やきそばを貪るもの



 吾妻ほまれは猫ヶ崎高校購買部の前で、優雅な足取りを止めた。
 彼女がこの場所に来ることは非常に少ない。
 月に、一、二度足を運ぶことがあるかないか程度だ。

「それを一つ頂こうかしら」
 ほまれが、ウィンドウに並べられたパンを示した。
「チョココロネですね?」
 店員が確かめると、ほまれは首を横に振った。
「違います」
「クロワッサンですか?」
「違います」
「では、ワッフルで?」
「違います」
「むぅ、するとやきそばパンですか」
 店員は、ほまれのくるくると巻かれた髪の毛のロール部分を見ながら、残念そうに唸った。
「何を残念がってますの?」
「い、いえいえ、何でもありません。会長が、やきそばパンを買うと思わなかったので」
「コロネや、クロワッサンの方が、わたくしに似合いますの?」
「優雅ですから」
 店員は笑顔を浮かべて、ごまかした。
「とにかく、そのやきそばパンを頂きますわ」
「ちょうど、それで完売ですね。ありがとうございます」
 ほまれは、やきそばパンが好きというより、冷えたやきそばが好きだった。
 暖かいやきそばより、時間が経って冷えてしまった方が好きなのである。
 庶民的というか、貧乏性というか、普段の生徒会長からは想像できない嗜好だった。
「支払いはカードでお願いしますわ」
 しかし、代金の支払い方は金持ちだった。
 購買部のやきそばをクレジットカードで買い物する女、吾妻ほまれ。
 妙なところだけお嬢様である。
 キャッシュは持ち歩かない。
 店員が顔を微妙に引きつらせながら、やきそばパンを袋に詰めようと手を伸ばす。
 ひゅんっと、風が鳴った。
「あれ?」
 店員が手をわきわきと動かす。
 空気しかつかめない。
 やきそばパンが消えていた。

「ゲットです」
「ゲットですねぇ」
 明るい二重奏が響いた。
 ほまれが声の方を向くと、少女が二人、笑顔で飛び跳ねていた。
「ああっ!?」
 そのうちの一人の手に、やきそばパンが握られている。
「わたくしのやきそばパン!」
「ふふっ、この焼きそばパンはもらっていきます」
「もらっていきますよぉ」
「何をおっしゃってますの、それはわたくしのですわ」
 二人の少女が、びしっと、ほまれを指差した。
「すべては、ちとせお姉さまのご意向です!」
「まあ、ちとせさんの差し金ですの!? って、あなたは朝比奈(あさひな) (るい)さん! それに弓道部の期待の新人、神藤(しんどう) 弥生(やよい)さん!」
「さすが、生徒会長。詳しいですね☆」
 (るい)が手にしたやきそばパンを箱のようなものに詰める。
「形がつぶれたら大変ですからぁ」
「何しまってるの、それはわたくしのでしょっ!?」
「ヒステリックです」
「ですねぇ」
 そそくさと、後ずさりを始める二人組。
「逃げる気ですわね!」
 ほまれに向かって二人は顔で手を振った。
「あでゅー!」
「あでゅっ!」
「逃がしませんわよ!」
 ダッシュして逃げ出す二人の後ろで、ほまれは指をぱちんと鳴らした。
「お呼びでございますか、ほまれさま」
 気取った感じの少年がどこからともなく姿を現す。
 生徒会副会長、一条(いちじょう) 龍臣(たつおみ)
 ほまれに忠実なる猛将だ。
「龍臣だけですの? 忍と芦屋さんはどうしたの?」
 がっくりした表情で、ため息をつくほまれ。
「……ものすごく哀しい反応をしないでください」
「で、忍たちは?」
「菜穂は銀行です。何でも、懸賞付定期で特別高利率券が当たったとか」
「ま、まめですわね、芦屋さん。そういう所のチェックは」
「守銭奴ですから、アイツは」
「忍は?」
「物研の如月と食事に行ってます」
「あらあら、最近、輪をかけて仲が良いですわね。やっぱり、できてますの?」
「いや、利用価値がどうとか……」
「さ、殺伐としてますわね」
「あの、それで、ほまれさま。ご用件は?」
「ああっ、こんな話をしている場合じゃなかったわ!」
 ほまれが我に返って、すでにはるか遠くを走っている二人の後姿を指差した。
「あの逃げていく朝比奈(るい)と神藤弥生を捕らえなさい!」
「はっ、かしこまりました!」
 恭しく頭を下げる龍臣を見ながら、ほまれの口からため息が漏れた。
「う〜ん、でも、やっぱり、あなただけでは不安ですわね」
「うぬおおおおっ、これは心外なお言葉!」
 顔を真っ赤にして叫ぶ龍臣。
 とりあえず、うるさい。
「必ずや必ずや! あの二人をほまれさまの前に跪かせて見せましょぞぉ!」
 爆走を始める龍臣。
「いや、跪かせなくてもいいから、さっさと捕まえてきなさい」
 ほまれはもう一度ため息をついて、龍臣を見送った。

 (るい)と弥生は後ろを振り返って戦慄した。
「きゃあああ!」
「変なのが追ってきます!」
「待てぇい、逮捕だぁ!」
 わけのわからない絶叫を上げつつ、龍臣が自前のレイピアを振り回しながら爆走してくる。
 伝染りそうだ。
 いや、きっと伝染る。
「どうしましょう!?」
 弥生が半泣きで、(るい)に縋りつく。
「とりあえず逃げるしかないです。捕まったら何をされるかわからないですよ☆」
 (るい)はわりと平気そうだ。
 ちとせの家系に近い分、いろいろと慣れているからか。
 というよりも、ちとせに慣れていれば、これくらい普通であろう。
「そうですね、とにかく逃げるしかないですね!」
 弥生も覚悟を決めて脇目も振らずに一心に走ることにした。
「前を見ないと危ないです☆」
 (るい)もやきそばパンを気遣いながら弥生に置いていかれないように駆け続ける。
 その後ろから、さらに龍臣が追いかけてくる。
「うおおおおおおっ、待て待て待てぇぇぇぇぇい!」
 目を血走らせ、髪の毛を逆立てて、追いかけてくる。
 まるで悪鬼羅刹が如し。
 人間、やきそばパン一つでここまで変貌できるものなのか。
 危ない。
 前のさわやかな女子高生二人と比べると、かなり危ない男だ。
 いや、前の二人も、完全ノーマルではないが、この男はレベルが違う。
「ところで、弥生ちゃん」
「何ですか、(るい)さん」
「一つ聞きたいんですけど」
「はい」
「ここどこ?」
 (るい)の言葉に弥生の足が止まった。
 (るい)も足を止める。
 周りを見渡したが、見覚えがない。
 だが、校舎ではあるようだ。
(るい)さん」
「なに?」
「迷いました」
「や、やっぱり☆」
 (るい)の笑顔は引きつっていた。
 弥生は半泣きである。
 弥生は極度の方向音痴なのだ。
 彼女に先頭を任せたのはまずかった。
 猫ヶ崎高校の校舎は非常に広い。
 まだ一年生である(るい)や弥生が見知らぬ場所は多くある。
 ここはそういった場所の一つのようだ。
 と。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
 絶叫男が通り過ぎた。
 止まれなかったらしい。
 そして、そのまま正面の教室へと突っ込んでいった。
「あの人って一体……」
 疲れた表情で(るい)と弥生は顔を見合わせた。

 同じ頃、悠樹は頭を抱えていた。
 ちとせがおかしい。
 いや、おかしいのはいつものことだが、今日は輪をかけておかしい。
 一つの単語しかしゃべらないのだ。
 目も潤んでいる。
 微熱のある病人のようだ。
 だが、顔色は良いので病気ではなさそうだ。
「やきそばっ☆」
 本日五十八回目の「やきそばっ☆」が悠樹の耳に聞こえてきた。
「もしもーし」
「やきそ〜ば☆」
「おーい」
「やきそばぁぁぁぁ☆」
「帰ってこーい」
 悠樹が、ちとせの肩を揺さぶるが一向に効果はないようだ。
「や〜き〜そ〜ば〜☆」
 どうやら、やきそばを与えないと元に戻らないようだ。
 悠樹はため息をついて、購買部にやきそばかやきそばパンが残っているのをあてにして買出しに向かった。

「うおおおおおっ!」
 龍臣が叫び声を上げて、立ち上がった。
 元気である。
 部屋の入り口から、中を覗き込んでいた(るい)と弥生がびくりと肩を震わせた。
「む、無傷です!?」
「頑丈ですね☆」
「むっ、ここは……!」
 龍臣が部屋の中を見回して呻った。
「旧生徒会室ではないか」
 龍臣にはこの部屋がどこだかすぐにわかった。
 前年の総選挙後、『吾妻ほまれ連続生徒会長当選記念』として、現在の生徒会室の移転が行なわれた。
 ここは、その前に使用されていた場所だ。
 当時は豪奢に飾られていた装飾品などは、すべて新しい部屋に運ばれており、残っているのは黒板と、その上に掛けられた『生徒会室』と書かれた額だけだ。
 他には何もない。
 何も残っていない。
 ……はずだった。
「むう?」
 異物があった。
 異物。
 湯気が立っている。
 炒められた麺。
 そして、それに野菜が絡んでいる。
 異物と表記するのでなければ、それは、やきそばと呼ぶべき物体だった。
「やきそば?」
 龍臣が首を傾げた。
「やきそば?」
 龍臣の言葉に、(るい)と弥生が、興味を持ち、部屋の中に足を踏み込む。
 やきそば。
 確かに、やきそばである。
「やきそばですね」
「そうですねぇ」
 だが、普通の焼きそばでは決してない。
 目がある。
 麺の塊の上に、二つの大きな目がついている。
 その目が、三人ををぎろっと見つめた。

 吾妻ほまれは、やきそばパンを持ち逃げされて、それが戻ってくる確信もないので、購買部の喫茶店に食事を取ろうと立ち寄っていた。
「はぁ、今日は気分が乗りませんわね」
 もちろん機嫌は、あまり良くない。
 その不機嫌光線のせいではないだろうが、今日は店内に、ほまれ以外の客の姿はなかった。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
 ほまれの視線が、ウェイトレスが閑散とした店の中を縫って、注文を聞きに来た。
 ふと、ほまれの視線が厳しくなる。
 びくりとするウェイトレス。
 普段はそれほどでもないが、機嫌が悪い時のほまれの威圧感はなかなか強烈なものがあった。
 容姿端麗なだけに怖い。
 特に彼女は感情を隠すということができない。
「……」
 ほまれは無言で立ち上がった。
 ウェイトレスは一歩下がる。
 注文を聞いただけだ。
 他は何もしていない。
「あ、あの……?」
 かすれた声で、ほまれに声をかけるウェイトレス。
 しかし、ほまれの厳しい視線はウェイトレスを通り越して、店の窓のさらに外に向けられていた。
 そして、よくよく見れば、その射るような目は、不機嫌光線ではなく、ハート光線を発射していた。
「えっ?」
 ウェイトレスが、ほまれの視線を追うと、喫茶店のドアが開いた。
 優しそうな少年が入ってきた。
「あれ、ほまれ先輩?」
「あらっ、悠樹さまっ、偶然ですわねっ」
 いつ間にか、悠樹の正面に移動しているほまれ。
 弾んだ声で、悠樹に応じる。
「ほまれ先輩は昼食ですか?」
「おほほっ、昼食というか朝食というか夕食というか軽食ですわっ」
「そ、そうですか」
「悠樹さまはご昼食ですの?」
「いえ、ちょっと購買部に用があったんですけど。売ってなくて、喫茶店にならあるかなって」
 ほまれは頷きながら、この機会を逃したくないと思った。
 想い人と二人きりで喫茶店などというシチュエーションはそうそうあるものではない。
 まさに千載一遇だった。
「まあ、立ち話もなんですから、あそこ、わたくしのテーブルですわ。一緒に座りましょう」
「えっ、先輩、ぼくは……」
 戸惑う悠樹に構わず、頬を紅に染めながら、ほまれは強引に悠樹の腕を取った。
 デート。
 デートである。
 ほまれにとってはデートのチャンスであった。
「あの、ちょっと、ぼくは用事が……」
 そう言いながらも、席に座ってしまう悠樹。
 弱い。
「まあまあ、そう急くこともないですわ。急がば回れとも申しますし」
 意味不明である。
 ほまれは手をパンパンと叩いた。
「ウェイトレスさん、ご注文よろしいかしら?」
「あの私は執事じゃないんですけど」
 不満そうなウェイトレスの言葉など、ほまれの耳には入らない。
「悠樹さまはコーヒーでよろしくて?」
「え、ええ…」
 観念したように頷く悠樹。
「では、コーヒー二つお願いしますわ。あとは、そうですわね。悠樹さま何か食べます?」
「え〜と、やきそばあります?」
 目的は忘れない男。
「やきそばはないですね。パスタならありますけど」
「そうですか、じゃあ、とりあえずコーヒーだけで」
「わかりましたわ。ウェイトレスさん、頼みましたわよ」
 ほまれは注文を終えると、悠樹に尋ねた。
「悠樹さま、やきそば好きですの?」
「いえ、そういうわけではないんですけどね」
 頬をかく悠樹。
「やきそばパンでよろしければ、もうすぐわたくしの手に届きますわ。差し上げましょうか?」
「ホントですか?」
「ええ、少し時間がかかりますけど」
 優雅に微笑むほまれ。
 もちろん、龍臣が持って帰ってくる確信はない。
 だが、悠樹とのデートを長く楽しみたい。
「あの……」
「何ですの、悠樹さま?」
「いえ、その、やきそば……、ちとせにあげるんですけど、それでも良いですか?」
 ぴくっ。
 悠樹の言葉に硬直するほまれ。
「ち、と、せ、さんにですの?」
 地獄から聞こえてくるような声で、悠樹に尋ね返すほまれ。
 少し反応が怖い。
「え、ええ、ちとせです」
 ほまれの好意を受けて、黙っていられるほど人の悪い悠樹ではない。
「ダメですか? ちょっと、今日のちとせは変なんです。何かやきそばがないと治らない感じで」
「ちとせさんはいつも変ですわ」
「いや、まあ、そうですけど」
 ほまれの指摘に納得する悠樹。
 素直である。
「わかりましたわ。恋敵に塩を送るとも申しますし」
 こめかみを押さえながら応じるほまれ。
「恋敵?」
「い、いえ、いえ、何でもありませんわ。敵に塩を送るでしたわねっ! おほほっ!」
 ほまれは頬を赤く染めながら言葉を取り繕う。
 好きですと言ってしまえば楽なのだが、それを面前で言えないから、恋なのだ。
「コーヒー二つお待たせ致しました」
 ナイスタイミングッ!
 ほまれは心で喝采を上げる。
 話題を変えるには絶好のタイミングであった。
「ありがとうございます」
 悠樹はカップを受け取ると、角砂糖の入れ物に手を伸ばした。
「ほまれ先輩、砂糖いくつ入れます? 七つですか?」
「えっ、七個?」
 ほまれが思わず聞き返す。
 悠樹の顔に冗談を言っているような表情は浮かんでいない。
 優しそうに微笑んでいるだけだ。
 つまり、天然で、砂糖七個かどうか聞いてきている。
「いらないですか?」
「え、ええ、一つでお願いしますわ」
「一つですか。皆七個は多いって言うけど、ぼくって、甘党なんですよね」
 悠樹はそう言うと、カップに一つだけ角砂糖を落として、ほまれに手渡した。
 そして、自分のカップにはドボドボと七つもの砂糖の塊を落とす。
 ぐるぐるぐる。
 さじで、コーヒーをかき混ぜる。
 凄まじい砂糖の量で、どろどろだ。
 ほまれは悠樹のコーヒーの味を想像しただけで、口の中が甘くなってきた。
「い、入れ過ぎではありませんこと?」
「そうですか。う〜ん、でも、コーヒーって苦いですから」
 それなら飲まなければ良いとは、悠樹に言えるわけもない、ほまれである。
 味覚がおかしいですと言ってしまえば楽なのだが、それを面前で言えないから、恋なのだ。
 たぶん、違う。
「まだ、ちょっと苦いですね」
 悠樹がコーヒーを啜って顔をしかめる。
 その悠樹の姿を見ながら、想い人の変わった一面に、ほまれは少しだけ顔を引きつらせて、コーヒーを口にした。

「やきそばではない」
 目玉のあるやきそばは開口一番そう言った。
 口はないが、とりあえずしゃべれるようだ。
「うおっ、やきそばが、しゃべった!」
「やきそばではないといっておろうが」
「やきそばだと思います☆」
 (るい)が龍臣の後ろに隠れながら言う。
 弥生も後ろに隠れている。
「ぬおっ、いつの間に!?」
 背中を押されて、慌てふためきながら、二人の少女に目をやる龍臣。
「盾は黙ってなさい☆」
「誰が、盾だぁぁぁ!!」
「をい、私を無視するな」
 漫才を始めようとする三人に向かって、やきそばが声を飛ばす。
 いや、やきそばではないと自分が言っているので、やきそばモドキとでも言うべきか。
「ええいっ、やきそばごときがうるさいぞ!」
 だから、やきそばじゃないってば。
 モドキだってば。
「私はやきそばではない。ヴァンパイアだ」
「……」
「……」
「……」
 時が止まった。
 理解不能。
 意味不明。
 ヴァンパイアといえば、闇の眷属。
 少なくとも、やきそばのような姿をしてはいない。
 はずだ。
「嘘は泥棒の始まりですよ」
 (るい)がびしっと自称ヴァンパイアを指差して言う。
「ですです」
 弥生もその横で賛同する。
「ヴァンパイアはセクシーじゃなくちゃいけないんです」
「オールバックの渋いオジサマです」
「そうです」
「妖艶な美女です」
「そうです」
「だから、あなたはヴァンパイアじゃありません」
「やきそばですっ」
 二人とも、言いたい放題である。
 もちろん、龍臣の後ろで。
「うぬぬぬっ!」
 自称ヴァンパイアが、顔を怒りに赤く染める。
 やきそばに顔も何もないのだが、目玉がついてある辺りを顔と定義しするとして、そこが真っ赤に染まっているということだ。
「むっ、紅生姜か。私はあまり好きではないな」
 赤く染まった自称ヴァンパイアを見ながら、龍臣がぼそりといった。
 ぷちんっ。
 何かが切れる音が響いた。
「き〜さ〜ま〜ら〜!」
 大地を震わせるような声を上げて、自称ヴァンパイアが首を、否、麺をもたげた。

 自称ヴァンパイアが牙を剥く。
「どいつもこいつも我を『おいしそう』だの、『あたためてください』だのと言いおってぇ!」
「ひいぃっ、言ってない、言ってないぃ!」
「高貴なる闇の眷族たる我が力、思い知らせてくれるわ!」
 自称ヴァンパイアの全身がうねり、大気を震わせた。
 教室の床に亀裂が走り、ヴァンパイアの魔力が火口から吹き出す溶岩のように溢れ出した。
「こ、これは……」
「やばいほど凄い霊気です!」
「やばげです!」
 龍臣がレイピアの切っ先をヴァンパイアに向け、(るい)が懐から呪力のこもった札を取り出す。
 弥生もどこから取り出したのかは不明だが、弓矢を構えている。
「出でよ、我が下僕!」
 ヴァンパイアがさらに身をうねらすと、その周りに無数の影が出現した。
「キャ、キャベツ!?」
「にんじん!?」
「もやし!?」
 蝙蝠のように不気味に羽ばたくキャベツ、カラスのように甲高い鳴き声で威嚇するにんじん、そして、狼のように唸り声を上げるもやし。
「くくくっ、まだいるぞ」
 ヴァンパイアが喉で笑う。
 喉がどこかは不明だが。
「我が忠実なるレッサーヴァンパイアよ!」
 ヴァンパイアの横に光の柱が地面から立ち上り、その中から人影が現れた。
「や〜き〜そば☆」
 目を潤ませながら、ポニーテールを揺らす人影。
「うおおおっ!? 貴様は……うげっ!?」
 出現した人物を見て、龍臣を背中から踏みつけて、少女二人が身を乗り出した。
「ああっ!? ちとせお姉さま☆」
「ちとせお姉さまですです☆」
 ヴァンパイアに召喚されたのは、ちょっと調子のおかしいちとせであった。
 (るい)と弥生の二人は、そのようなことはお構いなしに、うっとりとした表情で、ポニーテルを眺めている。
 その下で潰れている龍臣の姿が哀愁を誘う。
 いや、それよりも。
「我を無視するな〜!」
 やきそばの姿をしたヴァンパイアは存在を忘れられそうになって、必死に叫んだ。
「うるさいです☆」
「ちとせお姉さまの方が重要です☆」
「そうです」
「百倍くらい」
「オノレェ、我をなめるなよ、人間ども!」
 (るい)と弥生に邪険に扱われて、ヴァンパイアは目を怒らせ、頭から湯気を立たせた。
「その女はすでに我の下僕よ!」
「やきそば〜☆」
「首筋を見てみるが良い」
「や・き・そ・ば・☆」
「我が抱擁の証が……」
「や〜き〜そ〜ばっ☆」
「……って、我のしゃべりの邪魔をするではない!」
 やきそばヴァンパイアが、「やきそば」を連呼しているちとせに向かって怒鳴る。
 そして、青くなった。
 青のりではない。
「うぐおおっ!? 何食べてるんだ、おまえ〜!?」
「やきそば☆」
 ちとせはヴァンパイアの身体を、ズルズルと食べていた。
 かなり美味しそうである。
「何をしておるか!? やめろぉぉ!」
 必死に身体を振ってちとせを引き剥がそうとするヴァンパイア。
 しかし、ちとせはかぶりついたまま、離れない。
「美味しそうです」
「ですです」
 ちとせがあまりにも美味しそうにヴァンパイアに食らいついているのを見て、(るい)と弥生が目を潤ませる。
「な、何だね、君たち……そ、その目は!?」
 ヴァンパイアは後退った。
 既に闇の眷属の貫禄はない。
「ちとせお姉さまが美味しいっていうものは、何でも美味しいんです」
「美味しいんです」
「ひいいいいいっ!?」
 ヴァンパイアが慌てて、その場から逃げ出す。
 その背中(?)にはしっかりと、ちとせがかぶりついている。
「逃がしません☆」
 (るい)が呪符に念を込める。
「朝比奈流符術! 不動の呪符!」
 そして、それを弥生に手渡す。
「弥生ちゃん、頼みます!」
「了解です!」
 弥生は矢の先端に、それを括りつけると、逃走するヴァンパイアに狙いを定めた。
 弥生の弓の腕前は、超高校級と賞賛されるほどだ。
 外れるはずもない。
 ひゅんっと風を切る音がして、矢はヴァンパイアの後頭部に突き刺さった。
「ぎゃあああああああああああ!」
 悲鳴を上げるヴァンパイア。
 呪符の力が解放されて、ヴァンパイアの動きが止まった。
「ウ、ウゴケナイ……」
 寒気がする。
 視線だけを後ろに向けてみた。
 (るい)と弥生が、どこから取り出したのか両手にフォークを握り締めて立っている。
「ちょっと待て! ひいいっ!?」
 ヴァンパイアの絶叫が響き渡った。

 一条龍臣が目を覚ました時、旧生徒会室は静寂に包まれていた。
「うおおっ!? これは一体……?」
 目の前には、やきそばの食べ残しのような千切れた麺と、野菜の破片が散らばっている。
「むむっ……?」
 手元に紙が落ちている。
 拾ってみる。
 そこには女性の文字で、『後片付けお願いねっ☆ 神代ちとせ』とだけ書かれていた。
「……」
 もう一度周りを見る。
 あるのは、やきそばの食べ残しだけ。
 ちとせの姿も、(るい)の姿も、弥生の姿もない。
 何よりも、ほまれに奪取を命じられたやきそばパンがない。
「うおおおおっ!! しまったあああ!? やきそばパンがあああああ!?」
 一頻り絶叫した彼は、どうにもならないことを悟って、とりあえず、旧生徒会室を一人で清掃して帰って行った。
 空しい。
 その後、幼馴染みで、生徒会会計の芦屋菜穂に、『超簡単! やきそばパン製造機』なる怪しげな商品を「今なら格安にしとくで〜!」と高額で買わされて、また絶叫していたという。

 吾妻ほまれの至福の一時は唐突に幕を下ろした。
「あれ? ちとせだ」
 檄甘のコーヒーを飲みながら、ほまれと談笑していた悠樹が、ふと喫茶店の外に目をやると、ちとせが上機嫌そうに歩いているのが見えた。
 親戚の朝比奈(るい)と後輩の神藤弥生も一緒に談笑している。
「ゆ・う・き・さ・まっ!」
 ほまれはちとせの姿を視線で追っていた悠樹を睨み付ける。
 ちとせとは逆に恐ろしく不機嫌である。
「ちとせさん、お元気になったみたいですわね」
「そ、そうですね」
「では、やきそばパンはいりませんわね?」
「そ、そうですね」
「それと、このままわたくしとデートを続けてくださいますわね?」
「そ、そうですね」
 勢いで答えてしまう悠樹。
「って、デート!?」
「約束しましたわよ」
 ほまれは頬を紅潮させている。
 不機嫌なだけではない。
 恥ずかしそうに目を逸らす。
 どうやら、計算ではなく、こちらも勢いで言ってしまったらしい。
「ウェイトレスさん!」
 悠樹が口を挟むまもなく、ほまれはウェイトレスを呼んだ。
「コーヒー百杯お願いしますわ!」
「いいっ!?」
 ほまれの凄まじい注文に、悠樹は顔を引きつらせた。
「あと、砂糖を山ほど持ってきてくださいな」
「ほまれ先輩!?」
「飲み終わるまでは、わたくしと付き合ってください」
「いいっ!?」
「お願いしますわよ、悠樹さま!?」
「はいいっ!」
 頬を紅潮させたまま、据わった目で念を押すほまれに、悠樹は思わず頷いてしまった。

 数時間後、神代神社で、ちとせと葵は頭を抱えていた。
 学校から帰ってきた悠樹の様子がおかしい。
 一つの単語しかしゃべらないのだ。
 目も潤んでいる。
 微熱のある病人のようだ。
 だが、顔色は良いので病気ではなさそうだ。
「こ〜ひ〜っ☆」
 本日三十四回目の「こ〜ひ〜っ☆」がちとせの耳に聞こえてきた。
「もしもーし」
「こ〜ひ〜☆」
「おーい」
「こぉぉぉひぃぃぃ☆」
「帰ってこーい」
 ちとせが、悠樹の肩を揺さぶるが一向に効果はないようだ。
 葵の治癒術も効き目がない。
「こ〜ひ〜☆」
 悠樹は次の日の朝まで一睡もせずに、「こ〜ひ〜☆」と連呼した。
 ちなみに、ほまれは一晩中、「悠樹さま〜☆」を連呼していたらしい。
 だが、こちらはいつものことなので、さほど気にされなかったという。


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