月狼



「筆頭幹部殿も酔狂なことをなされる」
 ミリアはいかにも妖艶な秘書といった容姿をしていた。
 豊かな胸に内側から押し上げられた白のブラウス、紫色のタイトスカートのスーツを身に纏っている。
 豪奢な黄金の髪はシニヨンを後で結った形でアップでまとめ、右側の前髪だけを垂らしている。
 切れ長の双眸には知性と淫靡の混じった複雑な光が宿り、その艶然とした眼差しは、"氷の魔狼"の異名を取るシギュン・グラムへと向けられていた。
「レインバック、私が酔狂だというのならば、おまえは何だ?」
 シギュン・グラムが懐から煙草を取り出し、口に咥えた。
 ミリアは右側だけ垂らした前髪を指で弄びながら、シギュンの問いには応えずに妖艶に微笑み、マッチでシギュンの咥えた煙草に火を点ける。
 シギュン・グラムもまた美しい黄金の髪の持ち主だった。
 長身に、ストライプのパンツスーツ。
 そして、美しいが、しかし、氷の彫像のような、美貌。
「しかし、筆頭幹部殿。格闘技の大会など何の役に立つのでしょう」
「肉体的強者――兵士を得るためだよ。まさか魔術や霊術の大会を開くわけにもいくまい」
「『ヴィーグリーズ』にとっては強力な兵よりも、死をも恐れぬ狂信者のほうが役に立ちましょうに」
 軽くため息を吐いて、ミリアは嗤った。
「まあ、優勝者が有能ならば金で雇えば良いだけのことですわね。……ええと、大会優勝者は、麻生夏香?」
 聞いたことのない名前にミリアが小首を傾げる。
 国籍、日本。
 性別、女性。
 年齢、十六歳。
「まだ少女ではありませんの」
 ミリアが呆れたように言う。
 優勝者が十代の少女などという事実は、屈強な戦士を求めて開いた格闘技大会の結果とも思えない。
 だが、シギュン・グラムは驚いた様子を見せない。
「ただの小娘ではない。"疾風怒濤の葉月"だ」
 "疾風怒濤の葉月"。
 元秘密結社『暦』の最高幹部『八月』にして、『暦』最高の暗殺者。
 参加者名簿の添付されているその少女の笑顔を、紫煙を吐きながら"魔狼"の虚ろな瞳が射抜いている。

「葉月さま、優勝おめでとうございます。現金で十万ドル。これは賞金とは別の、まあ、手付金みたいなものですわ」
 インテリ美人といった容貌のミリア・レインバックが現金の詰まった黒いアタッシュケースをテーブルの上に広げた。
 シギュン・グラムは一言も喋らずに、その隣でソファに腰掛けている。
 その目の前に一人の少女。
 大会優勝者の麻生夏香だ。
「葉月さまのご高名はかねがねお伺いしております。我々は貴方のような強力な戦士を探しておりました。我々の組織と契約を結んでいただきたいのです。もちろん、普段は今まで通りの生活を続けていただいてけっこう」
「麻生夏香」
 ミリアの言葉を遮るように、夏香が身を乗り出した。
 虚を突かれたようにミリアが目を丸くする。
「はっ?」
「あ・そ・う・な・つ・か」
 夏香はミリアの鼻先に指を突きつけた。
「アタシの名前よ。それに、悪いけど、アタシは何にも縛られるのはゴメンなのよ。どうしてもアタシの腕が欲しいっていうなら、お金じゃなくて、力で奪ってみたら?」
「力で、か」
 沈黙を守っていた"氷の魔狼"が冷酷怜悧な唇の端を吊り上げた。
「試してやろう」
 夏香は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
 同時に唇が笑みの形に歪むのも感じた。
 威風、というものか。
 今までうるさい小鳥のように囀っていた隣の女とはまるで違う。
 ――この女、やばい。
 そう思いながらも、武者震いを抑え切れない。

 冷気が夏香の顔を嬲った。
 床や壁に霜が走る。
「クリオキネシス?」
 夏香が呟く。
 氷の力を操る超能力クリオキネシス。
 夏香はその能力をよく知っていた。
 かつて、"疾風怒濤の葉月"と呼ばれていた暗殺者時代、所属していた組織の幹部の一人にその力を持つ少年がいた。
 だが、これは違う。
 その冷気の迫力に、夏香の経験が警鐘を鳴らす。
 これは、ただ単に冷気を操る能力ではない。
「筆頭幹部殿の"フェンリル"は、そのような限定的なものではありませんわよ」
「"フェンリル"?」
 "魔狼"フェンリルの名は、夏香も知っている。
 北欧神話の巨妖。
 神をも飲み込む魔獣。
「お悔やみ申し上げますわ。愚かな愚かな"疾風怒濤の葉月"さん」
 秘書然とした金髪の女が喉で笑いながら軽く頭を下げ、少女に『お別れの言葉』を告げた。
 それが戦いの始まりだった。

 床を氷結させながら白い冷気が夏香に迫る。
 夏香が、にやりと笑った。
 その姿が掻き消える。
 ミリアが目を丸くする。
 床や天井が振動で揺れ、気配が部屋の其処彼処を移動する。
 超高速の多次元移動。
 その恐るべき動きは、ミリアでは捉えられない。
「スタンナックル!」
 突如として、シギュンの目の前に夏香の姿が現れる。
 真正面からの不意打ち。
 だが、魔狼は動じない。
 目の前の空気が一瞬で氷結し、夏香の拳を防いだ。
 同時に蹴りが夏香の顔面を抉る。
 と、思われたが、一瞬早く夏香は顔を両腕で防御していた。
 だが、衝撃は殺せずに、床を滑った。
「!」
 間を置かず無数の冷気の帯が伸びてくる。
 気づけば部屋全体が凍り付いている。
 夏香は左右に移動しながら、冷気をすべて避ける。
「速いな」
「もちろん」
 シギュンの呟きに夏香が当然とでも言うように余裕の声で答える。
「ならば、これはどうかな?」
 シギュンの背後で膨大な冷気が狼の姿を形成する。
 突進しようとしていた夏香がそれを見て急ブレーキをかける。
「それが、"フェンリル"!?」
「幻影ではないぞ」
 巨大な狼の前足が水平に薙ぎ払われる。
 夏香は慌てて屈み込んだ。
 頭のあった場所を鉤爪が通過すると、避け切れなかった髪の毛が舞った。
 はらはらと落ちていた数本の髪の毛が途中で凍りつき、垂直落下して床に散らばった。
「当たっても運が良ければ凍るだけだろう」
 シギュンは煙草を咥えたまま、死神の声で告げた。
「試してみる?」
 夏香は不適に笑った。
「バカな娘」
 そういって嘲笑を浮かべたのはミリア・レインバック。
 彼女はシギュン・グラムの勝利を疑っていない。
 彼女と互角に戦えるものなど存在しない。
 そう思っている。
 夏香に"フェンリル"の前足が振り下ろされる。
 夏香は迫る魔獣の攻撃を今度は避けなかった。
 飛び上がり、"フェンリル"の前足を正面から蹴り飛ばした。
「なッ!?」
 秘書の驚愕の声が響く。
 蹴り返された冷気を軽く払った魔狼の目は透明で美しく、しかし、不気味だった。
「はっはっはっ、アタシにジョーシキが通じると思わないことね!」
 夏香の闘気が爆発した。
 超速度が再び夏香の姿をこの部屋から消す。
 だが、攻撃はもちろん、正面から。
「ビッグバンパンチ!」
 再び拳を阻む氷の壁。
 そして、"フェンリル"の両前足が夏香を引き裂かんと迫る。
 ――だが、しかし!
 今度の拳は先程は放ったものとは威力が違った。
 氷の壁に突き刺さる。
 そして、打ち砕いた。
 氷の壁を破砕した熱を帯びた拳が、"フェンリル"の両前足をも弾く。
「うおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
 そのまま、シギュン・グラムの美しい頬を殴り抜いた。
 血飛沫が舞う。
 衝撃に身を仰け反らせる魔狼。
 だが、倒れない。
 一歩踏み戻したシギュンの目が夏香の目と交差する。
 その虚ろな眼差しは脳震盪のためではない。
 元々だ。
 その不気味な眼差しに一瞬だけ、獣性が宿る。
 "氷の魔狼"。
 そのフレーズが夏香の脳裏を横切る。
 同時に、腹に衝撃。
 シギュンの蹴りが鳩尾に突き刺さっていた。
「!」
 軽量の夏香は吹き飛ばされ、先にあったテーブルに叩きつけられた。
 アタッシュケースが破損して、十万ドルが舞い上がる。
 降り注ぐドル札の中で、夏香はすぐに体勢を立て直した。
 一瞬だけ咳き込むが、シギュンの無理な体勢から放たれた蹴りは力が乗っておらず、威力は軽い。
 追撃に備える。
 だが、シギュンは追い討ちをかけてこなかった。
 ゆっくりとした動作で唇から滴る血を拭っていた。
 指を濡らす真っ赤な液体を眺め、微かに、ほんの微かにだけ、驚いた表情を浮かべる。
 だが、すぐに完璧な美貌に戻り、"氷の魔狼"は指を濡らす己の血液をぺろりとなめた。
「しかし、……不味いな」
 血が、不味い。
 高揚の味は微かにしか、しない。
「もう少し楽しめると思ったが」
「意外と楽しんでんじゃないの?」
 夏香は不敵な笑みを受かべた。
 だが、シギュンは頷かなかった。
「おまえでは私の敵にはなれん。今の拳で解った」
「アタシじゃ役不足とでも言いたいわけ?」
「いや、おまえは強い。私の"フェンリル"の攻撃を弾き、私に血を流させたのだから」
 夏香のナックルは脳を震わせる威力があった。
「それに矜持もありそうだ」
 夏香の言動は相手に屈しない力強さがあった。
「だが、それでも私の敵にはなれんのだよ」
 そう、それでも敵にはなれない。
 そして、味方にもなれない。
 もちろん、部下にするなどもっての他だった。
「……アンタのその目、最悪だわ」
 かつて所属していた裏社会でも、シギュンのような眼をした人間に出会ったことはない。
 人の血を見ることに快楽を覚える殺人鬼の目ではない。
 人の命を如何に奪うかを思考する一種の仕事師的暗殺者の目でもない。
 人を殺すことに露ほどの躊躇いを感じない無情者の目でもなかった。
 万色にして無色の嫌な目。
 狂気と正気を内包した目。
 シギュン・グラムは懐から煙草を取り出し、口に咥えるとマッチで火を点けた。
 それで戦いは終わりだった。

 部屋を覆っていた冷気が晴れると、夏香はシギュン・グラムを一度だけ睨みつけた。
 そして、足もとに散らばっているドル札を一枚だけ掴み上げた。
「せっかくだから、これだけもらっていくよ、アンタの遊びに付き合ってやったんだからね」
 シギュン・グラムは紫煙だけを吐いた。
 夏香はにやりと笑うと、魔狼に背を向けた。
「んじゃね、魔狼さん。あなたが太陽を捕まえられたらまた相手になってあげる」
 後ろを向いたまま、手をひらひらさせる。
 ――神を喰らってもダメなら、太陽を喰らいなさいな。その時は本気を出せるようになってるでしょ。
 魔狼は一瞬だけ、双眸を収縮させたが何も応えなかった。
 夏香は、ずんずんと大またで歩き始める。
 そして、一度も振り返らずに部屋を後にした。
 もう逢うことはあるまい。
「理解できませんわ」
 床に散らばったドル札を眺めながら、ミリア・レインバックがため息を吐いた。
 夏香の行動が理解できない。
 同時に、シギュン・グラムの心も想像を超えている。
 両者とも自分とは根本的に作りが違うのだろう。
「"疾風怒濤の葉月"すら、筆頭幹部殿の獲物にはなれませんか」
「……いや、惜しいことをしたかもしれん」
 ――太陽を捕まえたら、か。
「そうだ。私の敵は……」
 "氷の魔狼"の呟きは氷結が解けた天井から滴る水滴の音の中に掻き消えた。
 答えは、魔狼の双眸の中だけにある。


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