰な演技」は音楽評論家たち目にも問題があると映っていたのでした。つまり、プッチーニが彼女に対して不満を抱いていたことは、この点だったと推測することができるのではないでしょうか。蝶々さんは第1幕では15歳、第2,3幕では18歳です。ドイツ皇太子を籠絡し、100人近い紳士諸兄に囲まれていたファーラーとしては、純粋で無垢な蝶々さんを演じるには経験がありすぎたのかもしれません。

 また、ファーラーは自伝で『蝶々夫人』の原作者である戯作家デーヴィッド・ベラスコに会えたことを記していて、歌うことだけでなく演技についても強い関心を示していたことがわかります。

 「『蝶々夫人』は、舞台演出の巨匠、デーヴィッド・ベラスコとの出会いももたらしてくれました。彼の心と頭脳が生み出したこの劇のヒロインを私が演じることに、彼は大いに感銘を受け、喜んでくれました。会うたびに、彼は半分笑いながら半分不思議そうに、”さて、いつになったらオペラを捨てて演劇の世界に足を踏み入れるつもりなんだ?” と言うのです。そんなたびに、私は思わずその興味深い実験をしてみたくなります。というのも、演劇は常に私の演劇的な本能を強く刺激してきたからです(ジェラルディン・ファーラー著『あるアメリカ人歌手の物語』)。」

 このメトロポリタン歌劇場での初演のメンバーによる録音が残されています。1907年から1914年にかけて数回にわたって録音されたもので、録音状態も良好で、全曲ではありませんが当時の歌い方が聴ける貴重なものです。YouTubeで聴くことができます。
         ジェラルディン・ファーラー(S:蝶々さん)
         エンリコ・カルーソー (T:ピンカートン)
         アントニオ・スコッティ(Br:シャープレス)
         ルイーズ・ホーマー(A:スズキ)


     Farrar  Caruso
            ジェラルディン・ファーラーとエンリコ・カルーソー


 メトロポリタン歌劇場での初演の7ケ月後の9月27日、ファーラーは古巣だったベルリンに戻って『蝶々夫人』のドイツ初演を歌っています。ベルリン・シュターツカペレで配布された2025年のプログラムには1907年9月28日付の『フォッシッシェ・ツァイトゥング』紙における批評を引用した次のような記事が掲載されています。

 「レオ・ブレッヒの指揮による上演は極めて素晴らしいものであり、その見事な出来栄えは、自然発生的かつ目に見える形での成功に大きく寄与しました。しかし、この成功が長く続くとは思われません。なぜなら、この作品が与える印象には十分な深みが欠けているからです。ジェラルディン・ファーラーは、様式美に富んだ魅力的な『蝶々さん』を披露しました。アンサンブルの上を軽々と響き渡る、しなやかで柔軟な歌声によって、彼女は作曲家の意図を十二分に体現していました(『フォッシッシェ・ツァイトゥング』)。

 一方で、他の批評家たちは、この驚くほど美しい25歳のアメリカ人歌手に対しては、それほど好意的ではありませんでした。彼女はすでにメトロポリタン歌劇場との契約を取り付けており、その後15年にわたって有名なプリマドンナとして君臨することになる人物でしたが。対照的に、『ベルリーナー・ベルゼンクーリエ』紙は彼女の歌声について、次のような評価を下しています。「彼女の中音域は弱すぎ、高音域は甲高すぎます。舞台と客席の双方を圧倒し、その奔流へと巻き込んでいくような、あの壮大でうねるような響きを生み出すには至っていないのです。」(『レオ・ブレッヒ〜ベルリンにおける『蝶々夫人』最初の指揮者』 Staatskapelle Berlin “ Madama Butterfly” Programmbuch, 2025)

 かつて、ベルリンの街を虜にしたファーラーもこの『蝶々夫人』では思うような成功は勝ち得なかったようです。

 翌1908年、メトロポリタン歌劇場は同じ主役歌手で再演されましたが、指揮にはアルトゥーロ・トスカニーニがいよいよ登場となります。トスカニーニは1908年11月16日に『アイーダ』を指揮してメトロポリタン歌劇場デビューを果たし、その3日後の11月19日に『蝶々夫人』の指揮を任されます。蝶々さんはもちろんファーラーでした。その時の新聞紙上ではトスカニーニを賞賛する記事が踊っていました。

 「彼はオペラにおける音楽的技法を熟知しており、スコアの解釈にあたっては壮大な構想を抱きつつも、細部に至るまで徹底的な研究を行っています。各部分の相互関係を際立たせるように全体を構成し、かつ個々の部分も完璧に仕上げるのです。『蝶々夫人』のスコアに対する彼の扱いは、作品の持つ大きな情感や、オーケストラが織りなす豊かな色彩感に対する絶妙な感覚を示していました。

 ジェラルディン・ファーラーの体調が万全でなかったことも影響しているのでしょう。献身的な日本の娘を演じる彼女の姿は、これまでも称賛に値するものでしたが、昨夜は特に第1幕において、歌唱にいくぶん不安定さが見られました。とはいえ、彼女が描き出す姿はやはり魅力的であり、ベルリンの聴衆が彼女の演技に深く心を動かされたのも頷けます(The Sun by W. J. Henderson)。」

 ファーラーが不調であったことが書かれています。ベルリンでは好評だったことも伝えていますが、現地の報道との食い違いが気になるところです。メトロポリタン歌劇場アーカイヴ部長のピーター・クラークによると、

 「この時、トスカニーニはファーラーに不満を抱いていたとされています。リハーサルで、ファーラーは自分が主役なのだから自分の指示に従うべきだとトスカニーニに告げたのに対して、トスカニーニの有名な返答は『星はすべて天にあるのだ、マドモワゼル。君はただの平凡な芸術家であり、私の指示に従わなければならない』というものでした。激しい口論が起こりましたが、トスカニーニが勝利しました。」

ということでした。この時のことをファーラー自身は次のように語っています。

 「メトロポリタン歌劇場での3シーズン目は、不穏な幕開けとなりました。私は体調を崩し、疲弊しきった状態で到着したうえ、新指揮者のトスカニーニ氏とは激しい対立を繰り返すことになったのです。指揮者とプリマドンナ、それぞれの役割や価値について、私たちは全く相容れない考えを抱いていました。決定的な決裂を招いたのは、『蝶々夫人』の初日公演の後でした。その際、私たちは互いに高圧的な態度で感情を露わにし、礼節を欠く振る舞いをしてしまったのです(ジェラルディン・ファーラー著『あるアメリカ人歌手の物語』)。


                                   Farrar     Toscanini
           ジェラルディン・ファーラーとアルトゥーロ・トスカニーニ

 しかし時が経つにつれ、二人の敵対関係は全く異なるものへと変化して、おそらくは激しい恋愛関係へと発展しています。ファーラーはさらにこう回想しています。

 「しかし、シカゴでの『蝶々夫人』上演のある忘れられない夜、トスカニーニ氏から思いがけず友好的な歩み寄りの申し出があり、事態は一変することになったのです。情熱的かつ誠実な二人の人間が誤解を解こうと望むなら、解決に至ることはそれほど難しいものではありません。私たちの間に渦巻いていた不穏な空気について、双方が称賛に値するほどの率直さをもって話し合いました。言うまでもなくその結果は喜ばしいものであり、私は確かな友人、そして仕事におけるかけがえのない協力者を得ることになったのです。私たちはその夜、共にカーテンコールに応えることで和解を公にしました。満員の観客は、私たちが異例の形で共に姿を現したことの意味を十分に理解しており、割れんばかりの喝采と賛同の拍手を送ってくれました(ジェラルディン・ファーラー著『あるアメリカ人歌手の物語』)。

 この後二人は7年間、恋愛関係にあったとされていますが、ファーラーがトスカニーニに妻と子供を捨てて自分と結婚するようにと迫ったため、トスカニーニは1915年にメトロポリタン歌劇場の首席指揮者の地位を突然辞任したと一般的には伝えられています。ロジーナ・ストルキオとの関係を始めトスカニーニの女性遍歴は止まりません。ライバルであったグスタフ・マーラー(1908〜1910年在任)を追い出し、『蝶々夫人』を巡るファーラーとの衝突からの不倫、そして別れ話しの泥仕合と、映画化するにはもってこいの題材と思われるのですが、誰か映画化してくれるといいのですが。以前『トスカニーニ〜愛と情熱の日々』という映画もありましたが、これは若い頃のトスカニーニを美化しすぎていたような気がします。

 さて、ファーラーの話に戻りましょう。プッチーニとの不和はその後も続きます。1910年に予定されていたプッチーニの新作『西部の娘』のメトロポリタン歌劇場初演(世界初演)にファーラーが歌うと本人のみならず多くの人が予想していた頃、ファーラーはプッチーニと衝突することになります。時系列的にみてそれが原因ではないと考えられますが、結果的に、『西部の娘』の主役ミニーはエミー・デスティンが歌うことになったのでした。ファーラーの言い分は以下の通りです。

 「1909年の春、渡欧の前に、トスカニーニからメトロポリタン歌劇場のパリ公演でプッチーニの『マノン』を歌わないかと打診されていました。しかし、私にとってその役は馴染みの薄いものであったし、それまで私は(より人気のある)マスネの『マノン』を専ら歌ってきた経緯もありました。そのため、6日間の船旅の間にその役を準備し、さらに別の劇場で約束していた『トスカ』の公演もこなすというのは、到底無理だと感じたのです。

 プッチーニの機嫌を損ねた原因が何だったのかは定かではありませんが、彼の『マノン』を歌わなかったという些細な問題がきっかけとなり、『西部の娘』をめぐって私たちは初めて口論することになりました。(中略)その題材やアメリカの聴衆への訴求力を考えれば、アメリカ出身のプリマドンナが選ばれるのが自然な流れのように思われました。私だけでなく、関心を寄せる聴衆の大多数もそう予想していたのです。ところがプッチーニ自身が、あるサロンで私が歌っていた際に、「『西部の娘』の主役を任されなかった腹いせに『マノン』を歌うのを拒否したのだ」といった趣旨の話を持ち出し、そうした期待を打ち砕いてしまったのです。これにはさすがに我慢ならず、私は言い返しました。事実はそうではないこと、アメリカ人歌手がヒロインを務めることで作品の人気が高まる可能性を考慮すべきであること、そして、あの『蝶々夫人』でさえ太刀打ちできないほどの難曲にするほど、彼がいつもの優美な作曲スタイルを変えてしまったとは知らなかった、と。そう言い捨てて、私は部屋を後にしました(ジェラルディン・ファーラー著『あるアメリカ人歌手の物語』)。
*『西部の娘』の主役ミニーを歌ったエミー・デスティンはチェコ出身でした。

 このいきさつから、何故『西部の娘』にファーラーが選ばれなかったかについて推測することはできません。歌唱力に問題があったのか、この役に求められる音域に対応できなかったのかなど、音楽面での理由があったのかどうかもわかっていません。しかし、ファーラーはメトロポリタン歌劇場にデビューして以来、29の役で通算672回その舞台に立ち、そのうち『蝶々夫人』を15年間に139回も歌うというおそらく今後誰にも破られない記録を打ち立てています。デビューした頃こそ批判されることが多かったとしても、これだけ長い期間『蝶々夫人』を歌い続けられたのは人気だけないそれなりの実力が伴っていたからに他なりません。ファーラーが最後に蝶々さんを歌った1922年4月7日の様子は次のように伝えられています。

 「金曜の夜、メトロポリタン歌劇場の外に掲げられた『蝶々夫人』のポスターには、『今シーズン最後』と記された紙片が貼られていました。劇場内は今シーズン屈指の観客数で埋め尽くされ、ジェラルディン・ファーラー(蝶々さん役)、ベニアミーノ・ジーリ(ピンカートン役)、アントニオ・スコッティ(シャープレス役)、リタ・フォルニア(スズキ役)らを中心とするキャストによる歌唱に耳を傾けました。(中略)ファーラーの熱心なファンが大勢詰めかけ、彼女の歌声に聴き入り、喝采を送りました。全3幕の各幕終了後には、熱狂的な反応とともに、数え切れないほどのカーテンコールが繰り返されました。終演後、観客が待ち望んでいた短い挨拶をするまで、彼女は何度も舞台に呼び戻されたのでした。「これが私による最後の『蝶々夫人』となります」と彼女は語った。ある観客が「『蝶々夫人』に死などありません。あなたがこの役に命を吹き込んだのですから」と叫ぶと、ファーラーは言葉を続けました。「皆さんの心に、最も美しい思い出を残したいのです。この最後の公演では、私という人間、そして私が成し遂げられることのすべてを、100パーセントの力でお見せしたいと思っていました」。彼女には惜しみなく花束が投げ込まれました。」(Musical America)


 なお、ファーラーはその数多い出演の中でモーツァルトを歌うことは少なく、『フィガロの結婚』14回(ケルビーノ役)、『ドン・ジョヴァンニ』4回(ツェルリーナ役)だけでした。そのうち、グスタフ・マーラーの指揮で『フィガロの結婚』は8回、『ドン・ジョヴァンニ』は4回すべてで歌っています。1909年1月16日の『フィガロの結婚』を評する新聞紙では次のように書かれています。

 「昨晩、メトロポリタン歌劇場でモーツァルトのコメディー『フィガロの結婚』が4年ぶりに上演されました。本作はグスタフ・マーラーの指揮のもと新たに練り上げられ、キャストには数名の新顔が加わったほか、舞台美術や衣装も一新され、作品に実によく調和していました。この公演は、記憶に残る中でもとりわけ愉快で素晴らしいものでした。個々の歌手の卓越した歌唱もさることながら(もちろんそれらも大いに楽しめましたが)、何よりも、完成度の高いアンサンブル、あらゆる場面に吹き込まれた活気と陽気さ、そして作曲家の意図を具現化した劇的なリアリティにおいて、際立った出来栄えでした。

 舞台上の演技における精密さと細部へのこだわり、オーケストラ・パートの持つ絶妙かつ繊細な美しさ、そしてそれらすべてが視覚と聴覚に一つの印象として調和する巧みな構成――これらにおいて、メトロポリタン歌劇場でも類を見ないほどの公演でありました。こうした舞台は、マーラー氏のようにモーツァルトの音楽の精神を深く体現した巨匠が、自らの望む成果を実現する機会を得たときにこそ生まれるものです。今回の『フィガロ』は明らかに周到な準備を経ており、携わったすべての人々にとって大きな誇りとなる公演でした。最初から最後まで、マーラー氏の強力な統率力がそこに見て取れました。(中略)

 当地で初めてケルビーノ役を演じたファラー嬢は、多くの点で素晴​​らしい魅力を発揮しました。彼女の姿は実に端正で愛らしく、生き生きとした精神に満ちていました。歌唱も同様に優れていましたが、声楽芸術の極致や、モーツァルトの音楽が声に求める要件への完全な理解という点では、まだ最高水準には達していなかったと言えるでしょう(The New York Times)。」





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