上善(じょうぜん)は水の如し



 人は他者と接して自分自身の存在を認識し、そして、自分以外の世界を認識する。
 そのことを知ったのは、お嬢と出会った時だ。
 生れ落ちて師と出会うまでの間、誰も私に興味を抱くことがなかった。
 実父と実母は私が生まれて間もなく病死してしまったし、子のなかった養父母は養子に迎えた私をエギルセル本家の名跡を継ぐ道具としか見なしていなかった。
 私への興味の薄い環境で私は育ち、私もまた周囲への興味を持つことができなかった。
 養父母が死んだ時、私は湖が枯れるように静かにひっそりと死ぬのだと考えた。
 思考はあったが、そこに何の感情もなかった。
 その後、師に引き取られ、そこで初めて世界をもらった。
 師は好奇心が強く、私を刺激してくれた。
 私を生かそうとしてくれた。
 その一年後、お嬢と出会った。
 お嬢は誰よりも強烈な輝きを持っていた。
 お嬢は私の世界に鮮烈な彩りを与えてくれた。
 師とお嬢がくれた世界で私は生き、そして、その後、師が私とお嬢を裏切った時に、矮小で卑怯な自分の本性を知った。
 鮮やかな憤怒に染まったお嬢を、毒々しい憎悪に染まったお嬢を愛おしいと想い、壊れたお嬢の傍らには自分が必要なのだと価値付けた。
 そして、お嬢を師に取られずに済むと思ってしまったのだ。
 師と再会した時も、私たちを裏切った師を追い詰めることで、安心を手に入れていた。
 でも、お嬢が運命神(ノルン)の卑劣な罠に陥った時、私は着飾った欺瞞を脱ぎ捨て、なまの自分と向き合わざるを得なくなった。
 自分自身のみじめさを思い知らされ、自分の無力さを呪うこととなった。
 そして、私は、お嬢を救うために、師へ助けを求めた。
 師がみじめな私を見捨てることはなかった。

 師よ、覚えていますか?
 太陽の話を。
 私が「お嬢は私の太陽だ」と言った時、あなたは「キミもシルビアや私の太陽になっている」と言ってくれました。
 ですが、私はお嬢を照らすには、やはり力不足だったようです。
 お嬢だけを照らし返そうとしてしまって、方向の偏った光は照らし出す場所以外に濃い闇を育むものだということに気づかなかった。
 あなたのように、お嬢も私も隔てなく照らしてくれる人の輝きにさえ気づかないふりをしていた。
 嫉妬という名の黒点ばかりが大きくなった太陽のなりそこないでしかなかったのです。
 お嬢の太陽は、あなたなのです。
「ラーン。キミはシルビアを救ってくれている。私はキミたちを裏切ったのだ。キミは傷ついている心で踏ん張り、シルビアを支えてくれた」
 師はそう言って、私の手を握ってくれた。
 ああ、師よ。
 でも、私は、私は……私はあなたを利用してきました。
 あなたを虐げ、あなたを貶め、それで、お嬢の心を繋ぎ止めてきたのです。
 私の手を握っている師の手を額へ押し付けるように戴くと、師は驚いたように目を丸くした。
「私は貶められるに値することをしたのだ。キミたちを巻き込むことを恐れるあまりに、キミたちを裏切った。キミたちは私に巻き込まれることを望んでいたのに。だが、キミは裏切り者である私を頼ってきてくれた。そして、今、私のことを照らしてくれているのだ」
 師よ、しかし、私は、自分の卑劣さが許せなくて、自分の中に渦巻く黒い感情が恐ろしいのです。
 天高く昇ってお嬢を照らすために、あなたを踏み台にしてしまった結果が、私を押し潰そうとしているのです。
 しかし、この期に及んで、お嬢やあなたの太陽になれない自分の不甲斐なさも許せないのです。
 自分の無価値ささえ認められないなんて、私はどうしようもない愚か者ですね。
 声が震えているのが、自分でもわかる。
 嗚咽が、混じっている。

「ラーン、キミは無価値などではない」
 師よ。
 なぜ?
 なぜ、このような私を抱き締めてくれるのです?
「ラーン、キミの、キミ自身の霊力(チカラ)のことを考えてみなさい」
 私のチカラ?
 水、の力ですか……?
「発現するチカラというのは(すべか)らく、魂の形に左右されるものだ。シルビアの鮮烈な魂は雷のチカラを宿し、悠樹くんの繊細にして激しい魂は風のチカラとして現れている」
 私の水のチカラは、私の魂のカタチということでしょうか?
「その通りだ」
 水……。
 私の魂は水のカタチ……。
「ラーン、古代中国の思想家、老子の言葉に『上善(じょうぜん)は水の如し。水は善く万物に利して争わず』というものがある」
 ジョウゼンハミズノゴトシ?
 いったい、どういう意味でしょうか?
「水のような生き方こそが理想という考えだ」
 水のような生き方が理想……?
 水は太陽のように誰かを照らすことはできないのにですか?
「太陽は世界に欠かせない存在だが、水もまた欠かせないものだよ。水はすべてを生かすが、水は誰とも争わない。人間、誰しも太陽になりたくて競って高いところへと昇ろうとするが、水は逆に、低いところへ低いところへと流れていく」
 そう言って、師は私の両肩に手を置いた。
 師の顔は、再会したばかりの頃よりもやつれているようにも見える。
 しかし、師の真剣で、冷静で、そして、温かさの込められた視線は、初めて出会った時と変わらない。
 私に生きる力を教えてくれたあの時のままだ。
「流れる水は川となり、無数の川が合わさって大きくなっていき、やがては、大海に至る」
 !?
 海!
 海、ですか。
「そうだ。ラーン、キミは海に、大海になりなさい」
 私が、海に……。
 太陽には成れなくても、海になら……。
「そして、シルビアも、私も、その海で泳ぐことにしよう」
 そう言って、師は微笑んだ。
「そのためにも、ラーン。運命神の罠から、シルビアを必ず救い出そう」

 ああ、師よ。
 我が師シンマラよ。
 ……感謝します。


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