届かぬ夢



 赤い髪の少女が、今の今まで愛し合っていた青い髪の少女に、気だるい表情で言葉を投げる。
「ニッポン?」
「そうよ。シンマラ師は彼女の祖国にいる」
 海ような青い髪の少女が衣服を身につけながら、無表情に鮮烈な赤い色の髪をした少女に応える。
 感情が込められていない平板な声だったが、赤い髪の少女に向けられた双眸はうっとりとしたものを含んでいた。
 赤い髪の少女の目にも青い髪の少女に対する愛情が込められていたが、『シンマラ師』という言葉を聴いて、その視線がねめつけるようなものに変わった。
「ラーン」
 赤い髪の少女の声に棘が生える。
 甲高い嫌な響きに、ラーンと呼ばれた青い髪の少女がブラウスのボタンを留めていた手を止める。
「どうしたの?」
「もうシンマラを師なんて呼ぶな。何回も言ってるだろ」
 不機嫌そうにベッドを殴りつける赤い髪の少女。
「……悪かったわ、お嬢」
 ラーンは頭を下げながら、視線を落す。
 愛する赤い髪の少女に不快感を与えるつもりはなかった。
 かつての二人の師、シンマラと呼ばれる女性を師と呼んでしまう、それはもはや直すこともできないラーンの口癖だった。
 それは、赤い髪の少女も十分に承知している。
 それでも言わずにはいられないほどに、赤い髪の少女はかつての師を憎んでいた。
 ラーンは大きく息を吐いて、仕上げのスカーフタイを襟首に巻いた。
「許して、お嬢。気分を害するつもりはなかったの」
「ラーン、そんなことはわかってるさ。それよりも……」
「すぐに立つわよね?」
「もちろんさ。すぐにでもフランベルジュで、シンマラを滅茶苦茶に切り裂いて、嬲りに嬲ってやりたいんだから」
 赤い髪の少女は果てたばかりで身体に残る気だるさも関係なく、ベッドから飛び降りるとクローゼットを物色し始める。
 クローゼットに並ぶのはすべて、少女の趣味を疑う毒々しい意匠のドレスばかり。
 そして、立てかけられている愛剣は、禍々しい棘を持つフランベルジュ。
「お嬢、私も出立の準備をしてくるわ」
「早くしろよ」
 青い髪の愛人を部屋から追い出し、赤い髪の少女は漆黒のゴシックドレスを身につけ始めた。

 ――煌々と人工の光で照らされた大きな部屋に何人かの人間たちが集まり、思い思いに言葉を口にしている。
 彼らは一様に同じ服、白衣を着ていた。
「何かの役に立つかと思ったがな」
「あの性格ではどうにもなりますまい」
「それにスカジィルの娘だろう。あまり当てにはならんのではないか」
「さあな。さすがに身体能力はなかなかのものだが」
「しかし、教育でもせねば使い物にはならんだろうな」
「アレをか?」
「確かに難しいな」
 彼らが話し合っているのは、組織が拾った一人の少女の処遇についてだった。
 シルビア・スカジィル。
 社会の裏に属する少女で、剣の技量に優れ、顔の造形も悪くはない。
 だが彼女は、娼婦でもなければ、腕利きの用心棒というわけでもなかった。
 普段ならば組織があえて目をつけるほどの人材ではないのだが、彼女には組織が研究中の『能力』を開花させる素質が十分に認められた。
 それゆえに接触し、連れて来るまでは成功したのだが、少女の気性は研究者たちの手に余るものだった。
「シンマラ殿、引き取ってもらえませんかな?」
 陰気な顔をしたリーダー格の男が、今まで黙っていた鴉色の髪をした美貌の女性研究者に言葉を振る。
「私が?」
 眉をほんの少しだけ跳ね上がらせて、シンマラと呼ばれた美女がリーダー格の男を見返す。
 氷のような眼差しだが、その中に興味の光が混じっていることに男は胸を撫で下ろし、この分ならと言葉を続けた。
「左様、先のラーン・エギルセルは順調に育っていると聞いています。あなたにはそういう才があるようだ」
「ラーンと比べた場合の素質は?」
「育て方次第といったところですね。ただし性格には難がありますが。それと、あのスカジィルの娘というのが……」
「生まれはどうでも良いではないですか。素質さえあれば十分でしょう。わかりました。引き取りましょう」
 理知的な美しい顔を深く縦に振って、シンマラは他の研究者たちに了承の意を伝えた。

 薄暗い部屋の中に、その少女は居た。
 頭の両側でおさげに結っている赤い髪も、ややきつめだが可愛らしい顔も、埃で薄汚れ、身につけている服も上等なものとは言えなかった。
 彼女の顔には今にも暴れだしそうな苛立ちが浮かんでいる。
 その辛辣な雰囲気を漂わせている赤い髪の少女に向き合うようにして、シンマラは静かに立っていた。
 シンマラは切れ長の目を少女の顔に向けると、事務的な口調で話しかけた。
「名は?」
「知ってんだろ?」
 間髪いれずに苛立った声が返ってきた。
 シンマラの表情は崩れない。
「直接に聞きたいのだ」
「うぜェ女だな」
 赤い髪の少女がそっぽを向き、吐き捨てるように呟く。
 ぱんっ!
 乾いた音が鳴り響く。
「!」
 少女の目が大きく見開かれた。
 頬を叩かれたのだ。
 じーんと熱い痛みが伝わってくる。
「テ、テメー!」
 赤い髪の少女が目を怒りに燃やす。
 だが、黒髪の女性は冷めた目で瞬きもせずに少女を見続けている。
「キミが私を侮辱したからだ。私はキミを子ども扱いするつもりは毛頭ない」
 しかし、そう言うシンマラの瞳は決して冷酷なものではなかった。
 それに気づいた赤い髪の少女が発しようとした罵声を飲み込む。
「……」
「それで、キミの名は?」
「……『スカジィル』」
「名を聞いているのだが?」
「だから、『スカジィル』だよ」
「それは家名だろう」
「……」
「私はキミの名を聞きたいのだ」
「……シルビア」
 赤い髪の少女は、しぶしぶというように自らの名を名乗った。
 鴉色の髪をした女性は満足したように深く頷いた。
「宜しい。シルビア、キミには今日から私の生徒になってもらう」
「ハァ?」
「生徒と言ったのだ。私はキミの師になるのだ」
 ――何だ、この女は?
 話が唐突過ぎて、シルビアにはこの美女が何を言っているのか、理解できない。
 研究者とはこういう突飛な物言いをするものなのだろうか。
 それともこの女性の思考が飛躍しすぎているのか。
 何にせよ、理解に苦しむ、ということには変わりなかった。
 ただ怒りは沸いてこない。
 沸いてくるのは、目の前の女性への興味だった。
「アンタ、何を望んでこのアタシなんかの師になりたいって言うんだ?」
「私は世界を変える力が欲しい」
「ハァ?」
「世界を変える。その実行者、私の一部としてキミを望むのだ。だが今のキミではダメだ。素質はあるが荒削りすぎる。だから教育させてもらうのだ」
「世界を変える?」
 首を傾げるシルビア。
 やはり、この女性は自分の思考とかけ離れたことを言うと彼女は改めて思った。
 鴉色の髪の女性がシルビアの顔を覗き込む。
「キミは世界を変えたいとは思わないのか?」
「アタシがここに来たのは、世界を滅茶苦茶にしたいからさ」
 シルビアには、そう質問されれば、こう答えるしかなかった。
 そして、忌々しそうに床を蹴り、拳を握り締める。
 憎悪の視線を中空にさ迷わせる。
 父さんを認めないこんな世界。
 母さんを不幸にしたこんな世界。
 アタシを見捨てたこんな世界。
 シルビアの生い立ちは複雑だった。
 欧州にその名を轟かせた暗殺者シアチ・スカジィルの一人娘。
 だが、シアチは最後の最後に仕事を失敗し、国家権力によって処刑された。
 暗殺者としては許されない無様な死に方だった。
 立て続けに依頼人が捕縛されたことで、シアチが依頼人を売ったのではないかというという疑惑が飛び交い、スカジィルの名は地に落ちた。
 母は貧困のうちに死に、シルビア一人が残された。
 シルビアは父譲りの身体能力と剣の技量で、裏社会の最下層の弱者を狩ることで生き延びることだけはできた。
 だが、父シアチの失態のせいで、正規の仕事が転がり込んでくることは極端に少なく、そしてどのように仕事を完璧にこなしても嘲笑され続けた。
 それでも、シルビアは、『スカジィル』と名乗ることを止めなかった。
 名を聞かれても、『シルビア』とは答えなかった。
 依頼人たちには『スカジィル』で十分だったし、訊かれ直すこともなかった。
 だから、先程、『シルビア』と名乗ったのは久しぶりだった。
 鴉色の髪の女性は深く頷いた。
「キミは間違っていない。生物は常に変化を望むものだ。そして、それが生きているということではないか。壊し、また作る。作り、また壊す。それの繰り返しこそ世界の真理だよ。だから本当は世界を変える力なんてものは誰で持っている。具現化できていないだけだ」
「バカな妄想だね」
「妄想だな。だが、夢だ。世界を変え、自分を変え、また新しい夢を見る」
「バカだけど面白いな、アンタ」
「面白いとは重要なことだ。興味、好奇心、それは知の源泉になる」
 鴉色の髪の女性はゆっくりと右手を差し出した。
 それが握手を求めているのだ気づくのに、シルビアは多少の時間を要した。
 そして、それは目の前の女性を受け入れるか、拒絶するかの選択だった。
「シルビア・スカジィル」
 フルネームを呼ばれ、少女は自然と差し出された手を取った。
 悪魔の手でも、神の手でもない。
 はじめて得た、『師』の手だ。
 ひんやりとした白い手だったが、その中には暖かい血液の流れた人間の手だった。
 心臓が高鳴るのをシルビアは意識した。
 鴉色の髪をした女性が、右手を握り締めてくるシルビアの手に左手を重ねる。
「この世に永遠は無いが、師弟関係になったのも何かの縁だ。しばらくはよろしく頼む」

 ――今、シルビアは裏世界最大とも呼ばれる組織『ヴィーグリーズ』の幹部にまで成り上がった。
 もはや、『スカジィル』の名を嘲弄するものはいない。
 もしいれば、シルビアの剣に切り裂かれ、雷によって焼かれて死ぬだろう。
 『スカジィル』の名は、裏社会での嘲笑の的ではなく、父シアチの全盛期のように畏怖の対象であった。
 だが、彼女の傍らに、彼女を今の身分にまで叩き上げた愛する恩師の姿はない。
 未だ忘れえないあの時のぬくもり。
 師の手を握った右手を、シルビアは左胸に添える。
 だが、敬愛していた師の暖かさは、身を包んだ毒々しいゴシック調の黒いドレスによって遮断される。
 彼女の今の衣装こそが、今の彼女の心のうちを表していた。
「シンマラ、なぜ裏切った……」
 シルビアが熱さがどくどくと脈打つ右手を見ながら呟く。
 可憐な唇から漏れるその声は憎悪で染まっていた。
 シンマラは、『力』も『愛』もくれた。
 だが、彼女はシルビアを他の人間たちと同じように裏切った。
 もしかしたら、姿を消しただけの彼女に『裏切った』という表現は適切ではないのかもしれない。
 しかし、突然に『ヴィーグリーズ』を去り、姿を晦ませたという事実は、シルビアにとっては裏切り以外のなんでもなかった。
 あれほど愛していたのに。
 永遠はない。
 確かに、そうは言った。
 そして、しばらくは、とも。
 だけど……!
 確かに、姿を消す数ヶ月前から、シンマラの様子はおかしかった。
 戦功を昔のようには喜んでくれなかった。
 それどころか、戦うなとまで言い出したこともあった。
 師のことを敬愛していたが、それには賛同できなかった。
 世界を変えるための『力』をくれたのも、戦い方を教示してくれたのもはシンマラ自身だ。
 明かに矛盾した言動だった。
 それは何かに悩んでいるような気配を感じさせたが、シルビアはシンマラが研究に行き詰って神経質になっているのだろうと思っていた。
 だが、彼女は、シルビアにもラーンにも結局何も告げずに姿を消した。
 考えが変わったなら、なぜアタシをも変えてしまってくれなかったのよ。
 あの初めて出合った時のように!
 それともこの裏切りで、アタシを変えるつもりだったのか。
 でも、もし、そうだとしても……。
 赤い髪の少女は手袋を嵌めて、師のぬくもりを拒絶する。
 噛み締めた唇に歯が突き刺さり、血が滴り落ちる。
 彼女の全身を怒りの雷が駆け巡っていた。


>> BACK