新羅の古都、慶州旅行
               
 大阪空港発、釜山行き日本航空便は飛び立って北西に針路をとり、いま島根上空に差し掛っている。
                     
『近くて、遠い国』韓国に出掛ける気になったのは、人麿の歌を古代韓語を暗諭して謎解きをする本で古代新羅に興味を持ったこと。
 最近の風潮で余り韓国文化と日本の違いが強調されると、両民族の言葉の構造は共通した膠着語なので、祖語は違っても思考プロセスは似たようなものではないかとの思いがあって、行ってみようという気になりました。
                   
ところで、この航路は不思議な暗符で設定されています。
 大和から、出雲を越え、新羅に至る道筋は、何とも古代の文化と民族移動を逆行するようで、素敵なルートです。
      
 出雲と言えば、戦前の教科書に出てくる大国主命の兎を蒲の穂で癒す話の意味が、少年時代ちっとも分からなかったことも思い出されます。
 その後少しは本も読んだけど、今もたいして分かっていないことに変わりはありません。
なぜ日本海に鰐が行列したのか。
鮫のことだと言われても、兎が背中を踏んづけて渡っているのを想像しても、どうも実感が伴わないのは僕だけでもなさそう。
 朝鮮半島から島伝いに渡って来たことの寓話だと言われても、そうかとの実感が湧かないことに変わりがありません。
                 
 『昔、三つの太陽があって、英雄が二つを射落としたとの伝説を持っている民族は、南方より北の地に移住した歴史を持っている』
と言うような、誰にでも納得のいく簡明な説明ではありませんでしょう。
               
 それにつけても、かって大和王朝に滅ぼされた、イヤそうではなく国譲られた出雲の、その鎮魂の宮社の上を飛んで新羅の古都慶州に出掛けるのは因縁めいていて一層歴史への興味を駆きたてます。
                           
 ところで、韓半島を呼ぶ時、何時も呼名に苦労させられます。
 日本の外国人登録で韓国は南、朝鮮は北を指すことから、韓半島全部を韓国と呼べば保守派、朝鮮と呼べば左翼と決めつけられる恐れがありますでしょう。
 今や日本では韓も朝鮮も政治的用語であるらしい。
 弱って英語のコリィアを使う人まであります。
しかし、コリィアは高麗を意味しますが、高麗は十世紀韓半島を統一しましたが、その治世は短く、日本人には北方王朝の高麗を韓半島を代表する王朝として意識されたことがありません。
        
 『朝鮮』の国名は李氏王朝の始祖李成桂が十四世紀末高麗王になったとき、当時の中国の明の皇帝より『朝あざやか』の国名を賜ったことが起源ですから、いくら当時は宗主国であっても、いまだによその国から貰った国名を有り難たがる人の気持ちが判らない。
 あれだけ名前の売れたセイロンだって自前のスリランカに国名を変えましたね。
                  
 伊丹を飛び立ってから僅か四十分で、飛行機は高度を下げ、みま那日本府のあった釜山近郊のキムヘ(金海)空港に着陸しようとしています。
 海一つ隔たっただけのこの地の最初の印象と言えば、海岸地帯の黒松の美しさは別にして、山には樹木が少ないことです。
中国でもそんな印象を受けます。
                      
誰かが言っていたが、五十年も百年も後の子孫の為の植林は儒教文化の親に対する孝の考えからは導かれないと。
 いやそうではなく、庭すらも大自然の姿に保つ民族の美意識からして、植林は自然を破壊するとの健全な民族感情がそうさせていると思いたいですねえ。
                      
 キムヘ空港は、極東、東南アジア特有の猥雑さはなく、清潔な感じです。
 入国カウンターの係官のにこやかさに気を強くして、覚えてきた語学テープの成果を試してみる。
「アンニョンハシムニカ」
「韓国は初めてですか」
 流暢な(?)韓国語を話しているつもりの相手に「初めてですか」もないでしょうと、うそぶく。
(後日談、韓国語通によると、アンニョンハシムニカでは何しろ丁寧過ぎて、男が喋るとまずオカマ的に聞こえるそうです。そういえば語学テープは女性の声だった)
                      
 入国係官は、それでも片言の韓国語を覚えてきた涙ぐましい日本人に好意を示して、サッサと通過させてくれました。
 サッサと通過した筈なのに外に出ると妻が先に出て、出迎えのガイドと談笑して待っている。
「遅くなって、御免」
                          
 早速駐車場に案内されて、マイクロバスに乗り込む。
 行き先は、慶州。新羅の古都。
                             
 この度の旅行は、我々夫婦と十六世紀この地で戦死した宇喜多の侍大将江原某の末裔・老E氏が同行して三人の旅になりました。
                    
 ガイドの金さんは三十才近いと思えるが、気立のよい小柄の女史である。
 「ガイド試験に通ったばかりの新米ですのですみません」との挨拶で、私達は好感を持った。
                      
ソウルから釜山に通じる高速道路に乗る、空港からの連絡道路は目下工事中で、我々のマイクロバスはおもいっきりゆれて、ノロノロと進んでいく。
                     
 小一時間後、やっと高速道路に乗った。
 戦闘機発着兼用の道路は只々広く、中央に分離帯がない。
舗装もアスファルトではなく、コンクリートである。
       
屈強な運転手君は、決して新し過ぎないマイクロバスで、このガタガタ道を、客人をもてなす親切心を漲らせ、猛烈に飛ばして行く。
 造ったばかりなのに、所々もう修理をしている。
『韓国名物、突貫工事、作った先から壊れている』と韓国人著の本には書いてある。
『ハンガンの奇跡』と韓国人が自慢する漢江で、出来たばかりのビルが倒壊したとの記事を見たことがある。
                          
 寺院を数百年単位で綿密に、或いはしつこく造っていくヨーロッパ、下水道を気も狂うばかりに張り巡らしたパリとは異質の文明が此処にある。
                     
 金女史は、恥ずかしそうに壊れた道路を「日本にはこんなことは無いでしょと」言う。
「イエイエ、日本も発想は同じ。安物作りでは世界に冠たる阪神高速神戸線がありますヨ、年中の修理で『半身不随低速道路』ともいいますがネ」(この会話は震災前の話)
                                 
慶尚南道のこのあたりの道路沿いの景色は、小さな水田がちまちまと続き、日本の農村風景とちっとも変わらない。
            
 高速道路は飛行機発着の為か、周りの田畑とおなじ高さに造られているので、騒音防止の隔壁に取り巻かれている日本の高速道路のような周囲の景色とのよそよそしさがなく、ゆったりとした半島的な雰囲気を作っている。
        
金女史と、たあいのない話を始める。
「あなたの金姓はなに?」
「海です」
「ああ空港と同じのキムヘ(金海)ですね」妻が横から「同じ姓では結婚が許されないって本当?」と口を挟む。
「エェ でも金姓は多いので分けてあるんです」
 姓が同じでも結婚する日本の風習を、韓国人は近親相姦だとして軽蔑する。
まあ僕達だって、モスレムが奥さんを四人も持つことに違和感がありますからネ。
                  
一夫多妻には、『御苦労さん』とうんざりする人、めくじら立てていきまく人、『ケネディさんには及びもないが、せめてなりたや宇野さんに』と妬ましがる人と、日本人の反応も様々ですが。
(だいぶ古い話柄になりました)
 日本で妾制度が法律上公認されていたのは、それほど昔のことではありませんのに、外国のことだと偏見を持つのはお互い様ですかネ。
                            
「日本語、お上手ですネ」
「釜山では、日本のテレビが四チャンネルも映るんですヨ」
「道理で」
                    
日本の朝鮮侵入
                          
 かって日本はこの国に三度侵入したことがある。
十三世紀の倭冦と、十六世紀の秀吉の侵略。
最後は二十世紀になっての併合、日本は韓国にとっては、なんともうとましい隣国だった。
         
 或る国際会議の後の会食で、ソウル大学の法学部教授と食卓を共にした時、
「僕は日本に来て良かった」
「日本は平和国家になっていることが判りました。本当に来てよかった」と韓国一流の知識人が感激しているのにア然としたことがあります。
 加害者の側は、勝手なものですぐ忘れますが、やられた方はそうは行きますまいねえ。
                         
ところで、秀吉の侵略に契機について頼山陽は日本外史巻十六に、こんな風に書いている『始め秀吉の、織田の為めに山陽をとなふるや、韓及び明を攻めんことを請ふ。後常に其の志を成さんと思う』と。
 秀吉が侵略を考えたのは、独裁者になって『権力は人を腐敗させる』狂気現象の発生より以前のことだったらしい。
 北条を討って鎌倉に入った時にも、源頼朝の塑像を撫でて、『吾逐に地を略して明に至らんと欲す。なんじ以て何如となす』と問い掛けています。
                             
ところで、第二次大戦後、私達の教科書では日本の歴史の全てを誤りと恥の行為の連続のように書くことが流行ってきました。
渡部昇一氏はその著日本史で、明治維新が成功した一つに、江戸時代に頼山陽の日本外史が広く読まれ、尊皇と民族の自尊心が国民共通の意識になっていたことを挙げています。
        
頼山陽は儒学的価値観に基づいてか、秀吉を非難して
『明主朱ヨクキンの政を失い、武備具らざるを聞き、益々之を窺かがわんと思う』と表現している。
    
 その前の元冦の役で高麗が、モンゴル軍を日本に道案内した意趣返しがあったとする人もありましょうが、時代は明の代になっているのですから道理に外れる意趣返しというものでしょう。
 秀吉は、足利時代の朝貢の再開を韓に求めて、断られたからではない。
明を攻めるから『道導』せよと韓王に迫っていたのでしょう。
                  
秀吉は共に子飼ながら『相善からぬ』加藤清正に毛利討伐の時に信長に貰った記幟を、小西行長に名馬を、それぞれ与えて競争させています。
生まれてこのかた戦いに明け暮れ、全国平定後、その存在価値を失いかけていた戦闘プロ集団が、秀吉から狂気を受け継いだ二将に率いられて、この平和な慶尚道を北上していったのは1597年の春、旧暦二月のことでした。
                      
加藤清正は、小西行長に後れたことを知って『乃ち転じて別路を取り、火を慶州にはなち、其の守将を走らす。
斬首千五百級。転闘して進む』の調子であったらしい。
 しかもこの軍団は、種子島への伝来後50年で当時の世界中に存在した鉄砲の半分二十万丁を保有していたというから凄まじい。
しかもこの鉄砲は悉く国産であったらしい。
                            
種子島に伝来した鉄砲をすぐに分解して国産化を始めた当時の逸話に、火縄の発火部分の細工が判らなくて、現在価格にして七千万円を出してノウハウを買ったとの話があります。
一方、銃身の尻を詰める螺子は巻貝にヒントを得て根来で考案したと言うが、螺子のノウハウを七千万円で買ったとする説の方が納得がいきやすい。
      
 そして国産後二十年もすると一丁の代価米十二石(二十万円程度)にまで量産効果を挙げていたと言うのだから今の自動車産業を髣髴させます。
 それにしても、これほどの鉄砲大生産国が、その後の技術革新である元込銃を発明せず、螺鈿をちりばめた美術銃に執着していったことを歴史家は不思議とします。
                       
何やら陳腐な日本人創造力欠乏説に至りそうなので、話を転じます。
                       
閑話のついでに、ヨーロッパの歴史家は、中国に攻め込んで統治した異民族王朝、それに、周辺の韓、ベトナム民族が漢族の悪習であった廛足、宦官、科挙に染まったのに、同じ儒教文化圏の日本がこれを取り入れなかったことを不思議とします。
そういえば、モンゴルの元王朝もこの悪習には染まらなかった。
賄賂を社会制度そのものにすることもなかった。
                                 
 ところで、日本が漢字を使っているから漢文明の文化圏だとか、亜流だとする説が気に掛かりますので、一言。
                     
文字を借用したから亜流文明になるという理屈がわからない。
 アラビア数字を使う数学はイスラム文明の亜流だとも言えず、フランスではアルファベットを使うから、レバノン文明の亜流だと言えばフランス人はびっくりするでしょうね。
(ヨーロッパの殆どで使われる所謂アルファベット文字は、古代ギリシャでほぼ完成されたとされますが、そのもとはフェニキア文字が祖先だとするのが通説)
                
 それにつけても孔子が、当時からあった廛足の愚習を見て見ぬ振りをしたことをあしざまに罵る向きがあります。
孔子は卑怯を処世訓にしたのでしょうか。
                           
 ところで、韓王の将軍李イツ、申リフ、巡察使金サイは当時の職制からして、軍人である限り古典文学をひたすら丸暗記する科挙試験を通った大官ではなかったと思われます。
官位の低い韓国の将軍たちは、戦うに充分な実権をもっていたのででしょうか。
                             
 日本から攻めてきたのは、当時の極東地域では珍しい実戦経験豊かな戦闘プロ達だった。
秀吉を『山口組が日本を征服したようなものだった』という人の表現は極端としても、『将来』と称して略奪する荒々しい文化否定の武装集団であったことは、いまに残る『秀吉御将来品』の多さがそれを証明しています。
                         
 車は慶州に近づいたことを、ガイドの金女史が、控え目な声で知らせてくれる。
 高速道路を走り始めてから一時間が経って、太陽は西に傾いている。
 金女史は、北方系の済州島美人松阪慶子程ではないが、僕たちが韓国人にもっているイメージとは違い、細面の優しい顔つきの女性です。
                     
 高速道路を下りて、慶州の街近くに点在する農家は、一軒ごとが二メートル高の小石塀で囲われています。
 吹田の民族学博物館に陳列されている精巧な民家模型のとおりで、家屋と中庭を取り囲む小石塀が、この地が時に外敵と盗賊に脅かされてきたことを示しています。
 外敵の侵入がもっと切実になれば、南ヨーロッパの街のように、街全体を城壁で囲み丘の上に移動することになったのでしょう。
                             
 海岸部は裏山の背が海にいたり、山間部では山脈が外敵を遮る自然の要塞を形造る日本とはやや異なった民家のたたづまいが、異国を感じさせます。
                              
車は慶州の街に入って行く。
 連なる街路樹が初夏の日差しの影を写している道路が街を縦貫している。
街は清潔で、人通りもそれほど目立たず、静かなたたずまいです。
                                 
 高さ十メートル程の古墳が七、八基、街の中央の土塀の中に望見されます。
 古墳墓群に寄り添って、商店が散在している。
それに続く新しい市街の民家は、伝統どおり塀でそれぞれ囲われているが、塀は背丈一メートルたらずのコンクリートブロック製である。
                        
 その塀の中の家屋は、伝統承継のせいでもあるのか軒先を反り返した、立派な屋根を持っている。
 親への孝、家族への思いやりに溢れ、儒教と道教の影響の色濃い韓国人は、収入があれば貯蓄より、先ず第一に家を建てると言われますね。
      
このため社会資本が充実せず、収入増は直ちにインフレを引き起こすと嘆く記事が韓国通信でお目に掛かりますが、少しの収入があれば、酒を飲み妻を殴ると言われた昔のあの韓国男は最近は目立たなくなったのでしょうか。
      
婚姻をしても、旧姓そのままで、だから女の扶養義務は、先ず実家の父親、次に実兄弟、第三に夫といわれた韓国の婚姻因習も、夫婦が優先する改正韓国民法典が徐々に変えているのでしょう。
                
 それにしても、韓国人の士大夫と酒を飲むと、漢詩を詠み、興が乗れば作詩に至る。
文化伝統と教養の深さに圧倒されます。
                       
その内天下国家論に及び、悲憤こうがいに至って掴み合いになると言われますが、幸いにも僕には喧嘩になった経験はありません。
     
 ガバナビリテイ、被統治能力、意味不明の奇妙な日本語ですねえ。
明治の先人の翻訳の巧妙さの智恵は失われて久しい。
 『政治を軽蔑する民族は、軽蔑に値する政治しか持つことが出来ない』と言いますが、政治を『賤業』と心得た日本人は英雄という名の独裁者を排除した賢明な民族であったように思えます。
 
それにしても、海一つの隔たりが非日常的な思索に誘い込みます。
ゆっくりと夕日を眺めながら思いを巡らそう。外国旅行の楽しみだから。
            
 車は慶州の町を過ぎて、坂を上がってホテルに近づいて行く。
             
慶州東急ホテル
                 
慶州の街中を通って、郊外の坂道をマイクロバスはゆっくりと上がって行く。
右手にゴルフ場があるが、プレーヤーの姿は無い。
観光客を相手のパブリック式のコースであるらしい。
                          
立派な造りの、慶州東急ホテルの車寄に入る。
韓国の伝統服を着たベルボーイ君が荷物を仰々しく運んでくれる。
日本風に手早く部屋の鍵が手渡され、こちらも日本風にロビ−で休みもしないで素早く六階の部屋に直行する。
                           
部屋は日本の東急ホテル・チエーンと同じく、味わいは無いが機能的で、清潔。
部屋のテラスに出ると、すぐ目の前に広い人工池が見え、日本の観光地によくある白鳥を型取った遊覧船が浮かんでいる。
昼間は歌謡曲が流されているのでしょうか。
                           
演歌というと謡曲、浄瑠璃とか民謡とは異質の感性を持つように感じますねえ。
演歌は、明らかに韓国の旋律と感性のもののように思えます。
韓国育ちの古賀政男の演歌の素敵さ、韓国人歌手の歌唱力は生来のものだといつも関心します。
 この文芸の国から私達は色々のものを学んできました。とりわけ陶芸を。
 
一息入れて、夕食をすることになった。
一階ロビー横の松茸料理の看板に誘われて地下の日本料理屋に入ってみる。清潔な感じの椅子席が並んでいる。
    
六月の松茸は多分冷凍物だろうと覚悟を決めて注文する。
注文を取りにきたのは若い美人であるが、微笑まない。
取り澄ましたのではなく、日本人の感覚からすると無表情と感じる。
西洋人は日本人が意味もなく笑うと非難することがあります。
笑いは卑屈を表現することもありましょうが、しかし、つりこまれるような快い笑いは貴重でしょう。
都会を快適に生きていく日本人の智恵だと思いませんか。
江戸時代、即ち中世、百万都市であったのは世界中で江戸のみでした。
日本人は江戸三百年の平和の中でアーバンライフ(都会生活)を経験した数少ない民族です。
その民族が得たアーバンライフの極意は、「何でも、取りあえず微笑むこと」でした。
                            
中国人だけではなく儒教文化圏の人々は、笑わないと言います。
人に付け込まれないように、馬鹿にされないようにとの智恵だと言います。
日本人は「大足」と軽蔑されようと廛足はせず、野蛮人と馬鹿にされようと暑ければ裸で往来を歩きました。
付け込まれようと、軽薄と言われようと微笑みは日本人に生々としたしなやかさを与えてきました。
いまさら、やめるべきではありますまい。
                             
韓は中国から「東方儀礼の国」と褒められてきました。
皇帝は世に一人しかありえないと言われれば、ただ王とのみ称しました。
これに反して皇帝に対抗して、天皇なんて無教養の極みをいってのけた我々の祖先。
「日出ずる国の天子、日没する国の天子にもの申す」と言ってのけたアッケラカン。
このアッケラカンに気押されたのか、中国人は周辺の野蛮人に獣の名を付けましたが、日本人を倭と呼んだのは矮小を連想する軽蔑語でしょうが、人偏をつけたのは一応の敬意でしたのでしょうか。
 
待っている内に注文の焼松茸が運ばれてきた。
お運びさんは、注文取りとは違って愛想のよい寂しげな表情の婦人である。
韓国人総てが無愛想と決めてかかるべきではない。反省。
                             
ところがこの焼き松茸は包丁で薄切りにして、油で炒めてある。
アア。
「今度来る時は、ホイールと酢だちを持ってくる」
妻の意見に同感。
                        
食事の後、一階にあるホテルおきまりのショッピング街を覗いてみることにした。
薄暗い奥の方に反物を少し置いた店があり、中年の婦人が座っている。
「紬、ある?」
「ありますヨ」やはり無愛想。
「無地紬ではなく、大島紬があるでしょう」
「高いですヨ」
「見せてください」
店番の婦人は、冷やかし客にもううんざりしているのか、一反だけ棚の端にほうり込んでいた色紬をぞんざいに出してくる。
                     
慶州には昔から絹紬の伝統があり織手も多いことから、日本の業者が『大島』柄の紬を織らせていることが新聞に報道されていたことを覚えていた。
我れながら変なことを時々覚えている。
          
ところが、出てきた紬に内心、動揺した。
細かに朱をさした花柄が鮮やかに織り出してある。
    
戦前母が袖を通す度に、自慢にしていた小紋柄の紬ではないか。
友禅が贅沢品で、紬が実用品であった頃、友禅模様に似せた紬は田舎娘の母の嫁入りに祖父が奮発したものであったのでしょう。
                    
終戦後暫く経ってから、母が「あれは派手になったから、手放した」と、ぽつんといったことがあります。
鈍感な少年にも、その着物が食料と交換されたことがわかりました。
その色紬です。
                          
「幾ら?」無関心を装って、聞いてみる。
「十八万円」内心安いと思ったが
「へエエ 高いネ」
「もう長いこと置いているんで、安くするヨ、幾らの値をつけるネ」
売り物の値は、客が付ける東洋の儀礼を心得ている。
                  
判りもしないのに、目を近づけて調べるふりをして、
「十万円」
「それは辛いヨ」とか何とか言いながらも、10万円で商談成立。
                             
部屋に帰って妻の検閲を受けたが、紛いもない本物の色紬でした。
僕は時々奇妙な買い物をする。
                          
翌朝は、一階南端のコーヒーショップで朝食をとった。
日本風に言うとバイキング。
自由に好きなものを取ってこれるビュッフェスタイル。コーヒーだけは別にボーイに注文するらしい。
                  
手を挙げて呼ぶと、にこやかに来てくれる。にこやかさに答えようと、覚えてきた韓国語で言ってみる。
「コッピル、チプシオシオ」
「何だ韓国人か」とばかりに露骨に態度が変わる。
流ちょうな(?)韓国語の注文を無視して、コーヒーを持って来ない。
妻も同じ印象を受けたらしい。
「日本にも終戦後によくあったネ」
                      
暫くして、ガイドの金女史がやってくる。
金女史に状況を話すと、女給仕を呼んでくれて、やっとコッピルにありついた。
ヤレヤレ。
                       
表には、昨日のマイクロバスで同じ運転手が待っている。
乗り込んで、南山の野仏を訪ねることとなった。
街を通過して、桑畑に入って行く。
        
南山の麓に着くと、今日は七名の日本人のツアー客と一緒になって賑やかに、現地ガイドに案内されることになった。
                       
絹の紬織が昔から盛んであったらしいが、日本の養蚕農家風の中二階の蚕部屋を持った家屋は近くには見当たらない。代わりに闘犬を沢山飼っている農家がある。
        
小川に沿った山辺の道を辿ると、高さ十メートルあまりの巨岩の下に出た。
岩全体に仏画が線描してある。
大きな岩に神が宿るとの信仰は、どの民族にもあるらしい。
日本にも摩崖仏が多いのは、韓半島からの信仰伝来であるというよりも、文化の収斂なのでしょう。(収斂は相互の文化伝播によらず必然的に同じ文化を持つこと)
岩の下には人の侵入を防ぐ鉄の柵が設えてある。
神仏の宿る岩を剥ぐのは、ここでも信仰習慣であるらしい。
                        
更に登って行くと、谷間の水田に出た。
「谷奥の田から取れた米は健康に良いと、高値で買う者がいる」
と、土地の郷土史家と思える中年のガイド氏が説明する。
「こんなものを買う奴は馬鹿ダ、農薬だらけなのに」
と吐き捨てるように言い始める。
      
ヤレヤレ、野仏巡りの雰囲気の中で突然、韓国人の特徴
と言われる悲憤公慨が始まった。
昔、韓国からの珍客をもてなし、料理屋で食事をしたことがある。
酒が入る間もなく、悲憤慷慨して天下国家を論じ始めた。
                            
確か商売人(実業家と呼ぶべきか?)なのに大した論客だと、初めは感心して、判り難い日本語を拝聴していたが、その内に変なことを思い出した。
アメリカン・フットボールの試合で、余りに反応の良いチームが左右に揺さぶられて、苦もなく混乱させられた場面を連想した。
                        
外難があると、国論が分裂して、外国に付け込まれる国がある。
韓国の歴史もそのように思えることがあった。
                              
昭和以後の日本の大新聞は、多分この韓国文化の系譜にあるらしい。
先日も悲憤慷慨している日本の大新聞の記者が、北方領土にソ連からビザを貰って、外国と認めて入国していたっけ。
 
丘の中腹まで登って、林の中に忘れられたような、小さな石仏を見た。「見た」と言うべきだろう、拝まなかったから。
 
日本人は、仏教を宗教としてではなく、哲学として受け入れたといわれる。今や、仏像は美術品として鑑賞することが、異ではなくなった。哲学から美学へか?
 
再び街を横切って、松林に囲まれた新羅王の陵を訪ねた。
周りの松林は風防林になっているらしい。
樹齢数百年と思える高さ十メートル以上の立派な松ばかりである。
冬は風が強いのか、一斉に南に向ってかしいでいる。
        
巨大な半球形の土饅頭で出来た陵が、三つ南に向かって並んでいる。
円墳は刈り込んだ芝で覆われており、上に樹は全く生えていない。
郷土史家のガイド氏に聞くと、
「墓の上に樹が生えているのは、子孫が祖先の恩を忘れた人で無しになったからダ」
と答える。
「日本では、仁徳陵を始め樹が鬱蒼としているヨ」と言えば罵られると慮って、言葉をのみこんだ。
                             
日本人が行儀よく正座をすると囚人座りだと軽蔑する。
食器を持ち上げてると乞食喰いだと言う。頭固いヨ。
韓国人が椅子で足を組んで、食器を持ち挙げず顔を突っ込んで食事をしていても別に何とも思いませんがねェ。
 
御陵の裏山は岩の多いハイキングコースになっている。
先頭を行く郷土史家のガイド氏と、やや険のある美人の別グループのガイド嬢のあとをついて、聞くともなく会話を聞いていると、何故か日本語で
「こいつらは、幾ら説明してやっても聞いていないんだヨ」
とぶつぶつ怒っている。
      
朝から僕たちは熱心に聞いていた筈だし、ツアーの人達は行儀のよい歴史愛好家ばかりなのに、心外なことを言うと、少し気が立ってくる。
                           
一キロばかり枯沢を登ると、道端の岩の上に頭の欠けた石仏が不自然な形に置かれている。
「すぐ上にあったものが洪水で落ちて来たものでしょう」とガイド氏は説明する。
「よく言うヨ、十六世紀、中国での道教全盛に従っての排仏運動で、山上から転がし壊したものだろうに」と先程からの反感で、内心反論を始める。
                      
「仏像の胸に描かれている紐飾りは非常に珍しいもので、未だに謎です」と説明する。
「言ったナ」
古典屋の妻に
「あの組紐はなんだっけ」
「淡路でしょう、僧服だもの」と教えてくれる。
ソレソレ。
                         
威張っている郷土史家氏に向かって、
「その組紐は、日本では今も僧侶が使う『淡路結び』ですヨ」
と、やや軽侮する口調で、知ったかぶりを披露する。
郷土史家氏の表情には、明らかにたじろぎの気配が見えた。
                       
誤魔化すか、反論するかと身構えていたのに、全く予想に反して、謙虚な口調で
「アワジ、どんな字を書くんですか?」
と聞いてくる。
「淡路島の淡路です」と生徒の様な口調で思わず答える。
(帰宅後確認して、間違いなかったことに実は安堵した)
       
一行の日本人客は、ヤッタとばかりに尊敬のまなざしを向けて下さるが、僕は威張りの郷土史家氏に敬意を抱いた。
                  
この謙虚さは「生涯、一書生」を実践している本物の儒家の態度ではないか。
儒教また良し。
 
岩山の石仏参りから麓に下りてきて、ツアーの一行と別れ、昼食を摂ることになった。
「日本食ですか、韓国料理にしましょうか」衆議一決、韓国料理に決まった。
「カルピでは?」
「ソレソレ、行きましょう」
                       
一軒目は満員で、路地裏の二軒目が空いていた。
路地の入口に、小屋掛の骨董屋がある。
「後、あと」と、妻をせっついて焼き肉屋に入る。
中庭を囲んで、部屋が設えてあり一棟は先客で満員。
がらんとした部屋の方に通される。
                           
「韓国人の客ばかりだから、本物の韓国焼き肉がたべられるデ」
と、妻に喜ぶと
「何いってんのヨ、ほかのお客さんも日本語を話してはったヨ」
                       
「(日本人と韓国人の区別は)分からんナ」「スペインの山の中のロハで昼食を食べているとね、入ってきた日本人の団体に『ボンジョルノ、シノワ(中国人)』ってふざけられたので、咄嗟に
『ボンジョルノ、コリアーノ』って返してやったことがあったワ」
「何で街の名前までおぼえてるの?」
「昼食を食べた場所が『ロハ』(無料)だったからね」
「本当に、ただだったの?」
「別にそういう訳ではなかったけど」
どうも話が噛み合わんナ。悪い予感。
              
アサヒ・ドライ二本分消化して待つ程に久しく、炭こんろと洋裁の裁ち鋏を持った給仕女が肉を持って来た。
骨に長い肉がぶら下がっている。
大阪の猪飼野風の本物のカルピではないか。
ぶら下がっている肉に細かく包丁が入っている理由が、ここ本場に来てやっと分かるのに、時間はかからなかった。
                       
「固いィィ。牛肉輸入を一切やってない国だもんネ」
(これは1980年代の話)
妻は「流石、本場のキムチは美味しかった」と満足している。
ひとの美点のみを見るのは、取り分けての彼女の才能である。
何時もながら感心する。多敬。
 
遅れて店の路地を出ると、妻はくだんの骨董屋に入っている。
『多敬』は取消。
骨董狂いの悪い癖。
                           
待つともなく、覗いていると、店の片隅の棚の下に、古い陶器の深鉢が放り込んである。
取り出して、しゃがんでいじくっていると、頭の上から「六万円」と店の亭主が、大声で告げる。
                     
出土物、それも墓から掘り出したと思える代物で、李朝中期の鉢である。鉢の内底に重ね傷があって、それに汚い。
「一万円だナ」
と後ろも見ないで答えると、
「お前は韓国の文明を侮辱するのか。これを見ろ」
と、怒鳴りながら腕を引っ張ってカウンターに連れていく。
始まった。
                        
亭主はカウンターの下から大学ノート製の台帳らしきものを持ち出してきて、鼻先に突きつける。
『高麗期、重要文化財』と亭主が自分で書いて、どの項目の下にも同じ判を押している。
「へえ」と逆らわないでいると、各頁の下に一括して、何故か日本語で『以上を証明する、(何とか)博物館』とかの角印が押してある。
これはえらいことになったワ、異国での悶着は困る。
愛国心高揚の真最中の韓国だから殴られっぱなしでも分が悪い。
喧嘩で逮捕されるのは面目ない。
逃げることにしょう。
                  
亭主は益々興奮してくる。
横目で妻達を見ると、あと僅かで、マイクロバスに乗り込むところだ。
早く乗ってくれ。
人の気も知らないで、のんびり歩いている。
もう少し、時間稼ぎをしなければ。
「李青磁は置いている?」
亭主は、倨んで下を探し始めた。
昨日窯出しした李青磁をカモに売りつけるべく思案しているらしい。
この隙ダ。
脱兎の如く、マイクロバス目掛けて走る。
                        
気がついた亭主は大声を張り上げて追って来る。
乗るより早く、バスのドアーを閉める。
追ってきた亭主は、ドアーを叩いていたが、諦めて、運転席の方に廻り、窓から運転手に何か言っている。
「早く、出せ」
金女史が通訳する。
運転手は急いでバスを発車する。
                      
走り出したバスに、亭主はまだ何かわめいて追い掛けてくる。
走り出して暫くして、ほっとしていると、金女史が僕に名刺を渡す。
見ると、先程の骨董屋の広告名刺である。
「又、来てくださいと言っていたそうです」
「エェェ?」
          
全く判らない。あの怒鳴りは何だったのか?
こういうのを『国際理解の困難』というのは大袈裟なのか?
それにしても疲れた。
 
次は円形古墳を見物に行く。
昨日、街に入って印象的だった古墳群を見に行くことにする。
高い土塀で囲って公園のようになっている。
前の駐車場にマイクロバスを停めて、金女史が入場券を買いにいってくれる。
待っていると、三十才台の男がなれなれしく「ガイドはどこですか」と問い掛けてくる。
帰ってきた、金女史にも親しそうに挨拶する。
僕たちは、てっきり金女史が手配した現地ガイドと決めてしまった。
 
公園の中には、高さ七、八メートルの古墳が八基点在する。
古墳の間に開けた空に柳絮が風になって舞っている。
古墳の一つに、二円が連なった円墳がある。
「比翼塚ですか」と、ガイドの男に訪ねるが要領を得ない。
この男に、やや不審感が湧いてくる。
「この公園の公式ガイドか?」
と尋ねても、曖昧な答えをする。
                       
公園の奥に古墳の原寸大模型が設えてあり、その中に人波に押されて、入って行くことになった。
中は六メートル高の玄室になっており、部屋の回りの展示窓に出土品の模造品が飾られている。
観ていると、混んでもいないのに韓国人の見物客がベッタリと身体を押しつけて来る。
ヨーロッパでは決してあり得ない習慣だが、日本でも身体に触れることは、礼儀に反することとはされていない。ここ韓国でも同らしい。
                      
公園を出ると、現地ガイドと思っていた男が
「妹のやっている店に案内する」と、やや強引に客引を始める。
同行のE老は無類の焼物好きなので、
「覗いてみましょうヤ」と、ついて行き始められる。
金女史は躊躇っている様子で、「別に行かなくってもいいのですヨ」と、小声で言い始める。
 
 この国にはメチャクチャに厚かましいのと、引っ込み思案で温和しい人が混在している。
金女史のように穏和な人には、さぞ暮らし難かろうと思う。
 
 韓国人の多様さと比べ、日本人は「主体性が無く、没個性的だ」と言いますが、日本の長い歴史から見ると一概にはそうではないよう。
     
戦争をするのに、ユニホームも作らず、それぞれ好き勝手な装の鎧を着て、出自まで名乗って戦った戦国武将が没個性的とは思えないし、儒教を崇拝していた為、秀吉の征韓の役に朝鮮に来るや、主義に殉じて、直ちに降伏して降倭となった人々は主体性にあふれていた。
       
国内でも相手の調略に応じるのは、賢くとも卑怯とは言わない歴史を見れば、日本人が主体性が無い民族とはとうてい思えない。
       
最近の日本人が「主体性が無く、没個性的」なったとしたら、それは戦中派の「デモシカ」先生が学校の管理職になったセイと思うのは私だけであろうか。
 
偽ガイドの後をついて、駐車場に面した土産物屋に入ると、とたんに表の戸を閉める。
すかさず、店の奥から女店員が出てくる。
目が笑わないで「いらっしやい」と言う。
        
店に陳列してある陶器を見ていると店員は二、三人に増えており、そのうち派手な服装をした三十才台の店主と思える女性が、如才なく商品の説明を始める。
                      
韓国の大店では、店頭で客引をして、店に入ると、途端に表を閉めて商売をする伝統があると物の本には書いてあるが、閉じ込められているのは何とも落ち着かない。
                                   
店の中央の長椅子に座っていると、女店主は次々と抹茶碗を運んでくる。
身にありったけの装飾品を着けている。
こういうのを関西では『身上(しんしょう)小町』と言うなと思いながら、見せてくれるのを無視も出来ないので鑑賞する。
青磁の貫入が荒く、とても名器と思えないものに何万円もの値を言う。
                      
E老が数点気に入ったものがあり、包ませて店を出ることになった。
女店主は僕が何にも買わないので「何か買え」と迫ってくる。
立ち上がろうとすると、机の向こうから、血相をかえて飛びついてきて僕のシャツをひつぱる。
先程八万円と言っていた清磁の抹茶碗を右手でぞんざいに取り上げて「幾らなら買うか」と迫ってくる。
                          
先程の小屋掛の骨董屋で懲りているので、五千円とも言えず、「僕の趣味に合わない」とだけ答えて、立ち上がると、いともあっさりと脅迫を中止する。
                  
店の表まで見送ってきて、先程の血相はどこへやら、にこやかに愛想を言ってくれる。
                     
大分韓国の商人の風習に慣れてきたので、特に気分を乱されることもなく、バスの方に歩いていく。
ガイドの金女史は、駐車場の中程でウロウロとこっちのほうを窺っている。
「どうも無かったですか?」と怖がっている。
              
釜山見物
                     
短い旅行のこと故、翌日は釜山見物をして、夕方には帰宅するスケジュールでした。
E老の希望、というよりは氏の旅行の目的である先祖が戦死されたという釜山の倭城跡を見に行くことにしました。
                    
金女史が本社に電話で確認してくれ、金井山の城跡がそうであるとの情報を伝えてくれた。
                  
 釜山の街の手前からマイクロバスは、大石の転がる林の中の道を猛速で登って行く。
全てが猛速である。
白衣のゆったりとした韓人のイメージとは異なる雰囲気の旅行になった。
                       
登り半時間で山上に着いた。
バスの運転手君は
「ここにお客を案内したのは初めてです。歴史の先生ですか?」と呆れている。
                           
山頂を取り巻いて、一メートル立方の石を中心に、数メートルの高さに積み上げた土塁が林の中に延々と連なっている。
砦の周囲は十六キロ、城門が五箇所再現してあると道端の案内板に書かれているので、その一つの城門を観に行くことにした。
                           
バスは小道を辿って城門の下に出た。
復元された城門は韓国風の石造で、周辺の土塁は林の中に残っているものと違い、割石が整然と積まれている。
全てが最近再現されたものであらう。
                       
説明板に「釜山の住民が外敵の侵略時に立て籠もった砦である」とハングルと英語で書いてある。倭城のことは書いてない。
                      
山頂は窪んで盆地になっており、なるほど周囲は十六キロあるかと思える要害の地である。
『宇喜多兵三万が駐屯した』ことが納得出来る広さである。
振り向くと釜山から北に伸びる平野が下に開け、北方より来る軍団を一望出来る要衝の位置にある。
                 
砦のなかの盆地では、牛を飼う農家が数軒遠望出来、燃やす煙が長閑にたち昇っている。
「夏草や」の陳腐な感想だけでした。
 
軽い昼食を空港のレストランで取った後、搭乗の行列に並んでいました。
金女史は見送ると言って、横に並んであれこれと世話を焼いてくれる。
                       
突然後方の椅子席で、中年の婦人が大声で怒鳴り始める。
隣の青年に何か抗議しているらしい。
無言で居た青年は立ち上がって移動する。
婦人は追い掛けてまだ怒鳴っている。
相手が居なくなっても席で大声で騒いでいる。
      
金女史にその理由を尋ねると「隣に座っていた青年に時間を尋ねたが、無視した。レディに対して失礼ではないか、と憤懣を言っている」とのこと。
      
空港待合室なので周囲の壁には大時計が幾つも掛かっている。
過激な『レディ』もあるものと感心する。
                        
妻が言い出す
「僅か、三日間でいろんな国を巡った感じがするワ、こんな目まぐるしい旅行は初めて」
「僕も、先程からそう思っていたワ」
                       (やっと)終わり