インドでワシも打ちのめされた_エピローグ

 こいつを書き上げる際には多くの参考文献を利用させてもらった。以下、簡単に紹介をしておく。

  椎名 誠著「インドでわしも考えた」、妹尾河童著「河童が覗いたインド」
  蔵前仁一著「ゴーゴー・インド」、堀田善衛著「インドで考えたこと」
  五島 昭著「インドの大地で」、横尾忠則著「インドへ」
  瀬戸内晴美著「インド夢幻」、藤原新也著「印度放浪・上」「印度放浪・下」
  中沢新一著「3万年死の教え(チベット死者の書の世界)」、ライフ人間世界史「インド」
  地球の歩き方「インド」、深井聰男著「インドを歩く(三千世界の旅ガイド)」

 まあ何はともあれ ☆プロローグ☆ でひたすら願っていた五体満足、無事にインドへ行って帰ってくることが出来、
とにかく今は「ホッ」と一息ついているところである。

巷でよく言われているハナシではあるが、インドを旅してきた人は、
「とにかくワシ、インド大好き!誰が何と言おうとインド大好き!文句あるか。」
「文句があるモンは言うてみい!」といった様な『やっぱりインド崇拝派』と、
「とにかくワシ、インド大嫌い!誰が何と言おうとインド大嫌い!文句あるか。」
「文句があるモンは言うてみい!」といった様な『インドもうコリゴリ派』とに、はっきり分かれるらしい。

で、「当のワシはどうだったか?」と言うと少なくとも後者ではない。
「それならば前者か?」と問われると完全にそうでもない。
幸いにしてインドを旅行中は体調を崩すこともなく、ほぼ当初の予定通りスケジュールをこなすことが出来たので、
当然のことながらあまり悪い印象はない。
インドについての細かい不満は捜せば幾らでもあるのだが、
相手は”悠久の大地”インドだと思えば不思議と許せてくる類のものだ。
結論から先に言うと「あらゆる物が強烈で、疲れたけどやたらと面白かった!」のである。

・法外な手数料をだまし取られ、見事にしてやられた”ジーコ”とその一味。
・本当に壮麗で美しかった白亜の大理石建築・タージマハル。
・油断もスキもあったもんじゃないリクシャーワーラーとインド人商人。
・鼻水をズルズル垂らしながら食べた激辛のターリー(カレー定食)。
・世の中の流れを完全に無視して街中のいたる所でノサバリ続ける野良ウシども。
・「何でもありーの!」のガンガーで沐浴を続ける敬虔なヒンドゥー教徒と火葬場の炎。
・ニューデリーで予約した1等寝台券を問答無用ただの紙切れにしてくれたインド国鉄。
・「世界最悪の居住環境都市」カルカッタで暮らす数え切れないほどの路上生活者。

数え上げたらキリがないが、ワシにとっては本当に強烈な”インド体験”であった。
こうして日本の自宅で振り返ってみて、改めて「いい旅が出来たな。」と自負している。

 そもそも今回の「インド行き」は、ワシが1992年の夏からシコシコと続けてきた
「海外戦略プロジェクト」の集大成なのである。
そしてこの「海外戦略プロジェクト」は今回の「インド行き」の終了をもってひとまずその幕を閉じるのである。
では、ワシにとってこの「海外戦略プロジェクト」とはいったい何なのであるか?
「はじまりはいつも雨」じゃなくて、でも本当にひょんなことから始まったのである。

 思えば1992年の5月連休。たまたまツーリングに出かけた山陰の隠岐ノ島において、
ひょんなことから”友好条約”を締結してしまったBさんがコトの始まりである。
その時のワシは、本土をバイクでほぼ走り尽くし、「離島めぐり」に勤しむ身であった。
しかし、不思議と「海外旅行」は思考の範囲中(身近)にはなかったのである。
ワシ自身、それまで海外なんてツアーで行くものだと思っていたし、ましてや行き当たりばったりの個人旅行、
それも一人ぼっちでなんか行けるわけがないと思っていたのだ。
     ・・・・・・・・・・
「中国の北京なんて、ディパック1個でチョチョイのチョイですよ。」
そんなワシに、かのBさんはエラソーにのたまってくれた。
「本当ですか?」 ワシは、深い疑惑の念を込めて聞き返した。
「本当です。」 坂野さんは、先ほどまでダラけていた背筋をピンと伸ばし、胸を張って静かに答えた。
世界中を旅して口車の巧みな坂野さんと、言われたコトはすぐ鵜呑みにする素直なワシ。
そして1ヶ月後、見事にたぶらかされたワシは、旅行代理店に中国・北京往復の航空券をブッキングしたのである。
それからのワシは坂道を転がり落ちる石のごとく、年末はネパール・ヒマラヤ、翌年夏はトルコ・イスタンブールへと旅立った。
もちろん、現地での宿や移動手段の予約は一切ナシの完全な個人旅行である。
始まりは「ひょん」ではあるが、そのうち尾ヒレが付き、胸ビレが付き、背ビレが付いて
この年末年始の「インド行き」へとつながるのである。

当初はただの好奇心だけだったモチベーション(動機)は、各種のヒレが付いてから後、
ワシの「海外戦略プロジェクト」に次の様なスバラシイ目的として備わったのだ。
 ・異文化・異宗教と出会うことにより自己の視野を多角的に広げる。
 ・発展途上国の実態を知り自己の「飽食・ぜいたく」を見つめ直す。
 ・「自己完結型」の旅をやり遂げることにより達成感、自信を得る。
 ・「知的」も含めて色々な好奇心を満足させる。
 ・「紀行文」と「写真集」の取材を行う。
いずれの目的にもなかなかにエラソーな”各種ヒレ”が付いているであろう。

 ワシは、各地で体験したカルチャーショックを通して、ガラにもなく色々なことを考えた。
例によって、ワシの思考パターンは巨大迷路顔負けの”袋小路支離滅裂型”なのだが、
得意の方向感覚を駆使して深慮した結果、ようやく次の2点に収束しつつある。
  『他人、他国(異文化)を知ること、知る様に努力すること。』
  『例え目の前の事実を理解出来なくても、まずは「広い心」を持って認めること。』
とにかくこれは「重要」である。この2つが完全に出来てさえいれば、
現在も依然として世界各地で続いている”いさかい”や”もめごと”は、キレイさっぱり消えてなくなるだろう。
で、これを実践するためには何はなくとも”謙虚な姿勢”が必要となる。
「自分だけが正しい!」のではないのだ。同じ様に「相手も正しい!」のである。
これを理解するのは簡単なことのようで、実は大変に難しいことらしい。
少なくとも、ワシはそんなに難しいことだとは思わないのだが・・・・・。
でもやっぱり、自分(とその周り)のこと(利権構造の保守)だけしか考えられない様な人には無理な注文かなあ・・・。

 以上の様に「海外戦略プロジェクト」の実行は、
”悩み多き30代”に差し掛かるワシにとって、とても重要な役割(指針)を果たしてくれたのである。
ご時勢がご時勢だけに決して安いコストではなかったのが、
結果を見ればこれはもう「一石二鳥」どころか「一石三鳥」いや「一石四鳥」ぐらいにはなっている。
ワシの行動指針である「是非ともモトは取らねば!」にも十分叶っているわけだ。
ちなみに世間では、このことを「大成功」と呼ぶらしい。
「パチパチパチパチ・・・・・。」 ワシは思わず拍手をしてしまうのである。

 そうなると、こんなに有益なプロジェクトをみすみす終わらせても良いものかという気が起こってくるではないか。
これは至極当然の成り行きであろう。
わかりやすく言えば、「海外戦略プロジェクト」にバリエーションが追加されたのだ。
ひと呼んで「第2期・海外戦略プロジェクト」である。
ネーミングに相変わらず安易な点が認められるのは、著者の”お愛敬”ということで勘弁していただきたい。
現時点でおぼろげながら決まっていることは、今年夏の「ヨーロッパ・ツーリング」である。
言わずもがなヨーロッパをバイクで走るのだ。
これまではバックパック1個を背負い、公共の交通機関で移動していたところを、今度は自分のアシで移動するのである。
考えただけでもワクワクしてくるではないか。
実はワシも1000ccと250cc、オンオフ2台のバイクを所有するれっきとした現役バリバリのライダーなのである。
そうなると、
「マッターホルン(4478m)がワシを呼んでいる。」
「アルム(傾斜牧草地)のもみの木がワシを呼んでいる。」
「美しく青きドナウ(ウィーン)がワシを呼んでいる。」
「ザルツブルグのモーツァルトがワシを呼んでいる。」
「百塔の街(プラハ)がワシを呼んでいる。」
「ボヘミアの森がワシを呼んでいる。」
「白鳥城(ノイシュバンシュタイン城)がワシを呼んでいる。」
「ソーセージとミュンヘン・ビール(バイエルン地方)がワシを呼んでいる。」
とにかくいろんなものがワシを呼んでいるのだ。行くしかないではないか。
「いっ、行くしかない!」 ワシは中空に持ち上げたこぶしをやや震わせつつ、誓いの言葉を叫んだ。
もうここまで来たら(別に来てないけど)、行くしかないのである。

 その後の消息筋によると、”お嬢達”はカルカッタで無事マザー・テレサに逢った後、
F嬢の突然の”卒倒”で帰国便に乗り遅れたらしい。
そして今度は、成田空港の検疫で”法定伝染病感染の容疑”をかけられ、”保護観察処分”の身となったと言う。
T君はT君で、おそれおののいていた「¥335,000也の請求書」が来たと言う。
人生、それぞれにいろんなことが起こるのである。

 最後に、親愛なるインド亜大陸とそこに住む8億インド民衆の方々、
及び辛抱強く最後まで読み続けてくれた読者諸氏に感謝の意を表して「インドでワシも打ちのめされた」を結びとしよう。

1994年 3月31日(木)23:35 自宅にて

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