「ファーラー嬢は、海外で名声を博したアメリカ人歌手の一人として祖国に戻ってきました。(中略)彼女はリリック・ソプラノの役を演じる女優として、最良の表現へと導く優れた天性の資質を備えているからです。彼女は魅力的で、優雅かつ親しみやすい人柄の持ち主であり、その舞台姿は人を惹きつけると同時に、ジュリエットらしい少女のような瑞々しさも湛えています。彼女は並外れた才能を持つ歌手と言えます。その声は豊かで深みのあるソプラノで、本来の性質や柔軟性においてはリリック・ソプラノでありながら、いくぶん暗めの音色とドラマティックな資質も併せ持ち、劇的なニュアンスを表現する力にも長けています。歌唱は総じて伸びやかで自然な発声であり、フレージングや発音も優れていますが、ヴォーカリストとして完全に完成されているわけではありません。例えば第4幕の二重唱では、ある種の硬さが見られるなど、全面的には称賛しきれない点もありました(The
New York Times)。」
別の新聞、ニューヨーク・トリビューン紙でも同様に「ファーラー嬢は極めて温かく迎え入れられ」、「メトロポリタン歌劇場の聴衆から世界屈指のオペラ歌手の一人として認められる地位を確立した。」としつつも、「もし彼女が、劇的な場面が終わった時に過度な自己主張を半分に抑え、動きや身振りをいくぶん控えめにしたなら、彼女の成功を喜ぶ同胞たちにとって二倍も素晴らしい存在となっただろう。」さらに、「台詞回しは雄弁かつ真実に満ちており、ニュアンスや声色の選択には確かなセンスがうかがえるが、高音域を無理に出そうとする時だけは、その官能的な魅力が声から幾分失われてしまうのが惜しまれる(The
New York
Tribune)。」とネガティヴな点も指摘しています。何故この評を長々と引用したかというと、このわずか3か月後に『蝶々夫人』の米国初演でファーラーが蝶々さんを歌った時、プッチーニがあまり評価しなかった理由がこの新聞評の中から推し量ることができると考えられるからです。
「言うまでもなく彼女の容姿は魅力的であり、日本人女性になりきったその身のこなしは、優雅さと繊細な身のこなし、微笑みをたたえた熱意と従順さ、優しさと穏やかな憧憬、そして終盤における張り詰めた抑制された苦悩に満ちています。彼女は無数の美しいポーズや身のこなしのレパートリーを持ち、それらをあらゆる場面で効果的に活かす術を心得ている。感情的な緊張の高まりを、彼女は豊かな表現力で描き出し、打ちひしがれた絶望や悲劇的な決意を込めた歌唱は極めて雄弁で、魅力的かつ強烈な劇的熱情を込めて歌い上げていました(The
New York Times by Richard Aldrich)。」
「『蝶々夫人』は、ファーラー嬢にとって、その素晴らしい演技力を発揮する新たな機会となりました。時折見られる過剰な動き――第1幕の喜劇的な場面と同様に、第2・第3幕の悲劇的な場面でも不可欠な“静けさ”を損なってしまうような動き――さえ抑えられれば、彼女の役作りはほぼ完璧なものとなるでしょう。立ち居振る舞い、身振り、歌唱表現、表情、そして動きのすべてに、雄弁さと優美さが満ちています。彼女は演技と歌の両面で深い哀愁と説得力を持って表現し、昨晩の公演では多くの観客の涙を誘いました。少女から大人の女性へ、そして悲劇のヒロインへと変貌していく過程が、唐突さを感じさせることなく、真に力強く美しく描かれています。彼女の姿はまさに美しい幻影のようであり、その成功は完全なものでした(The
New York Tribune by Henry Krehbiel)。」
ジェラルディン・ファーラーの体調が万全でなかったことも影響しているのでしょう。献身的な日本の娘を演じる彼女の姿は、これまでも称賛に値するものでしたが、昨夜は特に第1幕において、歌唱にいくぶん不安定さが見られました。とはいえ、彼女が描き出す姿はやはり魅力的であり、ベルリンの聴衆が彼女の演技に深く心を動かされたのも頷けます(The
Sun by W. J. Henderson)。」
当地で初めてケルビーノ役を演じたファラー嬢は、多くの点で素晴らしい魅力を発揮しました。彼女の姿は実に端正で愛らしく、生き生きとした精神に満ちていました。歌唱も同様に優れていましたが、声楽芸術の極致や、モーツァルトの音楽が声に求める要件への完全な理解という点では、まだ最高水準には達していなかったと言えるでしょう(The
New York Times)。」