涙の日
雨が降っている。
雨雲が天を覆い、光を拒む中、透明感のある竪琴の音色と、美しい歌声が流れている。
竪琴を奏でているのは、一人の美しい女性。
視るものすべてを虜にする完璧な造形。
水色の秘書スーツを内部から押し上げる豊かな胸、タイトスカートから覗くすらりとした美しい脚。
はっとするような輝きを放つ、黄金の髪をシニヨンにまとめている。
現代的な美しい顔立ちと容姿には、銀色の竪琴だけが不釣合いだったが、その細く美しい指は聴くものの心を深く打つ『レクイエム』の旋律を奏でていた。
「『ラクリモーサ』か」
曲が終わったところで声をかけられ、黄金の髪を持った女性――ミリア・レインバックが妖艶で淫靡な眼差しを上げる。
その先には、よく見知った顔と底冷えするような双眸。
「筆頭幹部殿」
ミリアと同じ色の髪を持ちながらも、ミリアとはまったく雰囲気の違った女性。
『ヴィーグリーズ』筆頭幹部、"氷の魔狼"シギュン・グラム。
美しさこそミリアに勝るとも劣らないが、妖艶な色香を漂わせるミリアとは正反対に威風堂々としている。
「器用なものだな」
愛煙家であるシギュンが懐から煙草を取り出し、マッチで火を点ける。
「それにしても、まさかモーツァルトもおまえが歌うとは思うまいな」
天才ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。
彼は数々の名曲を残した。
そして、絶筆となったのが『レクイエム』である。
貧困に悩まされていたモーツァルトは匿名の依頼者から『レクイエム』の製作を依頼されたが、その頃には体調を崩しており、『レクイエム』の『入祭文』と『キリエ』は完成していたものの、『ラクリモーサ』の第八小節まで書き上げたところで、彼は齢三十五にして没した。
「美しさには、光も闇も、天使も悪魔も、魅了されるのですわ」
ミリア・レインバックは人間ではない。
その容貌こそ、二十代後半から三十代前半のものだが、実際はすでに齢数百年を数える。
悪魔的な美しさではなく、彼女はまさに悪魔なのだ。
ミリアの言葉を受けて、シギュン・グラムが紫煙を吐く。
「モーツァルトは、死こそが生の真の目的と言った男だ」
「死こそもっとも親しい友とも言っていましたわ」
「その男が最後に手がけたのが『レクイエム』だった。しかし、未完で逝ったというのは皮肉か、それとも幸福か」
病の身で、遠くない死を認識しながら、死者を送る曲を書いた。
そして、その死者のための曲が自分の『レクイエム』となった。
「モーツァルトは天才だったのでしょう。人生最後の作曲が未完であることは、彼にとって重要ではなかったのかも」
ミリア・レインバックは、うっとりとした表情で、竪琴の弦をかき鳴らした。
彼女は、悪魔と呼ばれるものの中でも、夢魔という存在だった。
人の夢を喰らい続ける魔。
「死こそが目的ならば、死こそが夢とも言えるでしょう。命を燃焼し尽くして、死ぬ。それが望みならば、それは達成されたのではないかしら」
儚く、不可解で、謎に満ちた、死。
貧困と病に侵され、嫉妬と恨みに囲まれ、『レクイエム』を完成することができなかった、死。
他者から見ればそうであっても、それが本人の描いた夢ならば、とミリアは嗤う。
「死んだ時に夢が叶うなんて、これ以上の幸福はありませんわ。叶った夢が誰にも奪われる心配もありませんもの」
天才の絶筆となった死へ奏でる美しい旋律は、しかし、それは同時に生者の心を掴んで離さない。
それは最期の最期への憧憬。
そして、それは不老の悪魔さえも虜にする。
ふと、シギュンは死を歌うセイレーンに死をも喰らうような虚ろな狂眼を向けた。
「ところで、レインバック。おまえの夢は何だ?」
「筆頭幹部殿」
ミリア・レンバックは心底可笑しそうに、そして、心底哀しそうに、嗤った。
「夢魔は夢など見れないのです。夢魔は他者の夢を食らう、それだけ、なのです」
夢を見れないから夢を喰らう。
夢を喰らうゆえ、他者から離れられない。
夢を喰らうゆえ、他者に近づけない。
「生は自分だけのものとは言い切れません。しかし、死は自分だけのもの。死ぬ時は誰でも独り。誰にも邪魔はさせないし、渡しもしない。かの音楽家がそう考えたなら、もしかしたら、わたくしの夢もまた、死なのかも」
淫靡な瞳に暗い影を一瞬だけ宿らせ、ミリアは竪琴に彫られた『ミリア・レインバック』の名をなぞる。
今まで何度も何度も指でなぞったその文字をまた、なぞった。
無論、死など望まない。
だが、死が親しい。
指を弦へと伸ばした。
美しい死の音色が紡ぎ出される。
「ラクリモーサ ディエス イッラ……」
次いで旋律に乗ってため息のような透明感のある歌声が夢魔の口を流れ出る。
シギュン・グラムは、その色のない双眸を閉じ、夢魔の嘆きの歌に聴き入った。