人情の往来_時代小説最前線 001222 読
☆☆冒頭の一文☆☆
短篇が二十四編もあり先に読んだものはすっかり頭から抜けてしまう。もう一度読み直すには 時間が惜しい。
そこで本書の各作品の冒頭の一文だけを拾ってみた。題名とこの冒頭の一文だけで、小 説世界を思いだせる
ものもあるし、まるっきり記憶のないものもある。

最後に笹沢左保の「赤い後ろ姿」のなかのある場面だけは特別にピックアップした。作者紹介 のなかで石井
富士弥氏がゲーリー・クーパーの「真昼の決闘」彷彿......と言う場面だ。

注)引用するに当たって元文と違う特殊記号を使用した個所があります。
著者 作品名  引用する冒頭の一文と当該(頁)
宮城谷昌光玉人 李章武の目に燭台がうつった p11)
高橋克彦絞鬼元慶六年(八八二)の夏、陸奥の胆沢鎮守府へはじめて御陽師が置かれたとき、その陸奥を預かっていた鎮守府将軍は武勇で名高い小野春風だった。(p37)
永井路子雨の香り花世は小さな美しい櫛を持っている。(p63)
杉本苑子橡の根かた いつもなら秋も終わりに近づいた今の季節、山は山菜の宝庫なのに、今年はまだ、ろくに伸びも実りもしないうちから、目を血走らせた村人たちが争って採りつくしてしまったせいか、よ ほど奥へ分け入らなければアケビも栗も、茸一本すら見つけるのがむずかしかった。 (p89)
竹田真砂子かぶき大阿闍梨瑞々しい緑の葉をつけた柳の木を背に、竹之丞は、戯場の正面木戸口上方に架けて ある櫓を見上げた。(p113)
神坂次郎鴉屋敷の怪五代将軍綱吉の世といえば、まっさきに思い泛んでくるのが、あのお犬さま騒動、前代未聞の天下の悪法『生類あわれみの令』こと殺生禁令である。(p137)
南原幹雄命十両♪海上はるかに見渡せば 七福神の宝船.....
哀調をおびた二上がり調子とともに、編笠、脚絆、日和下駄の 鳥追いが浅草蔵前通りをながして行った後には、にぎやかな獅 子舞一行がやってきた。
(p163)
佐藤雅美強淫弥次郎貧乏神が住みついている様子は、敷居をまたいだときすぐにわ かった。(p189)
高橋義夫 野ざらし仙次 障子を開け放った縁側から、桑畑がみえる。(p215)
藤沢周平 岡安家の犬 隠居の十左衛門をその中にふくめていいかどうかは、若干の疑 義が残るところだが、一口に言えば岡安家の人人は大の犬好き だった。(p239)
安西篤子 凌霄花(ノウゼンカズラ) 天神岳の山中の庚申堂で、山村弁之助の死骸が発見されたのは、 失踪後三日目の朝のことだった。(p265)
宮部みゆき 十六夜髑髏 ふきが小原屋に奉公にあがったのは、数えで十五の歳、桜の花 の色の薄い、寂しい春のことだった。(p287)
梅本育子 萩灯籠 路次番、小太郎の番小屋の床几に店頭のややじさんが座り、煙 草を吸ってぽいと地ぺたへ灰をすてていた。(p313)
佐江衆一 一会の雪 二十年も茶店をしていて、こんなことは初めてだった。(p337)
澤田ふじ子 足許の霜 「丹波屋の旦那さま、ちょっとここいらでひと休みして、変わっ た余興などいかがどす」(p361)
半村 良 帰って来た男 弥生三月、春惜しみ月。(p387)
泡坂妻夫 面影蛍 えっ、あのお子さんは坊っちゃんじゃない。(p411)
伊藤桂一 小さな清姫 「お侍さま。この金魚はん、えらくりっぱな様子してはります なあ。ようみせてもらいます」(p433)
皆川博子 渡し舟 「下駄ァかくして 袖ひっ捕らめェて......」 美声だ。(p455)
藤本義一 下手人 いつの世も、人の世は二つの欲の苦しみでんなあ。(p479)
杉本章子 はやり正月の心中 おちかが仲の町の引手茶屋永楽屋の軒暖簾をくぐってまなしに、 夕立がきた。(p501)
出久根達郎 お湿りなきや 「おれだ。出会え」(p525)
笹沢左保 赤い後ろ姿 甲州街道は笹子峠を越えてからも、しばらく山間の道が続く。(p551)
堀 和久 城崎有情(キノサキウジョウ) 物音に、はっとしたように孝助が半身を起した。(p573)


佐沢左保 「赤い後ろ姿 」p563−564より

  あちこちで叫び声や女の悲鳴が聞こえて、勝沼宿は全体がにわかに緊迫感に包まれた。多
 田屋が位置する宿場の西のほうから、街道の両側の人家が次々に表戸をおろし始めた。約九
 十軒が、表戸を閉じたようである。
     多田屋の家人や奉公人のように、避難した住民も少なくなかった。四百人が家の中に引き
 こもり、三百人が田畑か雑木林へ逃げ込んだらしい。
     残りの八十人ほどが、宿場の東のはずれに集まった。事の成り行きをわが目で確かめよう、
 という八十人である。八十人の中には、おきぬも含まれていた。
      異様な雰囲気から非常事態を察知して、旅人たちも宿内へ足を踏み入れなくなっている。
 宿場の東西のはずれの木陰にすわり込み、旅人連中は何事が起きるのかを見守っていた。そ
 の数も次第に増えて、ふくらむ一方の人垣となる。
      無人の街道が、宿内を貫いている。人家が軒を連ねているのに、人間がひとりも見当たら
 ない。犬さえも、姿を消していた。蝉の声のほかには、何も聞こえなかった。真昼の陽光が
 照りつけているのに、深夜のような静寂が不気味であった。

     その渡世人は、東から笹子峠を越えてきた




もっともこうして特別この場面だけを抜き書きしても、その前後がないとこの場面も本と うに生きては来
ないのかも知れない。


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