名曲図書館

人は世につれ、世は歌につれ・・・  違ったかな?

歌い継がれる歌や世代を超えて愛される曲には、時代の波に洗われても風化しない強さがあります。

そんな曲の生い立ちやエピソード、その頃の時代背景を集めてみました。

 

なお、ほとんどの話題は Web で拾ってきたものです。本来なら Reference の URL を掲載しておくべきでしょうが、記録として残していませんでしたので掲載できません。お詫びいたしますと共に、貴重な情報をアップロードして下さっていた各サイトの管理者の方に御礼申し上げます。

文中では敬称を略させて頂きます。

 

 [あ] [か] [さ] [た] [な] [は] [ま] [や] [ら] [わ]

記号

青い山脈

 同名の映画の主題歌(今井正監督)。原作は、石坂洋次郎の小説「青い山脈」。
 昭和24年(1949)の作曲。作曲は服部良一、作詞は西条八十。ちなみに「青い山脈」という映画は、続編も含めて7回も映画化されている。
 ちなみに、余談ではあるが、昭和50年(1975)リメイク版の撮影は、長野県の上田市で行われた。上田市のホームページには「信州上田ロケ地ガイド」という項目があり、それを見ると、青い山脈の映画(見たこと無いが)に出てきそうな風景が今でも残っているようだ。
 歌は、藤山一郎・奈良光枝が歌った。
 

一番上に戻る

記号

いい日旅立ち

 作詞作曲は谷村新司。昭和53年(1978年)に、山口百恵が歌い、大ヒットとなった。
 当時の国鉄(現在のJR)のキャンペーンソングとして、日本全国に流れた。しかし、キャンペーンソングは大ヒットしたものの、当の国鉄は9年後の1987年4月1日、分割民営化されてJRグループ及び国鉄清算事業団として再スタートする。
 時は流れて平成9年、郵政省は「私の愛唱歌シリーズ」と題したシリーズ切手を出した。1集2枚で全9集18種類。「いい日旅立ち」は、その第1集、トップを切ってリリースされている。

一番上に戻る 

記号

上を向いて歩こう

 昭和36年(1961)に、言わずと知れた坂本九が歌った歌。 作詞は永六輔、作曲は中村八大。当時、このコンビで作詞作曲し坂本九が歌うという面子は、「ロク・ハチ・キュー」と呼ばれ、ゴールデントリオであった。
話が飛ぶようだが、火星と木星の間に小惑星帯がある。その中の「小惑星6980番」には「kyusakamoto」という正式名称がある。このトリオにちなんだ命名である。
 この曲をレコーディング中、坂本九が歌うのを聴いた永六輔が、「なんであんなにだらしなく歌うんだ! 俺の歌詞を馬鹿にしているのか!」と激怒したのは有名な話。
 その他、この曲については有名なことといえば、「スキヤキソング」であろう。これは元々、この曲を気に入ったイギリスのラジオ局の社長が、ジャズ楽団によるデキシー・ジャズ風のアレンジを思いついた。しかし、イギリスのDJには日本語の原題は発音できないだろうという事から、社長の好物で、イギリス人にもなじみある日本語の「スキヤキ」となった。ちなみに、ベルギーでは「忘れ得ぬ芸者ベイビー」という名前で売り出されたとか。
 また、アメリカでも大ヒットし、ビルボードチャートで3週連続1位を取っている。未だ坂本九以後、全米チャート1位を取った日本人アーティストはいない。このチャートは坂本九本人による歌だが、全米チャート1位をとった最初の外国語(英語でない)の歌でもある。
 坂本九は元々、海外の歌のカバーバージョンを歌うことが多かった歌手。今で言うと山下達郎か。昨今流行の「明日があるさ」もかなりジャズっぽく歌っている。

一番上に戻る

記号

 「松原遠く消ゆるところ・・・」で始まる歌。作詞・作曲とも不明。大正2年(1913)に「尋常小学唱歌(五)」に掲載された。高齢者には「松原遠く消ゆるところ・・・」で始まる歌の方がなじみが深いようである。
 現在では海岸沿いの松林など、なかなか見られなくなってしまった。特に首都圏の子供にとって白砂青松という言葉などは、”何のことやら”といったところであろう。全国的な松食い虫の大流行が影響しているとはいえ、少し寂しい感じもする。

一番上に戻る
 

記号

川の流れのように

 昭和の歌姫、歌謡界の女王、美空ひばりの最後のシングル盤。平成元年第31回日本レコード大賞・金賞など、数々の賞に輝いたが、彼女はそれを知ることなく他界する。作曲は見岳章、作詞は秋元康。
 ひばりというと、何と言っても東京ドームの復活コンサートであろう。昭和62年4月に重度の肝硬変と大腿骨骨頭壊死で入院。しかし、本人の「もう一度歌いたい」という情熱が、周囲を動かし、東京ドームのこけら落としコンサートとなった。真夏の病院で、「のどを痛める」と冷房もつけずに治療に専念するひばり。一方、コンサートスタッフはドームという音響の悪さと悪戦苦闘する。ひばりを必要以上に舞台上で動かさない工夫も必要であった。
 300人にも上るスタッフの努力の結晶により、昭和63年4月、5万人の観客を集めたコンサートが成功した。
 その後、再び入院。平成元年6月24日、帰らぬ人となる。まさに昭和に現れ、昭和と共に去った、昭和の歌姫であった。

一番上に戻る

記号

汽車

 作詞は不明、作曲は大和田愛羅。明治45年に「尋常小学校唱歌(三)」に掲載された。
 当時、汽車といえば当然蒸気機関車。しかも、最先端の乗り物であった。明治政府は鉄道網の整備を重点課題としていたが、これは国内の(兵員を含む)輸送体制の整備という目的もあったが、江戸幕府から新政府に移行したことで、新時代に突入したことを印象付けるねらいもあったようだ。

一番上に戻る

記号

銀座かんかん娘

 佐伯孝夫作詞、服部良一作曲。同名の映画(島耕二監督高峰秀子主演)の主題歌だった。
 作曲は昭和24年(1949)。歌は高嶺秀子。この年は、湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞や、「フジヤマのトビウオ」こと古橋広之進が活躍。映画「青い山脈」公開もこの年だったようだ。ブギウギ全盛の時代。
  関係ないが、服部良一のその時代の作曲リストを見ると、ブギウギの凄まじいまでの流行が分かる。「東京ブギウギ」(S.22)、「さくらブギウギ」「ヘイヘイブギ」「ジャングルブギ」「大阪ブギ」「三味線ブギ」(以上 S.23)、「買物ブギ」(S.25)、「銀座ブギ」(S.26)etc..
 ちなみに、「かんかん娘」(カンカン?)とはどういう意味か。フレンチカンカンではないらしい。当時、なぜか「卑猥だ」という批判(想像たくましいねえ)もあったとの噂。正解は不明。造語かもしれない。
 最近では井上陽水などのアーティストも、この曲をカバーしている。

一番上に戻る

記号

里の秋

 作詞は斎藤信夫、作曲は海沼実。昭和20年(1945)発表。
 作詞の斎藤は職業的な詩人・作詞家ではなく、実は小学校の先生。詩を書くことは趣味であり、童謡を作詞しては童謡雑誌に投稿していた。作曲の海沼も「遊戯と唱歌」という雑誌に、よく曲を投稿していた。
 この曲の詩には原型があり、「星月夜」(昭和16年)という詩がそれ。「星月夜」は1,2番は今のままだが、3,4番では出征しているお父さんの武運を祈り、将来は僕も兵隊になる、という絵に描いたような戦前・戦中の男の子の歌であった。
  時は流れて終戦。海沼の元へNHKから、復員兵を歓迎する番組を放送するので、その時に流す歌を作ってほしいとの依頼が入る。海沼の目にとまったのが、「星月夜」。ところが、3,4番の歌詞に少々難がある。急遽、教師を辞めてブラブラしていた斎藤を呼び、四苦八苦しながら放送直前に新しい3番を書き上げた。このドサクサの中で題名は「里の秋」に変わる。そして放送。
 放送当日、童謡歌手の川田正子が歌い終わった直後、NHKに電話が殺到した。「今流した曲は?」という問い合わせである。翌日以降はこれに手紙が加わった。これほどの反響があったのは、NHKでも初めてであった。
 現在、斎藤の故郷である千葉県成東町と、海沼の故郷である長野県松代町にそれぞれ歌碑がある。

一番上に戻る

 

記号

知床旅情

 作詞・作曲は森繁久弥。発表が昭和46年(1971)。
 この曲は、映画「地の涯に生きるもの」(1960)のロケの際に知床を訪れた主演の森繁久弥が、撮影を終えて羅臼(ラウス)を離れる直前に地元の人に即興で歌った曲が元になっている。当時の曲名は「さらばラウスよ」であったが、1971年に加藤登紀子が歌って大ヒットとなった (参考) 。ちなみに、北海道標津町には「メロディーロード」という道があり、一定速度で走るとロードノイズにより「知床旅情」が聞こえる仕掛けになっている(参考)。
 知床は世界遺産にも登録され、観光客も増加しているが、観光客によるごみ問題や落書き、住民の生活利便性の確保と自然保護の両立など、課題も出てきている。自然と人間が共存できるモデルの模索を期待したい。(参考

一番上に戻る

記号

小さい秋見つけた

 作詞はサトウハチロー、作曲は中田喜直(なかだよしなお)。昭和30年(1955)に、NHK「秋の祭典」で女声独唱付き合唱曲として放送するために作られた曲である。
 この時、NHKは当時活躍中の詩人8人に依頼をしたが、サトウハチローだけは「自分は大人も子供も歌える歌しか書けないがそれでもよろしいか」と断ってから書き上げたとのこと。他の7人が歌謡曲の詩を書き、時代の波に消えていったことを考えると、「大人も子供も」というコンセプトが如何に正攻法であるかが分かるのではないか。
 ちなみに、サトウハチロー個人は、3番の歌詞がお気に入りだったようで、なかなか歌われない3番にこの詩を持ってきたことを後悔していた。
 なお、サトウハチロー自身は東京生まれだが、父が弘前、母が仙台の生まれである。「ボクの血の中には東北のものが流れているから、田舎の詩を書くのに何の苦労もしない」と、言っていたそうである。
 作曲の中田喜直は、「雪の降る街を」も書いた作曲家であるが、彼の父は東京音楽学校(現 東京芸術大学)の教授であった。血は争えないものである。
 

一番上に戻る

記号

津軽海峡・冬景色

 昭和51年(1976)発表。作詞は阿久悠、作曲は三木たかし。唄は言わずと知れた石川さゆりで、彼女の出世作である。デビューから4年後。
 この曲は元々、「365日恋もよう」というアルバムのうちの1曲。これは、阿久悠・三木たかしが作詞作曲、石川さゆりが歌うアルバムで、1月から12月までを暦に見立てて12曲入れたものであった。「津軽海峡・冬景色」は、この中の12月の歌。
元々、石川も気に入っていた曲であったようだが、大阪の新歌舞伎座でのコンサートのエンディングに使ってから、人気に火がついた。一度火がついたら止まらない。51万枚を売り上げ、第19回日本レコード大賞・歌唱賞など、数々の賞を総なめにする大ヒットであった。
 ちなみに、作詞の阿久悠によれば、「自立していく女性を書いたんだよ」との事である。
 現在、この歌で一躍有名になった青森県竜飛岬には、歌が流れる仕掛け付きの歌碑がある。当然2番から始まる。

一番上に戻る

記号

東京キッド

 昭和25年(1950)、美空ひばりのハワイ公演の時に発表された曲。作詞が藤浦洸、作曲が万城目正。
 当時ひばりは12歳。子供とは思えぬ歌唱力で、しゃれたメロディーを歌いこなした。今聞いても、とても12歳とは思えない。さすが昭和の歌姫である。終戦後の混乱がまだ残る時代、この歌で希望や元気を得たという人も多いのではないか。

一番上に戻る

 

記号

夏の思い出

 昭和24年(1949)、NHK「ラジオ歌謡」で放送された曲。言わずと知れた、夏の尾瀬を歌った曲。
 作詞は江間章子、作曲は中田喜直。当時、江間は尾瀬のことを知らなかったが、担当者の熱意にほだされて書いたという。対するに中田喜直も尾瀬を知らなかったが、詩を何度も読み返し、曲をつけたという。(参考
 尾瀬を知らない者同士が作った曲が、尾瀬を一躍有名にし、一大観光地にのし上げたというのは興味深い。

一番上に戻る

 

 

記号

七つの子

 野口雨情作詞、本居長世(もとおりながよ)作曲。大正10年(1921)に雑誌「金の船」に掲載された。このコンビで他にも「赤い靴」「十五夜お月さま」等を作曲している。同じく童謡作曲家である中山晋平が、雨情の詩に曲を付ける事を依頼された時、この詩には日本的な曲が合うと考え、師匠である本居長世を推薦したのがきっかけらしい。
 更にこの二人、没年は同じ1945年である(関係ないか)。
 ちなみに本居長世は、東京音楽学校(今の東京芸術大学)を首席で卒業しているが、同期の山田耕筰も学業ではかなわなかったようである。国学者である本居宣長の子孫に当たる。
 更に全然関係ないが、この年はグリコのキャラメルが発売された年。「一粒300メートル」は、この頃からの宣伝文句。

一番上に戻る

記号

箱根八里

 作詞は鳥居忱(まこと)、作曲は滝廉太郎。
 実はこの曲、滝廉太郎が懸賞に応募した時の作品である。東京音楽学校(現在の東京藝術大学)では明治34年(1901)に、「中学唱歌」の発行のために曲を公募した。滝は21歳の学生。彼は「箱根八里」の他に、「荒城の月」「豊太閤」の計3曲を応募し、全て採用された。1曲5円で計15円の収入。喜んだ滝は、友人に汁粉を振舞ったり母や妹に贈り物をしたと言う。ちなみに作詞の鳥居は、その時の教授であり、音楽理論と国語を教えていた。
 ちなみに、明治39年当時の巡査の初任給は12円。結構な賞金になったのでしょう。
 学習指導要領では、漢文調の歌詞の難しさなどから消える恐れがあった(さすが明治の国語教師)。しかし、箱根町議会や神奈川県議会の要望と1万人以上の署名運動の甲斐あってか、残ることとなった。
 惜しくも夭逝した明治日本の天才音楽家、滝廉太郎の名曲である。末永く歌い継ぐようにしたいものである。

一番上に戻る

記号

富士山

 作詞は巖谷小波(いわやさざなみ)、作曲は不明。明治43年(1910)に「尋常小学校読本唱歌」に収められた。
 元々は「ふじの山」と名づけられた詩であったが、明治45年に「尋常小学校唱歌」に掲載される時に、漢字表記で「富士山」になった。

一番上に戻る

記号

故郷(ふるさと)

 作詞は高野辰之、作曲は岡野貞一(ていいち)。大正五年(1914)に尋常小学唱歌となった。
 詩のイメージとなったのは、作者の高野辰之の生まれ故郷、長野県豊田町であり、兎を追ったのは大平山で、小鮒を釣ったのは斑川と言われている。
 作曲の岡野はクリスチャンで、教会のオルガン奏者でもあった。鳥取生まれなのだが、14歳で洗礼を受け、その後故郷を離れ岡山で宣教師から音楽の才能を見出され、音楽の道を進むことになる。この宣教師がいなければ、「故郷」は誕生しなかった。また、岡野は賛美歌で育っただけはあり、賛美歌の影響を受けていると言われている(モデルになった賛美歌があるらしい)。
 現在、高野の故郷長野県豊田町、岡野の故郷鳥取県鳥取市にそれぞれ歌碑が建っている。
 このコンビでの有名曲には、他にも「春が来た」「春の小川」「紅葉」などがある。

一番上に戻る

記号

椰子の実

 作詞は島崎藤村、作曲は大中寅二。
 有名な民俗学者である柳田国男が、明治31年の夏に1ヶ月ほど愛知県の伊良湖(「いらご」と読む。渥美半島の先端の地名。湖ではない。)に滞在した折、椰子の実を拾った。親友である島崎藤村にこの話を語ったところ、これがモチーフとなり、椰子の実の詩が出来た。この詩に、昭和11年、大中寅二が曲を付け、国民歌謡として放送された。
 島崎は、柳田の話で受けたインスピレーションがかなり大きかったらしく、「君、その話を僕に呉れ給えよ、誰にも云わずに呉れ給え」と、わざわざ念を押す程であった。
 現在、伊良湖からほど近い、日出ノ石門近くには「椰子の実詩碑」が建つ。
 また、この詩にちなみ、愛知県渥美町観光協会では、沖縄県石垣島から毎年金属プレートを付けた椰子の実を流している。昭和63年から実施しているが、平成13年8月3日、初めて伊良湖岬に流れ着いた。この実は、「願いがかなう椰子の実」として伊良湖岬にある椰子の実博物館に展示された。

一番上に戻る

記号

雪の降る街を

 昭和27年(1952)の作曲。内村直也作詞、中田喜直(なかだよしなお)作曲。 作曲の中田喜直が、昭和27年3月に山形県鶴岡市を訪れた時に、馬ソリに乗って知人宅に向かう途中、雲間から差し込む月明かりの中をひらひらと舞い落ちる雪の美しさに感動し、その情景から作曲したものと言われている。
 現在、鶴岡市では記念碑やモニュメント、駅前には歌碑が建っており、毎年「雪の降る町を記念・音楽祭」が催されている。
 昭和27年というと、首相は吉田茂。前年はサンフランシスコ条約の調印。翌年の昭和28年3月には、あの名高い「バカヤロー」解散がある。
 この頃、世界初のジェット旅客機がテスト飛行を始めている(イギリスの「コメット」)。

一番上に戻る

記号

与作

 日本歌謡界のドン、北島三郎の記念碑的ヒット曲。発表は昭和53年(1978)、作詞・作曲は七沢公典。
 北島は、北海道知内町の没落した網元の家に生まれ、流行歌を歌う歌手になると単身東京へ。ギターを片手に流しの歌手に。苦労の末デビュー、「なみだ舟」で大ヒットとなった。上京してから8年である。
 以来、北島は男の激情を歌い上げるのを得意としたのだが、その路線に新境地を開いたのが「与作」である。
  ただ個人的には、”異色”と言われる「詠人(うたびと)」に至るまで、サブちゃんの後ろには故郷の北海道が常にある気がする。

一番上に戻る

 

ハードボイルドの Top Page に戻る