魂を継ぐもの
夕闇が、濃くなり始めていた。
光に満ちた時間が終わり、闇の世界がやってくる。
太陽を嫌う妖異の存在が活動を始める時間。
古の人々は、
まだ夕暮れ時だというのに、街の中心から離れたこの一帯には、すでに人影はまばらだった。
青年は、『フィアット500』の助手席の窓を開け、ビル群のから外れた路地に目を向ける。
こそは、今にも負の喧騒が聞こえてきそうな暗闇に閉ざされていた。
「あの路地の裏だな」
癖のない黒い髪をした二十歳くらいの青年だった。
蒼い瞳の持ち主で、顔立ちは一瞬女性と見間違うばかりに整っている。
白いワイシャツに青いストライプのタイをダラッと締め、その上から黒いイタリア製のスーツに身を固めている。
そして、その腰には、黒金の鞘に納められた刀らしきものを帯びていた。
「まったく、路地裏とはいえ、真夜中前から街中で、やってくれるよな?」
青年が、運転席でハンドルを握っている女性へと同意を求めた。
「んまぁ、夕暮れだしっ、もう薄暗いしっ。困ったちゃんには変わりないけどね」
女性が青年に答える。
彼女もまた、蒼い瞳の持ち主で、すらりとした肢体を青年と同じようにダークスーツに包んでいた。
青年と違うのは、まるで癖のない黒髪が腰の辺りまで伸ばされていることと、タイが赤のストライプであることだけで、少しだけ幼さを残しつつ大人の色香の漂う顔立ちもそっくりだった。
「――どうする、兄貴?」
「どうするって、そんな質問すんなよ」
「にゃははっ、助ける助けないの確認じゃないわよ。登場の仕方ッ!」
「決まってる。正義の味方は……」
「颯爽に?」
「その通りだ」
青年が頷くのと同時に、路地裏の方から女の悲鳴と男の怒声のようなものが聞こえてきた。
内容は聞き取れないが、ひとりの女と複数の男が口論しているようだ。
間違いない。
「
運転席の黒髪の女性が、思い切りアクセルを踏み込んだ。
ボォォォォン!
急加速を告げるエンジンの咆哮の後、『フィアット500』は狭い路地に突っ込んでいった。
突如現れたそのイタリア車に、男たちは騒然として振り返った。
『フィアット500』は遊園地の『コーヒーカップ』のように激しく回転して、止まった。
「な、なんだぁ!?」
乱暴過ぎる運転で狭い路地に侵入してきた車に度肝を抜かれ、片手にバタフライナイフを握った男が素っ頓狂な声を上げる。
男の目の前には怯えた表情の女が尻餅をついて倒れていた。
その男を中心として、五人の男たちが女を囲むように立っている。
男たちの見守る中、『フィアット500』の助手席のドアが静かに開いた。
「とりあえず、そこまでにしといた方が、アンタらの身のためだぜ」
そう言いながら、黒髪の青年がゆっくりと車から降りる。
ジャラジャラと耳に障る金属音が響く。
腰に帯びた黒金の鞘に巻きつけられた鎖が鳴っているのだ。
青年が男たちとその向こうの女に目を向ける。
バタフライナイフを握った男をはじめ、男たちは全員が強面で、街のゴロツキといった雰囲気を纏っている。
尻餅をついている女性は服が乱れ、肌蹴たブラウスから豊かな胸を包んだブラジャーが剥き出しになっていた。
溜まり場になっているこの路地裏に迷い込んだ女を手篭めにするために、脅していたというところだろう。
青年は肩をすくめた。
「女一人を相手に数人がかりって根性はカッコワリーな。そういう輩は碌な目に合わないぜ?」
「な、なんだ、てめぇ!?」
男たちが噛みつくような表情で、ダークスーツ姿の青年を睨みつける。
「通りすがりの正義の味方だ」
青年が静かに応えると、男たちは一様にぽかんとした表情になった。
「はぁ……?」
「正義の味方だぁ?」
「ていうか、ポン刀なんか持って危ないヤツだな。それにアホみたいな運転しやがって、イカレてやがるのか?」
男たちが目を剥きながら吼える。
突拍子もない登場に驚かされたものの、闖入者は簡単にノせてしまいそうな青年だ。
イタリアのマフィアのようにダークスーツを着込み、日本刀などという危険な代物は持ってはいるが、華奢な体格で、荒くれ者の雰囲気はない。
自分たちが何も慌てる必要もないと、男たちは思い直していた。
「危ないヤツだって? おまえらに言われたくねーっての。それに運転してたのは、オレじゃねーしっ」
青年は不機嫌そうに言い放ち、前髪を右手でかきあげた。
「とにかく、その女に手を出すのはやめておけ。おまえたちのようなアホ野郎どもが相手にできる女じゃないぜ」
「なんだとぉ、ふざけんな!」
言い方が癇に障ったのか、男の一人がこめかみに青筋を浮かべて青年へと手を伸ばした。
激情に任せて襟首でも掴むつもりだったのだろうが、男はそれを成し得なかった。
青年が、男の土手っ腹に前蹴りを叩き込んだからだ。
「うっ、おっ……、おごぉっ……」
「を〜い、人の話は最後まで聞けよ。別にふざけてないって」
青年は、さらさらと落ちてくる前髪を鬱陶しそうにしながらも、目の前で腹を抱えて両膝を折る男を気にした様子はない。
彼は、男たちを見てはいなかった。
「アホ野郎でも喰われるとわかっていて放っておくのも寝ざめがワリーからよ。まあ、どうしても、そんな大根役者とヤりたいってんなら、無理して止める気はねーが」
青年の目は、男たちの後方で尻餅をついたままの女に向けられていた。
「大根役者?」
「喰われるだって?」
男たちが青年の視線を追うように振り返る。
地面に倒れている女の双眸が不気味な紅に光っていた。
酷薄な笑みが口元に浮かべ、女がゆらりと立ち上がった。
その動きは、まるで糸で操られる人形のように不自然さを伴っていた。
「小僧、退魔師か」
「まあ、そんなところだ」
「あと少しで荒事なく食事を終えられたというのに。邪魔をしおって」
突然、女が四つん這いになった。
ブラウスの両脇を突き破って飛び出した数本の何かが、アスファルトに突き刺さる。
瘴気が周囲へと吹き出した。
気づけば、女の顔が凶悪に変化していた。
額を突き破って二本のねじくれた角が生え、美しかった唇は頬まで裂けて、口の中には鋭い牙が覗いている。
両目は真っ赤に染まり、顔の輪郭はどことなく牛のようにも見える。
骨格もいつのまにか数倍に膨れ上がっており、その巨体を四対の節くれ立った脚のようなものが支えている。
アスファルトを砕いたのはその節足の先端に付いている鋭利な刃物のように尖った大きな爪だった。
男たちに向かって、女が腹に響く重低音で吼えかける。
「くかかっ、こうなれば、皆殺しにしてからゆるりと喰ろうてくれるわ!」
「ひいいいい!?」
「バ、バケモノ!?」
女の突然の変貌に、男たちは恐慌を来たした。
だが、黒髪の青年は落ちついた素振りで、背後のイタリア車に向かって叫んだ。
「すずは、出番だぜ!」
「任せてよ、兄貴」
声とともに、黒髪の女性――すずは――が車の運転席のドアを蹴り開けて飛び出してきた。
すずはは自分の懐に両手を突っ込み、目にも止まらぬ速さで引き抜いた。
交差して前に伸ばされた左右の手には、二つの黒い物体。
「拳銃!?」
「こ、こいつら、やべぇよ!?」
すずはが抜いた拳銃を目に止めた男たちが、すでに血の気が引いて蒼白になっている顔をさらに青くする。
「今さら……」
やばいも何もない。
すでに、目の前に、『怪物』というやば過ぎる存在がいるというのに。
すずはは見下すような半眼で薄ら笑いを浮かべ、男たちに向けて両手に握った二挺の拳銃を向けた。
怪物に襲われている男たちが、とどめと言わんばかりのすずはの行動に仰天する。
この状況で撃たれたら、確実に死ぬ。
銃弾を受けても死ぬし、銃弾を避けてもバランスを崩して、怪物の攻撃の餌食になるのは明白だ。
男たちは必死に女性に向かって叫んだ。
「ちょっと待て!」
「
すずはは躊躇いなく、笑顔で引き金を引いた。
パァンッ!
乾いた発砲音が響いた。
直後、男たちは硬直した。
銃弾に貫かれた様子はないが、驚愕で動きが止まってしまったのだろう。
怪物と化した女が好機と見て、脚を男たちの一人に振り下ろした。
だが、その脚が男に当たる寸前、淡い閃光が走り、怪物の脚が弾かれる。
「グギャッ……!」
思わぬ反応に遭って、怪物が牛頭を醜悪に歪める。
淡い光の膜が、男たち一人一人を包み込んでいた。
「……結界か」
ぎろりと怪物が紅い目を、すずはへと向ける。
「はいはい、見ての通り、触った通り」
すずはは怯えた様子も見せずに笑顔で応え、そして、黒髪の青年に拳銃を握ったままの手を振った。
「後顧の憂いというかお邪魔虫くんというかうるさい外野どもは断ったよ、兄貴。ほめてほめて」
「よくやったな、すずは。さて、こっからはオレたちのターンだな」
「兄貴兄貴、牛の頭に蜘蛛の胴、そいつは
横に並んだ黒髪の青年に、すずはが言う。
「強いよ、凶暴だよ。気をつけてね」
「そうか、強くて凶暴か」
「でも、まっ、母さんだったら余裕だね、余裕のよっちゃん」
「……そうか。おい、牛鬼」
青年が、黒金の鞘を腰から抜く。
刀を戒めたままの鎖が、ジャラジャラと音を立てた。
そして、牛鬼と正面から対峙するように、黒髪の青年は黒金の鞘を背負うように構える。
すずはもその隣で二挺の拳銃の銃口を牛鬼へと向けた。
「退魔師"
「退魔師"双龍"が陰、すずは!」
「「推して参るッ!」」
黒髪の青年――きりね――と、すずはの黒髪が舞い上がるように逆立った。
「ケルベロスが」
「番をしているところに」
「「送ってやるぜッ!」」
二人の身体が青白い光に包まれ、物理的な風が、牛鬼の巨体を打つ。
青白い光の正体が爆発的に高めた霊気であり、風は霊気の副産物だということを、牛鬼は理解していた。
「たわけたことを。冥府に逝くは、うぬらだと悟れ!」
牛鬼が巨体を反り上げて最後尾の二本以外の、六本の節足を振り上げ、きりねを襲う。
しかし、六本の節足のすべてを、きりねは上半身をわずかに捻るだけで避けた。
「おっせーぜ、デカブツ!」
きりねが身を低くして突進し、黒金の鞘で、牛鬼の腹を猛烈な勢いで突きあげる。
人間が相手だったならば、ひとたまりもない一撃。
だが、牛鬼は巨体をわずかに揺らしただけだった。
「デカブツゆえ、我にその程度の打撃は通じぬわ」
牛鬼がニィッと嗤う。
動きの止まったきりねに向かって、牛鬼が右三本の脚を振り下ろした。
きりねが舌打ちしながら、両腕を交差させる。
鈍器で殴られたような衝撃を両腕に感じながら、勢いを殺そうと両脚を踏ん張る。
だが、そのまま引き摺られ、背中からコンクリートの壁に打ちつけられた。
「ぐっ……あ……ッ!」
血の混じった空気が口から吐き出されるが、そのまま地面に倒れることだけは何とか耐えた。
牛鬼が、すずはの動きに注意しながら、きりねへと近づく。
「その刀、恐るべき霊気を秘めた業物のようだが、抜かねば、鉄の鞘に仕舞われたただの日本刀に過ぎぬ。なぜ、抜かぬ?」
「……うっせー」
不機嫌そうに血の混じった唾を地面に吐き捨てたきりはを見て、牛鬼は嘲笑った。
「抜かぬのではなく、抜けぬのだろう。くかかっ、己が得物も扱えぬ未熟者とはなァ」
「未熟者で悪かったな。でもよ、デカブツに生半可な打撃が通じないのはわーってンだよ」
「何?」
と、牛鬼の全身から血が噴水のように吹き出した。
「グギャァァァ!?」
「オレの未熟さは、霊気が浸透する時間を見誤って、こんなダメージを受けちまったことだな」
きりねが破れたスーツの袖から露出した腕で、唇の端から滴る血を拭う。
「ヌグオオオッ!」
全身を襲う痛い身に目を血走らせた牛鬼が、怒りの雄たけびを上げる。
「うっさいな、鼓膜に響くじゃない」
すずはが姿勢を低くして、牛鬼に向かって走り出す。
その動きを認識した牛鬼が迎え撃とうと血塗れの巨体から生えた六本の脚を突き出す。
すずねは跳躍してその攻撃をかわし、牛鬼の伸びきった脚の一本を踏み台にして、さらに跳躍した。
牛鬼の頭頂を飛び越える間際に、二挺の拳銃が火を噴き、炸裂音とともに牛鬼の二本の角が抉れ落ちた。
痛みのためか、怒りのためか、牛鬼がさらに咆哮を上げる。
牛鬼が振り返り、背を向けたままのすずはを叩き潰そうと再び六本の脚を振り上げた。
だが、それが振り下ろされる瞬間、すずはは牛鬼の攻撃を読み切っているかのように身体を横へとスッと移動させ、紙一重で回避する。
そして、牛鬼に背を向けたまま、両腕を後ろへと向け、再び二挺の拳銃の引き金を同時に引いた。
「ウガァッ!」
牛鬼の巨体が今度は攻撃のためではなく、受けた衝撃のために仰け反る。
「兄貴!」
「相変わらず、背中に目が付いてるような動きだな、すずは!」
「ほめてほめて」
拳銃の硝煙を口で吹きながら、すずはがきりねにウインクをする。
その後ろで牛鬼が血塗れの肉体を揺らして、跳躍した。
空を跳ぶ、巨体。
その影が、すずはを頭上から黒く染める。
「あれ?」
すずはが間の抜けた表情で降ってくる牛鬼の巨体を見上げる。
きりねが駆けた。
「バッカ、油断すんな!」
硬直している妹の身体を掻っ攫うようにして、きりねが抱き抱えて地面を転がる。
地響きとともに、牛鬼がすずはが今の今まで立っていた場所に着地する。
「オノレェ!」
ギョロリと怒りに燃える両眼を、間一髪潰されるのを避けたきりねとすずはへと向ける。
肉体の損傷は激しいが、牛鬼はその巨体に見合う生命力を有しているようで致命傷には程遠いようだ。
「
「それにしても、あの化物、辟易するタフさで、キリがないな。……すずは」
きりねが、背に手を回す様に抱いたままのすずはに声をかける。
唇が振れそうなほど近い距離で、向き合う双子の兄妹。
「わーったわよ、一気に決める気ね、兄貴!」
すずはが兄の腕から離れて、その隣に立った。
二人はそれぞれの武器を腰と懐へと戻し、円を描くように両腕を回した。
そして、両手のひらを合わせ、後ろへと引き絞る。
それぞれの身体から、青白い霊気が柱のように立ち上り、二人の黒髪が舞い上がる。
「「天武夢幻流」」
二人は同時に両眼をカッと見開いた。
「陰」
「陽」
「「太極」」
きりねとすずはが、鏡に映ったかのように同じ動作で、合わせた両手のひらへと霊気を収束させる。
そして、同時に臨界まで達した霊気を、一瞬の差もなく前方へと解き放った。
「「
二人の両腕の間で光が爆発する。
青白く輝く巨大な霊気球が発現し、威圧するような霊気の風とともに放たれた。
龍が所持するといわれる伝説の宝玉を彷彿とさせるようなさせるような、神々しくも荒々しく、美々しくも猛々しい、眩いばかりの巨大な光球。
その超級の霊光球が、牛鬼の巨体に直撃する。
異形の肉体から生えた四対の脚が衝撃に消し飛び、その体躯が一瞬にして青白い炎に包まれる。
「ウゴォッ、オオオッ、オオォォォオオオオォォ……!」
牛鬼の断末魔が轟き渡った。
青白い炎の中で、異形の肉体が崩れ落ち、燃え尽きていく。
完全に肉体が粒子と化し、霧散すると同時に、邪悪な意志も砕かれ、瘴気さえもが浄化された。
「
すずはが乗り込んだ『フィアット500』の運転席の窓から路地裏に手を振る。
そこには牛鬼の化けていた女を襲おうとしていた男たちの姿があった。
すずはの張った結界から解放されていたが、自分たちを襲った信じられないような出来事からは立ち直っていないようだった。
すっと目を細め、すずはが大声を張り上げる。
「これに懲りたら、下衆なコトは慎みなよ。今度同じ状況で喰われそうになったところに通りがかっても助けてやんねーかンね!」
すずはの忠告に、全員が怯えた表情で、ガクガクと頷いた。
「さて、行きますか」
すずはが窓を閉め、エンジンキーを回す。
きりねはその隣で両手を頭の後ろに回して車のシートに身体を預けながら、口に銜えたスティック菓子を弄んでいた。
こちらは路地裏の男たちのことなどもう頭には無いようだった。
「ところで、兄貴」
「何だ?」
「抜けそう?」
「……ダメだな。あの程度の相手を倒したくらいじゃ、認めてはくれないようだ」
「ですよね〜」
すずはが、きりねの銜えたスティック菓子の先端を口の中に含んだ。
ポリッ……ポリッ……と、スティック菓子を食べていくすずは。
兄妹の距離が縮まっていく。
ポリッ……ポリッ……ポキッ!
二人の唇が触れ合うまであと数ミリというところで、スティック菓子が折れる。
「残念さんだね」
惜しいという顔のすずはに対して、きりねは気にした様子もなく折れたスティック菓子を飲み込んだ。
「……母さんとの約束は、大学卒業がリミットだ。まだまだ時間はあるさ」
「
そう言ったすずはが言葉とは裏腹に、アクセルを思い切り踏み込んだ。