銀の竪琴



 私は水泡から生まれた。
 親もいないし、名前もない。
 何もない。
 だから、奪おうと思った。
 世界にあるものは、すべて自分が奪って良いものだ。
 そう思った。

 金を奪う。
 宝石を奪う。
 権力を奪う。
 命を奪う。
 すべては、奪い取れば良い。
 私には何もないのだから、奪って、奪って、奪って、糧にしていかねばならない。
 それでもまだ、満たされない。
 からからに渇いている。
 だから、また奪う。

 ただ奪うだけでは退屈だ。
 そこで思いついたのが、拷問だった。
 じっくりと時間をかけて命を削り取る。
 悲鳴。
 命乞い。
 悲鳴。
 怯えた瞳。
 悲鳴。
 心に響く甘美な果実。
 私は苦悶の表情の獲物を見据えながら、唄い、微笑み、命を削り取る。
 希望を奪う。
 相手は絶望しながら、すべてを差し出してくる。
 当然、拒む者もいたが、それはいつものように奪い取れば良い。
 それでも、私はすぐに飢えた。
 私には何もない。
 名前も、目的もない。
 水泡から生まれた私には自分が生まれた意味すらわからない。
 ただ生きていた。
 だから、満たされない。
 だから、刹那的な快楽を求めた。

 唄は好きだった。
 唄を覚えたのは、いつだったろうか。
 満たされず退屈な日々。
 奪っても奪ってもすぐに飽きる。
 あまりの退屈さに、気がついたら、口が勝手に動いて音色を紡ぎ出していた。
 不思議と唄っている時は無心になれた。
 だから、奪う時以外は、大抵唄っていた。
 奪う時ですら、旋律が口を出る。
 意味はない。
 ただ唄い続けた。
 そして、奪い続けた。

 ――しっとりと雨が降り注ぐ中、虹のように美しい音色が鳴り響いていた。
 妖艶にして、凛とした言葉の旋律。
 唄っているのは、金色の髪をした美しい女だった。
 大きな岩に腰掛け、雨に濡れながら、無心に唄い続ける。
 七色の美しい歌声。
 唄っている時だけが、退屈を忘れることができる。
 たまにここへやってくる人間たちを嬲り殺す以外には、唄うことが唯一の楽しみだった。
 女の歌声が止んだ。
 霧雨の向こうで、数人の人影が揺れる。
 馬に乗った屈強な男たちだった。
 騎士という種類の人間だろうか。
 白銀の鎧を身に纏っている。
「いらっしゃい」
 女は妖艶な声で、騎士たちに笑いかけた。
 男たちの中でも一際威厳のある男が、馬を前に進めてきた。
「見つけたぞ魔物め。旅人を襲い、拷問した挙句に殺す邪悪な妖魔め!」
 尊大な態度で、女を見下ろす。
 女は身じろぎ一つせず、上目遣いで騎士を見返した。
「魔物め!」
「我々が成敗してくれる。覚悟しろ!」
 金髪の女の姿をした魔物は、ため息を吐いた。
「誇りを持っているのね。奪ってあげる」

 騎士たちの死体が転がっている。
 片付けるのが面倒くさい。
 また唄い始めた。
 荘厳な調べ。
 目を閉じ、自らの歌声に酔う。
 退くことを知らぬ勇壮な騎士たちに送る鎮魂歌。
 騎士たちの退屈な答えの代償には高すぎるとは思いながらも、自らの空虚さを満たすためだけに音楽を奏でる。
 次の来訪者を待ちながら。
 自分を満たしてくれる答えを待ちながら。
 無心に唄い続けた。

 そして、また歳月は過ぎ去る。
 何日か、何年か、何十年か。
 唄い続ける彼女は太陽の上り下りすら目に入っていない。
 魔ゆえに無限の寿命がある。
 無限の自由。
 それこそが枯渇の正体。
「……また、来たわね」
 女は遠くから馬車が一台やってくるのに目を留めた。
 豪奢な馬車だ。
 貿易商人でも乗せているのだろうか。
 それとも王族か、大司祭か。
「何にせよ……」
 奪えば良い。
 豊かな者の命乞いの悲鳴ほど、心に染み入る。
 豊かな者ほど持ち得る財産をすべて捧げて助かろうとする。
 それだけに、奪い甲斐があるのだ。
 女は、無造作に右手を胸の前に翳した。
 不可視の力が手のひらに宿る。
 馬に狙いを定めた。
 シュッと風を切る音が鳴り響き、馬の首が落ちた。
 鮮血が空に舞う。
 馬を失った馬車はバランスを崩し派手に横転した。
 投げ出された御者は地面に頭を打ち付けて、動かなくなった。
 口から血の泡を吹いている。
「あら……?」
 少し力を入れすぎてしまった。
「しまったわね。あれじゃ、中身も死んだかもしれない」
 肩をすくめた。
 これはつまらない。
 腰掛けていた岩場を飛び降りて、馬車の近くまで歩み寄る。
「あ〜らら、やっぱり死んでるわね」
 女が二人馬車の外に投げ出されて、死んでいた。
「修道院さまご一行って所かしらね」
 着ている衣服を見る限り修道女のようだった。
 残念だ。
 悲鳴が聞きたかった。
 聖職者としてのプライドを奪ってやりたかった。
 財産と引き換えに命乞いをさせてやりたかった。
「ついてないわね」
 女は後ろを向いて岩場に戻ろうとした。
 淡い輝きを放つ金髪が揺れる。
 と、馬車の下でかすかな気配がした。
「ううっ……」
「生き残り……?」
 女が声のした方を覗き込む。
 女性が一人、馬車の下敷きになっていた。
 瀕死だが、まだ息がある。
 修道女だ。
 服装からして、他のものより身分が上に見えた。
 この馬車の主人かもしれない。
「ネイア…、フィナ……、無事なのですか……」
「お連れは死んだわよ。御者も」
 女は、修道女に教えてやった。
 優しさからではない。
 希望を奪うためだ。
「そう、ですか……」
 修道女は苦しげに首を横に振った。
「皆、神の御許に……」
「あなたも死ぬわよ?」
 女は、修道女の絶望の顔が見たかった。
 だが、修道女は微笑んでいた。
「これを……ごほっ……」
 そして、折れた腕で、銀の竪琴を差し出してきた。
「……?」
 女は、修道女の行動が理解できなかった。
「これを……、私を看取ってくれたお礼です……ごほっ…」
 大量の吐血。
 馬車の下敷きになって、身体の内部も滅茶苦茶になっているのだろう。
 もう、死ぬ。
 だが、修道女は取り乱さない。
「あなたたちを殺したのは私よ。馬を殺して馬車を横転させてやったのは私。命を、宝石を、奪うためにね」
 女は目を細めて、修道女を見下ろした。
 絶望の言葉。
 最後の最後で、すべて奪ってやろう。
 その聖人の仮面を剥いで、泣き叫ばせてやろう。
 女はそう思って、それを口にした。
 だが、修道女は、微笑んだまま首を横に振った。
 そのようなことは、たいしたことでもないというように。
「あ、あなたに、神のご加護がありますように。慈悲深い神はすべてお許…し……に……」
 修道女は優しく微笑んで、事切れた。

 女は、修道女の形見の竪琴を抱き抱えた。
 その銀色の竪琴には、人間たちの使う言葉で、『ミリア・レインバック』と読める文字が刻まれていた。
「ミリア・レインバック」
 修道女の名前だろうか。
 女は、修道女がとても羨ましくなった。
 私は、彼女からすべて奪おうとしたのに、修道女は何も奪おうとせず、逆に竪琴を譲って果てた。
 私は何十年、いや、何百年生きても奪うことしか知らなかったのに。
 修道女はとても幸せそうだった。
 竪琴に名を刻むほどの誇りある生き方をしていたのだろう。
 死ぬ間際ですら微笑みを浮かべられる生き方をしてきたのだろう。
 私にはそれがない。
 生きる目的がない。
 死ぬ目的もない。
「欲しい」
 女は小さく呟いた。
「欲しい……」
 女の指が竪琴を撫でる。
 この竪琴は修道女が自分に譲ってくれたものだ。
 奪ったのではない。
 譲られたものだ。
 初めて奪うことなく手に入れたものだ。
 『貰った』ものだ。
「ミリア・レインバック」
 女は修道女の名前を呼んで、ゆっくりと馬車を離れた。
 魔力があるように修道女の名前が魂に刻み込まれた。
 その部分だけは、渇くことがなかった。
 だから、女は、これからは、ミリア・レインバックと名乗ろうと思った。
 名前は呪縛だ。
 だが、自由なだけでは生きられない。
 呪縛だ。
 私は呪縛が欲しかったのだ。

 名を広めよう。
 ミリア・レインバックの名を。
 だが、それは修道女のそれではない。
 私の名前だ。
 水泡から生まれた夢魔セイレーンとしてのミリア・レインバックの名。
 血と悲鳴に彩られた名前を広めよう。
 それが生きる目的だ。
 そうしていれば、次の目的も見つかるだろう。

 ミリアは妖しく艶やかな笑みを浮かべた。


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