お嬢


 

 ラーンは笑わない少女だった。
 いや、笑わないどころか、怒りもしないし、悲しみもしない。
 まるで呼吸をし、心臓を動かしているだけの機械のようだった。
 生きていること自体が不思議なほど受動的な存在だった。

 彼女は実の両親の顔を知らない。
 両親は、欧州の闇に君臨する名家『エギルセル』の分家を継いでいた。
 だが、父親は彼女が生まれる前に亡くなり、母親は彼女を産み落とす時に他界した。
 彼女は子に恵まれない本家に引き取られ、養育された。
 養父は養母を愛してはいなかった。
 そして、養母もまた、養父を愛していなかった。
 ただ『エギルセル』という名跡を存続させるためだけに、純粋な政略結婚で結ばれていた。
 それなのに、目的である子を生すこともできずに初老の域にまで達してしまっていた新たな両親の間は冷え切っていた。
 ラーンが養女として迎えられたのも『エギルセル』の血を引いているという理由だけで、愛されていたわけではなかった。
 食事の時も、寝る時もいつも独りだった。
 その生活は豪奢ではあったが、何もなかった。
 彼女の記憶にあるのは大きな屋敷の古びた天井だけだった。
 ラーンが無感動になったのも致し方がないことだったのかもしれない。
 やがて、養父も養母も病を得てなくなった。
 ラーンにはどうでも良いことだった。
 気持ちはまったく乱れず、涙の一つさえ流れなかった。
 老獪な人間ですら生き残ることが難しい裏の世界に、成人すらしていない少女の手に残ったのは名家『エギルセル』の名だけだった。
 だが、このまま家名を保つことはできはしない。
 理性がそう告げていた。
 小娘一人で何ができるというのだ。
 しかし、それもどうでも良いことだった。
 自分が生きていることさえどうでも良いのだから、ラーンにとって重要なことなど何一つないのだ。

 ――養父母の死後、彼女は『ヴィーグリーズ』に引き取られることとなった。
 彼女が仕掛けたわけではない。
 『ヴィーグリーズ』から接触してきたのだった。
 受動的に死を待つだけだったラーンの前に現れ、「協力して欲しい」と要請してきた。
 ラーンはそれに応じた。
 積極的に応じる理由はなかったが、断る理由もなかったから。
 水のように導かれる先へと流れて行く。
 ただそれだけだった。
「ラーン・エギルセル」
 ラーンを所望した女性は鮮やかな黒髪をした白衣を着た女性だった。
 彼女は「シンマラ」と名乗った後、『ヴィーグリーズ』の研究施設で働いているのだと言った。
 そして、ラーンの潜在的な霊力に興味があるのだとも言った。
「キミは枯れ木のように静かに朽ちようとしているようだが、生命を得たならば、それだけで世界の構成部品となる。だから、死ぬとは世界の部品が一つなくなるということだ」
 飛躍した喋り方をする女性だった。
 ラーンに一つだけ理解できたことは、どうやら彼女は、自分を生かそうとしているらしいということだった。
 彼女は、ラーンのことを世界の『構成部品』と言ったが、彼女特有の比喩であるらしく、悪気があるようには思えない。
 それどころか、彼女の冷徹な眼差しと言葉の端に微かな温もりを感じられた。
 それは、ラーンが今まで感じたことのないものだった。
 実の両親とは死に別れ、育ての親からは何の愛も受けてこなかった。
 他者との交わりもなく、ただ屋敷の中で静かに、意志もなく生かされてきた。
 シンマラという女性は、そんなラーンに対して初めて、小難し言い方ではあったが、興味を持って話しかけてくれた人間だった。
 氷の彫像のように無表情だったラーンの眉が少しだけ動いた。
「私は何をすれば良いのでしょう?」
 生まれて初めて、ラーンは質問というものを口にした。
 問いなどと言うものは今まで彼女の中に存在しなかった。
 何もかもが、どうでも良いという思いは変わらない。
 今まで自分を必要とする人間などいなかったのに、目の前の女性は、なぜ、自分に構おうとするのか。
 だが、それは不快ではなかった。
 だからこそ、自然と彼女の口から人生初めての問いがこぼれ、その答えを期待していた。
「キミがやるべきことは多い」
 シンマラは肩にかかっている黒髪を払いのけ、ラーンを直視し直す。
「まず、生きること。そして、考えるということも必要になる。キミは何に対しても受動的だが、積極性を身につけるべきだな」
「生きる。考える」
 ――生きる。
 ――そして、考える。
 真っ直ぐに自分の顔を覗き込んでくるシンマラの顔を瞳に映しながらラーンが何度も反芻する。
「それから」
 青い髪の少女の反応を見て、僅かに目を細め、微かに口元を綻ばせて、シンマラは続けた。
「私はキミの師となる。キミには才能がある。この世界の、より大きな部品になることができる。世界そのものを変えることができるくらいの」
「師?」
 ――師?
 ラーンは小首を傾げた。
 シンマラはラーンの頬を両手で挟み、自分の顔を青い髪をした少女の鼻先にまで近づける。
 甘い吐息が、ラーンの顔にかかった。
「師とは生の道標だ。自分で言うのは如何にも滑稽だが」
「道標?」
「私はキミの道標になりたいと思っているのだ。ともにこの世を変えてしまう大きな部品となってやろうじゃないか」
「わかりました。師とは、世界をくれる人なのですね」
 ラーンが無表情のまま青い瞳だけを動かし、平板な声で、そう言った。
 今度はシンマラが小首を傾げる。
「世界をくれる?」
「私は生きることも死ぬこともどうでも良かった。すべてがどうでも良かった」
「……」
「だけど、あなたは私に世界をくれました。私は生きてみたい」
「結構なことだ」
 ラーンが口にしている世界というものが興味を表していることに気づき、シンマラは満足そうに頷いた。

 ラーンは、シンマラの教えることを次から次へと吸収していった。
 青い髪の少女は相変わらず喜怒哀楽を表すことがなかったが、学習能力は非常に秀でているものがあった。
 文武においても、霊的能力の上昇においても、目を見張るような優れた成長を見せた。
 そして、彼女がシンマラの弟子となって一年余りが過ぎようとしていた、その日。
 ラーンは運命の出会いを果たす。
「キミの新しい家族を連れてきた」
 そう言って、シンマラが伴ってきたのは、ラーンの青い髪とはまるで対照的な真っ赤な髪をした少女だった。
 ラーンの感情を表さない目とは違い、ギラついた双眸をしている。
 赤い髪の少女は、ラーンを認めるなり、険悪な表情でねめつけてきた。
 叩きつけるような視線が、ラーンに浴びせられる。
 激しく、そして、熱い。
 ――ドクンッ!
 その瞳から発せられるあまりにも強い輝きに射抜かれ、ラーンは生まれて初めて心臓が跳ね上がった。
 その時、ラーンの視界に世界が流れ込んできた。
 風景が、音が、大気の肌触りが、ありとあらゆる世界を形成するものが流れ込んできた。
 それは今までも、ラーンの周りにあったものだった。
 だが、それらのすべてが新鮮に感じられる。
 シンマラは、世界をくれた。
 だが、その世界をこれほど強烈に認識させてくれたのは、目の前の少女が初めてだった。
 シンマラは言葉と労わりによって、世界をくれた。
 この少女は違う。
 溢れるほどの自己主張。
 鮮烈な存在感。
 圧倒的な引力で、ラーンという存在を浮き上がらせる。
 ――この娘は美しい。
 ラーンは素直にそう思った。
 外見も整った顔立ちだったが、それ以上に、この少女の存在自体が美しかった。
「この娘は、シルビア。ラーン、キミより年下だ。面倒を見てやってくれ」
「私が、ですか?」
 ラーンは胸の中で少女の存在に感銘を受けながらも、いつもと変わらぬ無表情でそう応えた。
 他意はない。
 だが、赤い髪の少女は、ラーンの無愛想な返答が癇に障ったらしく、細い眉をキッと吊り上げた。
 シンマラはそういったことには気が回らないのか、険悪な雰囲気を無視しているだけなのか、淡々と続けた。
「ラーン、キミは人の面倒を見るべきだ。シルビア、キミは人に面倒を見られるべきだ」
「アンタはアタシをガキ扱いしないって言ったじゃないか!?」
 シルビアがシンマラに食って掛かる。
 シンマラは腕組みをして、背の低いシルビアを見下ろした。
「確かに言ったな。あれはキミと出会った日の約束だ。だが、これは子ども扱いではない。キミにはそういうことが必要だし、ラーンにも必要なことだ」
「必要ならば、私はやります。いいえ、やってみたい。私はやってみたい」
「くっ、何だ、コイツは……」
 激しい困惑と激しい怒気がシルビアの全身から溢れ出している。
 それさえも、ラーンには美しいと思えた。
 これほど熱く、これほど激しい外界との接点はなかった。
「ラーンが乗り気になってくれて、私は心底嬉しいよ。私はキミにも期待しているのだが?」
 シンマラが真顔でシルビアへと言った。
「アタシは自分の面倒は自分で見れる!」
「それは素晴らしいのだが、私の期待するところとは違う。私はキミに世界を変えたいと言っただろう。己に多くの選択肢を持ってみることは重要なことだ」
 シンマラの物言いを否定することはいくらでもできる。
 だが、彼女が言いたいことをシルビアは理解していた。
 他者との接触を怒りのみで表してきた自分に必要なものは、師だけでない。
「……わかった。わかったよ」
 しぶしぶといった雰囲気でシルビアが首を縦に振る。
 シンマラも大きく頷いた。
「よろしい。しかし、どうせなら、お嬢様とでも呼ばれてみてはどうだ?」
「ふっざっけるなッ!」
 シルビアの額に青筋が浮かんだ。
「怒るな。冗談だよ」
 そう言ってシルビアを宥めるシンマラの顔は真顔のままだった。
「私だって冗談くらいは言う」
「……ッ!」
 シルビアが口を開きかけるが、言葉は出てこない。
 口だけをパクパクと動かして、空気を吐く。
 別にシンマラの言う『冗談』が面白かったわけではない。
 むしろ、怒りが全身を駆け巡っている。
 だが、こういうやり取りさえ、シルビアは今までしたことがなく、虚を突かれたように反応しようがないのだ。
 また、それこそが、シンマラが言う『面倒を見られるべきこと』の原因の一つであることだと、シルビアは怒りの溢れる脳のどこかで理解していた。
 そして、ラーンもまた理解していた。
 彼女は反応できないでいるシルビアへと平板な声のまま言った。
「よろしくね、『お嬢』」
「ハァ?」
「お嬢様が嫌なんでしょう?」
「ハァ?」
「だから、様を取ってお嬢」
「ハァ?」
「敬称はないから対等よ」
「もしかして、バカにしてるのか?」
「違う」
 ラーンの瞳は穏やかで青く澄んでいる。
 その目に憧憬が混じっていることに、シルビアは初めて気づいた。
 今まで浴びたことのない眼差し。
 シルビアは真っ赤な怒髪を鎮めた。
「バカにしてないなら良い。冗談でもないなら良い。好きに呼んでくれれば良い」
 シルビアはそっぽを向いたまま、そう答えた。


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