フランス西海岸旅行記

『アベブ ユヌシャンブルリーブル空部屋ある?』
                    
サンラザールSaint Lasareの地下鉄を降りて、SNCFフランス国鉄の案内板を頼りに地下通路を歩き始めたものの、以前の記憶と違い、意外に駅まで遠い感じがする。
        
やっと地上に出たところは、切符売り場ではなく、プラットホーム前のコンコースらしい。billets (切符)と、書かれた大きな矢印の案内看板に従って、外に出ると切符売り場があった。
     
5人待って、やっと窓口に進んだ。
覚えてきた決まり文句を叫ぶ。
『ドビュ プールルーアン(deux billets pour Rouen ルーアンまで二枚)』
何と、出札係は切符を出さずに、平然と何か言っているが、全く聞き取れない。
聞き取れないとは、その言葉の中には、出発前、速成で覚えた僅かな僕のフランス語彙50が、全く含まれていなかったと考えられる。
ほかに方法も思い付かないので聞き返してみる。
『ブレブレペテ シルブプレ(繰り返して)』
出札係は右の方を指差して何か言っている。
その言葉の中に、やっとキーワードを発見。バンリューbanlieue(近郊線)ロンギュウlongue(遠い)。
ここは近距離切符売り場で、ルーアンは遠距離で、別の出札口があるらしい。
判った!
 右手、数10メートル先にlongue何とかの案内板が見えた。
         
やっと切符が買えて、先程のコンコースに出る。
空港にあるようなデジタル案内板に、Destination Le Havre(行き先ルアーブル)D0p 1639 Exp  Voie 6(出発プラットホーム6番線)と表示してある。
16時39分を中で点を打たず、続けて1639と書いてある。
次のExp は急行(express )で、特別料金Supplementは、フランスでは不用と、日本で買ったトーマスクックの時刻表にはある。
問題はRapideラピドRapideは特別料金Supplementシュプルマンが要る特急。
旧国鉄が快速電車をラピッドサービスなんて名前をつけたので、日本人はRapideとExpress が、どちらが速いのか、こんがらかるねェ。
こんなことを考えながら、ホーム、便利ですねェ日本語は、プラットホームも、只のホームに縮めちゃうんだから。
      
ホームに入ってみると混んでいる。発車30分前なのに空席無しの感じ。ルーアン迄1時間、立つには長すぎる。
    
席を探そう。
昔、阪急梅田駅で毎日乗っていたので車両のたたずまいだけで、空席を発見する特技が未だに残っている。
それにしても、極めて日本人的な貧しい特技であることヨ。
   
『よし、この車両』ときめて、乗ると、一発で、向かい合わせの空席を発見。
隣の先客に「オキュペ塞がっている? バカン空いている?」とか言って、フンフンの反応で座る。
妻は「ついていたね」と喜んでいる。 
    
 彼女は「お茶をいれました」とは日頃も言わない。
「お茶がはいりました」と自然現象のように言う。
奥床しい。
その代わり、僕がやったことも自然現象と思っている節がある。
特技も「ツキ」でかたずけられたが、なにはともあれ座れたことは幸運。
      
発車時には、座席にすわれない客も出てきた。
フランスの列車には、連結部に、荷物置き場を兼ねた広い空間がある。従って座席の間の通路に立つ人はない。
座っている者にとっては、気詰りがなくて良い。
      
急行なのに冷房車ではない。その代わり、窓の上部30センチを開けると、風が吹き下ろさないように、上向けの風防ぎが付いている。
僕は冷房が嫌いなので、むしろ快適である。
      
走り出すと風が適度に入ってきて、涼しくなった。
      
ふと気がつくと、隣の少女がステハン・ツバイクの「小さな悪魔」を読んでいる。
ツバイクを読んだのは丁度彼女と同じ年頃の、同じように暑い通学電車の中であったような気がしてくる。多分小説の内容からくる錯覚なのだろう。
       
 それにしても、今度のパリは暑い。
『トロショウ暑い』『ネスパでしょう』と運転手が決まったように嘆く。
本当に暑い。日本よりまだ暑い。
    
ルアーブル行きに乗って1時間、途中のルーアンに着いた。
ルーアンの駅は大工事中である。
第二次大戦のノルマンディ作戦で、この町が壊滅的破壊を受けたことを、ふと思い出す。
  明朝乗る列車を、駅の時刻表で確認してから表に出ると、古い街の佇まいがそこにはあった。
     
日本で買った案内書に従って、北に伸びる大通りの西側の古い町並みを、北に下って行く。
途中気をそそられるホテルを脇道に見ながら、カテドラルまでとりあえず行き、そこからUターンをして、おもむろに、良さそうな所を選ぼうと、妻と相談しながら更に進むと、美術館の前に出た。
     
それにしても、始めての町。
気を落ち着けてホテル選びと洒落ようと、一軒の喫茶店にdu Muse の名前にひかれて入った。
カウンターの親父に『ドウ タッセェ(Deux tasses )カフェヌワール(cafe noir ) シルブプレ』とやってしまった。
早速、親父は『ドウ タス?』と訂正してくる。
コップの複数形tassesを、いつの頃からか間違い発音していたのが、ふと飛び出してくる。
居合わせた常連客が、同情するような目でクスクス笑っている。
親父の何時もの癖なんだろう。
エスプレッソ(espresso)で蘇生して、二杯で150円(7フラン)と、発音訂正代に1フランのチップを置いて店を出た。
     
店を出て、次の角を右に回ると、すぐ商店街だった。洒落た商品の飾られたその商店街を100メートルも進むと、突然広場に出た。
      
広場の西の面して、目指すカテドラルが夕日の逆光に浮かんでいた。
案内書の写真で想像していた以上に、雄大で古めいたゴチックである。
     
しばらく佇んでいたが、『広場の向こうにカルデイナールって書いてあるヨ あれホテルでしょう』妻は目聰い。
回りは明るいが6時ともなれば泊まる宿のことが気に掛かっていたらしい。
『どれ行ってみるか』
二軒のレストランに挟まれた入り口のガラスドアを開けると、中年の女性がカウンターに座っている。
夕方ではあるが、始めての挨拶なので、ボンスワール(今晩ワ)と言わないで『ボンジュール(今日ワ) マダム』と挨拶する。
フランス人特有の典雅で、温かい微笑みを返してくる。
この微笑みにつられて、少し気取った調子で決まり文句を言う
『アベブ ユヌシャンブルリーブル(Avez-vous une chambre libree空部屋ある)?』
『ウィ ムッシュ』
『シャンブル アドリィ(Chambre deux lits ツイン
部屋)?』『ウィ アベックバットエトワレット』
バス付きの部屋が有ると答えているらしい。
カウンターの横に、chambre tarif (部屋代)と表示した紙が張ってある。
一番高い部屋が190フラン(4500円)。指差してこの部屋を見せてくれと言うと、すぐ鍵をボードから取り出して、カウンター奥の物置としか考えられない小部屋に入れと指差している。
三人入れば満員。
右の壁にくっついていると、「離れテ!」と注意された。
途端に、その壁がスルスルと下方に下りてゆく。
何のことは無い、物置と思ったのは囲いのない裸のアッサンスール(ascenseur エレベーター)だった。
ほどなく、急停止すると、スルスル壁がドアになっており、入った側とは違う右から出ることになった。
フランスでは、よくある構造だ。
『ルネ・クレールの世界だよなァ』
どちらも映画「北ホテル」でも思い出したらしい。
      
部屋は意外に広く、窓を開けるとすぐ前に大寺院が見える。
眺めのよい部屋。しかも、その途端に鐘が鳴った。
『ダコール(d'accord) これにする』
   
妻は、何時ものとおり、水道栓を確かめている。バスルームから『OK、OK』と言っている。
『ごめん、先に決めちゃったヨ』
   
マダムは笑いながら「パスポー(passeporte)」どうのと言っている。
宿帳のことらしい。
後で下に行くことにした。
『アプレ(後で)』以外は、全てゼスチャーで用が足りた。
10時に、何処かが閉まるとか言って、マダムは部屋のとは別の、丸い輪のついた鍵clefを取り出した。
聞き返すまでもなく、妻が横から『分かった』と返事をする。
『下の入口の鍵ヨ 夜の内はマダムは家に帰るから入口を閉めるんでしょう』
察しが良い、なるほど。
   
一息ついて、バスルームに入ると、バスタオルが無く、茶色の大きい足拭きと思えるものが一枚タブの脇に掛けてある。
妻はこれがバスタオルかもしれないヨと言うが、それにしては固すぎるし、枚数も足りない。
宿帳を書きに、一階に降た。二人の姓が違うと、グズグス言われることがあると聞いていたので、二人のパスポートを示したら、マダムは、妻の分は見ないで、僕の名前を控えただけで、宿帳記帳は完了した。
 バスタオルのフランス語が分からないので、思いつきに、大きいタオルのつもりで『グランセルベット』と2、3回ジェスチャーつきで、繰り返すと、
『分かった 部屋へ持っていってやる』と思えるような返事をしてくれた。
renvoyer l'ascenseur(あとの人の為に一階に戻す)方法に自信がないので、歩いて階段を登った。
      
部屋に帰ると、すぐにタオルを届けてくれたが、先の茶色の足拭きが一枚追加されただけであった。
あれが、あのホテルのバスタオルであったのか、足拭きで体を拭いたのか、今だにわからない。
  
 前の広場にいた観光バスが帰ると、急にあたりが静かになった。
        
夕食前の散歩に、前の大寺院を覗くことにして、出がけにマダムに、どっちのレストランが良いかと尋ねると、当然左だよと言っている。
『メルシイ』
     
カテドラルの正面は、未だに砲弾で破壊された傷跡が残っている。
右の二重ドアから中に入ると、雄大な大伽藍である。
ところが、痛々しいことにステンドグラスは少しだけで、後はスリガラスが填められている。
このため内部の光りは散漫で、カトリック寺院内陣の荘厳さは感じられない。
残っているステンドグラスの精密さから、かってはシャルトル大聖堂のそれに匹敵したとの説明板に納得する。
工業地帯となったヨーロッパの他の都市同様、信者は年々少なくなっているのであろうか。
人気もなく、ミサがしばしば行われている形跡はない。
  
キリスト教徒同士が、互いに神に戦勝を祈願して血を流した戦場跡で、破壊された教会の記録写真を見るのは異教徒には奇異な感じがする。
「偉大な」思想、「崇高な」宗教が、はたして人類に幸福をもたらしたかとの永遠の疑問が、ふと思いだされる。
  
カテドラルを出ると、緯度の高いこの国も漸く暮れ始めていた。
ホテルのマダムの推薦を無視して、外目の綺麗な右のレストランに、つい入ってしまった。
座って、暫くするとボーイがカルテcarte を持ってきた。
妻は一品料理の中にgigot 羊の股肉を見つけてこれを注文すると言う。
変な単語を時々知っている。
僕は無難に牛肉を注文することにした。
ボーイが中々来ない、手を挙げて呼んでいると、帳場に近い席の客が代わりに大声で呼んでくれた。
『ギャルソン!』
パリでは、小声で「ムシュ シルブプレ」と遠慮がちに呼ぶ。
「ギャルソン」と呼んで、無視されたことがある。
やっとやって来たギャルソンは、串焼の注文に、焼き具合をきいてくる。変な店。
     
僕の牛肉は普通の代物であったが、妻の頼んだ羊の股肉は、咀嚼不能の代物であった。
「gigot は股肉ではない ノルマンディでは角を意味する」と、盛んに怒っている。
『白水社(辞書出版社)に抗議すれば』と逆らってみる。
   
皿を片付けに来た先程のギャルソンに、英語で「角horn」だと言っている。観光客相手の店なので、英語が分かるらしい。ニヤニヤとして、困った顔をしている。
フランスに来て始めてチップを残さなかった。ギャルソンも、文句を言って、追っては来なかった。
客が不満なのは、何時ものことだったのだろう。
 
部屋に帰って気が付くと、妻の靴の横が綻んでいる。
スペアーの靴はパリのホテルに預けてきたバッグに置いてきている。
慌てて来がけに見た靴屋に飛んでいったが、暫くして手ぶらで壊れかけた靴のまま帰ってきた。閉店していたと言う。困った。
店は10時開店だが、どうしても9時3分発のルアーブルLeHavre行き急行に乗らなければ、ルアーブルから一日3便のオンフルールHonfleur行きバスに間に会わない。
ホテルには管理人も居ないので、他に方法とてなく、木綿糸で応急修理をしている。
   
   オンフルールHonfleurに向けて
   
翌朝は大寺院の鐘の音と共に、爽快に目覚めた。
前日のマダムの説明どおり、二階、フランス語では1er etage(一階)に朝食が用意されていた。
セットされているテーブル数10組からすると、殆ど満室である。
妻に『静かで、よく眠れたネ』と言うと、『前の広場に一晩中暴走族が居て あれほど喧しかったのに知らなかったの』と呆れている。
安くていいホテルに泊まれたと自慢だったのに、弱った。
   
黙ってクロワッサンとカフェオレだけの朝食を摂る。
チェックアウトする段になって190フランが朝食込みだったことが分かった。
その安さで、妻は途端に御機嫌になった。
 
9時3分発のルアーブル行き急行は、空いていた。1時間でルアーブル本駅に着いた。
    
駅前のバス停留所のガラス張りの切符売り場で、オンフルール迄の切符を買おうとすると、道向こうの古びた平屋の建物だと言う。
道を渡ったが建物に人気は無い。
うろうろしていると、通行人の中にアッタシュケ−スを抱えた紳士がやってくる。
つかまえて聞くと、建物の裏手に回れと教えてくれる。
     
裏手は広く、6台のバスが整然と並んでいるが行き先の表示がない。
数人の老人の待客以外に、係員らしい姿も見当たらず、切符売り場のドアも閉まっている。
ベンチに腰掛けている老夫婦に、オンフルール行きバスはどれかを尋ねみる。
躊躇わず『知らない』と明確に答える。
   
始めの内は、フランス人の薄情と、不快に思ったが、曖昧なことを教えないのは、旅行者にとって本当は助かる。
昔、パリで地下鉄乗り場を聞いたら、キョロキョロ回りを見回して『あそこダ』と言う。下りていったら、地下便所だったことがある。
 
続いて、隣の婦人に尋ねる。
一番右のバスが、そうだと言う。
バスの側に行って確かめると、標識があって、小さな運行表が張り付けてある。
Le joursの意味が分からない。
しかし、別の欄がDimanche(日曜)なのでウイークデイのことかなと考えていると、先程の婦人が『この子は英語が話せるヨ』と、女子高校生を連れてくる。
可愛そうに、英会話の口頭試問を受ける時独特の不安感に、顔がひきつっている。
『次のオンフルール行きは、2時間後に出る』と言い出す。
『エェー』(これは僕の日本語)
『でも、このタイム・テーブルには、ウイークデイは10時31分にも出ると、書いてあるヨ』
彼女は、理解できないらしい。
ここで僕の国辱的フランス語が出てくる『ルオートブス スイボン パルトロン ア ディストローンテアン,ネスパ?』
彼女は、理解力を越える難解高度の英語を、僕が話し出したとばかり、恐れて退散する。
フランス語のつものなのに!
後ろから女性の落ち着いた声が掛かった。
『このバスはオンフルールに参ります。丁度私も途中まで参るところでございます』
始めて理解出来る言語で話掛けられ、其が英語であった筈なのに、日本語と記憶している。
其ほど美しい言葉であった。不思議な錯覚である。
 
10時25分になって運転手がやってきた。
先程道を聞いたアタッシュケース君である。
運転手が切符を発売するらしい。
先客の真似をして、行き先を告げる。
『ドビィーュ プールオンフルールHonfleur』
彼は、僕の顔をマジマジと見て、『アンフレーフ?』と問い質す。
そう発音するかもしれないと、思いなおして、『ウィウィ』と答える。
やっと切符を二枚買えた。御苦労サン。
   
『妻は右の席が海側で見晴らしがよいのヨ』と先に座っている、
ドッコイショ。
   
日本で、西欧風景画を見にゆくと「オンフルールの港」と表題してある。
「アンフレーフ」なんて見たことない。
日本語になっている地名と外来語は注意しなくっちァ。
F1グランプリで有名なルマンLe Manへ行く時、えらい目にあいかけた。
「ルモン」と発音すると気が付くまで大混乱をした。
    
バスは暫く市街地を走った。
『ニッサン自動車があるウ、えらいもんやナ』
又、妻の国粋主義が始まった。
   
鄙びた田舎道を一時間走って、目指すオンフルールに着いた。
一時間の田舎道は、素敵な道中だった。
   
バス停から露店市の中を通って、靴屋を探している内に海岸べりに出た。
寒い。
レストランが三軒並んでいる。
店の表に張出したカルテを、フランス人風に、三軒とも丹念に調べて、よさそうな右端に入る。
       
結構混んでいるが、暖炉で薪を焚いている。
あたって待っているうちに、一番奥の席に案内された、ギャルソンがカルテを持ってきた。
妻が隣の婦人連れが食べているものを尋けと言い出す。
こらえてくれ!
       
その内、一番安い70フランの定食に魚のスープsoupe an poissonを発見。
この定食(ムニュウmenu)に決める。
決めたといっても、選択が前菜5種、主菜5種もある。
二人とも好物のsoupe an poissonを取り、アントレは二人で味見しあうことにして、二種類の魚料理を注文した。
飲み物boisson は、例によってcarte des vinsの後ろの方に書いてある地酒を頼んだ。
魚料理は瀬戸内の人間には、何処に行っても旨いと感ずることはないが、スープオポアソンは漁村だけあって旨かった。
 
満腹で幸福になった二人は『港を見に行こう』と席を立った。
 
表に出ると、すぐ現実的になり、予定を変更して靴屋を探しに、商店街に行くことにした。
そして、くだんの決断は殆ど無駄なことに、小さな町のことなので、港に添って商店街があった。
   
美術展で見て憧れた美しい漁港が、今はヨット・ハーバーとなって、そこにあった。
しかし、それにしても今日は大変な人出で、港に添った道路は、観光客で溢れている。
鄙びた漁村をイメージしてきた期待は、裏切られたとはいえ、港を取り巻く家並は、印象派が描いた当時そのままの風情ある佇まいを残していた。
       
内港になっているヨットハーバーの向岸の左端の見晴らしの良い一等場所に、ホテル何とかの大きな字が見える。
「何とか」の部分はフランス国旗の束の影に隠れているが、多分場所柄からいって当地を代表するホテル・オンフルールとでも思える。
二階の右端の部屋が、朝日を受ける港を見晴らすのに絶好の場所であるなどと、勝手に決めこんで歩いていった。
          
そのうちに内港の入り口の跳橋が上がって、外で待っていた船が連なって入って来る。
最後になった、船体を黄色に塗った一隻が、遅れを意識してか、やや速めに進んでくる。
風景のカラーポイントになるような位置に、係留してくれることを祈って、見ていた。
この黄色のヨットが過ぎると、跳橋が下がった。
旗の合間からホテルの名前が全部見えた。
『アアHotel de ville(市役所)ダ!』
 
港の裏側に広場があり、目立つ場所に古い風情のあるホテルがあった。
レストランの横のレセプションで交渉したが、ツインの部屋(chambre deux lits )の空き部屋はないと言う。
次のホテルでも、部屋は無かった。
 
部屋捜しに歩いている内に、靴屋を見つけた。
踵の太い、石畳を歩くのに丁度よい靴がショーウインドに飾ってある。
横の入り口には2時30分が午後の開店と書いている。
後30分あるので、この間宿探しで暇をつぶすことにした。
近くの2軒でも、丁重に断られた。
他のホテルを紹介してくれるよう頼んだが『今日は土曜なので、この町には、とても空き部屋は無い』と、ダブルルームで辛抱せヨとばかりの返事をする。
chambre tarif の掲示を見ても、この辺りのホテルでは、ダブルの部屋ばかりで、ツイン部屋が殆ど無い。
観光案内所は土曜午後は閉まっていると言う。
   
『部屋が無いなんてことないわョ』妻は平然としている。
この「平然」に今まで何度救われたことか。
 
港添いの道に再び帰り、これまでの一つ星より格の上の二つ星ホテルに、懲りもせず入って見る。
『自分のホテルには、空き部屋はないが、友達のホテルに当たってあげる』と、主人は、親切に英語混じりで答えてくれる。
嬉しくなって、電話代にと10フランコインを出すと、丁重に断ってくる。
『失礼』
『向こうに見える丘の上ですが、二つ星ですq
ツインルームがあります、車ですか?』
『ノン、Appelez-moi un taxi (タクシーを呼んでくれませんか?)』
『この町にはタクシーはありません』
『道を教えて下さい、歩いて行きますから』
前に置いてある、50フラン1100円の町の観光地図を買うから、それに記入してくれと頼むと、主人は『私が書いてあげる』といってきかない。
お礼に地図を買うのではなく、記念にするから地図が欲しいのだと、英語で説明したら、やっと納得してくれた。
    
妻は靴屋に行くことにして、このホテルの近くで、別れた。
おしえてもらった道は、木造の飾木組の古い家並が続いている。
光線の具合からいって、明日の朝のカメラアングルがいいかな、と思案を楽しみながら登った。
  
教えられたとおり500メートル程来たのに、目指すホテルが現れない。
向こうから弾みながら下りて来た若い女性の二人連れに聞くと
『もう少し先』
と答えて、当然のように、きつい登り坂を、引っ返して連れて行ってくれ出すので、『いいです』と慌てて断る。
   
更に300メートル程進むと、右側に目指すホテルと同じ名前のレストランの看板があった。
日本風に言うと、割烹旅館らしい。
 
一階には人気がないので、二階に上がると、受付が有り、綺麗に刈り込んだ髭を蓄えた中年の紳士が、僕の来るのを待っていたとばかりに『聞いております』風の挨拶をしてくれ、『部屋を見てください』と、メイドを呼び、案内させてくれることになった。
      
幅1メートル足らずの狭い階段を、五階まで小太りのメイドはスタスタと登って行く。
部屋は小奇麗なツンイなので、すぐ『ダコールOK』と振り返ると、もうメイドは下に降りたらしく姿がない。
   
手擦りの揺れる幅1メートルの階段を、おそるおそる2階のレセプションに降りると、フランス人と思える夫婦連れが、部屋を聞いている。
ヨーロッパの習慣に従って、後ろで待っていると、満室だと丁重に断っている。
諦めて帰って行った。
            
ホッとして、くだんの髭の紳士に値段を尋ねると、印刷された値段表を示して170フラン4000円と答える。
これが土曜日の、この町での数少ない空き部屋であることは、向こうも知っているはずなので、税VAT とサービス料は別ていどは、フッカケられると思ったのに、「込み」だと答える。
 
『部屋代は先払いする』と言うと、
『明朝でよいと』言ってきかない。
パスポートを示して、名前を言うと、電話で一度聞いただけなのに、フランス人には苦手の多音節の僕の名前を、いとも正確にいってくれる。
日本通らしい。
         
だのに、僕は恥ずかしいことに、上客が来ると僕の部屋を廻すつもりではないかと疑い始めた。
『僕はこの部屋を確保しないと、安心出来ないのダ』
と露骨に言うと。
「鍵を持っていってよろしいョ、そうすれば安心でしョ」と答える。
魂胆を見透かされた。
    
『奥さんが荷物を持って、待っているんでしョ、車を出します』とまで、一現(いちげん)の客に言ってくれる。
『メルシイ』
相手は、怪訝な顔をしている。
アァ言ってしまった。メルシイは微妙なイントネーションで「結構です」の意味になるんダッケ。
エェっとプレジールでも付ければ何とかなるカ。
紛らわしい、英語が通じる相手なのだ、『頼む I aske you so  thank you』と答えた。
「そうでしょう」とばかりに 髭が笑顔で頷く。
 
表の道際で待っていると、コックの白い上着を脱ぎながら、青年が出てきて、彼の自家用と思える車に乗せてくれた。
 
妻の待っている靴屋迄は、観光客で一杯の道を、運転手も、僕も気兼ねしながら、ノロノロと進んだ。
   
靴屋の前の歩道で、妻が待っている。
足元を見ると、新しい紺色の靴に変わっている。
あの靴が買えたらしい。
これで安心して、見物が出来ることになった。
     
運転手君には、妻の持っていた手提げ鞄だけを『部屋に入れておいて』と頼んで、多い目に20フランのチップを渡した。
遠慮がちに受け取ってくれた。
  
手軽になって港沿いの遊歩道に引き返して、『印象派の画家が好んで描いたこの町で、反印象、反ロマンのサティ(作曲家、Erik Satie)は、どんな少年時代を過ごしたのだろう。
歳老いても、再び帰ってくることがなかったのは、ナゼか。
『それにしても生家は何処かナ』と、ブラブラ歩きを楽しんでいると、古びた喫茶店の前に出た。
       
『入るか?』と覗き込むと、先程丘の上で道を聞いた二人連れのマドモァゼルの一方が、中から飛び出してきて、『ホテル判った?』と聞いてきた。
「先程は有り難う」と答えたかったが、とっさには言葉が出ず
『メルシィ、モゴモゴ』
しか言えなかった。
     
後に続いて店の中に入って行ったが、丘のマドモァゼル達は、2、3人の男友達と一緒に快活にお喋りを再開している。
  
入り口に近いテーブルに席を占めて、やってきた ギャルソンヌ(女給仕)に、
『アン カルバドス(林檎焼酎) ェアン シードル(林檎酒)』
と注文した。
林檎酒が、このブルターニュ名物であること以外に、ヘミングエーの退屈小説「日はまた昇る」のでだしでも連想したのでしょうか。
  
店の中を、年取ったテリヤがウロウロしている。
跳橋の上がり下がりをのんびり見ていると、この雄テリヤ君、自分の店の表を他の犬が通るたびに出て行って、噛み付くのを日課にしているらしいことに、気がついた。
「ヨーロッパの犬は喧嘩をしない」と、人に知ったかぶりをいうのは、以後やめることにしよう。
  
久しぶりに、退屈をたっぷり楽しんだ後、角の金物屋で、デザインに惚れて、ペンチ式の爪切を買った。
さっぱり切れなかった。
    
夕暮れの中を、たっぷり1キロの登り道を丘の上のホテルまで歩いた。
日本風に云うと一階のロビーに、競馬中継のテレビが点けっぱなしになっているのを座って見始めると、案の定、妻が 『部屋に行きましょう』と言い出す。
『すぐ、此処で一休みをした理由がお分かりになりますよダ』
『エェ エレベーター無しの6階?』
『ご正解』
   
馬券も買わないで、競馬中継をみる馬鹿々々しさと、気楽さを楽しんだあと、フロントに顔を出して、6階にある部屋に登ると、妻は『綺麗な部屋じゃなイ』と言って、バスルームを覗き込んでいる。
『この北側の窓から 屋根伝いに 3階の高さにある裏庭に出れるからナ。いざ火事になれば、そうは行かんだろうがネ。反対に南窓から飛び出せば、表の道路に転落するゼ』
『そんなこと言ったら 眠れないわヨ』
     
夕食d ner はホテルの食堂で、定食plat du jourの内、魚料理poisson を頼んだ。
ホテルの看板より、レストランの看板が大きいだけあって、味も、盛り付けも素敵であった。
ソースの酒分が強くて、妻が酔っぱらった以外は料理は申し分なかった。
  
翌朝は、写真の光線角度の良くなっているのを期待して、7時30分に、ホテルで一番早い朝食を摂った。
    
印象派の愛した街だけあって、朝の光の中では、路地裏までが、風情に溢れていた。
朝の港は、人影も無く、水表(みなも)は、鏡になって、港沿いの街並みを写していた。
         
昨日跳橋をくぐってきた黄色い船体のスクーナーが、船泊まりの中程でアクセントになって風景を引き締めていた。
街の方では、早朝のヨーロッパらしく、店の表で、かいがいしく女主人が水を撒いて掃除を始めている。
    
トーマス・クックの時刻表に従って、9時33分発のカーン行きのバス(フランス語ではわざわざオートビュスと言う)に乗るべく昨日降りたバス停に行った。
日曜dimancheが別の時刻表になっているのは、昨日のルアーブルで経験ずみなので、バス停案内板を、落ち着いて確認できた。
    
少しは遅れると思ったのに、9時25分には昨日来たのと同じ方角から、頭に「CEAN」と書いたバスがやってきた。
ワンマンバス(これも和製英語らしい)の運転席には、定年前の市役所の部長然とした、昨日の運転手より年配の、ネクタイをした紳士が座っていた。
     
また、キップ騒動を始めることになった。
『ドウビィユ(deux billets)プール カーン(Cean)シブプレ!』
『ドウビル(Deuvilles )?』
『ドウ ビィユ』
『ドウビル?』
どうも違うことを運転手は言っているらしい。
アァ途中に映画「男と女」の舞台になった、避暑地ドービルがあるのだ。
指を二本突き出して『ドウ プール カーン』と繰り返す
こんどは『カーン?』と、行き先を問い質して来る。
「ーン」鼻音の鼻への抜き方が悪いらしい。気をつけて、言い直してみる。
またまた『ドウビル?』と聞いてくる。
また元に戻ってしまった。
やっと「カーン」が通じて、キップ発売。
 『サンカンカトロ(54フラン・1200円)』一時間半の道のりに
しては、安過ぎると気が付いて、『ドウ アダルト?』と確認する。
『ドウ??』
「さっきから僕は何度も言っているじゃないノ、それにすぐ後ろに女房が居るじゃなイ」と心の中でわめく。
『サンニユィ108』と倍額になった。 
やっと、意思が通じたらしい。ヤレヤレ!
  
 これは各駅停車の定期バスで、グルグルと路地裏に入っての停留所に、停まって行く。
問題のドウビルは、新しい美しい別荘が点在し、映画で観た海岸の風景が、遙かに続いている。
   
 
葉裏を返す浜風の中を、バスは海沿に走って行く。
満干差が15メートルもある海であることは、干潮の今は、海草に覆われた丘の上に、係留ロープに繋がったまま、船が斜めに乗り上げているので判る。
    
定刻より10分遅れて11時50分頃、カーンの駅前に着いた。
今日の目的地サンマロSt malo へ向かう列車は、午後2時16分まで無いので、街を見物することにした。
    
駅のコンイ・ロッカーに荷物を入れてから、壊れかけているのに気が付いて、5フラン(100円)惜しさと、暇潰しを兼ねて、係員を呼んできて入れ直した。
       
右手の丘の上に、城塞のような物が見えるので、その方に歩いて行った。
城塞と見えたのは、ただの丘を取り巻く石崖で、その頂上付近に教会があって、日曜日の朝の礼拝の賛美歌が表まで、聞こえて来ていた。
  
丘の麓のパン屋の前で、行列が出来ていた。よほど、評判がいい店らしい。
昼食を、ここのサンドイッチの立食で済ませるかと、迷ったが、結局、駅前のビアホールに入った。
      
表に、安いステーキ定食の張り紙があるので、ビールと定食を、カウンターの中の女主人に頼むと「日曜はダメ」と思える返事をする。
やむをえず、ピッツァと生ビールにした。
       
どういう訳か、この辺りは、ビールはハイネケン(オランダ)が多い。
かってのノルマン朝時代は、英国と同じ文化圏であったはずなのに、地元ではビールはあまり醸造しないらしい。
これからは、林檎酒にしよう。
   
ノルマン王朝で思い出した。
法律英語は、ノルマンデイの古いフランス語が多い。
「ビーフ」もそうだけど、例えばテーラーが洋服屋なのは、テール(尻尾)が語源ではなく、古代ノルディクフレンチのcut 切るがteilだと、覚えた記憶がある。
  
この駅前には、食べ物屋は一軒なのに、お菓子屋は、数軒もある。
先に目星を付けていた、小奇麗なパテイスリィに入って、ショーウンドーに飾ってある「シュークリーム」を「シュー・アラ・クレームchou la cr me 」と正しく注文出来た。
昔、カナダで食後「シュークリーム」と注文したら「今、忙しいので、後でロッカールームにいらっしゃい」と言われて、面食らったことがあった。
なるほどシュークリーム(shoe cream)って靴墨だもんネ。
    
フランス人は、洒落た表現が好きらしい。
皮のフワフワをキャベツ(chou)に見立てて、シューって、言うんだって。
       
アパートを、兎小屋(cabane lapin)なんて、洒落るから、早とちりの日本のジャーナリストに、日本のアパートだけを、兎小屋と馬鹿にしたと曲解され、何時もの例で、自嘲用語になってしまった。
狭い下宿部屋をコックピットと言うと、気障にきこえるかもネ。
 
ところで、サンマロの入り口の幹線駅ドール迄の列車は、新しい車両で快適であった。
例によって2等の喫煙席に乗った。
   
ドール(Dol )1650(午後4時50分)着。
次に乗り換えるサンマロ行きは、ホーム一杯に乗客が待っているのに、入ってきたのはポンコツでチグハグの二両連結。
      
急いで乗り込み、座席を確保してホットしていると、イタリァ人の団体が乗ってきて、その内の添乗員とおぼしき一人が僕の腕を掴んで、
『出ていけ』とワメキ始める。
喧嘩をする時は自国語に限る。となれば河内弁がベスト。
『どないしたんャ 手ェはなさんカイ』
と怒鳴り返すと、相手も、悪かったと思ったらしく、途端に丁寧になって
『ここは背凭れの上に書いてあるように、予約席です』
とゼスチャー混じりで説明し始める。
    
よく見ると、確かにレゼルバションr0servation と小さな字で書いてある。
『イャイャ こちらこそ失礼』とか何とか言って退散する。
  
トーマスクックには、フランス国鉄は特急rapideの一部以外は全て自由席と書いてあるが、団体用に急に指定席を作るらしい。
19分間は立った儘で、サンマロに着いた。
     
ところが降りてみると、駅前のタクシー乗り場は長蛇の列。
待つまでもないと歩き始めたほかの観光客の後を追って、駅前大通りに出たものの、目指す城壁に囲まれたサンマロ市街は遙か彼方にあり、その間は砂埃が舞っているガラガラ道。
      
恐れを抱いて、元のタクシー乗り場に引っ返すと、先客は3組に減っていた。
待っていると、2、3人の待ち客が、市街の方から現れた。
その内、誰が僕たちの後か順番が判らなくなったらしい。
僕に決めてくれと、言い出した。
『次はあの人、その次はこの人』と僕の記憶で決着がつき、皆は安心して整然と並び直した。この国の人達は、行列と順番をきちっと守る。
       
30分待って、やっとタクシーに乗れた。
   
待っている内は「街の中央に取り敢えず行こう」と相談していたが、妻が『運転手にホテルを尋ねたら』と言い出した。
『そらソャ』
『パレブ・ロングレ?(英語話せる)』
『ノンアングレ、フランセ!フランセ!』
 一番上等のホテルって、どう言うんヤ。覚えときャよかった。
エイままよ。
『オテル カトロ(4)  トロァ(3) エトワール(星)』
(四ッ星か、三ッ星ホテルのつもりで言った)
『ダコール ムシュ(何とか何とか)シャトー何とか』
通じたらしい、万歳!
       
妻に『シャトーホテルがあるらしいデ、アレェシャトーの案内書では気が付かなかったけどナァ』と話していると、運転手は車を城壁の入り口に停めて、中を指さしている。 
   
其処で降りて、街に入ると、広場に右にシャトーブリアンと書いた建物があった。城館ホテルではなく普通のホテルだった。
 
『シャトーブリアン? 聞いたことのある名前やなァ』
『料理の名前じャなかった?』(ヘレ肉中央部分のこと)
『ワインじャなかったかナ?』(サントリーに同名のワインがあるらしい)
 
フランソァ・ルネ・シャトーブリアン(1768〜1848)は 有名なフランスの文人で外交官。有為転変の人物であることは、後で百科事典で知った。
       
左脇のホテル入り口から入るとレセプションがあり、若い女性が二人居た。(ホテルの正式名はhotel de France だったことは、後刻visaの精算で知った)
決まり文句の『アベブ ユヌシャンブルリーブルAvez-vous une chambre libree?』を始める。
『ウィ ムッシュ』
向こうから『英語を話しますか?』と聞いてくる。
『イエス』
『今日は混んでいて、いい部屋はこれだけです。部屋代はどちらも6500円(270フラン)です』
と二本の鍵を手渡してくれる。
いい加減な恰好をしていても、日本人は金持ちと決めているらしい。
    
勝手に二階に上がって、部屋を例の手順で調べ、バスタブの付いている眺めの良い方に決める。
それにしても、日本の相場では一泊2、3万円はするセミスイートの広さがある。 
レセプションに決めた部屋を告げて、表に出てみると、広場にせり出した数軒のレストランの白いテーブルは、観光地らしい華やかさと、ウキウキした人々で溢れている。
『トレビァン』
   
シャトーブリアンの自叙伝「墓のかなたの思い出」によると、「私の産声は 突風が巻き起こす大波の響きで、人の耳に届かなかった」と言う。
6月の今日は、波静かで、遙かに眺望が利いて、周囲の海岸が一望出来る爽やか日である。
     
外海に面した城壁で、のんびり眺めを楽しんだ後、歩道に椅子を出した、酒場で休むことにした。
    
表で座って待っていても店の中で大声で喋っているのに注文を取りに来ないので、ノコノコ入って行くと、亭主は相当きこめして御機嫌で、聞き手に回されて辟易している二人の常連客相手に大声で喋っている。
       
シードル(ビール並みのサイダー)とカルバドス(蒸留酒 林檎の焼酎)を注文すると
『エー、御主人にシードル。奥さんがカルバドス』とふざける。
   
暫くして、表に運んで来て、又同じことを繰り返して、ぶざけている。
妻は面白がっているが、酒飲みのバーテンは苦手だ。
      
どういう訳か、ギリシャ系の顔をしている。
タベルナと言うギリシャ語が、ヨーロッパでは居酒屋の普通名称になっているのは、居酒屋の亭主にギリシャ人が多いせいでしょうか
 
シードルは殆どアルコール分がないせいか、妻は気に入っている。
歩道に出された椅子席で、のんびり通行人を眺めていたが、北国の夕方は一向に日が沈みそうにない。
   
亭主の喋りが終わりそうにないので、又ノコノコと店の中に入って、
『ムシュウ ラディション (l'addition) シルブプレ』
で勘定を済ませる。
二杯で150円(5フラン)だった。
城壁の中の街は、規則正しい碁盤目の道路で仕切られているので、もと来た道は迷いようがない。
  
出掛けに気に留めていたホテル近くのレストランの前に行った。
内部が見えるガラス窓の上に、料理の写真が掲げてある。
妻がその内の蟹、海老の盛りつけ皿を注文しようと言い出すので、二人で、メモを取り出して料理名を書いていると、店の中に座っている夫婦連れが笑いかけて来る。
この人達も同じことをしたらしい。
 
レストランに入ると、混み合っていて、通された席は先程の夫婦連れの近くだった。
向こうと顔を見合わせてニヤニヤして会釈をする。隣席の婦人の二人連れも先程から見ていたのか、同じように会釈をしてくる。
 
この婦人連れは見たことのない料理を食べている。
ギャルソンの持ってきたカルテを示して、
『ケレボートル プラー』
と片言で尋ねてみる。
これこれとメニユーの一つを指差してくれる。
『セ デリシユ(美味しい)?』
『ウイ デリシユ』
試しに食べてみたい気になる。
     
ところが妻が執心の蟹、海老盛り合せ料理を三つ向こうの席で食べている。
とても一人で食べ切れる量ではない。
二人で一皿注文することにした。
それと魚スープ。
    
隣の婦人連れの食べている料理を折角聞いたのに、結局食べるのを諦めた。
次の機会があるかもしれない。(?)
   
庶民的なレストランなので、ソムリェ(酒係)にではなく、ギャルソンに料理と一緒にお酒を注文することとなった。
『アベブ ヴァンフェタラメゾン(自家製ワインがある?)』
『ノン ムシュウ 何とかナントカ』
無いことを弁解しているらしい。
自家製ワインをフラスコ風のデカンタで注文すれば、安く上がったのに、残念。
 
ワインの注文は例によって、リストの最後あたりの地酒の半量瓶300円のを頼んだ。
辛口sec 、甘口demi secの区別は聞かず、白blanc 赤rouge の区別だけを聞いてきた。
出てきた蟹、海老の盛り合せは見た目程のものではなかった。
         
妻は『さすがドーバーの貝は美味しい』と言っているが、時期外れの牡蠣とムール貝は、広島牡蠣や、小粒の天然牡蠣を食べ慣れている瀬戸内の人間には、それほど美味しいとは思わなかった。
 
皿の中から小さな蟹をみつけた。昔、母が縁日で買ってくれた茹でた川蟹に似ている。
幼い頃は、これが結構なお八つだった。
しかし、今は食べるのに苦労して、すぐに伊勢海老にとりかかった。
 
一時間半ばかり食事を楽しんで、外に出ると、やっと黄昏になっていた。
 
翌朝も快晴だった。
ダイニングルーム(salle manger)で、クロワッサンと、カフェオレの朝食を摂った。
食堂の紅茶をのみそびれたので、久し振りに濃いミルク入り紅茶を飲もうと、表のテラスに席を変えた。
『ドゥタステ アベクレェ、フオル』濃いのつもりでfortを使うが通じない。
薄くないのつもりで、ノンフェーブルnon,faibleと言い直すと、やっと通じたらしい。
出てきた二人前用ポットには、ティバックが四っ放りこまれていた。
    
風が通り抜けるテラスに座っていると、潮の速い海辺特有の爽やかな磯の薫りが、心地よく包んでくれる。
バカンス、退屈それ自身を楽しむ優雅さを最近知り始めた。
 
昨日歩いた街を、名残を惜しんで、暫く散歩した。
通りがかりのスーパー(super marsh0)で、僕と男の子用に、海賊の水夫が着ていたような横縞模様のシャツを買った。
  
妻は珍しいタイプで、ショッピングが余り好きではない。
旅の道連れとしては、申し分のない条件を備えていて助かる。
  
トーマスクックの時刻表によると、12時21分に乗り換え無しでパリ迄の直行エキスプレスがある。
少し早い目に、駅まで行くことにして、ホテル近くの城門でタクシーを拾った。
これは簡単ダ、『ルガール(駅)シルブプレ』で通じた。
タクシーが横着けしてくれたところは、昨日降りた口と反対側である。
入り口が分からないので、運転手に訪ねて、やっと小さなドアーにentre の表示を見つけて、入る。
 
入り口の小さい割に、中は結構広い。
切符売り場(guishes )は万国共通の姿なので、すぐ判った。
『ドアダルト(大人二人)プールパリ』
『セゴンドクラス(二等)?』
『ウイ』
『レクスプレス スイボン(次の急行) レゼルバション(予約) ウ スプルマン(特別料金)ネセセール(必要)?』
『ウイ ディス(10)フラン何とか』
出てきた切符には、10フランと書かれた切符が付いている。
 
暫く待っていたが、出発時間が来るのに改札も開きそうにない。
待合室の端の方に、時刻表が張ってある。
12時21分パリ(モンパルナス)と書いてあるが、それに続けて5月1、2とかの日付が書いてある。
不安になる。
窓口に聞くと、1221列車はどうも季節の特別列車と思える返事をする。
これは複雑ダ、僕の手に負えない。英語の話せる駅員を捜そう。
 
『パレブ ロングレ英語話せる?』
悲しいかな、とっさには「英語の話せる人がいますか?」なんて難しいフランス語は出てこない。
でも、用は通じた。
右手を指して、何か言っている。
右手には、案内所らしきものが見える。
入っていって、3人いる内の、歳嵩の男に、英語で、12時21分発のパリ直行便のことを尋ねる。
 
ついでに、未練がましく、トーマスクックの時刻表を見せる。
暇とみえて、何故間違いが生じたかを、あれこれ考えている。
「昨年まで、この列車があったので、地方線の時刻表改正が、何かの手違いで訂正されなかったらしい」との彼の推理に同感する。
『日本で売っているトーマスクックの時刻表にも、こんな田舎の時刻表まで載っているんですか!』
と感激して見ている。
 
暫く彼の感激に付き合っいると、おもむろに
「最も早い、パリ行きは、2時30分でレンヌに行き、其処でパリ行きexpress に乗り換えることです」
と説明し始める。
僕達が3時間も待たなければならないことに同情する風はない。
考えてみると、同情する必要はないのも当然かもしれない。
相手は、バカンス、即ち、暇潰しをしているんだものネ。
 
『素敵なバカンスだった?』
『エエ 一週間 海を観てばかりで過ごした』
との会話が普段であるフランス人には、3時間の時間潰しは、気の毒な状況では無いのでしょうネ。
  
妻は「駅前食堂では詰まらないから、街に帰って食事しましょう」と言うが、「大丈夫」「駅前の一膳飯屋でも、ちゃんとしたものを食わせるヨ」と通うぶってみる。
 
一寸洒落た表向きの一軒の食堂の前を、何時もの作戦どうり、二度ばかり往復して、窓越しに中の様子を窺ってみる。
地元客半分、観光客半分で、12時前というのに、結構入っている。
これはよさそうと、突然態度を変えて、颯爽と入ってみる。
ギャルソンヌ(女給仕)に案内された一番奥の席に座る。
 
店内は意外に広く、テーブルが10もある。
持って来たカルテを見ていると、妻が又、ヤヤッコシイことを言い出す。
『店の真ん中に、ビュフェのサラダがあるワ、自由に取れれば便利でしょう』
「ごもっとも、でもどう言えばいいのヨ」
『ゼスチャア ゼスチャア!』
給仕相手に、しばらく手話をやっていたが、若い給仕は弱って、マダムを呼んできた。
歳の功で通じたらしい。
     
魚スープも美味しく、磯魚と思えるソティも結構イケた。
調子に乗って注文したムース オ ショコラ(チョコレートムース)は、目の奥が傷みだすぼど甘かった。
甘味を押さえた日本のフランス菓子が懐かしい!
 
先程の若い給仕さんは、躾けた働き者の母親の姿を髣髴とさせる動作で、きびきびと給仕をしてまわっている。
それにしても胸をはって、ドンドンと踵を鳴らし動き回る姿は、家畜を追って歩きまわることが仕事だった牧畜民族特有の姿勢ですネ。
 
いまだにに水田を耕作する姿そのままに膝を曲げ、前屈みなモンスーン地帯農耕民族の末裔である僕たちには、彼女の姿勢は、お見事というしかありません。
 
時刻表の間違の御陰で、一生けっして訪れることのなかった田舎の駅前食堂で、幸福な一時を過ごすことが出来るのも、旅の醍醐味かも知れない。
『もう急がないと! 2時30分に乗り遅れるゾ!』
 
駅に行くと、レンヌ(Renne )行き電車が待っている。
強いオレンジがかったベージュと、ブルー、暖色のブルーと言うしかない見事な配色の4両連結がまっている。
 
よく空いて、レンヌまでの1時間は快適に、ややきつい起伏の草原と、変化に富んだ林の流れていく風景を楽しんだ。
 
レンヌではパリ行きは、時刻表のとおり正確に5分後に到着した。
月曜だというのに大分混んでいる。
  
やっと見つけた席は、背凭れに、あのreservation (予約)が張り付けてある。
とりあえず座っていると、車掌が来て、「(終点パリ到着50分前の)シャルトルまでは、空いている」と言ってくれる。
正確には、そうと思える言い方をした内に、『シャルトル』だけが聞き取れたと言うべきか?
  
それにしてもサンマロの駅員は、僕がreservation のことまで聞いたのだから、予約席が取れると教えてくれてもいいのに。
「予約が必要か」と聞いたので、「不用」と答えたのか、それとも座席指定が取れるのは団体客だけなのか分からない。
     
妻は「4時間も座り続けより、少し立った方が楽だ」と慰めてくれる。
車掌の説明どおり、シャルトルから、小学生の団体が乗ってきた。
パリの学校恒例の早朝遠足の帰りらしい、皆ウンザリした顔をしている。
分かる分かる。
車両連結部脇の荷物用スペースに移動する。
灰皿があるので、室内では禁断の葉巻を吸えるのでこれも悪くない。
 
暫くすると、黒人の若い夫婦連れが、やって来た、妻は身重である。
立っているのが辛いのか、床に腰を下ろした。僕は慌てて、サンマロで買ったシャツの入っている袋を腰にあてるようにと、夫に渡した。
       
二人とも有り難うともいわないで、無表情のまま、身重の妻は尻に当てている。
貧しい若夫婦である。
夫は、掃除人夫のツナギ服を着ている。
ところが、その古びたツナギ服は、しみ一つ無く、綺麗に洗濯されいる。
身重の妻が洗ったものらしい。
彼らの持っている荷物は紙袋三つきりである。
パリへ掃除夫の仕事でも捜しに行く、不安な旅のように思える。
 
かの細君は、くどくどと嘆き、泣いているが、夫は無反応である。
慰める態度も取らない。
       
レジャー客の異邦人の同情を拒否する感情の目に見えない壁が、厳然として存在しているように思える気まずい雰囲気の中で10分ばかりが過ぎた。
       
そうしている内に、車両半分の1等車の向こうの2等席で、空席が出来たように見えた。
行ってみると、二人掛けの座席の奥が一つ空いている。
隣の婦人に『セ バカン ネスパ?(空席でしょう)』と聞くと、向こうへ声を掛けている。
空席の主は、連れのところへ話込みに行っているようだ。
さして必要な席でもないらしい。
     
「妊娠している婦人がいるので、座らせてくれ」と言おうとしたが、始めから「妊婦」なんてフランス語を知るはずがない。
    
何故か、突然変なことを思い出した
「ラテン語で、妊娠と概念が同語であった!フランス語も似たようなものだろう。
これで行こう」『ラファム(婦人)ェコンセプション(妊娠)ムニャムニャ(この部分を何語で言ったか記憶にない)』
ところが、くだんの婦人は聞き返しもしないで理解出来たらしい。
不思議、いまだに不思議。
       
『私の席もあけてあげる、呼んでいらっしゃい』と理解できるような仕種をしてくれる。
『有り難う!』
手を振って、僕の妻の方に合図をする。
      
促されて、黒人夫婦はノロノロとやってくる。
喜ぶ風でもない、全くの無表情である。
     
二人を座らせたが、僕にも、立ってくれて近くにいる婦人にも会釈一つしない。
僕が気を使って、先程の婦人にもう一度礼を言おうとしたが、背中を向けて、僕の礼に拒否の姿勢である。
    
日本人だから、座らせようとしたのか?
黒人では駄目だったのか?
   
妻の居るところに帰ってきた。
『よかったわネ』
『ウゥーン』
『クッションを返すとき、メルシイボクーって言っていたワ、余程うれしかったのヨ』
    
ほどなく、夫だけは追い出されたらしくトボトボと帰ってきた。
   
汽車は、終点モンパルナス駅に近付いているらしい、周りの景色が都会のそれに変わっている。
               終り