喰
夥しい血の匂いが漂っている。
ミリア・レインバックはハンカチで口元を抑え、眉をひそめた。
別に吐き気が込み上げて来たわけではない。
さすがにうんざりするような鉄の匂いにむせ返りそうになったからだ。
血の海の真ん中に月色の髪の女性が背を向けて立っている。
その両腕の指先から、ぽたり、ぽたり、と血が指から垂れ落ちている。
「殺す価値のある獲物はいましたか?」
ミリアが血で滑らないように気をつけながら、月色の髪の女性に声をかける。
月色の髪の女性、シギュン・グラムは目を閉じたまま無言だった。
白く冷たい貌をしている。
完成された氷の彫像のように美しい。
ミリアが比較的深そうな血だまりを避けて、シギュンの正面に移動する。
そこでようやく、シギュンが閉じていた双眸を開いた。
――ゾクリッ!
背筋が凍るとはこのことだろう。
ミリアはシギュンの視線が解放されて、周囲の温度が下がったように気がした。
シギュンの降魔の力、"氷の魔狼"フェンリルの冷気によるものではない。
シギュンの深い紺碧の双眸がもたらした意識レベルの冷却だった。
瞳というものは、その人物の内面を表現するものだろう。
だが、シギュンのそこには何もない。
ただ、そこには、ミリアの姿が反射されているだけだった。
何も映していない。
見られているのに、映されていない。
ミリアは今までシギュン・グラム以外の人間でこのような瞳を見たことがなかった。
その瞳には獣性がある。
邪悪もある。
闇もある。
だが、表面に出てきているだけのものだった。
その奥には何もない。
あえて言えば、無限の深淵だけがあった。
「人間という生き物は、人を殺せばその命の重みで奈落に落ちる」
シギュンの何も映さない狂眼が気だるそうにミリアへ向けられる。
「筆頭幹部殿も?」
「私は血など見飽きている。我が父の心臓もこの手で肉体から引き抜いた」
シギュン・グラムはそう言って、胸の前に出した右腕の手のひらを見つめ、指を開き、閉じ、開いた。
"氷の魔狼"と恐れられ、人の命を奪うことにためらいをもたない彼女でさえ、実父を貫いた時に真っ赤に染まった右腕の感触は忘れられない。
肉の潰れる音、内臓の引き千切れる感触、鮮血の生暖かさ。
罪悪感などはない。
あるのは、満足感。
命を奪った時だけに満たされる、己の渇いた命。
だが、それはすぐに渇いた。
注いでも注いでも、足りない。
麻薬とはまるで違う。
違うのだ。
殺す価値のある人間を殺した時にしか得られない捻れた高揚なのだ。
それは抜け出せない暗黒の穴であり、真紅な血を注がねば干からびてしまう闇の深淵だった。
――奈落か。
「だが、命が渇くというのが奈落なら、私も落ちているのかもしれないな」
「わたくしは人間ではありませんし、両親という存在もいませんわ」
ミリア・レインバックは珍しく物憂げに答えた。
アップにした金髪の左側だけ垂らした前髪を、指で梳く。
「人間を嬲り殺すことには愉悦しか感じませんけれど」
ミリアは確かに人間を殺すことに愉悦を感じていた。
「それでも、命が渇くというのはよくわかりますわ」
彼女は夢魔だ。
夢を奪う悪魔だ。
何にも縛られずに途方もなく長い時間を生き、夢を見ることもなくなってしまった。
だから、人間の夢を、そして、生を奪ってやることが楽しくて仕方がないのだ。
あるものは怒りに、あるものは絶望に、あるものは哀しみに魂を染め上げて、ミリアの手にかかって死んでいく。
志半ばで夢を散らせていくものの感情が、ミリアが見ることのできない夢を一瞬だけだが味わわせてくれる。
ふと、ミリアは小首を傾げた。
目の前の"氷の魔狼"は、その瞳の奥に狂気を湛えていても無感情とは程遠い。
高すぎる矜持を持ち、時には敵対者へ激しい怒りを見せ、時には部下に対して慈悲も寛恕も見せる。
だが、それほど表情豊かなシギュン・グラムが見せたことのない表情が一つだけあった。
そこに枯渇の遠因があるのではないだろうか。
「筆頭幹部殿」
「何だ?」
「涙を流したことはありまして?」
ミリア・レインバックは、シギュン・グラムが涙を流しているところを見たことがなかった。
いくら同じ組織の幹部とはいえ、四六時中一緒にいるというわけではないが、ミリアにはシギュンの泣き姿を見たことも、想像したこともない。
それは、ミリアだけではないだろう。
シギュン・グラムという人間を知っている者ならば皆、シギュンが涙を流す姿など想像することはできないに違いない。
「涙?」
さすがのシギュンもミリアの質問には面食らった。
「そうですわ。泣いたことはおありですの?」
「…………ある」
しばらくの沈黙の後、シギュンは首をわずかに縦に振った。
「意外という顔をするな」
シギュン・グラムは懐から煙草を取り出し、マッチで火を点した。
「お父上を討った時ですの?」
シギュンは父親であるエイリーク・グラムを殺して"氷の魔狼"フェンリルの力を手に入れた。
肉親を手にかけた時に涙を流しつくしたのではないだろうか。
「ノーだ」
だが、シギュンは首を横に振った。
「では、あの人を殺した時?」
ミリアが重ねて尋ねる。
ミリアのいうあの人とは、シギュンにとって唯一恋人と呼べる存在のことだった。
組織を裏切ったその男は、シギュンによって粛正されている。
シギュンが煙草を吸うようになったのは、男を手にかけて以来であったとミリアは記憶していた。
その時に、涙を枯らしたのではないだろうか。
「それも、ノーだな」
「それではいったい、いつですの?」
シギュンは顔をやや上向かせて紫煙を吐いた。
前髪が目元を追い隠し、肩にかかっていた髪がさらさらと流れ落ちる。
「母の胎内を出た時だよ」
呟くように答え、気だるそうに前髪をかき上げる。
再び顕わになった紺碧の眼差しが中空を睨みつけている。
その目には何も映っていない。
何も映ってはいないが、確かに何かを睨みつけていた。
「面白くもない落ちだろう?」
生まれた赤子は皆、涙を流している。
涙を流したことがある話の落ちとしては確かに面白くもない。
だが、ミリアは鋭敏だった。
――ああ、筆頭幹部殿の命は枯渇しているのではない。
この人は、命そのものが、空虚なのですわ。
「喰らい損ないましたのね」
――お母上を。
ミリア・レインバックが小さく肩をすくめる。
「……かもしれないな」
シギュン・グラムは不機嫌そうに応えた。