グレゴリイ・ベンフォード/山高昭訳
 『タイムスケープ』 解説

 大野万紀

 ハヤカワ文庫SF
 昭和63年6月30日発行
 (株)早川書房
TIMESCAPE by Gregory Benford (1980)
ISBN4-15-010773-4 C0197


 私は今に居る。今は私と外界との接点である。今の内容は刻々と変わる。私はその変化に前後関係を付けることができる。これが経験である。古いものは固定されて順繰りに記憶という貯蔵箱の中に入れられていく。新しいものは未決定である。私は受身のときにはこの新しいものに関して本来は無知である。私は未来の前に戦(おのの)く。戦くということは私の生命に有利なことと不利なこととがあるからである。私は何とかして未来を知ろうとする。できれば、未来をコントロールしようとする。未来を知れば、それに対する対策を立てて害を小さくすることができる。さらに、未来をコントロールすることができれば、有利な状況を招来することができる。
 未来を知るのには現在を観測しなければならない。未来をコントロールするには現在において外界に働きかけなければならない。しかしこの未来の予知と未来のコントロールには、過去の事件の変化を研究しなければならない。ときには新しい経験を意識的に作る。これが科学の始まりである。

――渡辺慧『時間はすべてを貫く』

 未来を知ること。そして未来をコントロールすること。科学――とりわけ物理学の目ざすところは、結局そこにつきるのかも知れない。そして“サイエンス・フィクション”と呼ばれるSFの内側にあるのも、おそらくその同じ願望だろう。SFは未来を描こうとする。未来を知り、未来を夢み、場合によっては現在に警鐘を鳴らそうとする。未来から現在への情報伝達こそ、この種のSFの暗黙の目的なのである。

 “未来から来た手紙”というテーマが魅力的なのは、それがこういうSFそのものの意味と機能を要約しているからだろう。時間軸をずらして見れば、これはH・G・ウエルズ以来の“タイム・トラベル”テーマとなる。現在を、過去から見た未来と見なす視点は、未来の不確定性ゆえにわれわれを不安にする。そこに“タイム・パラドックス”が生じる。過去に戻って自分の父親を殺したらどうなるか、などといったパラドックスを知的ゲームとして考えるのは楽しい。しかし、こういったパラドックスは、確定しているはずの現在が、実はそれほど確かなものではないかも知れないという不安の表明に他ならないのだ。

 本書『タイムスケープ』は、カリフォルニア大学の理論物理学者で、一時期タキオンの研究もしていたことのあるグレゴリイ・ベンフォードの、一九八一年度ネビュラ賞受賞作である。科学者作家らしく、“未来からの通信”のハードSF的ディテールは、タキオンの物理やウィーラーとファインマンの時間論を用いて、科学的にもっともらしく見えるよう書き込まれている。ちなみにこのウィーラーとファインマンの考え方(遠隔作用の理論)は、わが国でも堀晃氏がその作品によく登場させているものである。物理学の正統的な考え方とはいえないが、SFで時間を扱う際にはもちろん、ブラックホールの内部のように因果律が意味をもたなくなるような領域でとりわけ有効な理論である。マッハ原理にも通じるSF的な魅力をもった理論なのだが、定常宇宙を前提としているため、現在の一般的な宇宙進化論とは矛盾するのが難点だ。ところがベンフォードは、本書の最後で、その矛盾を解決する壮大で美しいイメージを提出している。科学的な正当性はともかくとして、未来が過去に、過去が未来につながる因果のダイナミック・ループは、いかにも本書の結末にふさわしい、センス・オブ・ワンダーにあふれたイメージである。時間風景(タイムスケープ)はあらゆる方向へと揺れ動くさざ波だ。一方向に流れる川のような時間はもはや存在しない。パラドックスは吸収され、別の波、別の宇宙を形づくる。その無数の宇宙の間を、タキオンのしだいに弱まるビームが結んでいる。

 SFを読み慣れた方なら、これはよくある平行宇宙のアイデアじゃないかと思われるかも知れない。それは確かにその通りだ。パラドックスをゲームとして追求した過去のSF作家たちが行き着いた所は、やや異端的な現代物理学の示唆する結論と大変良く似ていたのだ。パラドックスは、それを頭の体操として考えるごく一部のSF以外では、もう本質的な問題とはいえなくなってしまったのだろう。未来が変えうるものならば、現在だって変わるのだ。

 本書で、通信が未来から現在へではなく、一九六三年というわれわれにとっての過去へ送られていることに注目していただきたい。このことによって、本書は“IFの世界”というSFのもう一つの大きなテーマにも接近している。本書の中で何げなく言及されている「フィル・ディックの新作『高い城の男』」と同様、ここに描かれた二つの世界は、われわれから見ると同じくらい隔たった、同じくらい不確かな世界なのだ。過去も未来もない。あるのは隔たりだけだ。きわめてリアルに描かれた二つの時代からのメッセージを、その中間点で受け取るわれわれには、ノスタルジーと可能性の入り混じった、何ともいえない切ない感覚が残る。一九六三年と一九九八年、それは読者であるわれわれ自身が共に過ごした(過ごすだろう)そして現実には無縁の時代なのだから。

 というわけで、本書は細部まで書き込まれたハードな時間テーマSFの傑作である。ところが、ベンフォードが最も力を入れて書いているのは、むしろ科学者とその日常生活を描いた、普通小説としての側面なのだ。この側面に関して、くどくどしい解説は不用だろう。ベンフォードはいつも、「SFに出てくる科学者は単純に描かれすぎる」と述べて、スーパー・ヒーローでもマッド・サイエンティストでもない、個性をもって普通に生活している科学者たちを作品に登場させてきた。とはいえ、『夜の大海の中で』のナイジェルがいい例だが、彼らの多くは普通の人間というよりも、現代の没個性的な世界においてはいささか個性が強烈すぎ、組織からはみ出しがちな存在だった。過去のスーパー・ヒーローとはタイプが違うが、やはり七〇年代ふうのヒーローだったといえよう。それが本書になると、ずっと理解しやすい、より平凡な人間となっている。彼らがヒーローになってしまうのはまったくの偶然であり、時代的な背景と科学者によくある普通の頑固さのおかげである。一九九八年のレンフリューは自分の仕事を確保するために研究予算が欲しかった。一九六三年のゴードンはむしろ主任教授との妥協を望んでいた。彼らがむきになって仕事にのめり込み、結果的にヒーローとなったのは、多分に状況的な要因によるものである。本書では、主人公となる科学者の他に、脇役にも面白い人間が多い。あらゆる女に敵意を抱くピータースン。家庭より外に視線を向けることを避けてしまうかわいそうなマジョリー。反共思想と進歩的ライフスタイルのブレンドで東部インテリのゴードンをどぎまぎさせるカリフォルニア娘のペニー。ゴードンの困惑もアカデミズムの冷たい視線も意に介さず、「科学を六時のニュースに割り込ませよう」とするシュリッファー。先生たちの争いに巻き込まれながら黙々と実験を続ける学生のクーパー。皆それなりの存在感をもった、生きた人間たちである。とりわけ一九六三年の章は、今や過ぎ去った夢のカリフォルニアでの生活を、ノスタルジックな映画の一場面のような甘ずっぱい感傷をかすかに漂わせつつ、見事なリアリズムで描き出した傑作だ。この章には有名な科学者たちも多く実名で登場し、楽屋落ち的な楽しさもある。ゴードンにやたらと議論をふっかけるオクラホマから来たふたごの大学院生が出てくるが、これはベンフォード兄弟の当時の(多少時間の前後はあるかも知れないが)姿に間違いない。ベンフォードはふたごの弟ジムと共に、当時実際にこのキャンパスで学んでいた。彼はここで固体物理を研究し、博士号を取ったのだった。その後彼はプラズマ物理学に、さらに天体物理の相対論的扱いに興味を転じ、現在はカリフォルニア大学アービン校(ロサンジェルス)で準星や高エネルギー天体の理論的研究に従事している。彼はまた一時期ケンブリッジに渡り、ブラックホールから放出される高エネルギー粒子の研究もしていた。本書のケンブリッジの章には、そのころの経験が生かされているに違いない。

 SF作家・ファンとしてのベンフォードの経歴は、『夜の大海の中で』の高橋良平氏の解説を参照していただきたい。十四歳の時から弟とファンジンを編集していた熱心なSFファンだったが、今ではSFの現状に不満を抱き、よりリアルでスペキュレイティブな表現を目ざしているという。もっとも彼は現代の主流文学にも同様な不満を抱いているのだそうだ。科学者の生活と科学それ自体について扱った小説は、SFにしろ普通小説にしろこれまでほとんど書かれていなかった。ノンフィクションの分野では、DNAの発見を巡る科学者の赤裸々な人間像を描いた、ノーベル賞受賞者ワトスンによる『二重らせん』のような傑作があるのに。ベンフォードによると、本書の執筆意図のひとつは、小説版『二重らせん』といったものを目ざすことにあったという。その意図は見事に成功したといっていいだろう。

 陽光あふれる六〇年代のカリフォルニアと冷たく暗い九〇年代のケンブリッジに、われわれは働く科学者の時間風景(タイムスケープ)をかいま見た。われわれ自身の世界をのせた時空のさざ波は、いったいどういう時間風景(タイムスケープ)を運んで来るのだろうか。

(付記)昭和五十七年、早川書房刊行の海外SFノヴェルズ『タイムスケープ』の巻末解説に手を加えたものです。

1988年5月


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