私の世相体験1

2005年09月03日(土)「小川で洗う」
 そこは、家からほど遠くない鉄道の踏切近くの小さな小さな小川で、その小川はまた線路の下へと流れているところでした。 さらに、線路工夫さんの官舎が一軒、線路脇に建っていました。

 そこの若いおばさんも、よく小川で洗い物をしていました。それで、大人も子どもそこで出合っては、おしゃべりしながら家のお手伝いをしたものです。 鉄道官舎のおばさんは、時には私たちを家によく呼んでくれて、おいしいものを食べさせてくれたこともありました。

 2〜3人もいると一杯になる、そんな場所での体験がとても楽しく思い出されます。 当時水道が引かれていない地域のことです。大人たちには、水くみの厳しい家事であったことでしょうけれど、子どもにとっては楽しい遊び場のひとつでした。

2005年09月02日(金)「田舎の子ども教えます」
 疎開してから、近所の子どもたちにいろんなことを教わりました。その中の2〜3を教えます。

 たきぎ拾い、わら草履づくり、農具の使い方、洗い物などなどです。最初に、たきぎ拾いから始めましょう。 近所の子どもたちから山にたきぎを取りに行こうと誘いがありました。「おいこ」を背負って出かけました。(二宮金次郎さんが背負っている物)

 倒れた木の小枝を束ねるのですが、私には出来かねます。縄を渡して小さな束を作るコツを教えてもらい背負ってみました。 ところが、そんな作業をしたことがない私は、立つこともできない有様。両手をばたばたさせて起きあがろうと必死なのに立てません。

 そんな私に起きあがるコツも教えてくれました。そんなことで、母親に喜んでもらえるので、近くの同級生Mさんとふたりで山にたびたびたきぎ拾いに行きました。

2005年08月05日(金)「もしガンジーが生きていたなら」
 先日受けた「高校基礎英語認定テスト」の中で、「インドの偉大なる指導者‐モハンダス・ガンジー」から出題されました。 帰宅後再びプリントを開いて読んでみると、よい言葉に出合いました。

 彼は富裕層の家庭に生まれました。しかし彼が幼い頃、身近な人々の差別に気づき、成長して国の独立と差別撤廃に生涯を捧げた立派な人であるが、 1948年若いヒンズー教徒によって射殺されました。そして世界中の人を悲しませました。

 そのプリントの中で、次のような願いを込めた言葉が記されていました。
「もし、彼が今日生きていれば、彼は世界の平和に貢献し続けているだろうに。」

 日本は被爆60周年を明日迎えます。あの悲しみを心に刻み、平和への願いを持ち続けたいものす。

2005年07月15日(金)「あぜ道で道草」
 私が疎開した村をSとしましょう。小学校からの帰り道、よく道草をして帰りました。自宅から学校まで早足で30分はかかります。 大体帰宅は一人が多かったように記憶しています。

 S村では殆どが田んぼで、縦横に走るあぜ道は恰好の遊び場所となりました。 当然水路も田んぼの中を走り、その水を堰き止める畝があったり、細い農道があって季節季節には、結構珍しい生き物や植物が生えていて、 私の好奇心を満たしてくれる遊び場として楽しいところとなりました。

2005年07月14日(木)「初めての稲刈り」
 疎開してみると、田んぼはあちこちにありました。町と違って、田んぼに引く水路が村の道路脇を通り、夏になり学校から帰えるときには、 そのせせらぎのような水の音を聞くと暑さが和らぐような感じを受けました。

 稲が実り、たわわになる頃小学生にも刈り取り作業の勤労奉仕の依頼がありました。多分農家の男性が兵隊にとられて、働き手が足りなかったのでしょう。 私は、初めて持つ鎌の持ち方から稲の引き具合まで教えてもらい、一生懸命にお手伝いしました。

 そして、なんといってもうれしいかったのは、お礼にぼた餅が振る舞われたのです。 その美味しかったこと、私たち非農家ではとても手に入らない餅米に、たっぷりの小豆のあんがまぶしてありました。今でもあの味わいを忘れることはありませんね。

2005年07月13日(水)「地下足袋にゲートル巻いて学校林へ」
 私たち疎開児童はクラスに10名ばかりいました。夏になり学校林の草刈りに私たちも狩り出されました。なにしろ、町の子どもには生まれて初めて奥深い山へ登るのです。 なにか怖いけだものが潜んでいるのではないのか。まむしもいると聞きました。かまれたどうしよう! 

 そんなことで、父が地下足袋を履かせ、ゲートルを巻いてくれました。先ずはこれで安心。 学校を出発して2時間かそれ以上かかたのでしょうか?とにかく深い山の中、登り始めてもその傾斜が怖くてお尻をつけながら這うようにして登る始末。 他の子どもたちは平気でさっさと登っている。おろおろしながら後をついて行き、なんとかその作業は終了しました。

 不思議なのは、私の足にぴったりの地下足袋を親はどのようにして手に入れたのでしょうか?今となっては聞いてみることも不可能になりました。

2005年07月10日(日)「勤労奉仕と学校給食」
 戦時中はどこもかしこも、空き地という空き地はみんな耕されていました。 私が通っていた小学校(市内)の校庭はおろか、近くにあった学校園(?)までも芋畑になりました。当然食事はサツマイモが主食でした。

 校庭に植えた芋の収穫までは覚えていないのでだけれど、どのように処理されていたのでしょうか。 食糧難の時代とはいえ給食はありました。今思えば汁物だけだったような気がします。弁当箱を持参したような記憶があります。そのことから副食だけだったのでしょう。

 成長期の私たちにとっては、この食料不足は辛い日々でした。多分この時期の子どもたちは、体の成長が遅れていたと思います。

2005年07月03日(日)「サイパン玉砕」
 「6月27日天皇、皇后両陛下がサイパン島へ慰霊のため訪れてお参りされた。」とニュースで報じられていました。 そして昨日、「僕らは玉砕しなかった・少年少女たちのサイパン」NHKスペシャルで戦後60年初めて語る真実。を視聴しました。

 私たちも小学生の時、この事実を担任の先生から明かされました。 当日、授業時間が始まる前に先生がこのことを話し始めると、その声は涙声に変わり、眼鏡を外して涙をぬぐいながら伝えられたことをしっかり覚えています。

 全員玉砕したのだと伝えられてきたのですが、1万3千人の子どもたちが生き抜いたことを知りました。 しかし、その子どもたちが世に絶するような体験をしていることに知り心が痛みました。どんなにか辛い、耐え難い体験を引きずってきたことでしょう。

 これからも世界中が平和でありますように祈ります。

2005年06月27日(月)「魔法のことば」
「こ・と・り・がくるよ」ということばは、なぜか、子どもたちに恐れを抱かせ、不安をかき立てるに充分な響きがありました。

 子どもたちの間でも、「こ・と・りって、何だろう?」と話題になりました。 「噂によると、悪いやつが現れて子どもたちをさらっていくらしい」、「そうしてどうなるの?」、「サーカスに売られるらしい」、 「サーカスではとっても厳しいしごきがあってねぇ」などと、子どもたちはささやき合ったのです。

 そうなると、「おとうさん、おかあさんがいない、遠くに連れて行かれる。それはいやだ!」ということに落ち着きました。 本当のところは、今だに解明されていません。大人の本意はなんだったのでしょうね。

 ちなみに、長男もそのことばを子どもの頃お婆ちゃんから聞いたことあると、最近になって話してくれました。

2005年06月25日(土)「ことりがくるよ」
 私たちの子どもの頃は、日が暮れるまでよく遊びました。ひしめくように建つ家々の少路は、格好の隠れ場になりました。ちょっと広い場所の中心に缶をおきます。 だれかひとりが思いっきりその缶をけります。そのカーンという転がる音がする、子どもたちはいっせいにその場から姿を消してしまいます。 鬼は缶を拾って元の位置へ缶をおいてから隠れた子どもたちを探し始めます。

 幼い子どもも加わりますが、中心は小学生だったように思います。遊びはスリルがあり、楽しくて楽しくて仕方がありません。 ついみんな夢中になって帰りが遅くなり薄暗くなってしまうのです。

 そんな折、親たちは口をそろえて「ことりがくるよ、早う帰らんにゃ」といいます。 すると子どもたちは「ことりがくるから帰ろ」と、ちりぢりになって我が家へと急ぐのでした。

2005年06月20日(月)「アンティーク・ドール」
 私たちの子どもの頃は、アンティーク・ドールとは無縁な世界でした。 ところが級友にひとり、そのお人形を沢山持っている、ひとりっ子のせっちゃんという女の子がいました。

 私は、時々放課後か日曜日かに彼女の家にお邪魔して、夢にまで出てきそうな可愛いお人形をさわらせてもらいました。 お母さんが洋裁をしている人で、当時としては珍しいミシンを踏んでお仕事(趣味?)をしておられました。

 何体もあるお人形は、お母さんの縫った本物の洋服を着せられていました。 広い家で、廊下とか部屋の至る所にお人形が飾られ、それはもう夢心地でした。

 今振り返ってみると、せっちゃんも嫌がらずに家に招きいれて、さわらせてくれたものだと思います。きっと彼女は心の優しい子どもだったのでしょう。

2005年06月16日(木)「ドールハウス」
 最近、着せ替え人形が人気だとテレビで報じていました。その人形は贅沢な衣装に包まれていました。そして、私たちの子どもの頃に思いを馳せました。

 もちろん、私も女の子、人形遊びをよくしました。その時代、贅沢な人形を持っている者はほんのわずかでした。 私は適当な紙箱に仕切りをつけて部屋割り、人形はといえば、よくて、母の虎の子のちり紙を丸めて頭を作る。衣装などは新聞紙であったりしました。

 長じては、子どもたち羨望の駄菓子やさんで、着せ替え人形にもなる可愛い女の子(ベティーさんなど)が印刷された、塗り絵セットなどで人形遊びを楽しみました。 たいてい、お人形遊びはひとりでしたような記憶があります。

2005年06月10日(金)「青い目の人形」
 「Sちゃん(私)ちょっと家においで」と私が小学5年生の時、隣の大家さんのお姉さんから声がかかりました。 家に行ってみると、音が漏れないようにカーテンを引いて「これは内緒よ」といって、「青い目の人形」のレコードをかけて聞かせてくれました。

 そのレコード針は竹製でした。よほど印象に残ったのでしょう、そのこともはっきり覚えています。当時物資不足でいろんな物が代用品でまかなわれたのでした。 写真の原板もガラスで代用されていました。

 戦時中、「青い目の人形」は敵国の歌として聞くことを禁止されていました。それだけに、なおさら新鮮で、秘密を共有しているドキドキ感を味わいました。 当時、ラジオや蓄音機(レコードプレイヤー)を持つ人はわずかな時代、とてもうれしかったし、少しうらやましい気持になりました。

 「青い眼の人形」

青い眼をしたお人形はアメリカ生まれのセルロイド
日本の港へついたとき一杯涙をうかべてた
「わたしは言葉がわからない迷子になったらなんとせう」
やさしい日本の嬢ちゃんよ
仲良く遊んでやっとくれ

1921(大正10年)「金の船」作詞 野口雨情作曲 本居長世

 歌の部分は、ヨコスカ図書館HP 文責 仲野正美から引用。

2005年06月03日(金)「おやつ」
 私が小学3年生の頃でした。近所の男の子が喉にきなこをつまらせて大騒動となりました。大人たちのあわて振りから、ただならぬ状況と見て取り、 子どもたちもその子の家を遠巻きにして心配そうに事の成り行きをみていました。

 事の発端は、親が留守なので子どもがこっそりと、きなこを食べていたところへ親が帰宅したのであわてたようです。取りあえず、その子は事なきを得て元気になりました。 その頃のおやつといえば、びわ、イチジクや柿などの身近な果物。寒天のようかん、ふかし芋や干した芋の粉で作ったお団子など、手作りのものが多かったように思います。 お店では豆類を加工したものなどがあり、夏はすり氷などもありました。 

 いずれも、砂糖は貴重品なので塩で味付けされたものが殆どしたが、唯一甘いものでは飴がありました。 当時のおやつは、駄菓子やさんでも売られていました。硬貨を握りしめ、あれこれ迷いながらお店の品々をのぞき込んだものでした。

2005年05月30日(月)「車力で疎開」
 昭和20年3月のことです。あちらこちらで疎開がささやかれることが多くなりました。当然、5年生のこどもの私にもそのニュースは充分伝わってきました。 我が家では、約22キロ離れた田舎の親戚に空き家があるというので、そこへ一家で疎開することになりました。

 なんといってもあの時代、家具を運ぶトラックを調達するのも並大抵のことではなかったのでしょう。 大きなタンスや長持はトラックで、残りの小物は車力で運ぶことになりました。

 小さな弟妹がいるので母は疎開先で待機、父と私とでその荷物を運ぶことが決まり、私たちは、お昼頃までには到着する予定で市内の家を後にしました。 ところが5年生の私の力では思ったより距離を稼げなく、お昼はおろか、あたりは暗くなり、やがてあたりは月明かりが射してきました。

 お腹はぺこぺこ、力も沸いてきません。途中農家に寄って海苔とおむすびを交換して下さいと父が頼みましたが、それも駄目でした。 取りあえず他の農家で荷物を預かってもらって、とぼとぼと疎開先の家へ戻ると母が心配そうに私たちの帰りを待っていました。

 60年経っても、あのときの光景が鮮明に浮かび上がります。

2005年04月02日(土)「ボールは配給」
 トレーニング・ルーム体験記でボールのことに触れましたが、私たちの子どもの頃は物資が乏しく、ましてや遊具などのようなゴムボールなど、 なかなか手に入りませんでした。

 それでも学校へ何個か白いゴムまりが届けられました。私の記憶では直径10〜12センチくらいの大きさだったと思います。 私たちはクラスに2〜3個割り当てられたのをくじ引きで手に入れたのです。その時のドキドキ感は今も鮮明に覚えています。

 うまく、くじを当ててもらった白いゴムまりの手触り、匂い、弾みなどを愛おしむように、そっと手に持ちその感触を味わいました。 配給される間隔については、子どものことで記憶はありませんが、とにかく待ち遠しかったのは確かです。

 手に入れたゴムまりは翌日から、校舎の周囲巡らす幅1メートルにも満たないコンクリートの上に落として手のひらで受け止める、 まりつき遊びに熱中したものでした。

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