妖刀異伝



 力というものはな、誰かから何かを奪うためのものではない。
 誰かの大切なものを護るためのものだということを、よく覚えておきなさい。
 そして、おまえは、武で人を傷つけたくないと言うそのやさしい心を大切にしなさい。
 武の道を選ぶとしても選ばないとしても、やさしさだけは忘れてはいけないよ。

 おねえちゃん、あたしがまもってあげる。
 つよくなって、おねえちゃんをまもってあげる。
 だから、おねえちゃんは、やさしいままでいて。

 ――女は瞼を開いた。
 美貌の女だったが、その眼を開いたことによって、美しさは刃のような鋭さを帯びた。
 蒼白すぎる貌、血のような真紅の瞳、肩の辺りで無造作に切られた髪、その印象がまるで死神か幽鬼のように見える。
 絶世の美女といえるほどの造形を持っていながら、街中を歩いていてもこの女に声をかける男はいないだろう。
「(霧刃?)」
「……ケル……私は眠っていたか」
 傍らで巨大な獣が首をもたげた。
 その姿は犬のようであったが、その大きさは大型犬の三倍はある。
「(顔色が良くないな。いつもの発作か?)」
 魔獣の言葉で女は全身に汗をかいていることに気づいた。
 不快そうに眉を跳ね上げる。
 じっとりとした全身を濡らす感触よりも、夢の内容が不快だった。
 くぐもった声で気遣うような視線を霧刃に向けている魔獣――ケルベロス――の首を霧刃はそっと撫でた。
「夢を見た」
「(夢?)」
「……いや、なんでもない」
 織田霧刃の軽く頭を振り、暗い目で細い息を吐いた。

 宗像四郎は白濁とした意識の中で、戦慄していた。
 彼は追い込まれていた。
 相手は四郎の予測などでは計りきれない恐るべき力の持ち主であった。
 思考が強制停止に陥らされるのも、視界が暗黒に沈むのも時間の問題だろう。
 四郎は気力を振り絞り、相手を見返した。
 相手は女だった。
 しかも、とびきりの美女。
 年の頃は二十歳前後で四郎よりも年上だろう。
 長い黒髪が艶やかで、やや釣り上がり気味の目には勝気な光が宿っている。
 身体のラインがはっきりとわかるチャイナドレスを身に纏い、きわどいスリットから覗く健康的な太股が健全な少年である四郎を挑発している。
 女は、にやりと笑った。
 そして、手に持つ武器を四郎に向ける。
 四郎の顔が引き攣る。
 問答無用とばかりに無理やりに、それ――透明な液体をなみなみと注がれたグラス――を握らされた。
「さっき、ウォッカって言ってましたよね」
 消え入るような声で四郎が女に尋ねる。
「ウォッカも飲めない坊やが刀を振り回して命のやり取りなんてするもんじゃねぇぜ」
 ジョッキに注がれたウォッカを一気に煽り、女は平然と首を縦に振った。
 ――この人はバケモノだ。
 四郎はこの高級バーに来たことを後悔していた。
 そもそも彼は、ここへ酒を飲みに来たのではなかった。
 未成年であり、高校生である四郎が入り込めるだけでも、この高級バーが普通の店ではないことは明らかだった。
 この店の真の商品は酒ではなく、「情報」なのだ。
 この店のマスターは名うての情報屋で、日本中の「情報」、その中でも、社会の裏に属するような「きな臭い情報」をメインの商品として取り扱っている。
 宗像四郎が、この高級バーに来たのも「情報」が目的だった。
 一高校生である彼が求める情報。
 それは、「仇」の情報だった。
 仇といっても彼自身の仇ではない。
 何しろ、彼の家族は皆、健在なのだ。
 彼の求める仇は、彼の手にする「刀」の仇だった。
 彼の持つ刀、"狼牙"には魔が宿っていた。
 魔といっても、いわゆる悪魔ではない。
 刀そのものが意志を持った九十九神とも違う。
 一種の念が宿ったものというのが一番正解に近い。
 "狼牙"は、江戸時代のとある剣豪の所有していた刀であり、持ち主であった剣豪を斬った「仇」への無念が消えずに残っているのだ。
 その念が偶然にも刀を手にした四郎の身体を操り、「仇」を求めて連続傷害事件まで起こしてしまった。
 無論、「仇」そのものは当然既に他界している過去の人であるため、「仇」の子孫が「仇」と同じく剣士であることを信じ、「仇」と似ていると判断した相手を片っ端から襲っていたのだ。
 そのような経緯から宗像四郎は致し方なく、積極的に「仇」を探す協力者となることで、"狼牙"の暴走を抑えようとしているのだ。
 そして、その協力の一環として、この「情報」が売買されている高級バーに立ち寄ることになったのだが、四郎も"狼牙"もこの手の作業に関しては所詮は素人であった。
 四郎は洞察力も推理力もあるが気が弱く、"狼牙"は行動力はあるがもともとが剣であるだけに性格は"ばっさり"だ。
 このコンビでは情報収集の結果も推して知るべしである。
 バーのカウンターで途方にくれていたところを、目の前の女――織田鈴音に捉まってしまったのだ。
「坊や」
 鈴音は前髪をかきあげた。
 表情にこそ出ていないが、息は十分に酒臭い。
「坊やみたいな素人が、こういうところに来る。しかも、刀なんざ持って、だ。どうせ、恨みに思ってる相手に一太刀ってところだろ?」
「!」
「やめとけ、やめとけ。坊や、復讐だろうとなんだろうと人の命を奪えば奈落に落ちる。復讐が達せられても達せられなくても修羅になっちまうぜ」
「修羅、ですか……」
「酒でも飲んで忘れちまいな」
 鈴音の表情に微かな翳りが浮かぶのを四郎は見逃さなかった。
「鈴音さんはどうしてこんなところにいるんです?」
「……そいつを飲み切ったら教えてやるよ」
 鈴音は新しいウォッカを注文して、四郎の前におかれたままのグラスを示した。
 教えるつもりはないということか。
 四郎はそう思った。
 だが――
「(おい、四郎!)」
 慌てたような"狼牙"の声が四郎の頭の中に木霊する。
 四郎はグラスに口をつけていた。
 それを見た鈴音が固まっている。
 ごくり、ごくりと、喉が焼けるような液体を飲み干して、四郎はグラスを手前に置いた。
「バカ! 死んだらどうする!」
 硬直から解けた鈴音が怒鳴る。
「一気飲みはバカのすることだ。おい、マスター! 水をジョッキで頼む!」
「ゲホゲホッ、……んじゃ、鈴音さんはバカなんですか……ゲホッ……?」
「あたしはイイんだよ。それより、大丈夫か。倒れても面倒は見れねぇぜ」
「だ、ゲホッ! だ、大丈夫です。ゲホゲホッ!」
 水を飲み、四郎はむせ返るのを無理やりにも押さえる。
 明らかに涙目なのだが、鈴音に心配かけまいとしているのがわかる。
 鈴音は好感を持った。
「坊やはもう止めてくださいよ。ケホッ、ちゃんとウォッカも飲んだでしょう。それから鈴音さんの理由も教えてもらいますからね」
「ちっ、しゃぁねぇなぁ。煽ったあたしも悪かったよ。もう無理して飲むなよ?」
 鈴音は追加で注文したウォッカが手元に来ると、今度はそれを一気に飲み干すことなく、ゆっくりと少量だけ口に流し込んだ。
「"凍てつく炎"って、女を知ってるか?」
「さ、さあぁ? けほっ……ひくっ……」
「"凍てつく炎"を知らないってのは、やっぱりもぐりの素人坊やって証拠だな。まあ、それはイイさ」
 鈴音は肩をすくめた。
「"凍てつく炎"は、な。バケモノさ。家族と恋人を目の前で殺されて以来、憎しみに取り憑かれて、世の中を憎んで、憎んで、憎み過ぎて、もう何を憎んで、何を呪っているのかるのかすらわからなくなっちまった。そんな女だよ」
 すべてを凍らせるような眼差しと、すべてを焼き尽くすような殺気。
 絶対零度の心と、灼熱の闘気。
 見たものすべてを凍えさせ、見たものすべてを焼失させる。
 それが、"凍てつく炎"。
「あたしはその女を捜してる。"凍てつく炎"は、……あたしの姉貴の仇だからな」
 鈴音の遠くを見るような潤んだような双眸、桃色に染まった頬、妖しい艶を帯びた黒髪。
 宗像四郎は健全な高校生だ。
 目の前の女性に魅惑されるなというのが無理だ。
 四郎が正気を保っていれば、の話だったが。
「ういっ、ひっくっ、おんねえしゃんのぉかたきうちれしゅぅか?」
「そうだよ」
「ぼくのぉこといぃえにゃいぃじゃにゃいぃれしゅか」
「かもな。……って、をい?」
 アルコールの力で良くも悪くも自分に浸っていた鈴音が不意に四郎を見ると、彼は完全にへべれけになっていた。
「らいぃじょうぶれしゅぅ」
「こいつは、まいったね」
 酩酊しながらも話に耳を傾けようとしている四郎を見て、鈴音は『イイ坊や』だと思いながら苦笑した。
 そして、彼の傍らに立てかけられている刀に目を向ける。
「おまえを見て退魔師の血が騒いで声をかけたんだが、な。…………坊やに感謝するこった」
「(……この女、バケモノか)」
 "狼牙"は鈴音の視線を受け、刀身が凍る気がした。
 霊気そのものが刃のように鋭い。
 幾多の歴戦の剣豪と命のやり取りをしてきた"狼牙"だからこそ、わかる。
 ――二十歳前後の小娘。
 だが、実態は類稀なる実力の退魔師。
 しかも、ただの退魔の力の持ち主ではない。
 その所作から相当な武術の使い手であることも、"狼牙"は見抜いていた。
 霊気と肉体、その双方を武器として使う『バケモノ』に違いない。
「おまえも飲むか?」
 "狼牙"に意思があることまでは理解していないようだが、鈴音は古びた日本刀に笑いかける。
 強烈な酒の香りに包まれながら、"狼牙"はアルコールを飲み続ける女の顔を見返した。
 その目は決して冷たくはないが、心の底からは笑っていない。
 まるで酔っていない。
 "狼牙"は、目の前の退魔師の双眸に暗い翳りを見ていた。
 そして、その翳りの正体が先程の会話に出てきた"凍てつく炎"のせいであることを感じていた。
 復讐を胸に秘めたものは皆そういう目をするものだということを、"狼牙"は知っている。

 機械のように無表情に他人を殺す。
 男はそういうことのできる人間を何人も見てきた。
 表情一つ変えず、生命を奪うことに何のためらいも感じない暗殺者たち。
 笑いながら人を殺す者たちもいる。
 悦楽を感じているもの、感情なしの笑顔を貼り付けたもの、狂っているもの。
 それは恐ろしい。
 だが、それらよりも本当に恐ろしいのは、やはり憎悪向き出しで人を殺すものだ。
 男は、今まさにこの瞬間、そう理解していた。
 そして、絶望していた。
 神の意に逆らうものたちを何人も何人も何人も何人も殺害してきた。
 男、いや、彼の仲間も含め、敗北などという経験はなかった。
 どのように強力な力を持った相手であれ、所詮は"神の敵"であり、"神の剣"たる自分たちに敵うはずがなかったからだ。
 その無敵の"神の剣"であるはずの自分に、男は初めて無力さを感じ、絶望しているのだ。
 彼を見据えているのは、圧倒的な憎悪の視線。
 対峙者への呪詛。
 世界への呪詛。
 己自身への呪詛。
 感じられるのは最凶たる、"死"。
 神の御許へ往けるのだから、死ぬのは怖くない。
 だが、目の前の"死"が怖い。
 矛盾しているが、そう思う。
 彼と"死"の周りには、仲間たちの屍が無数に転がっている。
 もはや、この場にいる仲間で生きているは自分だけ。
 その事実に恐怖する。
 信仰さえも飲み込む、"死"が恐ろしい。
 "死"がその真紅の瞳孔をわずかにすぼませる。
 赤い光が走った。
 ――血煙か。
 男はそう思った。
 それが最後の思考だった。

 "死"――いや、"凍てつく炎"織田霧刃は十人近くいた刺客の最後の一人の首をへし折る。
 男のどす黒い吐血が袴を濡らし、男は地面に崩れ落ち、物言わぬ躯と化した。
 霧刃がその禍々しさの宿る赤い瞳で地面に転がる刺客たちを見下す。
 刺客たちは一様に、神父服を多少動きやすくしたような服を着ていた。
「"神の剣"、『カマエル』か」
「(大天使カマエル。神の正義を掲げ、他の正義を認めようとしない急先鋒。その天使の名を冠する狂信者集団か)」
「神罰のつもりだろう」
「(まったく厄介なことだ)」
 魔獣が唸るように言う。
 彼の周りにも刺客の死体が散乱している。
 あるものは肉を引き裂かれ、あるものは内臓を食いちぎられ、あるものは炎に焼かれて炭と化していた。
 知性的とはいえ、肉体は肉食獣のそれであるケルベロスに慈悲深い殺し方などできようはずもない。
 もっとも織田霧刃の手で命を絶たれたものたちとて単に遺体に損傷が少ないだけで、そこに慈悲があったとは思われないが。
「(時代遅れの狂信者どもだ。数はそう多くはあるまいが……)」
「刃を向けてくるならば根絶するだけだ。神であろうと、悪魔であろうと、人であろうと」
 ――運命であろうと。
 霧刃は付き従う魔獣を視線で促し、自らの作り出した惨状に背を向けた。

「ううっ、まだなんか頭痛い気がする」
 翌日の夕方、宗像四郎は学校こそ休まなかったが、あまりの体調の悪さに放課後の部活動は休まざるをえなかった。
 四郎は剣道部に所属していた。
 彼が根本的に努力家であることと、"狼牙"に身体を貸している経緯もあり、実力が向上し始めていた。
 剣道が楽しくなり始めていた矢先に、自分の不覚とはいえ、部活を休まざるをえないのは少々口惜しい。
「(四郎よ、自業自得ぞ。煽られた程度であのような飲み方をするからだ。我が今度、酒の嗜み方を教授してやろう)」
「いや、当分は遠慮させてもらうよ」
 げっそりとした表情で四郎が力なく"狼牙"に応える。
 "狼牙"は放っておくと暴走しかねないので、竹刀に見せ掛けて持ち歩いているのだ。
「(しかし、今宵もあの場所へ行くつもりだろう?)」
「……よくわかったな」
「(付き合いも長いのでな。我としてはあの女とはあまり関わりたくはないのだが)」
「悪い人じゃないよ」
「(そういう意味ではない。あの女は退魔師、しかも相当の熟練者ぞ。今は我を見逃しているようだが、万が一気が変わられると厄介なのでな)」
「そんなにすごい人には見えないけど?」
「(四郎、向き合っただけで相手の実力がわからぬようでは無駄に命を落とすことになるぞ)」
「そう言われてもなぁ」
 今の時代、今の日本で、普通に暮らしていればそうそう命の危険に晒されることはない。
 "狼牙"の目的に付き合っているからこそ、戦いの場に赴いているようなものだ。
 だから、もし、"狼牙"の仇が恐るべき実力の持ち主であったとしても、その場に出くわした時、四郎としては実力を見抜けようと見抜けまいとどうすることもできない。
 仇以外とは戦う気はなく、仇とは戦うしかないのだから、無駄死にも何もない。
「自分が強くなるしかないか」
「(殊勝な心がけよ)」
 四郎は大通りから細い路地に入った。
 この先に例の高級バーがある。
 寂れているとまでいかないが、人通りはまったくといっていいほどない。
 そのような場所で、高級バーが繁盛を続けているのは、扱う商品である情報の質が高いからだろう。
「(四郎)」
 "狼牙"の思念が四郎の思考を遮った。
「どうし……」
 問いかけようとした四郎の口が自然と止まる。
 負の風。
 そう表現すべき、大気の揺らめきを肌に感じたからだ。
 背筋が凍る悪寒。
 四郎の目がその原因を捉える。
 女が一人、歩いてくる。
 ――鈴音さん?
 いや、鈴音ではない。
 だが、似ている。
 雰囲気はまるで違うが、その容貌には昨夜出会った美女の面影があった。
 四郎の視線に気づいたのか、女の両目が四郎を向く。
 真紅の双眸。
 濁りを宿した禍々しい瞳。
 四郎は足が竦むのを抑えることができなかった。
 蛇に睨まれた蛙とは今の自分の状況のことをいうのだろう。
 女が足を止めた。
 鍔鳴りがした。
 女は腰に黒金の鞘を帯びていた。
 服装も黒を基調とした千早に似た羽織に、白衣、黒袴と時代がかっている。
 "狼牙"という妖刀を所持している四郎も他人のことは言えないが、堂々と日本刀を腰に差している目の前の女は物騒というしかない。
「あの……何か……?」
 我ながら間抜けな問いだと思いながらも、四郎は女に声をかけずにいられなかった。
「……」
 女は答えない。
 その禍々しい眼差しが、"狼牙"に向けられる。
「(……)」
「魔か」
「!」
 "狼牙"の存在を見抜かれ、四郎の顔に緊張が走る。
 しかし、女はすぐに四郎と"狼牙"から視線を反らした。
 途端、四郎の背筋に悪寒が駆け抜けた。
 路地の光景が一瞬、陽炎のように揺らめく。
 そして、圧迫感が到来する。
 目の前の女の発する威圧感には比べるべくもないが、それでも四郎は鳥肌が立つのを抑え切れなかった。
「なっ!」
 四郎の顔に驚愕が浮かぶ。
 気がつくといつの間にか、四郎と女の周りを囲むように何人もの男たちが姿を現していた。
 ――なんなんだ!?
 恐慌状態に陥りそうになる自分を叱咤し、男たちを睨みつける。
 男たちは皆、神父のような格好をしていた。
 ただし、各々の手には剣が握られている。
 男たちの一人が剣を構えながら一歩前に出て口を開いた。
「我らは『カマエル』。神の力の象徴にして、神に背くものを狩るものなり」
 他の男たちも剣を構えつつ、包囲網を縮め始める。
「"凍てつく炎"、闇の娘よ。神の意に逆らい、正邪を超えて唯ひたすら力を追い求め、神を屠らんするおまえを見過ごすことはできぬ」
 ――"凍てつく炎"だって!?
 四郎の両目が驚愕に大きく見開かれる。
 昨夜、鈴音から聞いた、彼女の『姉の仇』の女。
 すべてを憎み、闇のその名を轟かせる、死神。
 目の前にいる女が、その"凍てつく炎"だというのか。
「神の正義に逆らいしものよ、神の与えし滅びを享受せよ」
「立ちはだかるものはすべて斬る。それだけのこと」
 "凍てつく炎"は構えない。
 ただその凄絶な美貌で男たちを威圧する。
 周りの男たちはどうやら、彼らの正義に背く"凍てつく炎"を粛清するつもりのようだ。
 彼女が鈴音の語ったような女ならば、正義を掲げるものたちと敵対していてもおかしくはない。
「少年よ」
 "凍てつく炎"が視線は男たちに向けたまま、横顔で四郎に言う。
「自力で切り抜けるのだな」
「えっ?」
「"神の剣"は、その妖刀の存在を許すまい」
「それは……」
 まさか。
 妖刀を握る手に力がこもる。
「"狼牙"のこと?」
 狼牙は確かに暴走して人を傷つけたこともある。
 だが、四郎は知っている。
 主であった剣豪の恨みを晴らすべく、奔走しているだけなのだ。
 根っからの悪ではないのだ。
 純粋で、不器用なだけなのだ。
 存在そのものを否定されるべきものではない。
 だが、男たちは妖刀を邪悪だと肯定するように首を縦に振った。
「その通りだ、小僧」
 一人の男が憎悪の目を四郎に向ける。
「我らはいかなる魔も許さぬ。刀に憑きし邪悪よ。"凍てつく炎"ともども煉獄に滅せよ」
「……」
 男の言葉を受けて、四郎は"狼牙"を抜いた。
 自らの意思で、この妖刀を抜くのは、もしかしたら初めてかもしれない。
 四郎はその優しい性格から、傷つけられる痛みを知っている。
 だから、相手を傷つけるのは、怖い。
 刀を抜きたくなどない。
 しかし、この窮地を切り抜けるには、戦うしかない。
 そして、相手を傷つけるためらいよりも怒りが勝っていた。
 目の前の男たちは正義を振り翳し、"狼牙"を傷つけようとしている。
 ゆっくりと息を吐く。
「"狼牙"は僕の友だ」
「(……四郎)」
「少年よ、言葉ではなく態で顕すのだな」
 隣の女が囁くように言った。
 その声からは憎悪しか感じられない。
「力なくば何も護れず朽ちるのみ」
 "凍てつく炎"は滑るような足運びで、正面の男の懐に入り込むと手首を掴んで投げ捨てた。
 地面に頭から落ちた男は血の混じった泡を口から流し、そのまま動かなくなる。
 その両隣にいた男二人が同時に剣を振るうが、すでに"凍てつく炎"はその場にいない。
 空を切る剣が振り切られるよりも早く、"凍てつく炎"はその二人を絶命させていた。
 一人は背骨に肘を叩き込まれて脊髄を粉砕され、もう一人は腹に発頸を打ち込まれて内臓を破砕されて地面に崩れ落ちる。
「バカな、ヴァチカンの『退魔師団』に匹敵する我らが小娘一人に!?」
「あ、悪魔か!?」
 一瞬三人の仲間を失い、男たちに動揺が走る。
「悪魔狩りに来たのだろう?」
 "凍てつく炎"の赤い双眸が輝きを増す。
「おのれッ!」
 死神の挑発めいた言葉に怒号を上げ、さらに三人の男が同時に"凍てつく炎"に襲いかかる。
 "凍てつく炎"は表情一つ変えずにそれらを迎える。
 一人の男の剣の腹を恐れる風もなく手のひらで簡単に弾き、もう一人の男の剣を潜り抜けて首を手で締め上げ、残った一人に持ち上げた男を投げつけた。
 "凍てつく炎"の動きは止まらない。
 剣を弾かれて体勢の崩れた男の胸を霊気を宿した双掌で破壊し、息絶えさせる。
 次いで、絡み合って地面でもがいている男二人のそれぞれの首と腹を踏み砕き、地面を赤く染め上げた。
「強い」
 いや、恐ろしい。
 四郎は自分も剣を振りながら、肩を並べて戦う"凍てつく炎"に恐怖していた。
 男たちを鎧袖一触にする悪魔的強さ。
 そして、その戦いの中で崩れない美貌。
 恐ろしかった。
 男たちが弱いわけではない。
 『カマエル』の男たちはその道のプロだ。
 彼らの剣技は、何人もの人間の命を奪ってきた剣技だ。
 実際に四郎は目の前の男に苦戦を強いられていた。
 剣道部で習った技のほとんどが、通じない。
 逆に男は正規の剣術と、実戦で培った野蛮さを織り交ぜた剣技で、四郎を追い詰めてくる。
 男には正義の名の下に屠ってきた数多の敵の血の匂いが染み付いている。
「そのような児戯で神の剣を止めることはできぬぞ」
「くそっ!」
「(四郎、代われ。我ならば倒せよう)」
 確かに"狼牙"と心を入れ替えれば、互角以上には戦えるだろう。
 だが、四郎は思うのだ。
「"狼牙"。まだ頼るわけにはいかないよ」
「(なぜだ、四郎)」
「さっきも言ったろ。僕らは友だ」
「(……)」
「だから対等な立場でいたい。僕はキミの力になれる。それを見せなくてはならないッ!」
 四郎はそう言い切り、刀を構え直した。
 すでに身体の数箇所を剣が掠め、裂けた学生服から血が染み出している。
 身体中が痛い。
 それでも、彼の眼力に宿った力は衰えていない。
「はああああああッ!」
 叫んだ。
 叫び、それを力とし、渾身の一撃を振り下ろす。
 四郎と斬り結んでいる男が、少年の気迫を受けて後ろに一歩下がる。
 ――断ッ!
 空気の裂ける音が響いた。
 血が飛沫く。
「貴様ッ!」
 一撃を避けたはずの男の肩から胸にかけて真っ赤な血が噴き出している。
 衝撃が大気を断ち、真空の刃が男の肉を斬っていた。
 だが、致命傷ではない。
 いや、四郎の攻撃自体が渾身であったものの、殺意の込められていない一撃だった。
 心優しい少年は追い詰められて尚、意を決して尚、本気の殺意を抱けないでいた。
 傷つけられた怒りに燃える男が、妖刀を振り下ろした勢いで体勢を崩している四郎の腹を蹴りつける。
「ぐはっ!?」
 鍛えられた男の蹴りが、四郎の腹筋を断絶し、体内で内臓を跳ね上がらせる。
 吐き気を何とか押さえ込み、顔を上げる。
 男が容赦なく突きを繰り出して来るのが見えた。
 四郎はとっさに身を捻って剣を避け、妖刀の平で男の顔面を殴りつけた。
「うぐおぅっ……」
 男は白目を剥いて仰向けに地面に倒れた。
「よしっ」
 戦っていた相手をようやく戦闘不能に陥らせ、四郎が大きく息を吐く。
「(四郎!)」
 緊張が緩んだ宿主に"狼牙"が警告を発する。
 一対一の戦いではないのだ。
 四郎は背後を振り返った。
 そして、硬直した。
 凶悪な顔をした大男が大剣を振り上げている。
「油断したな、素人めがッ!」
 大男の剣が振り翳される。
 四郎は呪縛されたように動けない。
 "狼牙"も意識の切り替えが間に合わない。
「テメーがな」
 ふと、そんな声がした。
 同時に閃光が走った。
 四郎に痛みは来ない。
 大男の手から大剣が落ちた。
 そして、大男も口から泡を吹きながらゆっくりと崩れ落ちる。
「大丈夫か」
 長い黒髪が血風になびいている。
 チャイナドレスを着た美女が四郎の目の前に立っていた。
 鋭いスリットからのぞく素足が艶かしい。
「鈴音さん!」
「まさか刀身以上の遠間を斬るたぁ、すげぇ剣技だ。見直したぜ、坊や。もっともその後は目も当てられないがな」
 鈴音は、にやりと笑いながら四郎の健闘を讃えるように肩をポンッと叩いた。
 と、どさりと音が鳴った。
 "凍てつく炎"が刺客の最後の一人を絶命させたところだった。
 この場に襲撃してきた『カマエル』で息のあるものは、四郎に気絶させられた一人と、鈴音の一撃に沈んだ大男だけだ。
 他のすべては、死神により命を刈り取られていた。
 その死神に視線を向けた鈴音の顔に複雑な色が宿る。
「霧刃ッ!」
「鈴音か」
 異名の"凍てつく炎"ではなく、真名を呼ばれ、死神がゆっくりと振り向く。
「何をしに来た」
「もちろん、おまえを止めにだ。この場に来たのは偶然だがよ」
「無駄なこと」
「これ以上、天武夢幻流を汚させねぇ」
 鈴音は両手に霊気を凝縮させ、青白い光を放つ霊気でできた刀を作り出した。
 その刀を正眼に構える。
「四郎、退きな」
「えっ?」
「あの女は、あたしが昨日語ってやった"凍てつく炎"だ。関わり合いになるな。死ぬぜ」
「戦う気ですか? 鈴音さん。あの人の強さは異常ですよ」
「百も承知さ」
 四郎に鈴音は振り返りもせずに応えた。
「でも、いくら仇討ちといっても……」
「(四郎)」
「"狼牙"?」
「(この戦いは仇討ちではないようだ)」
「えっ?」
 "狼牙"の言葉に四郎は首を傾げた。
 鈴音は確かに"凍てつく炎"を姉の仇だと言ったではないか。
 それは"狼牙"も聞いていたはずだ。
「(気づかぬか。織田鈴音と"凍てつく炎"、気の波動が似ている。それに顔立ちもな。織田鈴音は昨夜"凍てつく炎"は『姉の仇』だといったが、今対峙して、『仇を取る』ではなく、『おまえを止める』と言った)」
「それって、どういう……まさか……!」
「(我が思うに、"凍てつく炎"は織田鈴音の実の姉ではないか)」
「でも、お姉さんが『お姉さんの仇』っていうのは?」
「(姉が闇に落ちたゆえ、姉自身が『鈴音の姉』を奪った表現し、『姉の仇』と言ったのではあるまいか)」
「でも、それじゃあ、実の姉妹同士で戦うってことじゃないか」
 四郎の表情が曇る。
「(だが、止められまい)」
「……」
「(織田鈴音の顔を見たか。昨夜とはまるで違う。命がけの決意の顔だ)」
 命がけの一対一の決闘に手を出せるか。
 出せない。
 出せようもない。
 鈴音とは昨晩知り合ったばかり出し、"凍てつく炎"に至っては二言三言を交わしたに過ぎない。
 偶然、この場に居合わせたに過ぎない。
 四郎にできることは、戦いの行方を見守ることだけだった。

 織田鈴音が霊気を解放する。
 研ぎ澄まれた刃のような鋭い霊気。
 大気が震えた。
 風が唸り、大地が慄く。
 織田霧刃は眉一つ動かさない。
 だが、その憎悪は鈴音の霊気を四散させ、逆に"死"を突きつける。
 凍てつく殺気が、灼熱の悪寒を撒き散らす。
 見守る四郎は"凍てつく炎"の意味を知った。
 恐ろしいほどの圧迫感を与えてくる。
 離れているのに心臓を鷲掴みにされたように息苦しい。
「鈴音さんは勝てるだろうか」
「(勝てぬ)」
 四郎の呟きに、"狼牙"が無情に応えた。
「ど、どうして?」
「(実力の次元が違う。織田鈴音の霊気もバケモノじみているが、"凍てつく炎"の霊気は死そのものだ)」
「……鈴音さん」
 四郎が唇を噛み締める。
 先に動いたのは鈴音だった。
 踏み込みながら霊気で形成した刀を斬り下げる。
 霧刃は難なくその一撃を上半身を反らすだけでかわした。
 腰に帯びた黒金の鞘に納まった刀を抜こうともしない。
「ちっ!」
 鈴音は舌打ちして第二撃を放った。
 一撃目も、この二撃目も、並みの剣士では受けることもできぬ神速の攻撃。
 だが、霧刃には当たらない。
 紙一重で避けられる。
 鈴音は素人ではない。
 さらに技巧を凝らした連続で斬りつける。
 だが、そのどれもが当たらない。
 霧刃の神速が技術さえも上回り、磨り潰していた。
 焦ったのか、鈴音の霊気刀が大振りの軌道を描く。
 次の瞬間には、鈴音の喉に霧刃の肘が打ち込まれていた。
「がっ!?」
 喉を潰されて、血を吐き出す鈴音。
 返り血が姉の頬を染める。
 霧刃は血を拭おうともせずに、追撃に右足で鈴音の左足を払った。
 鈴音の身体が宙に浮く。
 そして、無防備になった腹に拳を落とした。
「うぐぅっ!?」
 メリッと嫌な音を立てて霧刃の拳が鈴音の腹に深々と埋まる。
 同時に鈴音の背が霧刃の立てた左膝の上に落下する。
 背骨が軋む。
「はぐっ!」
 腹と背を粉砕された鈴音は身体を強張らせ、その唇から血が割って出た。
 そのまま重力に従って地面に転がり落ちた鈴音は仰向けに倒れた。
 気力を振り絞ってすぐに起き上がろうとしたが、霧刃が容赦なく鈴音の腹を踏み潰す。
「がほっ!?」
 腹筋を抉られるように踏みにじられ、鈴音が血を吐き出す。
 妹の吐血で袴の裾に濃い染みが広がるが、姉による蹂躙は終わらない。
 蹴りつけ、踏みにじり、容赦なく痛めつける。
 側頭部を思い切り蹴られて、鈴音が血の後を地面に残しながら転がった。
「うぐっ……」
「そのまま転がっていろ」
 霧刃の双眸が細くなり、無様な妹の姿を鋭く睨みつける。
「ぐっ、くっ……き、霧刃……ごほっ!」
 立ち上がろうとした鈴音が再び血を吐き、がくりと膝を着く。
 それでも、霊気刀を地面に突き立て、それを杖代わりに立ち上がる。
 足もとがおぼつかない。
 意識も明滅しかけている。
 だが、闘気だけは衰えていない。
 霧刃の真紅の双眸が、妹を見下す。
「退かぬか」
「退けねぇな」
 吐き捨てるように言う鈴音。
 彼女にはすでに立っているのもやっとの状態だ。
 退けないのは、意地でしかない。
「霧刃、あたしはおまえを止める。命を懸けてもな」
「……」
 霧刃の右手が黒金の鞘に伸ばされる。
 納められている柄を握り、日本刀を抜き放った。
 青白く輝く刀身が姿を現すと同時に、大気が震えた。
「やっと抜いたな。織田家の伝家の宝刀・細雪」
「……終わりだということだ」
 死神の死の宣告。

 荒い呼吸を整えるように、鈴音が大きく息を吐いた。
 そして、ふらつく足を踏ん張り、霊気で形成した刀を構え直す。
 刀の軌跡を青白い炎が揺らめく。
 腰を沈め、両脚にバネを溜める。
 対する霧刃は構えを取らない無形の位。
 その無防備とも見える姿は隙だらけのように見えたが、台風のような威圧感が飛び込みを鈴音に躊躇させている。
 風が吹いた。
 鈴音の長い髪がなびく。
 前髪が吹き上がる。
 瞬間、両目に力が込められた。
「オオオオオオオオオオオオオッ!!」
 魂の雄たけび。
 四郎が目を見張る。
 彼の視界から鈴音の姿が消えた。
「(なんという神速)」
 "狼牙"の感嘆の声が四郎の脳に響き渡った。
 そう思った瞬間には、霧刃の目の前に鈴音が姿を現していた。
 鈴音の霊気刀を霧刃の日本刀が受け止めていた。
 一瞬遅れて、衝撃が辺りを揺るがせ、霧刃の足元の地面が陥没した。
 鈴音の剣気で霧刃の黒髪が後ろに流れ、背後のアスファルトに亀裂が走り、コンクリートの壁を破壊する。
 同時に霧刃の左肩から血が吹き上がった。
 左頬にも赤い筋が走り、凄絶な美貌がわずかに壊れる。
 霧刃の顔には苦痛の感情は無いが、双眸だけは血のような赤い色に禍々しく輝いている。
「遅いな」
 呟くように言う霧刃。
 そして、日本刀で薙ぎ払う。
 鈴音は霊気刀で受け流そうとしたが、すでに限界の来ている身体では無理があったのだろう。
 体勢が崩れる。
 鈴音が呻く。
 今度は霧刃の姿が、四郎の視界から消えた。
「(!?)」
 "狼牙"も言葉は無い。
 彼の認識からも完全に、"凍てつく炎"は消えていた。
 そして、気づいた時には、鈴音の背後に霧刃が背を向けて立っていた。
「退け」
 霧刃が振り向かぬまま、鈴音に言う。
「……両腕に両脚、それに腹か。この程度じゃ、まだ倒れられないな」
「相も変わらず、口だけは達者だな」
 霧刃が日本刀を鞘に仕舞い、両目を閉じる。
 鈴音が唇の端を吊り上げた。
 そして、口から真っ赤な血を吐き出した。
「ごふっ……!!」
「鈴音さん!?」
 四郎の悲鳴と同時に鈴音の全身が朱に染まる。
 両肩の付け根と、その美しい太股、そして、腹部から血が溢れ出し、チャイナドレスを濡らしていた。
 すべて、今の一瞬で斬られていた。
 四郎はもちろん、"狼牙"でさえ、霧刃の動きどころか、剣閃すら見えなかった。
 いや、斬られた鈴音でさえ見えていない。
 斬られた後に、痛みで斬られた場所がわかったに過ぎなかった。
 腹の傷は浅いが、両腕も両脚も腱を断たれていた。
 もはや、鈴音は気力で棒立ちになっているだけでしかない。
「霧刃、とどめはどうした?」
 強がりでしかない言葉が鈴音の口から出る。
「とどめ?」
 霧刃の眉がピクリと動いた。
 その額に青筋が浮かぶ。
 瞳孔が収縮する。
 噛み合わされた歯が不快な音を立てる。
 病的な白い顔のまま、その表情だけが激怒に染まっていた。
 そして、肉の潰れる音が周囲に鳴り響く。
「がはぁっ!?」
 霧刃は動くことさえできない妹の背に拳を叩き込んでいた。
 鈴音の豊かな胸が背に打ち込まれた衝撃で激しく揺れる。
「とどめ? とどめ? とどめだとぉ?」
 霧刃は瞬時に鈴音の背後から正面に移動していた。
 そして、鈴音の左胸を鷲掴みする。
 苦痛に鈴音の顔が歪む。
「うぐっ!?」
「倒れぬ。戦える。とどめを刺せ?」
 霧刃が力を込めて、鈴音の左胸を握り潰す。
「はぐぁっ!?」
「弱さを、弱さを思い知れッ!」
 霧刃が激情に身を任せて、鈴音の全身をところかまわずに殴り始める。
 顔を、胸を、腹を、背を。
 両肩が骨も肉も握り潰され、腹に何度も打ち込まれた拳によって内臓に深刻な打撃が刻まれる。
 はっとするような美貌も血と痣で彩られ、その美脚も打撲と裂傷で覆われていく。
 霧刃の怒号と乱れた呼吸、鈴音の肉を打つ無数の打撃音と苦痛に喘ぐ吐息が、姉が妹を蹂躙する凄惨な場面を演出している。
「思い知れッ! その身に刻めッ! 二度と戦えぬようにしてやるッ! おまえは戦う価値などないのだッ!」
 腰の黒金の鞘に戻した日本刀こそ再び抜く気配は無かったものの、その一方的な暴力は容易に鈴音を瀕死に追い込んでいた。
 打撃に踊らされる鈴音の意識はすでにない。
 それでも止まぬ暴虐の舞踏。
 一撃一撃は洗練された武でもなんでもない。
 精神の制御も統制もない。
 武の心など微塵もない。
 怒りに任せた、無秩序の、暴。
 相手の呼吸を無視し、和合することなき、暴。
 武道家の説く拳を振るう資格も、剣士の誇りである剣を持つ資格も、心技体も何もない、暴。
 宗像四郎は歯軋りをして一歩踏み出していた。
 "狼牙"を握る手に力が込められている。
「(四郎?)」
「鈴音さんを助ける」
「(!?)」
「もう、すでにあれは勝負じゃない」
「(し、しかし……)」
「"狼牙"だってわかるだろう。鈴音さんは剣士だ。でも、"凍てつく炎"は剣士でもなんでもない。あれはただの処刑じゃないかッ!」
 自分を磨くために剣を振るう。
 何かを護るために力を振るう。
 それが、力あるもの、力を得ようとするものの責任だ。
 織田霧刃には、それがない。
 今のその凄まじいほどの力は、ただ実の妹を痛めつけるだけに振るわれている。
 四郎はただの高校生だ。
 鈴音と深い知り合いではない。
 だが、だからといって、この暴虐を見過ごすことができようか。
 逃げるのは容易だ。
 立ち向かうことは困難だ。
 しかし、四郎は逃げるつもりはない。
「今ここで鈴音さんを助けなきゃ、男じゃない!」
「(だが、四郎よ。おまえが出て行ったところで、竜車に立ち向かう蟷螂の斧のようなものだぞ)」
「敵わないかもしれない。でも、それでも逃げるわけにはいかない」
 未熟?
 だから、どうしたッ!
 傷ついた者を見捨てて逃げることなどできない。
 できるわけがない。
 誇りではない。
 義務感でもない。
 彼を突き動かすのは別の衝動。
 もっとも脆い刃にしてもっとも鋭い刃。
 ――やさしさ。
 四郎の前で鈴音が崩れ落ちた。
 霧刃が容赦なく、鈴音の乳房を踏み潰す。
 鈴音の胸に足を乗せたまま、霧刃の禍々しい眼差しが四郎を捉える。
 宗像四郎は、妖刀を構えていた。
「私の前に立つか、少年」
「宗像四郎だ」
 名乗る必要はない。
 だが、四郎は退かぬ覚悟を押し出すために、あえて名乗った。
 脚が震えている。
 武者震いではない。
 恐怖。
 だが、退かない。
 四郎は唇の端を吊り上げた。
 乾いた笑い。
「鈴音を助ける気か?」
「そうだ」
「そのために命を懸けるのか?」
「そうだ」
「命を懸けてもどうにもならぬこともある」
「知ってる」
「それでも立つか」
「そうだ」
「……いいだろう」
 霧刃が黒金の鞘に手をかけた。
「(抜くか!?)」
 そう考えた時には、霧刃の姿が消えていた。
 四郎には見えない。
 "狼牙"にも見えない。
 残像すら見えない。
「!」
 衝撃。
 咄嗟に水平に構えた"狼牙"が霧刃の斬撃を防いでいた。
 激しい憎悪、正直すぎる殺気、それが四郎に咄嗟の防御行動を許していた。
 殺気がなければ、真っ二つにされていた。
 殺気がなければ、殺されていた。
 まるで笑えない冗談だ。
 続く第二撃も何とか防いだはずだったが、肩から血が噴き出す。
「(殺気で斬られたか。まさに死神よ)」
 ――ならば、こっちだってッ!
「絶風剣ッ!」
 気合の一撃を振り上げる。
 衝撃波が渦巻き、霧刃を襲う。
 しかし、霧刃がこともなげに日本刀を振るうと、衝撃波はいとも容易く四散した。
「なっ!?」
 驚きの声を上げる四郎に霧刃が刀を片手に持ち直し、空いた左手を向ける。
 霊気でできた球体が、恐るべき速さで四郎に襲い掛かる。
「うわあぁっ!?」
 "狼牙"で受けたものの、威力を殺すこともできずに霊気に身を焼かれる。
 呻く四郎が必死に顔を上げると、すでに霧刃が目前に迫っていた。
 回し蹴りが四郎の顔面を打ち抜き、眼鏡が吹き飛ばされる。
 さらに蹴りが四郎の腹を穿つ。
 熱い液体が腹の底から喉を駆け上がってくる。
 血を吐くが、よろめいている暇も、咳き込んでいる暇もない。
 霧刃が舞う。
 巻き込むような無数の斬撃が四郎の身体を切り刻む。
 血煙が舞う。
 出血量はかなりのものだが、傷は思ったよりも浅いようだ。
 だが、無数の傷の激痛が全身の襲う。
 抗おうとするが、受けたことのない激しい痛みは、四郎の意識を明滅させるのは十分だった。
「……鈴……音……さん……」
 四郎の意識は闇に沈んだ。

 霧刃は四郎が地面に倒れたのを見下して、刀に付着している血を振り払った。
「他愛ない」
「まだ終わらぬぞ」
 意識を失ったはずの四郎がむくりと起き上がる。
 激しく転倒したせいなのか前髪が下りて、少年の表情は窺い知れない。
 霧刃が四郎の顔にではなく、刀に目をやる。
「……憑神か」
「我は"狼牙"。宗像四郎の……」
 少年の全身から殺気が放たれる。
 その威圧感は今までの少年のそれとは比べ物にならない。
 俯いていた少年が顔を上げる。
 霧刃と同じく、殺気に染まった真紅の目がそこにあった。
「朋友なりッ!」
 "狼牙"と人格が入れ替わった少年が駆ける。
 まるで、四郎であった時とは俊敏さがまるで違う。
「ふうう……」
 身を低くして突進し、霧刃に肉薄する。
「はああっ!」
 気合とともに鋭く踏み込み、横一文字に刀を一閃させる。
 神速の居合い。
 だが、刀が通った後に霧刃の姿はなかった。
 すでに背後。
 "狼牙"も刀を後ろに回し、背後からの一撃を受け止める。
 霧刃が追撃を放つが、"狼牙"は空中に飛んでそれを避ける。
「不用意に跳ぶか」
「不用意などではないぞ」
 "狼牙"が刀を担ぐように片手に持ち替え、口元に左手の指先をかざし、ふっと息を吐く。
 霊魂のようなものが生まれ、霧刃に向かって飛んでいく。
 霧刃は刀を振るって四散させるが、その間に第二撃目の霊魂が霧刃の正面に生まれていた。
「直撃は避けられまい!」
 "狼牙"が着地しながら叫ぶ。
 だが、驚くべきことに霧刃は、気合いだけで霊魂を蹴散らした。
「腐っても退魔師か」
「……」
「憑神よ」
 霧刃が"狼牙"を視線で刺しながら、日本刀の柄を握り直す。
 ジュウッと何かが焦げるような音が微かに響き、煙が立ち上る。
 "狼牙"が不審な顔をするが、女は意に介さない。
「おまえに問う。おまえの目的は何だ」
「我が主の仇討ち」
 "狼牙"は自分でも驚くべきことに、女の質問に素直に応えてしまっていた。
「そうか。だが、その身体は少年のもの。おまえの仇は少年の仇ではあるまい」
「……」
 "狼牙"は呻いた。
 四郎と出会った当初は、四郎の身体を乗っ取って仇を闇雲に探し、疑わしいものを次々と傷つけていた。
 彼にとって、主の仇討ちは何百年を掛けた悲願だからだ。
 だが、四郎の意識と邂逅し、四郎の人格を認識し、四郎と会話するようになってから、"狼牙"は自分の何かが変わったのを感じていた。
 四郎を朋友だと思うようになっていた。
 主の仇は取りたい。
 だが、"狼牙"には身体がない。
 身体は友のものだ。
 仇を討つということは、"狼牙"の意識が刀を振るうのであるとしても、友の肉体が刀を振るわねばならないということなのだ。
「私を斬るのもまた同じ」
「……」
「少年の意識が眠っている今、私を斬ったとしてもそれは少年の意思ではない」
 "狼牙"は肩を震わせた。
 ――四郎よ、許せ。
「それでも我は刀を振るう」
「……」
「それしか知らぬゆえ!」
 "狼牙"の妖気が膨れ上がる。
「見るがよいわ。口惜しいが手加減さえもできぬ身よ!」
 "狼牙"が刀を大きく振り上げる。
 同時に、四郎の放った絶風剣の数倍の瘴気の塊が生み出される。
 霧刃は無表情だった。
 迫り来る巨大な瘴気の渦。
 日本刀を胸の前に翳す。
「斬るつもりか」
 "狼牙"にとってはこの『瘴気斬』が先程のように掻き消されることも予想の範囲内だ。
 だが、刀で受けた瞬間に隙ができる。
 そこに斬り込むつもりでいた。
 しかし、霧刃は瘴気の風を四散させるために刀を翳したのではなかった。
 巨大な瘴気の渦が日本刀に直撃する。
 そして、巻き取られる。
「何ッ!?」
 瘴気の渦が"狼牙"に向かって返される。
 突進するつもりでいた"狼牙"に避ける余裕はない。
 自らの渾身の一撃をその身に浴びる。
 さらに悪いことに全身に刻まれた刀傷を瘴気が蝕む。
「がああああああっ……!」
 "狼牙"の膝が崩れた。
 地面に前のめりに倒れる。
 少年の身体から妖気が薄れていく。
「この程度か」
 霧刃は興味を無くしたように少年に背を向け、血を払った神刀・細雪を黒金の鞘に納める。
 ふと血まみれで倒れている鈴音が目に入る。
 微かに豊かな稜線を描く胸が上下しているのが見えた。
 虫の息とはいえ生きているようだ。
「……まだ四肢を砕いていなかった」
 二度と立てぬように。
 二度と戦えぬように。
 二度と目の前に現れぬように。
「……待て」
 背からの声に、霧刃の瞳孔が収縮する。
 振り返らずとも少年が立ったことを理解し、そして、細い息を吐いた。
 妖気は感じられない。
 宗像四郎の人格だ。
「少年よ、なぜ立つ」
 振り返らずに霧刃が問いかける。
「鈴音さんを助けるんだ」
「……では、少年よ、なぜその刀のために戦う」
「"狼牙"の仇討ちのこと?」
「人を斬れば奈落に落ちる。仇を討てても、討てなくても修羅となる」
 四郎は目を見張った。
 霧刃の言葉は昨夜聞いた鈴音の言葉とまったく同じだった。
 四郎は霧刃の心に闇を見た。
 そして、彼女の背から感じられるのが憎悪だけでなく、悲哀があることに初めて気づいた。
「修羅になる覚悟があるのか?」
「仇討ちなんて最初は怖かった。だけど、"狼牙"の事情を知った。今は仇を探し出したい。仇を目の前にしたとして何ができるかわからない。でも、何もしないでいるのは嫌なんだ」
「……」
「そして、今も同じさ。鈴音さんを助けたい。何もしないで見捨てるなんてできないッ!」
 四郎の決意の叫びに、霧刃がゆっくりと振り返った。
 その目は相変わらず殺意で満たされている。
 蒼白な美貌に四郎が妖刀を向ける。
「たとえ、この手であなたを斬らねばならないとしてもッ!」
 駆ける。
 "狼牙"とは比べ物にならない稚拙な動作だが、強い意志で立ち向かう四郎の姿は鬼気迫るものがあった。
 知る限りの技を繰り出し、知る限りの術で攻め立てる。
 しかし、霧刃は彼の放つすべての攻撃を紙一重でかわしていく。
 鞘に納められた細雪には手さえ触れない。
「僕からも問わせてもらう」
 息を切らしながら霧刃に問い返す四郎。
 死神からの反撃は来ないが、攻撃の手は休めない。
「あなたこそなぜ戦う?」
「……」
「なぜ刀を振るう?」
「……」
「なぜ力を求める?」
「……」
「答えろッ!」
 霧刃の黒髪が数本宙に舞った。
 掠っただけだ。
 だが、すべて避けられていた四郎の攻撃が初めて死神を掠った。
 霧刃の禍々しい目が四郎を睨みつける。
「……すべてを斬るため」
 霧刃の口から出たのは抽象的な答えだったが、四郎は息を呑まざるを得なかった。

「不遜だな、"凍てつく炎"よ」
 応えたのは四郎ではなかった。
 "狼牙"でもない。
 開きかけた口を閉じて、四郎が声のした方向へ振り向く。
 "凍てつく炎"も少年の攻撃が止んだと同時に動きを止めた。
 金色の髪の壮年の男がいつの間にか現れている。
 堂々とした体躯、太い首、威厳を漂わせた顔。
 その服装に四郎は見覚えがあった。
「『カマエル』!?」
「いかにも。私は、『カマエル』の長だ」
 重厚な声で男が答える。
「"凍てつく炎"、そして、妖刀を持つ少年よ。裁きの時が来たのだ」
 男が厳かな態度で、両手を前に突き出す。
 そこには、無数の人間の頭がぶら下げられていた。
 首の切断面から生々しい血が滴っている。
 四郎はそのいくつかの頭にも見覚えがあった。
「そ、それは……?」
「我が部下たちの首。今しがた撥ねてきたところだ」
 何事でもないように『カマエル』の長が応える。
「生きている者もいたはず!」
「神の正義のためだ。"凍てつく炎"は不遜、だが、その力を認めぬわけにもいかぬ。その強大な魔の力を打ち破るために部下たちは神への生贄となったのだ」
「なんて、ことを……部下を……仲間を……それのどこが神の正義なんだ」
「神は勝利を求められている。そのためならば犠牲などやむを得ぬのだよ」
「狂ってる!」
「私は狂ってなどおらんよ。なぜならば、狂っているのは貴様らの方だからだ。神に背き、神の認めぬ邪悪とつるむ。許しがたいことだ」
 『カマエル』の長が部下たちの血に染まった袖もそのままに、狂気に犯された顔で哄笑した。
「見よ、我が同胞の穢れなき血。神の力。私は真の『カマエル』となり、"神の剣"は貴様らを打ち砕くであろう!」
 その狂った笑い声に呼応するように、部下たちの頭部が粉々に砕けた。
 飛び散った血肉から、真っ赤な霊気が立ち上る。
 それは蛇のように長に巻きついた。
 長の純白の神父服が真っ赤に染まる。
 金髪が炎のように揺らめき、その背を割って真紅の巨大な翼が出現した。
 長は哄笑し続けていた。
 体中の筋肉が盛り上がり、鋼鉄の巨人を思わせる異形へとその姿が変貌する。
 その巨躯、四郎の三倍はあろうか。
 そして、その有翼の巨人の前の地面に赤い稲妻が突き刺さった。
 それは巨人の背丈と同じほどの長さを誇る巨大な真紅の剣であった。
 巨人はそれを軽々と引き抜いた。
 そして、羽ばたいた。
「我は大天使カマエル。神の正義を代行する"神の剣"なり」

「ごほっ……」
 四郎が粘りつくような咳の音を聞いたのは、カマエルの変貌が完成する直前だった。
 霧刃が激しく咳き込んでいる。
「ごほっ……ごほっ……」
 咳を抑え込むように口元に当てた手の指の間から、真紅の液体が流れ落ちる。
 それを見た四郎の目が驚愕に見開かれる。
 霧刃は肩を大きく震わせ、膝から崩れた。
「くっ……、はっ……、はぁ……、はぁ……」
 荒い呼吸音が四郎の耳を打つ。
 霧刃のもともと蒼白だった顔色がさらに悪くなっていた。
 口元に当てていた手が、左胸に伸びている。
「ごぼっ……!」
 霧刃は血の塊を吐いた。
「どうして……!」
「……忌々しい身体だ」
 目の下の隈の濃くなった顔で霧刃が小さく呟く。
「だ、大丈夫ですか?」
「敵に大丈夫ですか、とはな」
 霧刃は口元の血を拭って、ゆっくりと立ち上がった。
 だが、明らかに霊気が弱まっていた。
 腕が小刻みに震えている。
 呼吸も荒いままだ。
「少年よ、厄介者から先に始末する」
 霧刃が四郎を横目で睨んだ後、カマエルに死の視線を突き刺す。
「……でも!」
「戦えぬならば、そこで見ていろ」
 霧刃が黒金の鞘から、神刀・細雪を抜き放つ。
 膨大な青白い霊気が刀身から溢れ出た。
 柄に力を込めるが、霧刃の眉間に苦痛の汗が浮かんでいた。
「"凍てつく炎"よ、汝の肉体が死んでいるのが見えるぞ」
 カマエルが笑った。
「死んでいるのは貴様だ」
 霧刃が腰を屈める。
 だが、バネを開放するより先に、細雪の青白い霊気が霧刃の全身をのた打ち回った。
 瞬間、稲妻に打たれたように霧刃が硬直する。
 全身から煙が立ち上った。
「くっ……、あっ……、がはっ……!」
 霧刃の口から鮮血が溢れ出る。
 神刀から荒れ狂うように溢れ出る膨大な霊気を抑えつけるように刀の柄を強く握り締めるが、霧刃の手から肉の焼ける音とともに黒煙が立ち上る。
 再び膝が折れる。
 細雪を杖代わりに地面に突き立てるが、立ち上がることができない。
「闇世界最高の退魔師たる"凍てつく炎"が発作持ちとは。そして、今発作が起こるとは」
 霧刃が真紅の双眸をより鋭くして大天使を睨みつける。
 だが、動くことができない。
「そして、自らの得物の霊気すら制御できぬほどに消耗しているようだな」
 カマエルの言葉通り、地に膝を付く霧刃の肉体を細雪から溢れ出る霊気が蝕んでいる。
 神刀から流れ出る青白い神々しい霊気が、禍々しい真紅の殺気を放つ霧刃の肉体を焼き、貫き、破裂させていく。
 その様子を見たカマエルが残酷に笑った。
「邪悪なる者よ、己の聖なる武具に焼かれるか。これすなわち神の御意思が汝の消滅を望んでいる証拠」
 カマエルが巨大な剣を天に掲げる。
 轟音とともに赤い稲妻が刀身に落ちた。
 大気が荒れ狂う。
 霧刃は動けない。
 唇から溢れ出る鮮血と全身を蝕む苦痛が、霧刃の動きを止めていた。
「朽ちよ、邪悪なる闇の娘」
 神のいかづちを纏った剣が振り下ろされる。
 その時、光が閃いた。
 宗像四郎。
 荒い息を吐きながら動けずにいる霧刃が、己をかばって大天使に疾走する四郎の背を睨みつける。
「やるしかない!」
 カマエルの剣が振り下ろされるよりも速く、四郎は大天使の懐に入り込んでいた。
「うおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
 そして、気合の雄たけびとともに妖刀で大天使の腹を斬りつける。
 大天使カマエルの巨躯が揺れる。
「小僧!」
 カマエルの腹から血しぶきが上がった。
 大天使は怒りの形相で四郎を睨みつける。
 長大な剣が力任せに横薙ぎされる。
 四郎は妖刀で受け止めようとしたが、凄まじい膂力の差で後方に吹き飛ばされる。
「神罰を受けよ!」
 カマエルが剣で天を指すと、四郎の頭上に落雷が発生した。
「くあっ!?」
 かろうじて"狼牙"で電撃を受け止めて四散させるが、電熱の余波が身体を蝕む。
 学生服が焦げ、全身に猛毒を流されたかのような熱さと痺れが走る。
「(四郎!)」
「"狼牙"、目が覚めたのか!」
「(少々痺れたがな。まあ、この程度の刺激ならば寝覚めにはちょうど良かろう)」
 苦笑するような"狼牙"の意思が伝わってくる。
「(それにしても、怪物ばかりに出会う日だな)」
「目の前のは、天使だそうだ」
「(西洋の神の使いか。しかし、先の二人に比べれば戦える相手であろう。四郎は女難の相なのではないか?)」
「……さあね」
 四郎も息を切らせながら苦笑を浮かべる。
「でもなんだか、"狼牙"、キミの仇も女性のような気がしてきたよ」
「(……かもしれぬ)」
 苦笑し合う二人の向こうで、大天使が大剣に再び電撃を収束させる。
 ゆったりとした動きで、四郎に電撃の迸る剣の切っ先を向ける。
「受けよ!」
 裁きのいかづちが、放たれる。
 バチバチという大気の焼ける音ともに電撃の帯が四郎の胸を直撃する。
「ふぐぅっ!」
 焼かれた胸板が酷く痛むが、歯を食いしばって耐える。

「鎮まれ、細雪。縊り殺されたいか」
 霧刃は血管が破裂し、血みどろになった右手で、細雪の柄を強く握り直す。
 透き通った青白い霊気が全身を駆け巡り、自分の心臓を何度も貫いている。
 だが、屈しない。
 細雪の強大な霊気。
 それが聖なるものであり、邪気の溢れる身体を蝕むものであったとしても、霧刃にとって必要なものだ。
 逆に細雪を従えるだけの力を、何者の侵略も許さぬ力を、それだけを霧刃は欲している。
 彼女にとって、力こそが唯一の真理だった。
 力があればこそ、脅かされずに生きることができる。
 力があればこそ、大切なものを守れる。
 力があればこそ、何も失わずに済む。
 なぜ戦う?
 なぜ刀を振るう?
 なぜ力を求める?
 なぜ、なぜ、なぜ?
 宗像四郎の問いが何度も何度も頭を揺さぶる。
 惨殺された家族の死体が脳裏に浮かぶ。
 明滅する視界で、切り落とされた最愛の恋人の生首が哀れむように笑う。
 力があれば、守れた。
 力があれば、失わなかった。
 力があれば、奪われなかった。
 力が、あれば。
 力さえ、あれば。
 奪われないために。
 失わないために。
 守るために。
 唯一生き残った、血の繋がった妹の後姿が、幻となって現れ、長く美しい黒髪を揺らして振り向くことなく、消えた。
「鈴音」
 妹の名を呟く。
 霧刃が俯き、前髪が目元を覆い隠す。
 額が割れているのか、漆黒の髪の間から流れ落ちた真っ赤な血が頬を濡らす。
「力があれば――」
 霧刃の身体を蹂躙していた聖なる霊気が、細雪の刀身に収束されていく。
 よろめきながらも、"凍てつく炎"は立ち上がり、顔を上げた。
 禍々しい真紅の双眸が、宗像四郎と大天使カマエルの姿を捉える。
 四郎は大天使を相手に奮戦していた。
 霧刃の真紅の瞳は、必死で剣を振るう少年を凝視していた。

 織田鈴音は身体中を走る激痛で意識を取り戻した。
 悲鳴は上げない。
 これくらいの痛みでは根を上げるつもりもない。
 退魔師として弱い人々を守るために彼女は戦ってきた。
 熟練の腕前とはいえ、強力な邪悪に敗北したことはある。
 それも一度や二度ではない。
 その度に邪悪なものたちによって与えられた拷問や陵辱に比べれば、この程度の苦痛など大したものではない。
 正義の味方のように闇を打ち砕く鈴音への闇の勢力に属するものたちによる制裁は凄惨を極めた。
 死を与えられなかったのは、見せしめのためでしかない。
 死の代わりに死よりも恐ろしい生き地獄を味わわされてきた。
 肉体が倒壊する寸前まであらゆる方法で痛めつけられ、精神が崩壊の寸前まで無数の男たちに犯されたことさえある。
 そして、その生き地獄から何度も鈴音は不屈の精神で立ち上がってきた。
 だが。
「霧刃……」
 霧刃に敗北したことを思い出し、唇を噛み締める。
 まるで手が出なかった。
 一撃さえ与えることもできなかった。
 両腕と両脚の腱を断たれている。
 立ち上がることもできない。
 霊気は傷を癒すべく、身体中を廻っているが、いくらなんでも重傷に過ぎた。
 そうだ。
 坊やはどうしたろう?
 霧刃と戦うなどという馬鹿なことをしてないだろうか。
 ないとは言い切れない。
 鈴音は霧刃との戦いでは一方的に痛めつけられていた。
 あの少年なら溜まりかねて、霧刃が相手でも飛び出しかねない。
 確かめなきゃな。
 鈴音は孤独に慣れていた。
 自分が傷つくのは耐えられる。
 だが、他人が自分のために傷つくのは耐えられない。
 霊気を動かない両太股に集中させるが、癒しの速度は遅い。
「くそっ、腱が切れたくらいで寝てられるかッ!」
「うおっ!?」
 思わず叫んだ鈴音の耳に、男の驚いたような声が返って来た。
「坊やか?」
「坊や? ああ、あの妖刀使いの坊ちゃんだね」
 男の声は鈴音に近づいてきた。
 影が鈴音の顔に落ちる。
 鈴音を覗き込んできたのは細い目をした男だった。
 和装に身を包み、腰に太刀をぶら下げている。
 妖刀を持った高校生や、日本刀を腰に帯びた幽鬼に勝るとも劣らない物騒な格好だ。
「なんだ、テメー?」
「あらら、いきなり、なんだ、テメーはないでしょ」
 男はとぼけた声で答えた。
 無残な鈴音の姿を見て平然としている辺り、この男も只者ではない。
「オイラは、平蔵。しがない始末屋さ」
「始末屋?」
「んまぁ、首切り屋さんってヤツよ。このご時勢じゃあまり仕事もないけどね」
「狙いは"凍てつく炎"か?」
「バカ言っちゃいけないよ、姐さん。死神の相手なんかしてたら命がいくつあっても足りないって。それに女の子は斬らない主義だし。オイラは厄介者の始末を頼まれただけさ。どこからの依頼かは秘密だよ、守秘義務があるからね」
「厄介者?」
「そいつと妖刀使いの坊ちゃんが今戦ってる最中さ」
「坊やが戦ってる?」
「ああ、"凍てつく炎"も一緒だよ」
「!」
 鈴音の表情が変わった。
 その鋭い眼差しは、織田鈴音こそ"凍てつく炎"と呼ばれても何の違和感もないほどに鋭い。
「平蔵とか言ったな」
「おうよ、姐さん、いきなり真剣な顔して逆ナンかい?」
「あたしを坊やのいるところまで連れて行ってくれないか」
「姐さん、病院になら連れてったげるけど、その身体で戦場には連れて行けないよ。やばいほどの重傷だよ。死んじゃうよ」
「死にはしないさ。自分の身体のことだからわかる。頼むよ」
「むむむ、美人に懇願されると悩むなぁ」
「頼んでダメなら、雇ったってイイぜ。礼なら弾むさ」
「ふぅむ、姐さん必死だね」
 糸のように細い目を、思案から苦笑の形に変える。
「わぁったよ。連れてったげるよ。どうせ、こっから見えるくらいのすぐ近くだしね。ただし、絶対にオイラの前に出ちゃダメだぜ」
 そう言うと、平蔵と名乗った男は鈴音を自分の背に抱え上げた。
 負ぶさるだけの動作でも鈴音の身体に激痛が走る。
 額を苦痛の汗が流れ落ち、息が荒くなる。
「姐さん、大丈夫かい?」
「や、役得だろ」
 苦痛を噛み殺して、鈴音が平蔵の耳に囁くように呟く。
 負ぶさった鈴音の豊かな胸が背に当たる感触、それに両手は鈴音の柔らかな尻に当てられている。
「こんな状況じゃなきゃ、うれしい限りなんだけどね」
「急いでくれ」
「あいよ」
 平蔵は鈴音を背に負ぶさり、戦場へと足を向けた。

 ゴオォッ!
 大気を揺らして、カマエルが滑空する。
 恐ろしく速いが、鈴音や霧刃の神速に及ぶものではない。
 相手は天使を名乗るバケモノ。
 だが、届かない領域ではない。
 四郎は一瞬でカマエルの飛来を把握し、"狼牙"で受ける。
 衝撃で地面が砕ける。
 腕力はその巨体から想像されるように、強い。
 だが、先程のように吹き飛ばされはしない。
 目覚めた"狼牙"の妖気が衝撃を散らしていた。
 続いて巨剣が振り下ろされる。
 四郎は巧みに、刀を打ちつけて剣の軌道を変えた。
 勢いのまま回転して、カマエルの胴を薙ごうとするが、大天使は空中に羽ばたいていた。
「裁きのいかづち!」
 あの帯のような稲妻が放たれる。
「絶風剣ッ!」
 四郎が渾身の衝撃波を稲妻にぶつける。
 お互いの飛び道具が粉砕され、振動がお互いの肌を打つ。
 カマエルが再び滑空した。
 四郎はその攻撃を見切った。
「空殺!」
 跳び上がりながら、カマエルの胸板を縦に切り裂く。
 初撃で切り裂いたカマエルの腹の傷と合わせ、カマエルの肉体に赤い十字架が刻まれる。
 大天使の顔に焦りの色が浮かんだ。
 "神の剣"である自分が、少年一人にこれほどのダメージを受けるなどありえない状況だった。
「神の使徒たる我に十字架を刻むなどッ!」
 カマエルが怒りの形相で飛翔し、大剣を振り下ろす。
 怒りに任せた単純な攻撃。
 四郎は簡単にそれを受け止めた。
 だが、カマエルの太い腕が四郎の腹に打ち込まれていた。
 丸太のような太い腕の先に付いた鉄球の威力を持つ拳が、四郎の肋骨を砕く。
 真っ赤な血が口を溢れ出る。
 だが、四郎は倒れない。
 顔を上げてカマエルを睨みつける。
 微塵の恐怖もない。
 対するカマエルの顔に恐怖と混乱の表情が浮かぶ。
 小僧が倒れぬ。
 小僧なのに倒れぬ。
 小僧、小僧、小僧ッ!
「ぐおおおおおおおおおおおおおおお!!」
 雄叫びを上げて、もう一度拳を四郎に打ち込んだ。
 剣を使うことを思いつきもしない。
 狂乱。
「ぐぅっ!」
 四郎は再び血を吐き、空中に押し上げられる。
 天使が狂笑を浮かべる。
 三度振り上げられる拳。
 串刺しにしてくれん。
 だが、その腕は四郎を貫く槍と化すことはなかった。
 黒い風が吹き抜ける。
 そして、青白さと赤黒さが混じった閃光が走った。
 大天使は自分の振るわれた腕の先がないことに、気づいた。
 血が零れ落ち、地面を真っ赤に染める。
 大天使のでは、ない。
「"凍てつく炎"!」
「霧刃さん!?」
 織田霧刃が青白く発光する細雪を手に、咳き込みながら地面に膝から崩れ落ちる。
 大量の吐血と、全身からの出血が、血の海を作っている。
 その霧刃の背後に、大天使の巨腕が落ち、血をびちゃっと跳ねさせた。
 首だけで振り向く。
 視線が刺すのは、空中の宗像四郎。
 その紅い双眸は何も語らない。
 だが、目が合った四郎は叫んだ。
 雄叫びを上げた。
「うおおおおおおおおおおおおお!!」
 大天使はそこでようやく我に返った。
 片腕がない。
 だが、もう片方の腕はあり、剣を握っている。
 小僧は空中にあり、自由には動けない。
「神罰を受けよぉぉぉ!!」
 カマエルが"神の剣"を振り翳した。
 四郎は"狼牙"を渾身の力で振り下ろす。
 二つの影が交差する。
 カマエルの背後に四郎が着地する。

 鈴音と平蔵が戦場に到着したのはちょうどその時だった。
「坊や!」
 苦痛に耐えながら、鈴音が叫ぶ。
 四郎が鈴音を振り返った。
 同時にカマエルの両膝が地面に落ちる。
 次いで首筋に赤い線が入った。
 驚愕の表情のまま、大天使の首が地面に落ちる。
 傷口から血が噴水のように溢れ出る。
 そして、巨躯も地面に倒れた。
「やったようだな」
 鈴音が安堵のため息をつく。
「平蔵さん、もう一運び頼むよ」
「いや、まだだよ、姐さんッ!」
 叫んだのは、平蔵だった。
 カマエルの死体に異変が起きていた。
 首から溢れ出る血が意思を持ったように伸び上がる。
「何をする気だ!?」
 四郎も目を見張る。
 妖刀を構え、油断なく、カマエル後の動きを見る。
 血が空中でウネウネとうごめき、十字架を形成した。
 そして、それは一点を目指してダーツのように飛んだ。
 織田霧刃。
 咳き込み、動けずにいる霧刃を目指し、光の速さで十字架が飛ぶ。
「いけない、霧刃さん!」
 四郎が走る。
 だが、間に合わない。
 十字架は霧刃の左胸に吸い込まれるように突き刺さった。
「霧刃さん!?」
「霧刃!?」
 四郎と鈴音が同時に叫ぶ。
 霧刃の顔が苦悶に歪む。
 そして、自分の胸に突き刺さった十字架に視線を落とす。
「くっ……」
 わずかに心臓からは外れているが、深く突き刺さっている。
 引き抜こうと手を伸ばす。
 だが、十字架はその手が触れる寸前、血の形態へと戻り、霧刃の左胸から身体に染み込んだ。
 霧刃の身体が硬直し、瞳孔が収縮する。
「ごほっ!」
 身体の中の血がすべて出てしまったのではないかと疑うほどの、おびただしい量の吐血。
 身体がぐらりと揺れる。
 だが、霧刃は倒れなかった。
 それどころか、人形のような不自然な動きで立ち上がった。
「うくっ、かふっ……、ヒューッ……、ヒューッ……」
 呼吸音がおかしい。
 全身が震えている。
 痙攣する手で、細雪を握り直す。
「…………」
 真紅の眼差しが、一同に向けられる。
「……力こそ……私は……身体……渡さぬ……」
 細雪の切っ先が鞘へと納められる。
 だが、すぐに再び刀は抜かれた。
 右腕の血管が弾ける。
「正しき者は七たび倒れても、また起き上がる。"凍てつく炎"よ、神の威光に屈せよ」
 霧刃の声ではない声が喉から発せられ、紅い瞳が光った。
 そして、霧刃の姿が全員の視界から消える。
「(四郎!)」
 "狼牙"の警告の声。
 四郎は咄嗟に横に跳んだ。
 風が今いた場所を吹き抜ける。
 赤い霧が舞う。
 霧刃が細雪で横薙ぎした姿勢で立っていた。
 赤い霧は、霧刃の血だった。
 ギ、ギ、ギ、と重すぎる動きで首が後ろを向く。
 こめかみで血が弾ける。
 肩で血が弾ける。
 身体中が軋んだ音を立て、其処彼処で血が弾ける。
 そして、その流れ出た血が生き物のように動き、霧刃の口に流れ込む。
「がはっ!?」
 噎せ込んだ霧刃の口が再び違う声を発する。
「屈せよ、闇の乙女。汝の肉体を我に捧げよ」
 霧刃の眉が、一層の苦悶に歪む。
 激痛に明滅する視線がさまよい、鈴音を負ぶった平蔵に向けられる。
 再び、赤い霧が舞う。
「姐さん!」
「ちいっ!」
 平蔵の背から鈴音がずり落ちる。
 同時に抜いた平蔵の太刀を霧刃の一撃が震わせる。
「平蔵!」
「オイラは大丈夫。姐さんは、ちょいと下っといて」
「くそっ……」
 満身創痍の鈴音は地面を転がって、その場を逃れるを得なかった。
 四郎は事の成り行きに唖然としていた。
 カマエルは倒した。
 そのはずなのに。
 霧刃は認めないかもしれないが、彼女は四郎を手助けしてくれた。
 そのはずなのに。
 まだ終わりではないというのか。
「(操られている。いや、抵抗しているようだが……?)」
「まさかカマエルの血が?」
 "狼牙"の言葉に四郎が呻く。
 そして、信じられないものを見るように首を横に振る。
 だが、それで現実が否定されるわけではない。
「あの"凍てつく炎"に染み込んだ血が、カマエルの本体だろうさ。まったく、しつこい狂信者だね」
 霧刃の鋭い剣撃を受け流しながら、平蔵が乾いた笑いを浮かべる。
「オイラはアイツの大本になった輩を始末してくれといわれたんだが、こいつぁ、思ったよりきっつい仕事だったようだね」
 残像、残像、残像。
 霧刃の恐るべき、連続攻撃が開始される。
 今までのダメージの蓄積と、カマエルの支配に抗う霧刃の意志力で、その速度こそ影形も見えぬほどの神速から落ちてはいたものの、それでも残像が残るほどに移動速度は速い。
「し、しんどい」
 平蔵の身体の其処彼処から血が流れ出す。
 斬られた瞬間を自覚できなかった。
 致命的な攻撃こそ受け流しているが、見えていない太刀筋がいくつもある。
 このままでは、いずれ全身を切り刻まれる。
「……これは死ぬのも覚悟しないとまずいかな」
 平蔵は細い目をわずかに見開き、苦笑いしながら太刀に気合を込め直した。

 四郎もまた平蔵に加勢しようとする。
「あの男の人と、霧刃さんを助けるよ、"狼牙"」
「(だが、どうやって?)」
 この期に及んで、"凍てつく炎"を「助ける」と口にするができる宗像四郎という漢を現代の持ち主に選ぶことができたことを"狼牙"は誇りに思った。
 だが、しかし、"凍てつく炎"の力量を考えれば、全身全霊で立ち向かったとしても殺すことすら困難なのは明らかだ。
 それであるのに、「助ける」方法など思いつきようもない。
 四郎には悪いが万が一の時は、四郎の意思と身体を奪い、"凍てつく炎"を斬るしかない。
 "狼牙"はその覚悟を決めた。
 それは四郎への背信行為に他ならない。
 だが、たとえ忌み嫌われようと、友を死なせるわけにはいかない。
 二度も主人を失うことなど耐えられない。
「四郎!」
 地面に倒れていた鈴音が、上半身を起こして四郎に向かって叫ぶ。
 鈴音は四郎の目をまっすぐに見た。
 その視線に込められた鈴音の強い決意に、四郎は微かな動揺と不審を抱いた。
「鈴音さん?」
「タイミングはあたしが教えてやる。全力で、斬れ」
 唐突な言葉を理解しかね、四郎が首を傾げる。
 鈴音はかまわずに続けた。
「霊気の流れを読め」
「霊気の流れ?」
「霧刃の霊気は"凍てつく炎"の異名の通り、灼熱の炎と絶対零度の氷を混ぜたような激しい霊気だ。霧刃の肉体に巣食おうとしているカマエル自身の霊気は、それとはまったくの異質、神々しくも傲慢な霊気だ」
 鈴音は四郎に向かって極めて説明的な台詞を口にする。
「四郎、自分の霊気と妖刀の妖気の流れも感じろ。そして、そのすべての流れを読め」
「鈴音さん、一体何を言っているんです?」
「……おまえの妖刀の妖気で、カマエルって野郎の魂だけを断つんだ。そうすれば霧刃の身体から追い出せるはずだ」
 瀕死の肉体で長く喋って疲労したのか、鈴音が大きく息を吐く。
 四郎が目を丸くして、聞き返す。
「それって、霧刃さんを助ける手立てってことですか?」
「ああ。ホントはあたしがやるべきことだ。だが、この身体じゃ無理だ。だから、頼む」
 深く、深く、鈴音が頭を下げる。
 ゆっくりと上げた鈴音の顔を見て、四郎の顔に、はっとしたような表情が浮かぶ。
「……霧刃を……霧刃を助けてくれ」
 年下のはずの少年に懇願する女退魔師の顔は、幼い少女の泣き顔のようだった。
 力強く頷いて、四郎が構える。
 カマエルに粉砕された肋骨が腹部に強烈な痛みをもたらしている。
 身体中から流れ出る血が、体力を奪い、意識を揺らめかせようとしている。
 だが、四郎は心の底に沸き立つ炎を感じた。
 その炎を見詰めるために、両目を閉じる。
 漆黒に澄んだ世界に、霧刃と平蔵の交わす剣戟の音が聞こえてくる。
 織田霧刃は強く、そして、弱い。
 織田鈴音も強く、そして、弱い。
 超人的な戦いを見せられて失念しそうになっていた当然の事実。
「……失敗は許されない」
 失敗すれば、霧刃の命はないだろう。
 それに斬り損なえば、当然来るだろう霧刃の反撃で四郎の命も危うくなるのは必定だ。
 そして、鈴音もまた、すべてを失う。
 生き残ったとしても、すべてを失う。
 姉の命を失う喪失感、四郎を死へ導いた責任感、そして何もできなかった無力感。
 それらが織田鈴音を蝕み、彼女の未来を破壊することになる。
 決して、はずすわけにはいかないのだ。
 四郎は闇の中で、さらなる暗黒を感じた。
 凍てつくような暗黒、燃え盛るような奈落、織田霧刃。
 そして、その近くにある清清しいほどに透き通る霊気。
 見つけた?
 いや、違う。
 この霊気は、闇の力を行使するはずの織田霧刃がの持つ神刀、邪悪を滅する青白き聖なる刀。
 この刀も神々しく光り輝き、相反する邪に身を染めている霧刃の肉体を蝕んでいる。
 だが、それは力を追い求める織田霧刃自身が望み、手に入れた力でしかない。
 霧刃の意思に反して、彼女を支配しようとしているのは、別の光。
「見つけた」
 霧刃の中に感じる神々しき、光。
 その光は、霧刃の神刀と同じく聖なる力を発しているが、同時に傲慢で尊大な雰囲気で、透き通るような霊気ではない。
 これこそが大天使カマエルの残骸に違いない。
 四郎は心落ち着かせ、その傲慢なる正義の光へと神経を集中させる。
 閉じた視線の先で正眼に構えられた"狼牙"が妖気を高めているのがわかった。
 今、彼は四郎に振るわれる一本の刀であることに徹してくれている。
 "狼牙"のこの心遣いは、ありがたかった。
 カマエルだけに集中ができる。
 この一撃。
 この一撃にすべてをかける。
「今だ!」
 鈴音の叫ぶような声。
 四郎が目を見開いた。
 色の戻った視界に平蔵が霧刃の横薙ぎを受け流しきれずに、衝撃で地面に倒れる姿が飛び込んできた。
 渾身の攻撃だったのか、刀を振り切った霧刃の動きが一瞬だけ硬直する。
 四郎は跳んだ。
 霧刃がそれに気づいた。
 彼女の灼熱の霊気を宿した瞳と目が合う。
 真紅の瞳孔がすぼむ。
「霧刃さんッ!」
 四郎が"凍てつく炎"の真名を叫ぶ。
 がら空きになっている霧刃の胸。
 四郎がすれ違い様に妖刀の渾身の一撃を打ち込んだ。
 一線。
 一筋の閃光が走る。
 まるで世界が断たれたかのように、大気が断面を修復するかのように、震動した。
 霧刃の背後に着地しようとしたが、四郎は突進の勢いを殺せずに地面に倒れ込んだ。
 慌てて起き上がろうとするが力が入らない。
 顔と目だけを動かして、霧刃を振り返る。
「!?」
 その目に映るのは、四郎が斬る前と同じ体勢の霧刃の背だった。
 霧刃の肉体が痙攣する。
 そして、背から血が吹き出す。
「失敗した……?」
 四郎の顔に動揺と恐怖が宿る。
「(四郎、失敗ではないぞ。見よ)」
 霧刃の背から吹き出したのは彼女の血ではなかった。
 赤い液体は十字の形を形成する。
 見覚えがあった。
「カマエルッ!」
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
 霧刃の背から飛び出した赤い十字架が大気を震わせる絶叫を上げながら崩れ始める。
 十字架の中心には、妖気を帯びた斬れ込みが走っている。
「我が……偉大なァァァ……神の剣がァァァ……正義が死ぬというのかァァァ!?」
「女の身体に取り憑いて正義とかのたまってんじゃねぇよ。坊ちゃんの方がよっぽど正義の味方だぜ」
 平蔵が四郎を助け起こしながら、カマエルに悪態を吐く。
「大丈夫かい、坊ちゃん」
「ええ、すみません」
 崩れていくカマエルを凝視しながら、平蔵の手を借りて立ち上がる四郎。
 カマエルにはもはや他者に取り憑く力も残っていないようだった。
 やがて、姿を失い、風に溶け込むように完全に消え去った。
 残されたのは、幽鬼のように佇む、"凍てつく炎"。
 霧刃がゆっくりと振り返る。
「霧刃さん、無事ですか」
「……余計なことを」
 織田霧刃の目に正気が戻っていた。
 同時に憎悪が、邪気が、死が、戻っている。
 禍々しい真紅が、四郎の顔を見る。
 見下す視線。
 やがて、それは鈴音に向けられる。
 細雪を鞘に納める。
 鈴音がようやく口を開いた。
「霧刃」
「鈴音、まだ私を追うならば、次に会う時は容赦はしない」
「……」
 自分もまた重傷であるはずでありながらも、それを微塵も感じさせない冷徹な声。
 その威圧感だけで鈴音を黙らせる。
 そして、踵を返した。
 その凛とした足取りにも肉体のダメージを感じさせるものはない。
 もう一度だけ、わずかに四郎の顔に首を向け、目だけで顧みる。
 四郎は初めて霧刃を見た時の圧迫感を思い出した。
 それでも屈せずに口を動かす。
「力だけでは何も守れません」
「力がなければ何も守れない」
 霧刃が静かに応える。
 四郎は反論しても無駄なことを知っていた。
 霧刃の心の闇を払うのは、自分の役割ではないこともわかっていた。
 彼女を止めることができるのは、ただ一人だ。
 霧刃を救うために四郎に刃を託し、斬った、"凍てつく炎"の唯一の妹。
 自分はその手助けをほんの少し、本当にほんの少ししただけに過ぎない。
 霧刃が関心を失ったかのように後ろを向く。
 ゆっくりと、静かに歩き出す。
 もう振り返らない。
 四郎に対しては決して振り向かないだろう。
 振り向くことがあったとしたら、それは必死で姉の暴挙を止めようとする妹に対してだけだろう。

「それじゃ、オイラもお暇させていただきますよ。ひどい目にあったけど、坊ちゃんのおかげでとりあえずは依頼は達成したからね」
 平蔵が霧刃に斬られた傷の具合を確かめながら、ため息を吐いた。
 鈴音が平蔵に聞く。
「平蔵さん、あたしからの報酬はイイのかい?」
「へへっ、傷が治ったら、今度、たっぷり目の保養させてくださいよ。痣のない脚線美を堪能させてくれれば、それで十分だ」
「あたしはこの街にしばらくいる。楽しみにしとけよ」
 鈴音は平蔵を見送り、彼の姿が視界から消えると四郎を振り返った。
「悪かったな、四郎」
「いいえ」
「悪いついでなんだが」
「はい?」
「ちょいと病院まで肩貸してくれ。内気功で治癒に専念してんだが、断たれた腱が繋がらないんでね」
「腱が繋がんないも何も、その傷で動けるって時点でおかしいですよ、鈴音さん」
「気力だよ、気力。あと根性だな」
「……はぁ」
 この人はやっぱりバケモノだ。
 この超人的な気力と体力を持つ女性を瀕死に追い込んだ"凍てつく炎"と命を掛けて戦ったのだ。
 生き残った奇跡を神に感謝せざるを得ない。
 むろん、カマエルの言う正義の神などにではない。
 勝利の女神に、だ。
 彼の勝利の女神は、剣道着を着ている。
 毎日部活動で顔を見合わせる。
 その日常から比べれば、今日の非日常は遠過ぎる場所だ。
「おっと」
 鈴音が屈み込む。
「ほら、無理しっぱなしだからですよ」
「違ぇ〜って」
 鈴音が、よろめきながらも立ち上がる。
「ほらよ」
「あっ」
「ふぅん、やっぱ、メガネかけると、まだまだ坊やって感じになるな」
 眼鏡を掛けた宗像四郎は、一気に現実世界に戻ったような気がした。
 鈴音が唇の端を吊り上げて、笑っていた。

 風が黒髪を揺らした。
 織田霧刃は足を止めた。
「ケル」
 巨大な犬型の魔獣が目の前に姿を現している。
「(霧刃、ひどい傷だな。何があった?)」
 ケルベロスの声はくぐもっていたが、霧刃を労わる気持ちが込められていた。
「私の力が足りなかっただけのこと」
「(力が?)」
「ああ、力が、な」
「(我が地獄の業火で『カマエル』の本拠は殲滅した。だが、傍らにこそいるべきだったか)」
「気にするな、私自身が望んだことだ。ケル、『カマエル』の指導者も滅んだよ」
「(そうか)」
「……ただ、滅ぼしたのは私ではなかった」
 その濁った真紅を宿す霧刃の目が伏せられる。
「(……そうか。傷は痛むか?)」
「いや……」
 霧刃はケルベロスの巨体を撫でながら、首を横に振った。
「何も、痛まない。何も……」
「(……)」
 ケルベロスが無言で寄り添う。
 魔獣の毛皮に身を預け、霧刃は憎悪の宿る目を閉じた。

「宗像くん!」
「あっ、ユキさん」
「ど〜したのよ、昨日は部活を休んだと思ったら、今日は包帯姿だなんて!」
「いや、部活を休んだのは調子が悪かったからだよ。それで家の階段で転んじゃって」
「嘘ばっかり。どう見たって切り傷でしょ。まさか、ケンカ?」
「ち、違うよ。でも、ごめん、階段で転んだってのは嘘」
「やっぱり」
「ただケンカじゃないよ。人助けだよ、人助け」
「ふぅん……」
「うっ、そのジト目は信じてないね?」
「ううん、信じてあげるわよ。宗像くんは嘘が下手だからね。さっきはキョドってたけど、今の言葉は真実っぽい」
「ただ詳細は教えられないんだ、ごめん」
「いいってば。ケーサツ沙汰じゃなければね。さて、今日も今日とて部活に行きましょうか」
「僕は見学で」
「何言ってんの、身体も勘もなまっちゃうわよ。ケガしてない部分を鍛えれば?」
「ひ、ひどいスパルタだ」
「宗像くん、強くなければ何も守れないのよ?」
「……ユキさん?」
「最近ね、ちょっと変な夢を見ることが多くて」
「変な夢?」
「うん、私の周りにいっぱい血まみれの人たちが倒れてて、私一人が取り残されちゃう感じのね。嫌な感じの夢だから、よく眠れなくって」
「それはたしかに悪夢っぽい」
「なので〜、現実世界で私を守ってくれるくらい強い人を製造しておこうかなって。安心してぐっすり眠れるように」
「つまりは僕にユキさんの安眠のための生贄になれと」
「あははっ、そ〜いうこと。まあ、ジョーダンだけどね」
「ジョーダンなの!?」
「びっくりした?」
「ううっ、ナイトになれるとちょっと期待してしまった」
「ん、宗像くん、何か言った?」
「ななななんでもないよ。ユキさん、早く部活に行こう」
「おっ、やる気出てきたな。さて、ほんじゃ、まあ、行きますか」


>> BACK