雪女はじめました



 どこまでも青い空。
 燦々と降り注ぐ太陽。
 さわやか磯と潮の香り。
 遠くから聞こえてくる蝉の声。
 そして、耳に心地好い波の音と空にも負けず果てしなく続く蒼い海。

 ――夏。
 そこにある風景は、まさに、夏。
 夏真っ盛りの、海。
 その、――はずだった。

 寒い。
 とてつもなく、寒い。
 思わず身震いするほど、寒い。

 風景は、やはり、どう見ても、夏。
 だが、気温は、冬。
 それも、厳冬を思わせる寒さだ。
 そうだ。
 そうなのだ。
 この浜辺一帯だけが、異様に寒い。

 海沿いの街道を歩いていた時は、酷暑の暑さだった。
 黒のチューブトップブラジャーにデニムのローライズホットパンツ、黒のオーバーニーソックスという露出度の高い格好でさえ、歩いて汗の止まらないほどの暑さだった。
 それなのに、この浜辺は寒い。
 この浜辺に降りてくるまでは、確かに暑かったのだ。
 海風は涼しくはあったが、今感じているような冷風とはまったく似ても似つかないものだった。
 心地の良い、夏の暑さを一瞬でも和らげてくれる風だった。
 その風も、今は極寒の吹雪の一歩手前という様相を帯びつつある。
 季節と風景は確かに夏なのに、この浜辺だけが冬になってしまっている。

 神代(かみしろ) ちとせには心当たりがあった。
 原因は、この浜辺の怪異だ。
 その怪異はヒトの形をしていて、この浜辺に住んでいる。
 解りやすく表現すれば、『妖怪』だ。
 視線を心当たりへと向ける。
 一緒に海水浴に来た姉の神代 (あおい)も、幼馴染みの八神(やがみ) 悠樹(ゆうき)も、百戦錬磨の女退魔師の鈴音(すずね)も、その夫のロック・コロネオーレも、目をそちらへと向けた。
 海の家『まぁめいど』。
 そこには、そう看板に書かかれた浜辺屋が建っている。
 周囲には海水浴に訪れている客はひとりもいない。
 そもそも、この浜辺にいるのは、ちとせたちだけだ。
 この寒さで水着など論外だ。
 チューブトップブラジャーにローライズホットパンツと黒のオーバーニーソックスという格好のちとせはもちろん、赤いキャミソールにサイド編上げショートパンツの鈴音も寒そうに自分の腕で両肩を抱えている。
 葵は麦わら帽子をかぶり、白いサンドレスに水色のカーディガンを羽織っており、男二人はワイシャツにジーンズという姿なので、ちとせと鈴音の二人よりはいくらかはましという格好だが、あくまでも、いくらかは、のレベルだ。
 全員、寒いことには変わりない。
 一般客も、この寒さでは近づく気もしないのだろう。
 『まぁめいど』は一見、少しボロい印象は否めないものの、何の変哲もない海の家だった。
 ただし、経営者は尋常ではない。
 西洋でいえば、『マーメイド』、東洋でいえば『人魚』の女性と、『八百比丘尼(やおびくに)』が経営しているのだ。
 『人魚』とは説明をするまでもないほどに有名な妖怪だろう。
 上半身は美女、下半身は魚という姿をしており、その血肉を喰らうことができれば、不老不死になることができるといわれる。
 『八百比丘尼』は、人魚の肉を食べてしまい、不老不死を獲得した女性で、年を取ることも、死ぬこともできず、世を(はかな)んで何処(いずこ)かへと消えたという。
 その二人が、この浜辺にいるのだ。
 ちとせも葵も悠樹も面識があり、「どうやったら不老不死から解放されるのか」だの「どうすれば人魚の故郷の『ルルイエ』に帰れるのだろう」だの相談を受けたこともある。
 だが、あまりにも現実離れした強大な悩みで、手に負えるものでもなく、ただただ知り合いという関係で収まってしまっている。
 『まぁめいど』は経営者の二人ともが不老不死ということもあって、以前来た時は、まるでやる気のない店という雰囲気丸出しだったのだが、そこに関しては少しだけ変わっていた。
 端的に言えば、少しやる気があるような雰囲気に変っている。
 『氷』だの、『冷やし中華はじめました』だの、『雪女はじめました』だのといろいろな(のぼり)が立っており、店の周りも小奇麗に掃除されていた。
「ん?」
 違和感がある。
 ちとせがもう一度店に立っている幟を見回す。
 『氷』
 『冷やし中華はじめました』
 『雪女はじめました』
「……」
 『氷』
 『冷やし中華はじめました』
 ここまでは良い。
 『雪女はじめました』 
「『雪女はじめました』って、なんじゃそりゃ……?」
 と、呟きながらも、ちとせは確信した。
 どう考えても、ここが元凶だ。
「新人のアルバイトよー、アルバイトー」
「あっ、人魚さん」
「いあ! いあ! くとぅるふ ふぐたん!」
 海の家から出てきた女性がちとせに応えるように声をかける。
 生地の少ないビタミンイエローのビキニの水着の上にノースリーブのショートシャツを着て、デニムのハーフパンツを穿いていた。
 露出自体はちとせや鈴音よりはるかに少ないのだが、肉感的な身体は大人の色香を隠しきれずにいる。
「あらあら〜、そちらのお二方は、ちとせちゃんのお知り合い?」
 鈴音とロックを見て、人魚が小首を傾げる。
「おう、あたしは鈴音。こっちは旦那のロックだ」
「ふーん、そちらの旦那さんは普通の人間みたいだけど、あなたは退魔師ね。それも腕利き。ちとせちゃんより強いでしょ」
「鈴音さんは、最強の人妻よ」
「人妻って言うな。せめて新妻って言え」
「はいはい。最強の新妻ですよ。何しろ、胸だけでもすごいからね」
「アホか、胸とか関係ないだろ!」
 鈴音が目を怒らせて抗議するが、人魚は興味深そうに窮屈そうにキャミソールに納まった鈴音の胸へと目をやる。
「ほぉー、揉みがいのありそうな立派な胸ですねー。それにボトムもサイド編上げのショーパンだなんてセクシー過ぎですー。すらりとした生足が……、はぁ……、ちとせちゃんのへそ出し肩出しで且つローライズに至る鼠蹊部のラインとオーバーニーソの絶対領域とは、また違ったエロスが……」
「このド変態がッ!」
「へぎゅうっ!?」
 唐突に人魚の頭に金槌が激突した。
 投げたのは鈴音ではない。
 もちろん、ちとせでもない。
 海の家から不機嫌そうな表情で現れたもう一人の女性だった。
「ったく、見境なくエロ発言を振り撒きやがって。しかも、貴重なお客に」
 怒鳴りながら、『まぁめいど』から出てきたのは、『八百比丘尼』だった。
 おっとりとした感じの人魚とは違い、いかにも性格がキツめの美人という印象だ。
 こちらは、グリーンのビキニの水着に腰にパレオを捲きつかせた姿で、綿の布からは健康的な両脚が伸びている。
「あっ、八百比丘尼さん。こんちわ」
「ちとせちゃんに、葵さんに、悠樹くん、こんにちは。それに……退魔師さんとその旦那さん?」
「あたしは、鈴音。こっちはロックだ」
「鈴音さんに、ロックさん、いらっしゃいませ」
「それにしても、八百比丘尼さん。あの幟の『雪女はじめました』というのはどういう意味でしょうか?」
 葵が後ろから控え目に尋ねる。
「あー、あれはね」
 目を吊り上げて口を開きかけた八百比丘尼より先に、頭から血を噴水のように噴き出している人魚が応えた。
「さっきも言ったけど、アルバイトよー。雪女のー」
「雪女のアルバイト?」
 怪訝な顔で尋ねるちとせに、人魚はやたらと軽い調子で頷いた。
「クーラーが欲しかったからー」
「どういう理由……」
 アルバイトを雇う。
 それはわかる。
 暑い。
 それもわかる。
 だから、アルバイトに雪女を雇う。
 それは、よくわからない。
「このバカが勝手に雇ったのよッ!」
 八百比丘尼が人魚を睨みつけながら言う。
「だってばー、暑いじゃない。酷暑よ、酷暑。クトゥグアでも遊びに来たのかってくらい暑いからー」
「だってばーじゃないっての。この寒さのおかげで、海水浴の客は総員退避よ。海水浴場大打撃だっつーの。私たちの海の家も大打撃だっつーの!」
 八百比丘尼が捲し立てるように金切り声で叫ぶ。
 キンキンと鳴る耳を押さえつつ、眉を顰めながら、ちとせが問い返す。
「で、どうして、こんなに寒くなってるワケ?」
「どうも、温度調節がうまくいかなくてねー。製氷機にはなってるんだけどー」
「製氷機っていうか、店の中にツララがびっしり垂れてるだけでしょ」
「ていうか、それって、暴走してるんじゃねぇの?」
 鈴音の言葉に、八百比丘尼は軽くため息を吐いて肩をすくめた。
「いやね、その雪女はさ、至極真面目な娘なんだけね。どうも、一生懸命になると周りが見えなくなっちゃうタイプでさ」
「一生懸命クーラーになることに徹しちゃったってワケ?」
 ちとせの質問に、八百比丘尼は首を横に振った。
「実は違うのよねぇ」
「へっ?」
「まあ、最初はクーラーだの製氷機だの、アイスクリーム作る冷凍庫の代わりだのをしてもらってたんだけど」
「は、はあ……、それも、なんかすごいけど……」
 雪女ならでは、というわけでもなかろうが、この酷暑には便利なチカラだ。
 『一家に一人雪女』というフレーズが頭に浮かんだことを、ちとせはもちろん口には出さなかった。
 鈴音が同じことを考えたかは定かではないが、悠樹が後ろで視線を泳がしているのは同じ思考に至ったためだろう。
 と思っていると、葵も不自然な雰囲気で微笑んでいる。
 どうやら、鈴音とロック夫妻以外――つまり、神代家ゆかりの三人は、そういう考えに及んでしまったらしい。
 鈴音たちと根本的な真面目さの違いが露わになった気がして、且つ姉の葵も多少天然ボケとはいえ、自分と同思考だと気づかされて、ちとせは頬を引き攣らせた。
「まあ、だいぶ慣れてきたからさ、厨房も手伝ってもらおうと思ったのよ」
 ちとせのわりとどうでも良い葛藤をよそに、八百比丘尼が額に人差し指を当てて悩ましげに続ける。
「それでさ」
「はい」
「ラーメン」
「ラーメン?」
「そう、ラーメン」
「暑い日に熱いラーメンってイイじゃないー。だから、うちのメニューにもラーメンってあるのよー」
 人魚が口を出したが、八百比丘尼は特に彼女をうるさそうには思わなかったようだ。
 先程までのボケとツッコミのような二人とは変わって、一心同体のように声を連ねて話し続ける。
「それで」
「ラーメンを作らせてみたのよー」
「うん」
「でさ」
「ラーメンを作ったはずなのにー」
「はずなのに?」
「いつも、さ」
「冷やし中華になっちゃうのよー」
「はぁ?」
 言葉の意味がよく飲み込めず、ちとせが首を傾げる。
 小首を傾げるなどというかわいい表現ではなく、まさしく「意味分かんない」という動作だった。
「だからー。ラーメンがー」
「冷やし中華になる。もしくは、冷製パスタ。あっ、一番良くて冷やしラーメンになるのよ」
「いや、だから、意味わかんないってば。材料は、ラーメンを作るためのものを使ってるんでしょ。なんで、冷やし中華。ていうか、パスタって……」
「う〜ん、材料は他の料理用のも厨房には用意してあるからね」
「それにしても、意味不明だ」
 ちとせと鈴音が頷き合う。
「あの娘さー。ラーメンを作ろうとしてんだけどさー」
「そう、集中してるのだが、完成品はなぜか、冷やし中華とかになってしまうのだ。言っておくが、不味くはないんだが」
 人魚が珍しく真顔で、八百比丘尼は人魚をいつも叱りつける時のよりも真剣にそう言った。
「どうも」
「熱いラーメンがー」
「どうしても」
「作れなくてー」
「思い悩んで」
「集中しすぎて」
「冷気がー」
「溢れ出て」
「この有様ー」
「というわけだ」
「どういうワケよ」
 呆れたようにちとせがため息を吐いた。
 息が白い。
「マジで、寒いんですけど〜」
「それはわたしたちも同じだって」
「ちょっと寒すぎるわよね〜」
「どうすればイインだ、それ」
 さすがの鈴音も首を傾げると、葵が控えめに申し出た。
「一緒に作ってみてあげてはどうでしょう」
「一緒にー?」
「そうです。雪女さんと熱いラーメンは相性が悪いのでしょう。しかし、生真面目な性格ということを考慮するのでしたら、作るのをやめさせてしまうよりも、成功させてあげたほうが不満も残らないと思うのですけれど」
「なるほどー」
「そういう手もあるな」
 人魚と八尾百比丘尼は納得したように頷いた。

 ――白い。
 『White』だ。
 『Snow White』だ。
 『白雪姫』ではなくて、『雪女』だが。
 雪のような真っ白い髪に、雪のような真っ白い肌をしていて、雪のような真っ白い和装に身を包んでいる。
 蒼玉(サファイア)のような瞳と、青いストライプの入ったマフラーだけが、全体の純白に色を落としていた。
 面持ちは冷たい印象の美人といった感じだが、どうも人の悪そうな雰囲気はしない。
 年の頃は、ちとせよりも少し上、女子大生くらいだろうか。
 もちろん、相手は妖怪なので、年齢が見た目通りとは限らないが。
 現に、人魚も、八百比丘尼も、女子大生で通じる見た目だが、千年以上を生きているのだ。
 この雪女とて、実際には、どれほど生きているのか、想像がつかない。
 もっとも、動きの端々に躍動感を感じるので、実際に若いのかもしれない。
 目の前には麺を茹でるための大きな鍋が火にかけられており、彼女は額にびっしょりと汗をかいていた。
 火を扱うことは雪女である彼女には、実のところ、相当の重労働なのかもしれない。
「なぜ、できないのかしら」
 雪女が首を傾げる。
 冷気が強まり、吹雪が厨房の中から飛び出してきた。
「うわっ、寒ッ!?」
「凍え死んじまいそうだな、をい」
 チューブトップとキャミソールという薄着のちとせと鈴音が悲鳴交じりに、身を守るように縮こまる。
「あの、雪女さんですよね?」
 葵も寒さに我慢しながら、冷気の発生源へと声をかける。
 悠樹とロックは外で、人魚と八百比丘尼の相手をしている。
 正確には、八百比丘尼は人魚が変な行動に出ないか監視しており、男二人は人魚と八百比丘尼が喧嘩でもして暴走しないように見張っているのだ。
 その間に、ちとせと鈴音と葵の女三人が、雪女を鎮めようという作戦だった。
 もっとも、鈴音と葵は料理を得意としているが、ちとせはいわゆる自分の創作に走ると『メシマズ』と化すタイプだ。
 さすがに、今回は創意工夫もない、ただのラーメン作りなので大丈夫だろうが。
「あら、お客さまですか。厨房に入られては……」
 雪女が振り返ると、また少し吹雪いた。
「というより、私を雪女だと知っているのですか?」
「まあ、ここの経営者とは顔なじみなんで」
 人魚と八百比丘尼とは知り合いであることを、ちとせが雪女に話す。
 葵も頷き、鈴音も説明が面倒なので、知ったふりをして頷いた。
「私は、雪女の氷室(ひむろ) 氷菜美(ひなみ)です。普段は学生として、猫ヶ崎大学に通っています」
 どうやら、この氷室 氷菜美と名乗った雪女は見た目通りの年齢らしく、大学で勉学に励んでいるらしい。
 文学部郷土史研究科に在籍しており、大学の掲示板で広告されていた夏の短期間アルバイトに応募し、採用されたらしい。
 ちとせたちも簡単な自己紹介を終えたところで、葵が微笑みながら申し出た。
「人魚さんたちから、氷菜美さんの調理で悩んでいると聞きまして。私たちもここでアルバイトの経験もありますし、何かお役に立てればと」
「そうでしたか。ありがとうございます。実は、どうしても、『熱いラーメン』が作れなくて困っているんです」
 困惑の表情を浮かべつつ、氷菜美が目の前の鍋からテボの中で茹でていた麺をあげ、湯切りをする。
 そして、流し台のざるに移した。
 ちとせがびっくりしたように声を上げる。
「何で、そこで、ざる!」
「いや、熱いじゃないですか」
 氷菜美が小首を傾げる。
 魅惑的な表情と動作だが、今は意味がない。
「ラーメンは熱いものだっつーの。ていうか、そもそも『熱いラーメン』を作ってるんでしょ」
「雪女なんで、きついんですよ」
 水で冷やしたラーメンをざるから皿に移し、ゆで卵や野菜や叉焼(チャーシュー)などの具材を乗せていく。
 ラーメンのスープらしきものを最後にかけるが、それも冷たいようだ。
 見た目は完全に、冷やし中華。
「もろに冷やし中華じゃないの。皿に乗ってるし、せめて、どんぶりに乗せる努力とか。いや、その前の段階で間違ってるんだけどね」
「皿じゃなくて、どんぶりに入れたものもありますよ、ほら」
「って、湯気でてないしッ、これ冷やしラーメンじゃん!」
「ざるのままのもありますよ」
「それ、ざるラーメンでしょっ!」
 氷菜美は困惑した表情のままだが、ちとせの怒涛のツッコミにも動じた様子はない。
「はぁ、どうして、『熱いラーメン』にならないのでしょう」
「湯斬りした後、冷やしてるからだろ」
 ツッコミ疲れたちとせに代わって、鈴音が指摘する。
「冷やさないと、熱くて熱くて。茹でるだけでも、汗びっしょりになっちゃいますし、水分補給とデオドラントは欠かせません」
「熱いなら、薄着にでもなれよ。それか、その暑苦しいマフラーを脱げよ」
「和装は、雪女のアイデンティティです。それにこのマフラーは見た目と違って防熱効果もあるんで」
「意外と面倒くさいな。さすが、あの人魚が雇っただけのことはある」
「それでも、『熱いラーメン』を作りたいのでしょう?」
 葵がやさしく言うと、氷菜美は頷いたが、困惑の表情は取れない。
「『熱い』のは作りたいのです。でも、もしかしたら、熱すぎて、火傷しちゃうんじゃないかなって。それに、猫舌の人が食べられないかもって」
「熱さの基準が、雪女基準なのね」
 どうも、そこに根本的な原因があるようだ。
「でもさ、熱いラーメンを暑い時に汗をかきながら食べるのも、イイもんよ」
 ちとせが言う。
 燦々と太陽が輝く休日、友人たちとのショッピングの帰りに安くて美味いと評判の店にラーメンを食べに行ったことも何度もある。
 熱帯夜になりそうな夏の黄昏に、姉とラーメンの夜の屋台に行ったこともある。
 どちらも、暑い日に食べたラーメンだったが、本当においしかった。
「あっ、もしかして」
 何かを思いついたように、ちとせは右手の人差し指をピンっと立てた。
「ねっ、氷菜美さんって、『熱いラーメン』を食べたことないんじゃない?」
「ええ、まあ、雪女ですからね。熱いのは苦手なんです。鍋とかも食べたことないですし」
「それでは決まりですね」
 葵が笑顔で、柏手を叩くようにポンと手を合わせた。

 氷菜美の発していた極寒の冷気のせいで、『まぁめいど』には、ちとせたち以外客などいないので、氷菜美を含めた全員がテーブルについており、それぞれの目の前にしょうゆラーメンの入ったどんぶりが並べられている。
 具材に目を見張るようなものはない。
 麺以外は、ネギとワカメ、メンマ、それに海苔がトッピングされているだけだ。
 スープは、シンプルなしょうゆ味。
 もちろん、自家製でもない麺には、これといったこだわりも感じられない。
 だが、湯気が立ち、熱々であることを主張しているラーメンは、それだけでも、食欲をそそられる。
「いただきます」
 全員が割り箸を割る。
 レンゲでスープをすくいながら、ちとせが氷菜美の方を見る。
 彼女はまだ割った箸もレンゲもラーメンにつけてはいなかった。
「はぁ……」
 白い美貌から白い息を吐き、白いレンゲをラーメンのスープにつける。
 そして、スープをすくい、可憐な唇へと運ぶ。
「おいしいです。熱いですけど」
 額から汗を流しながら、氷菜美が微笑み、今度は箸で麺を持ち上げ、小さな口へとズルズルと音を立てて飲み込んだ。
 白い喉が動き、麺を飲み込んでいく。
 マフラーに汗が流れ落ちた。
「ああ、これが『熱いラーメン』なんですね。確かに、熱い。熱いけど、おいしい。熱おいしい!」
 氷菜美がどんどんラーメンを口に運んでいく。
「これは、熱くても、我慢してでも作る価値があります。作って見せます」
 人魚と八百比丘尼は安心した。
 ちとせも葵も鈴音も悠樹も、作戦が成功したと思った。
 気づいたのは、ロックだった。
「あの、鈴音サン」
「何だい?」
 肩をつつかれて、鈴音が不審そうな表情を浮かべる。
 食事の時間を大切にするイタリア出身のロックは、基本的に食事中は邪魔になるようなことは一切しないのだ。
「氷菜美サン、顔が溶けてます」
「はっ?」
 その言葉に驚き、氷菜美に視線を向ける。
 よく見ると氷菜美の美貌の右半分がドロドロに溶けてしまっている。
「うおっ!?」
 思わず声を上げた鈴音の声に、ちとせたちも氷菜美の異変に気づいた。
「ひ、氷菜美さん!」
 名前を呼ばれて、氷菜美は小首を傾げた。
「ああ、顔が半分溶けてしまいましたか。予想はしていたのですが」
「ダ、ダイジョブなの?」
「ええ、まあ、また水風呂にでも入って身体を冷やせば、元に戻りますから」
「も、元に戻るんだ。良かった」
 良かったが、食事を一緒にしている美女が溶けてしまうのだから周りとしてはちょっとしたホラーだ。
 それでも、氷菜美はラーメンをもう一杯食べた。
 もちろん、熱々のものを。
 食べ終わった頃には、顔が完全に溶けてしまって、マフラーに両目が開いた姿になっていた。
 床もびしょ濡れで、拭き掃除が大変だったのはいうまでもない。

 その後。
 浜辺は酷暑の暑さと海水浴客たちの熱気を取り戻した。
 海の家『まぁめいど』でも連日、かき氷や冷やし中華に負けないくらい『熱いラーメン』も注文されている。
 氷菜美はアルバイトをしている間に、色白の美人看板娘として店で有名になった。
 目立つ容姿は当然として、よく働くし、真面目な性格だが、愛想も良いから、客の評判は非常に良い。
 ただ、今夏のこの浜辺の話題はそれだけではなかった。
 夜な夜な「今度はおでんも作ります」とか「鍋物を食べに行きましょう」とか言う女性の声が浜辺に聞こえてくるという。
 そして、その声が聞こえた日や次の日には、顔や半身の溶けた白い和装の女性らしきモノが目撃されるようになったらしい。
 海中温泉で人の声が聞こえるので近づいてみると、白い着物だけが浮かんでいたという話もある。
 それらの怪異を見るなり聞くなりした人たちは皆、『まぁめいど』の幟に『氷』や『かき氷』、『冷やし中華はじめました』に混じって、『雪女はじめました』と書かれているものがあったことを思い出した。
 しかし、特に害もなく、何よりも、正体は氷菜美だという噂が流れ、それならそれで良いかもなと、皆が納得してしまったという。


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