肝試し



「これより生徒会合宿終了記念『納涼肝試し大会』を開催いたします」
 どんどんどんっ、ぱふぱふっ。
 静寂が支配する月夜の森に、水のような透明な声と、盛り上がりに欠けるサウンドエフェクトが鳴り響いた。
 声の主は、黒髪をボブカットにした眼鏡をかけた少女。
 猫ヶ崎高校生徒会書記、草影(くさかげ) (しのぶ)だ。
 その隣には、仄かに茶色に染めた髪の少女がメガホンを持って立っている。
 生徒会会計、芦屋(あしや) 菜穂(なほ)
 どちらも、猫ヶ崎高校の制服ではなく、私服に身を包んでいる。
 忍は怜悧なイメージとは裏腹のピンク基調のキャミソールにデニムのパンツというアクティブな姿で、菜穂は陽気な性格の通りにアロハシャツにやはりデニムのパンツという格好だった。
 その二人と向き合うように数人が半円を描いて立っている。
 半円の中央にいるのは、白のブラウスに黒のフレアスカートという清楚な服装をした少女。
 鮮やかな黄金色に染めた長い髪をお嬢様然とした縦ロールにした彼女は、吾妻(あずま) ほまれ。
 猫ヶ崎高校の誇る生徒会長だ。
 勝ち気な表情はいつもの通りだが、不遜な雰囲気は緩和されている。
 その原因は彼女の左側に立つ少年の存在にあった。
 柔らかそうな茶色の髪、曲線的な輪郭の小さな顎とほっそりとした身体つきは、一見しただけでは女性と見間違えてしまいそうだ。
 彼は、八神(やがみ) 悠樹(ゆうき)
 吾妻ほまれの意中の人だ。
 この場では、彼と彼の左隣にいる少年の二人だけが生徒会の関係者ではなかった。
 その生徒会関係者ではないもう一人、悠樹の左隣にいる黒のポロシャツに、ミリタリーパンツを穿いた少年は、如月(きさらぎ) 雅志(まさし)
 物理研究部の部長である。
 悠樹と比べれば、中肉中背という体型で、一般的な男子生徒といった印象を受けるが、ただその目だけは熱っぽい光を宿している。
 そして、最後の一人は、麗しき生徒会長の右側に立つ長身の少年。
 生徒会副会長の一条(いちじょう) 龍臣(たつおみ)である。
 ティーシャツに包まれた肉体は、どちらかといえば細身ではあるが鍛え上げられた筋肉によって引き締まっているのが窺われた。
 デニムを穿いた両脚も長い。
 彼も悠樹と同じように端整な顔立ちではあったが、女性的な悠樹とは違って甘いマスクという陳腐な表現が似合う顔立ちをしている。
 ただし、その眉間にはしわが刻まれていた。
 苦い表情のまま、龍臣は手を挙げた。
「質問がある。生徒会ではない八神と如月が混じっているのだが?」
 菜穂がにこやかな笑みを浮かべて、メガホンを口に当てて応える。
「肝試しいうても、女の子だけだと危ないやん?」
「私がいるだろう」
「万が一の時のためや。悠樹くんは霊関係強いからな」
「化学研究部の合宿帰りに呼び出されて、何事かと思ったんだけど、まあ、そういうことなら」
 悠樹が柔らかな笑顔を浮かべる。
 龍臣はまだ納得できないように、雅志を指差した。
「八神がいる理由はわかったが、如月は?」
「ペアでやった方がおもろそうやから、そのための人数合わせ」
「うぉい!」
 しれっと応える菜穂に、龍臣ではなく、雅志が、不服そうに声を上げた。
「こっちも物研の合宿帰りだったというのに緊急事態といわれてきたら、肝試し大会の人数合わせとか、どんな罠だ。このエセ関西弁女」
「エセやないもん。なんちゃって関西弁やもん」
「どういう言い訳だよ!」
「まっ、男が細かいこと気にせんといて。ささっとはじめよ」
 菜穂はうるさい男たち二人の意見など最初から聞く気がないらしく、営業スマイルを麗しの生徒会長とメインゲストの悠樹に向けた。

「ほんなら、説明しますぅ。まず、これが地図です。この森の奥に、樹齢千年を超えるという大杉があります。そこが折り返し地点や。大杉の根元に招き猫を三体置いといたから、男女ペアになってそれを一つ持って帰ってくること。出発はもちのろんで一組ずつ。組と順番はもう決めてあります。まずはウチとたっちゃん、その次が忍と如月、んで最後が、会長と悠樹くんね」
 ペアの組み合わせを聞いた雅志が、忍に忍に視線を向ける。
「むむっ、草影とペアか」
「まさか、私と同じ組では不服と?」
 忍が眼鏡のブリッジを指で押し上げながら、睨むような目で雅志の視線を受け止める。
「い、いや、そんなことはないが……」
 雅志は気圧されたように首を横に振った。
 はっきり言って、雅志は生徒会の女性陣は皆、苦手だった。
 この草影 忍も、そして、芦屋 菜穂も、性格に難がある。
 だが、その二人も傲岸不遜の生徒会長に比べればマシだ。
 生徒会長と組まされたら、召使いのように扱われかねない。
 一番面倒くさい相手を悠樹に押し付けることができて内心では、ほっととしていた
 忍は首を振る雅志に冷たい視線を向けながら、ため息を吐いた。
「そうですか。不服はありませんか。しかし、私は不服です」
「うぉい!」
「本当はほまれさまと組みたかったのですが、男女ペアはほまれさまの強いご要望あってのこと。そして、不服でも、あなたがペアの相手というのはもはや変えられない事実。受け入れなければなりません」
「そこまで言うなよ。哀しいよ」
 雅志は、がっくりと肩を落とした。
 龍臣は、若干不満そうだった。
「私の相手は、菜穂か。どうにも意図的なものを感じるな」
「なんやねん、たっちゃん、ウチと組みたくないんか?」
「そういうわけではないが、この私こそが、ほまれさまの護衛にこそ最適であるはずだろう。ほまれさまのためならば、肉が骨から削げ落ちるまで戦えるぞ」
「どこの薔薇の騎士やねん」
「薔薇の騎士? なんだそれは?」
「いや、なんとなく、そんな感じがしただけ。どうせなら、ウチの騎士(ナイト)になってくれればイイやん」
「お、おまえ、よくそういうことが恥ずかしげもなく言えるな」
「騎士なら用心棒と違って無料(タダ)やしな」
「そこかよ! ていうか、私は、ほまれさまの騎士だ!」
「ひどっ、ウチのことは守ってくれへんっていうの?」
「い、い、いや、それは、そんなことは、そんなことはないぞ」
「動揺しているぅ。信用できん」
「……信用しろ。騎士に二言はない」
「なら、愛してるって言うて〜」
「ちょっ、おまえっ、どさくさにまぎれて何を言わせようとしてんだ!」
 怒りだけでなく恥ずかしさも手伝って顔を真っ赤にして怒鳴る龍臣に、菜穂が舌打ちする。
「甲斐性なし」
「ぬおっ、何を言うか。おい、菜穂、後で私の男らしさその目に焼きつけよ!」
「あっ、コラ! 居丈高に先送りすんな! あんたは威張るだけの政治家か!」
「おい、忍! さっさと始めろ!」
「その前に、肝試しを盛り上げるために、この森に伝わる怖〜い話を聞かせてあげましょう」
 忍が、応雰囲気を出すつもりか、懐中電灯で自分の顔を下から照らしながら、この森にまつわる都市伝説のような話を始めた。
 菜穂がわざとらしい悲鳴を上げるが、龍臣も雅志も面倒くさそうな顔をしている。
 ほまれと悠樹は、真面目に頷きながら聞いている。
 忍の話では、この森には、悪霊が徘徊しているという噂があるのだという。
 生きた人間は悪霊によって地獄に引きずり込まれ、明朝までありとあらゆる恐怖を味わわされるのだという。
「その体験のあまりの恐ろしさに、皆、記憶を失ってしまうのだと言われています。実際、この近隣では年間何人もの記憶喪失者が病院に運ばれているとか」
 よくある話と言ってしまえば、よくある話だった。
 訪れた人が消える墓地、地獄へと続くトンネル、生者を誘う滝壺。
 似たような話は、いくらでも見つかるだろう。
 この森の都市伝説で一点だけ特徴があるとすれば、森に足を踏み込んだものが死や行方不明という定番の結果を迎えるのではなく、記憶喪失となって病院に運ばれるというところだろう。
「皆さん、くれぐれも悪霊に捕まらないように気をつけてください。男性の方は命懸けで女性を守ること。以上です。それでは肝試しを始めましょう」

 忍の話が終わると、すぐに肝試しの開始となった。
「さあ、行きましょうか、如月殿」
「えっ、ちょっ、草影、も、もう行くのか?」
「何を焦って……まさか、怖いのですか?」
「ば、ばかな。怖くなんかないぞ。ふはははは!」
「何を笑っているんです。意味がわかりません。さっさと行きますよ」
「ひいっ……」
 まず、忍が雅志を引き摺るようにして、森の中へと入って行った。
 闇に彩られた森の中から悲鳴が聞こえてくるが、それがすべて男の声だった。
 しかし、黙々と進む忍に置いていかれないようとする雅志の情けない悲鳴も、森の奥深くへと入っていったためか、やがて、ぱったりと声が聞こえなくなった。
 一条 龍臣が、芦屋 菜穂に声をかける。
「さて、行くか、菜穂」
「たっちゃん、きばってや」
「よ、よせ、くっつくな」
「だって、怖い」
「嘘を吐くな、嘘を。おまえ、顔が笑ってるぞ」
 辟易とした表情でずんずんと進み始める龍臣に、菜穂はピクニックにでも行くような軽い足取りでついていった。
 時折、菜穂と龍臣の漫才のような怒鳴り合いが聞こえてきたが、それも、先程の雅志の悲鳴と同じように、やがて、ぱったりと聞こえなくなった。
 残っているのは、ほまれと悠樹の二人だけになった。
「忍たちが戻ってきたら、私たちも参りましょう」
 ほまれが悠樹へと言う。
「そうですね」
 悠樹はいつもと変わらぬ調子で頷いた。
 夜風が二人の髪を揺らす。
 ふたりだけ。
 生徒会長が、そのことにようやく気付いたように微かに頬を上気させる。
 唾を飲み込むと、白く細い喉が微かに上下した。
 チラチラと悠樹の顔を見ては、長い睫毛に縁取られた潤んだ目を伏せる。
 端々に窺える生徒会長のぎこちなさは一目瞭然だったが、悠樹は気づいていない。
 明らかに挙動不審なのだが、指摘するものはそこにはいない。
 ――夜で良かった。
 ほまれは、そう思った。
 彼女は今、自分の頬が桜色に染まっているに違いないと自覚していた。

「それにしても、草影たち、遅いですね」
 しばらくは他愛のない会話が二人の間で交わされていたが、気づいたように言った悠樹の言葉に、ほまれもハッとしたようにカルティエの腕時計に目をやった。
 菜穂たちが出発したのが、今から十五分前。
 そして、菜穂たちが出発したのが、出発したのはさらに十五分前だから、三十分近くが経過している。
 この肝試しは往復で十五分程度だと忍と菜穂が言っていた。
 忍組みは、菜穂組みと入れ替わりくらいで戻ってくるはずだが、まだ音沙汰がない。
「そういえば、龍臣たちも、そろそろ帰ってきても良いものですのに」
 龍臣の猪突猛進ぶりならば、菜穂を抱えてでも戻ってきてもおかしくはない。
 だが、彼らが戻ってくる様子も一向になかった。
「何かあったのかもしれない」
「……探しに参りましょう」
「ええ、でも、万が一危険なことがあるかもしれませんから、先輩は森の外の、そうですね、近くにファミレスがありましたから、そこで待っていてください」
「いいえ、わたくしも参りますわ」
「しかし……」
「わたくしは生徒会長です。それに唯一の上級生ですのよ」
「……わかりました。でも、一つだけ、ぼくからお願いがあります」
「何でしょう?」
「手を繋いでください。ぼく、けっこう怖がりなんで」
 ほまれは悠樹の『お願い』に一瞬、きょとんとしてしまった。
 それから、吹き出すように笑った。
 悠樹は自分を気づかってくれているのだろう。
「よろこんで」
 ほまれは、悠樹の差し出してきた手を握った。

 懐中電灯を片手に、悠樹は暗い森の中を進んでいた。
 森の中は夜の闇も手伝って非常に薄気味悪く、ところどころぬかるんだ場所もあり、足下にも気をつけなければならなかった。
 悠樹はほまれの手を取って、できるだけ彼女に負担をかけないようにしていたが、握った手からは彼女の抑えきれない震えが伝わってくる。
 ほまれは気丈に振舞ってはいたが、やはり思いもかけない展開に怯えているのだろう。
 いつもの勝ち気で傲慢な生徒会長ではない。
 歩き始めてしばらくした頃、突然、懐中電灯の明かりが消えた。
「故障?」
 悠樹がスイッチを何度も押すが、カチカチという音が鳴るだけで一向に光が灯る気配はない。
 ほまれが怯えた表情で抱きついてくる。
「悠樹さま」
「大丈夫です」
 悠樹に慌てた様子はない。
 気づかうようにしつつ、動きの自由を確保するためにゆっくりとほまれを引き離す。
 暗闇の中でも黄金の髪はまるで淡い光を放っているようにも見える。
 地毛ではなく染めているという噂だが、彼女の優雅さを助長しているのは間違いがない。
 ほのかにシャンプーの香りがした。
 ――これは恐怖より、ドキドキする。
 悠樹は鼓動が速くなるのを意識して無視し、前方に目をやった。
 人の気配を感じたのだ。
「草影?」
 草影 忍が、ゆらりと佇んでいた。
 その隣には、雅志が立っている。
 少し離れた場所には、菜穂と龍臣の姿もあるではないか。
「忍、菜穂! ついでに、龍臣! それから、ええと、如月くん!」
 緊迫した中でほまれが皆の名前を呼ぶ。
 明らかに彼女の中での重要度が違うのには、悠樹もこんな状況でも苦笑せざるを得ない。
 しかし、ないがしろにされた如月雅志からも、そして、忍からも菜穂からも龍臣からも反応がなかった。
 異変を感じて、悠樹が忍に近づく。
「草影?」
 目の前で呼びかけるが、何の反応もない。
「忍!」
 顔色を変えたほまれが、悠樹を押し退けて忍の肩を揺する。
 乱暴に退かされたが、悠樹は気を悪くもしなかった。
 親友の状態のおかしさに取り乱さない人間の方が、悠樹にとっては気が悪くなったろう。
「忍、どうしたの、しっかりしなさい!」
 必死にほまれが呼びかけるが、忍は返事をしない。
 良く見れば、黒縁眼鏡の奥で目も見開いたままだ。
 瞳孔さえも、ピクリとも動かない。
 忍以外の三人からも何の反応もないところをみると、同じ状態に陥っているのだろう。
 悠樹はそこで思い出した。
 草影忍が肝試しの開始の時に話していた都市伝説を。
「まずい」
 忍は、森の中の悪霊に出会うと記憶喪失になると言っていた。
 記憶、つまり、心。
 心、つまり……。
「もしかしたらタマシイがぬかれているかもしれない、そうおもうたろう?」
 ぬめった声がした。
 とたんに、空気が重くなり、まとわりついてくる。
「悠樹さま!」
 ほまれが悠樹の手をぎゅっと握る。
 悠樹もほまれの手を強く握り返した。
「おそろしいかえ?」
 また、声がした。
 いつの間にか、黒い影が傍に立っていた。
「うわさのあくりょうかとおもうたな」
 影がゆっくりと近づいてくる。
 黒い髪をした女であった。
 顔立ちは美しいが、白い肌は不気味なぬめりを持っていた。
 悠樹がほまれを庇うように女との間に移動する。
 とにかく、まず、ほまれの安全を確保しなければならない。
「せんぱいをあんぜんなところへにがさなくてはとおもうたな」
 悠樹がほまれとともに一歩下がる。
 風を纏ってなら逃げられるかもしれない。
 だが、視界の悪い夜の森の中だ。
 ほまれにケガでもさせたら……。
「かぜつかいよ、かぜをまとって、せんぱいをだきかかえてとぼうかとおもうたな。しかぁし、よるのもりのなか、だいじなだいじなせんぱいをかかえてとんでけがでもしたらどうしよう。そうとも、おもうたな」
「……!」
 悠樹は焦った。
 ――考えていることを読まれている?
「かんがえていることをよまれていると、そうおもうたな」
 ――考えていることを言い当てる妖怪、まさか……。
「くかかか、おまえ、いま、わたしをサトリだとおもうたろう?」
 黒髪の女が真っ赤な唇を裂いて、笑った。
「サトリ?」
 ほまれが怯えた表情で悠樹に尋ねる。
「人の心を読む妖怪です。考えていることを言い当て、意識の隙を突いて魂を奪うと言われています」
「ま、まさか、では、忍が言っていた都市伝説は……」
「いかにも、いかにも」
 黒髪の女――サトリが、頷きながら近づいてくる。
 悠樹の端整な顔を見詰めるサトリの瞳孔は蛇のように縦に裂けていた。
「たたかうか、たたかうか。それもよかろう。なかまをみすてるわけにはいかんものなぁ。くかっ、くかかかかっ」
 悠樹は跳んだ。
 一気に間合いを詰めて、蹴りを放つ。
 サトリはまったく動揺した素振りもなく、笑い続けていた。
「くかかっ、みぎか」
 ひらり、と悠樹の蹴りを避ける。
「ひだりか」
 ひらり、と今度は拳を躱わす。
「りょうほうか」
 最後に放った回転蹴りからの踵落としも、当然のように読まれていた。
「すばらしいチカラのもちぬしじゃ。だが、こころをよめればかわせぬものでもない」
 額から汗が流れ落ちる。
 悠樹は自分がひどく消耗しているのに気づいた。
 体力も霊気も、まだほとんど使ってはいない。
 それなのに、息が切れる。
 心を読まれているからか。
 いや、これは……。
「こころを喰われているからかのう?」
 サトリが、鋭い牙を出して笑った。
「おぬしのこころを喰ろうてやろう。おぬしのきおくを喰ろうてやろう」
 サトリが無造作に手を伸ばしてきた。
 動きはそれほど速くはない。
 だが、悠樹は避けることができなかった。
 気づけば、喉を掴まれていた。
「くかかか……」
 サトリの指が喉に食い込む。
 ビクリッと悠樹の身体が痙攣した。
 サトリが手を離し、その指を長くて太い青い舌でぺろりと舐めた。
 悠樹は動きを止めた。

「ゆ、悠樹さま?」
 ほまれが泣きそうな表情で、悠樹へと呼びかけた。
 だが、何の反応もない。
「タマシイを喰ろうてやったわ。もううごきはせぬ。もうきおくもこころもないただのにんぎょうじゃ」
 サトリが、ほまれへと向き直る。
「くかか、ついでにおまえのこころも喰ろうてやろう。かぜつかいにくらべれば、たいした霊力もないが、はらのたしにはなろうぞ」
 ゆっくりと、ゆっくりと、サトリがほまれへと歩を進める。
 夜の森にサトリの笑い声だけが響いている。
「ほぉれ、ほぉれ、にげられぬぞ。くかか、くかかか」
 サトリが悠樹たちにしたのと同じように魂を抜きとろうとほまれへと手を伸ばす。
 ほまれは俯いて、ぶるぶると震えている。
 恐怖のためか。
 サトリはそう考えた。
 だが。
「よめぬ?」
 サトリの動きが止まった。
「……こころのこえがきこえぬ?」
 サトリは混乱した。
 と、唐突にサトリの目の前が暗くなった。
 グシャリッという音が響いた。
 ほまれのフォームも何もなっていない前蹴りが、サトリに炸裂していた。
 恐らく高級ブランドのものであろう靴――夜の森を散策するにはあまりにも似合わないが、妖怪の顔面を蹴るにはもっと似合わない代物――が、サトリの顔面に深々と埋まっていた。
「オゴァッ!?」
「悠樹さまに……」
 ほまれが顔を上げた。
 燃えるような光を灯した瞳が、サトリを射抜く。
 その激し過ぎる視線を受けた瞬間、サトリは背中に走る悪寒を抑えることができなかった。
「ゆ、悠樹さまに……悠樹さまに……悠樹さまに何をなさいますのォォォっ!」
「こ、こやつ…………」
 サトリは理解した。
 この金髪女が震えていたのは恐怖のせいではなかった。
 彼女は怒りで震えていたのだ。
「キ、キレておる。りせいがふきとんで、こ、こころがよめぬ」
 ずん、ずん、と、黄金の髪が迫ってくる。
 退魔の経験どころか、格闘技の経験もほとんどない令嬢なのだが、今その全身から醸し出されている威圧感はすさまじい。
 もともとの美の女神もかくやという造形のほまれだけに、額に青筋が浮かび、眼輪筋がぴくぴくと痙攣させている顔は、恐ろしいものがあった。
 ――このおなごのタマシイをさきに喰らうべきだった。
 サトリの後悔は、もちろん、遅かった。
 隙だらけの、大振りの、勢いだけの蹴りが再び、サトリの顔面を打ち抜いていた。
 ばきっ、めきっ、ごきっ、がっ、がっ、ずがっ。
 何かが砕ける音が連続で響き、赤い液体が飛沫を上げた。
「ミッギャァァァッ!」
 夜の森に断末魔が木霊した。

 八神 悠樹が意識を取り戻したのは、他の四人より少し遅れてのことだった。
 吾妻 ほまれが目を潤ませながら、悠樹の顔を覗き込んだ。
「悠樹さま、ご無事ですか」
「え? ええ、……そうか、ぼくはサトリに……」
「サトリとやらは、わたくしがやっつけました。ご安心ください」
「へっ? ほまれ先輩が?」
「愛の力ですわ」
 ほまれはそう言って、悠樹の腕に自分の腕を絡ませた。
 芦屋 菜穂と一条 龍臣と如月 雅志は頬をヒクつかせている。
 彼らの視線は、ほまれの足下に注がれている。
 フレアスカートの裾と靴が、赤黒いもので汚れていた。
「たっちゃん、女って怖い」
「おまえも、女だろう」
「そうやったなぁ……」
「くそっ、肝試しって、これか。生徒会長と過ごすことか。そうなのか、そうなのか」
 雅志は呟きながら、心に誓った。
 絶対に生徒会長に逆らうまいと。
 草影 忍だけはいつも通りの冷静な顔のまま、眼鏡のブリッジを指で押し上げた。
 そして、立ち並ぶ樹木の先をゆらゆらと歩いていく影に視線を向けた。
「くつこわい、きんいろこわい」
 影はうわ言のように、そう呟いているようだった。
 頭から血が噴水のように吹き出ている。
「くつこわい、きんいろこわい」

 これ以降、この森に関する都市伝説に、「くつがくるぞ、きんいろがくるぞ」という呪文を唱えれば、悪霊から逃げられるという部分が加わった。


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