魔狼の姫



 少女は、まさに殺戮者だった。
 血の海の中で、鉄の爪を振るう度に、新たな鮮血が舞い散る。
 怒号、悲鳴、断末魔。
 恐怖に満たされた舞台の上で次々と命が奪われていく。
 その中で少女は舞い踊る。
 可憐ともいえる動きで、相手を切り裂いていく。

 最後まで抵抗を続けていた男の首を刎ね、少女は動きを止めた。
 床は被害者から吹き出した血と切り裂かれた肉で真っ赤に染まっていたが、少女の長い黄金の髪には染み一つついていなかった。
 着ているゴシック調の豪奢なドレスも、激しい運動をしたにもかかわらず、しわも寄っておらず、返り血もほとんど浴びていない。

 少女の呼吸は規則正しく、激しい戦いの後とは思えなかった。
 だが、獣性の開放された双眸には獰猛な狂気が宿り、両腕にはめられた鋼鉄の爪からは奪った生命の象徴である赤い液体が滴り落ちている。
 それらが残虐な戦いの余韻を残していたが、それで少女の美しさが損なわれることはなく、逆に不可思議な妖艶ささえ醸し出していた。
 多くの死で自らを飾った姫が、そこにいた。
「烏合の衆だったわね」
 その獰猛に輝く瞳とは裏腹に、呟く少女の声は空虚さを伴っていた。
 だが、それは猛る狂眼と同じく、無感情とは程遠い。
 微かな怒りと厭きれ、そして冷ややかさを含んだ複雑な響きであった。
 彼女から見れば、人を殺すことに快楽を覚えるのは下衆だ。
 人を無感情に殺すのも下衆だ。
 当たり前のように人を殺すのも下衆であったし、人を殺すことに仕事人気質を見せるのも下衆であった。
 ならば、彼女はなぜ殺すのか。

「これほどか」
 少女の背後から太い声が聞こえ、少女と同じ美しい金髪をした壮年の男が姿を現した。
 ダークスーツに逞しい肉体を包んだ姿には、王のような威厳があった。
 男は少女の父だった。
 自らの娘の持つ力を見せつけられ、男は驚嘆していた。
 少女がゆっくりと振り返る。
 その身体から、甲冑を纏った半透明な女性の姿が浮かび上がる。
 凛とした視線で一瞬、男を射抜いた後、甲冑姿の女性は天上へと昇りながら消えた。
「ヴァルキリーを降ろしたか」
 男の言葉に、少女は頷いた。
 少女が操るのは、降魔の力。
 自らの肉体に、魔を降臨させ、その力を自由自在に扱う力だ。
 男もまた現代最高の降魔師の一人と呼ばれていた。
 裏の世界で彼らの家系の名を知らぬものはない。
 殺戮と破壊により、欧州の各国を裏から貪り続ける魔狼の一族。
 彼らは欧州一帯を社会の裏側から支配する闇の王家とも呼ばれるべき存在であった。
 その現当主こそがこの男であり、その後継者がこの少女であった。
 少女が今までその身に降臨させていたのは、北欧神話のヴァルキリーと呼ばれる存在の一人だった。
 ヴァルキリーは戦死者を運ぶ死神ともいえる存在だ。
 その力を駆使し、目前の敵対者たちを葬り去った少女自身もまた、戦乙女と同じように死神であった。
 役割を終えたヴァルキリーは少女から開放され、姿を消したが、少女の全身から醸し出される『死』は消えはしなかった。
「物足りません」
 少女が面白くもなさそうに男に言った。
 物足りません。
 それはやはり、先程と同じ空虚さを伴った声だった。
 殺し足りないのか。
 それとも、降ろしたヴァルキリーの力が、少女を満たしていないのか。
 少女には年端もいかぬ頃から、降魔の才能の片鱗はあった。
 だが。
 まだ十代前半にも関わらず、今、少女は五十人を超える人間を殺害した。
 しかも、その身に降ろしたのは、戦士の魂を運ぶと畏怖される北欧の戦乙女。
 その力を自由自在に使いこなし、相手に反撃一つ許さず無傷のまま勝利を手に入れた。
 これほどまでに凄まじい力を持っていようとは思わなかった。
 少女は天才だった。

「物足りぬというわりには、派手にやったな」
「彼らの命に重みなどありませんでしたから、加減ができなかったのです」
「なぜだ?」
「命に重みを与えるものは誇りです」
 父親の問いに、少女は鉄爪にこびりついた血を舐めながら答えた。
「しかし、彼らは見苦しかった」
 少女は微かに眉を寄せ、血に染まった唇を歪めた。
「現に彼らの血は不味いことこの上ありません」
 命を懸けて向かってくる獰猛さが彼らにはなかった。
 何人かにはそれがあったかもしれないが、実力がなかった。
 実力と誇り、その二つを兼ね備えたものは滅多にいない。
 少なくとも今殺した人間の中にはいなかった。
 だから、面白くもなかった。
 それが空虚さの答え。
「誇りも持たない雑魚どもの命などいくら切り裂いても、私の命とは釣り合いません。そういう、ことです」
 物足りない。
 彼女がそう言ったのは、自分の『敵』になる相手がいなかった。
 そういう意味だった。
「誇りか」
 男は腕組みをして眉を跳ね上げた。
「だが、闇の王家などと言われても、我らも元を質せば下賎の血だぞ」
「血統ではありません。私自身の血が誇りなのです。私は貴族であった覚えなど片時もありません」
 少女は血に染まった鉄爪を振るった。
 空間を切り裂く音とともに、真っ赤な液体が飛び散る。
 その瞳には変わらず狂気が渦巻いている。
 渡り合える獲物を求めて。

 男は欧州を影から操る帝王としての誇りを持っていたし、闇世界でも屈指の実力を持っている。
 だが、男は自問する。
 この実の娘に勝てるか、と。
 今はまだ父親と娘には圧倒的な力の差がある。
 負けはしないだろう。
 だが、と思う。
 勝つこともできないだろう。
 どうしても男は娘に勝てる気がしなかった。
 何者も彼女を侵略することはできはしない。
 難攻不落。
 少女は全身からそういう雰囲気を発していた。
 この娘なら、あるいは、と、男は思う。
 始祖以来誰一人、降魔に成功しなかった最強の魔獣をその身に降ろすことができるかもしれない。
 神を喰らい、月を砕く魔狼を、自由自在に使いこなせるようになるかもしれない。
「……末恐ろしい娘だ」
 男の視線には畏怖と期待の入り混じっていた。
「光栄です、父上」
 少女は慇懃に頭を下げたが、まるで光栄だとは思っていないような口調だった。
 しかし、男は満足そうに頷いた。
 それで良い。
 我らは魔の狼。
 この娘は他者の生命を喰らい、貪り続ける一族の姫だ。

 この後、魔狼の姫、シギュン・グラムの名は、瞬く間に欧州全土の闇に知れ渡ることになる。


>> BACK