峠を攻めるもの



「ここが、現場、だね」
 シャツにデニムというラフな格好をした神代(かみしろ) ちとせが、血の気の引いた頬を引き攣らせ、荒い息を吐きながら呟くように言った。
 そして、いつもならば眼力(めぢから)のあるはずの猫のような大きな瞳に、疲労の色を露わにして、目の前の峠に視線をやった。

 ――現場。
 逆招猫峠(さかまねきねことうげ)
 ヘアピンカーブがいくつも描かれている峠だ。
 その特殊な道の形のために事故が多く、そのため福を招く招き猫と逆に不幸を招く峠という意味で、逆招猫峠と呼ばれるようになったともいわれている。
 だが、最近は、その事故の件数がおかしなことになっている。
 近年は近くに別の緩やかで安全な道路が開通したために交通量は減少傾向にあったのだが、逆に事故の発生件数は倍増していたのだ。
 事故死した人間の亡霊が事故を誘発している。
 そういう噂が立った。
 そして、一週間前の土曜日、ちとせのクラスメイトの吉田が、この峠を原動付自転車で走行中に事故にあった。
 幸いに打撲程度で済んだが、彼は亡霊を見たという。
 入院見舞に行った時に聞いた限りでは嘘とも思えないので、ちとせは亡霊の調査に来たのだが――。
 本来は、同居している八神(やがみ) 悠樹(ゆうき)を連れてくる予定だった。
 悠樹は原動付自転車の免許も持っているし、彼の風属性の霊気は頼りになる。
 しかし、生憎と彼は化学研究部の合宿で留守にしていた。
 それで、延期も考えたのだが。
 ちとせの姉である(あおい)が懸賞の景品で新車を当てたという"不幸"が起きてしまった。
 葵が、「急ぎじゃないから」と頬を引き攣らせながら言うちとせの手を取って、「事故の原因が亡霊なら早く退治しなければならないでしょう」と強制的に新車に乗せたのだ。
 そして、車庫に残した乗り慣れた『ニュービートル』にも愛しい視線を送りながら、新車を発進させたのだ。
 ――現場に着く前に死ぬかと思った。
 それが今のちとせの心境だった。
 ちらりと乗ってきた車へ目をやる。
 神社の娘たちが乗る車としては、あまり似合っていないかもしれないが、可愛いデザインの純白の車だ。
 ほわんほわんとした雰囲気によく似合う白いワンピースを着た葵がハミングを口ずさみながら、車を楽しそうに眺めている。
 その姿はあまりにも平和的だった。
 ――相変わらず殺人的なドライブテクニックよね、姉さんは。
 車のハンドルを握ると豹変する人間がいると言われるが、葵はまさにその種の人間なのだ。
 普段は、湯のみで緑茶を飲みながら、まったりしている。
 普段は、神社の境内を箒で掃除しながら、のんびりしている。
 普段は、「あらあら」とか「まあまあ」が口癖のワンテンポ遅れた天然の反応をするおっとりした女性なのだ。
 地域では、『清楚な大和撫子』、『癒し系癒し手』として、評判の巫女なのだ。
 それが。
 盛大なドリフト走行でヘアピンカーブを曲がった瞬間を思い出し、ちとせは身ぶるいして映像と体感を打ち消した。
 そして、峠へと視線を向けた。
 先程とは違う悪寒が背筋を駆け抜ける。
「妖気の残り香があるね」
 やはり、この峠の事故には怪異が関係しているようだ。
「行くしかありませんね」
「!」
 突然耳元で囁かれ、ちとせが飛び上がりそうになる。
 葵が横に立って、車の鍵の付いたキーホルダーをくるくると指で回しながら、ちとせと同じように峠を見上げていた。
 ――ああ、姉さん、やる気満々だ。
 ちとせは冷や汗が頬を伝わるのを感じずにはいられなかった。

 それでも、出だしは落ち着いたものだった。
 葵は峠の入り口で口ずさんでいたのとは違うハミングを歌いながら、上機嫌で運転している。
 車窓から見える峠の美しい景色もあって、ちとせは、ほっと息を吐いた。 
 ちとせは助手席ではなく、後部座席に座っている。
 狭い車内にあって、できるかぎりの自由を確保するためだ。
 葵には運転に専念してもらう必要があり、怪異に遭遇した時はちとせが主となって対応しなければならない。

 不意に、ちとせの目が真円を描いた。
 背筋が震える。
「……!」
 気がつけば、何者かが並走していた。
 前に出るでもなく、後ろに下がるでもない。
 速度をぴったりと合わせたように、横に並んでいる。
「!」
 その並走者の奇妙さに気づいたちとせの表情が変わった。
 まず、乗り物。
 車でもなければ、バイクでもなかった。
 牛車(ぎっしゃ)
 牛が牽引する日本の平安時代の貴族が使用していた古典的な乗り物。
 驚くべきことに、その牛車が並走していた。
 しかも、牽引する牛の姿はなく、人が乗る屋形部分だけが走っていた。
 そして、ちとせから見える片側にしか車輪が付いておらず、その車輪は炎に包まれていた。
 走れるはずがないものが、走っているのだ。
 そして、乗車している存在もまた、目を疑うような恰好をしていた。
 車箱の簾は開かれ、床に座っている平安貴族を思わせる光沢のない黒髪をした美女が十二単を纏って静かに座っている。
「退魔の者か。我らの走りを止めようてか。笑止、笑止」
 走行中だというのに、腹に響く重低音の声が、ちとせの耳に届いた。
 声の主は十二単の女ではないようだ。
 女は唇を動かさず、涼やかに微笑んでいる。
 彼女の乗っている牛車の片側だけについている車輪の中心に凄まじい形相の男の顔が浮き出ており、憎悪に満ちた目がギョロリとこちらを睨みつけている。
 それで、気づいた。
「まさか、片輪車(かたわぐるま)……!」
 片輪車は、片輪のみの牛車が美女を乗せて走り、その姿を見た者に不幸をもたらすとされる(あやかし)だ。
 毎夜、炎に包まれた片輪の牛車に乗った美女が現れ、見た者に祟るといわれていたので人々は自分の家にこもって外出しなかった。
 だが、ある女が興味を抑えきれずに、こっそりと家の扉の隙間から、片輪車を見てしまった。
 すると、片輪車は、「我を見るより、我が子を見よ」と女に言った。
 女が慌てて振り返ると、自分の子どもの姿が消えていたという。
 子どもは、片輪車に喰い殺されてしまったとも、女が片輪車に、自分の命を差し出から子どもだけは助けてくれと懇願したので、赦され、母親のもとに返されたともいわれている。
「我を見るより、我が車を見よ」
 再び車輪の中心に浮き出ている男の顔が地獄から聞こえてくるような声を発した。
 けたたましいエンジン音が鳴り響いたかと思うと同時に、車の前方と後方に一つずつ、そして、片輪車が並走しているのとは反対の側面に一つ、計三つ妖気が新たに出現するのを、ちとせは感じ取った。
 真っ黒な車体のバイクが、葵の運転する車を、片輪車と挟むように挟むように並走している。
 その運転者には、首から上がなかった。
「首なしライダー!」
 前後に現れたのも黒いバイクのようで、同じように運転者に頭部がないように見えた。
 首なしライダーは、事故で頭部を欠損して死んだ者の亡霊だといわれている。
 どうやら、この峠の地形と、過去の事故によって流された血が呼び水となって、強力な怪異を顕現させているようだ。
「笑止、笑止。その程度の速度では我らには追いつけん。うぬら自身の死に追いつく程度よ。首なしラ〜イダどもよ、もてなしてやれ」
 片輪車の重低音が響き、首なしライダー三体が煽るように、エンジン音を鳴らす。
 並走している首なしライダーが片腕を振り上げる。
 その手には火炎ビンが握られていた。
「まずっ……」
 ちとせが慌てて、印を切り始める。
 精神を丹田に集中し、霊気を練り上げていく。
 首なしライダーが腕を振り下ろし、火炎ビンが弧を描いて車に迫る。
 瞬間、ちとせの霊気が臨界に達した。
 間一髪。
 ちとせが火炎ビンを迎撃しようと、霊気を収束した右の手のひらを車窓の外へと向ける。
 ゴガンッ!
「けふぅ!?」
 妙な悲鳴を上げて、ちとせはつんのめった。
 せっかく練った霊気も四散してしまう。
 葵がアクセルを思い切り踏み込んだのだ。
 突如速度を上げた車体の後ろで、道路に落ちた火炎ビンが割れる音が響いた。
「ね、姉さん?」
「……私と勝負しようというのですね」
 ――げぇっ!?
 ちとせは自分の血の気が引く音を聞いた。
 バックミラーに映る姉はいつものようにやさしげな微笑みを浮かべてはいたが、目が据わっている。
 左のヘアピンカーブに入った。
 首なしライダーが、ドリフト走行で車体を滑らせる。
 それに対して、葵はタイヤを滑らせずにグリップ走行でコーナーリング。
「ひぃぃぃあぁぁぁ!」
 ちとせが慣性と重力加速で後部座席から転げ落ちる。
 ドリフトで速度の落ちた並走していた首なしライダーと後方の首なしライダーを一気に置いてけぼりにしていく。
 直線に入り、さらに加速する。
 すでに前方の首なしライダーも射程距離に捕えていた。
 片輪車はしつこく並走を保っていたが、車箱の中の美女と車輪の男の顔は驚愕の表情に染まり、大きく目が見開かれている。
「なんとなんと。首なしラ〜イダ『一号』、『二号』を置き去るか。死に至る我らが速さを超えようてか」
「タイヤが四つある方が速いに決まっているでしょう。バイクは二輪ですし、あなたに至っては一輪車。勝てる道理がありません」
 ちらりと一瞬だけ視線を片輪車に送った葵が、言う。
「わ、我らは妖ぞ。妖力の源に車輪の数など関係ないわ」
 重低音で返された片輪車の回答には何の説得力もなかった。
 有効的な反論が思いつかなかったのだろうか。
 ちなみに、ちとせも反論は思いつかなかった。
 それどころではないからだ。
 激しい加速と減速、目まぐるしいハンドル捌きの影響で、ノックアウト寸前になっていた。
 すでに退魔のできる状態ではない。
 いや、状況自体が、すでに退魔の域ではなく、走り屋のレースの様相を呈していた。
 ついに、葵の運転する車が、前方を走っていた首なしライダーに追いついた。
 葵の車、首なしライダー、片輪車が揃って、何度目かのヘアピンカーブに侵入する。
 首なしライダーが、コーナーリングブレーキで車体を流す。
 しかし、その見事なドリフトを嘲笑うかのように、葵の純白の新車が首なしライダーを抜き去った。
 驚愕のためにスライド維持からの立ち直りに失敗したのか、首なしライダーはスピンして横転した。
 片輪車は、横転した首なしライダーを避け、尚且つ、加速した。
 そして、葵の車との並走を続ける。
 一方、横転した首なしライダーは、スピンしてガードレールに激突した。
 猛スピードを出していた後続の首なしライダー二体が同胞の事故を避け切れずに巻き込まれて、クラッシュし、爆発する。

 片輪車の二つの顔が唖然とした表情で首なしライダーたちの最後を見届ける。
「首なしラ〜イダたちが一網打尽とは。『一号』、『二号』ばかりか、首なしラ〜イダ最速の『三号(ブイスリャァ)』までが一網打尽とは」
「ボクは来なくてもよかったんじゃ……?」
 ちとせが座席に這い上がり、後方で爆発四散した首なしライダーたちを見ながら、顔面蒼白で呟くように言う。
 途端に、重力加速と慣性が、襲ってきた。
「ぎゃほっ!?」
 女性にあるまじきカエルが潰れたようなひどい悲鳴を上げて、再び座席からひっくり返るちとせ。
 そして、これもまた女性にあるまじき大きく開いた股を慌てて閉じるが、立ち上がることもままならない。
「し、死ぬ、死んでしまふ」
 ちとせのことなどお構いなしに、葵は最後の敵である片輪車を追い抜くために車をさらに加速させた。
 片輪車がその圧力に四つの目を大きく見開くが、こちらも一歩も譲らずに加速する。
 二台とも緩いカーブなどはものの数ともせず、単純なミスなどをすることなく突き抜けていく。
 走行は双方に優劣付けがたいが、決定的な差が二者には存在していた。
 片輪車の美女の顔も男の顔も必死な形相に変わっていたが、葵はまだ笑顔でハミングを口ずさんでいた。
 比較的短い直線が終わり、大きくうねったカーブが現れた。
「うぬっ!」
 減速に入った片輪車が唸り声を上げる。
 牛車の車輪と道路が摩擦する甲高く軋んだ音が響き渡り、車箱が微かに揺れた。
 車輪中央部の男の顔が歯を食いしばる。
 過酷な走行のせいで、車輪が限界を迎えようとしているのだ。
 片輪車は妖力を車輪へと収束して、それを必死に抑え込む。
 だが、車輪の維持に集中してしまったために、曲りが外側(アウトサイド)へと大きく膨らんでいた。
 がら空きになった、内側(インサイド)
 それを見逃す葵ではなかった。
「行きますわよッ!」
 グンッとアクセルを踏み込む。
 車の限界まで、急加速。
 もはや、車窓から覗く風景は、流線としか認識できない。
 運転席の葵には目の前しか見えていない。
 白い疾風となった車が、片輪車を遥か後方へと引き離した。
 途端に、片輪車の車輪が外れた。
「ウグググガガガッ! 我らが速度は冥府の先に至った! 死の向こうの滅びにまで至った!」
 車輪の中央の男の顔の表情が苦悶に変わり、目と鼻と口と耳から妖気を噴き出して断末魔とともに破裂した。
「然り。だが、あの者は、その速ささえ、ぶち抜いて行きおったッ!」
 美女も悲鳴を上げて溶けるように消え、残った牛車も地面と激突して砕け散った。

「い、生きてるってすばらしい。すばらしいよぉ」
 どうにかして車から這い出たちとせは地面に尻餅をついた。
 結局、ちとせは何もできなかった。
 だが、無力感はない。
 むしろ、よく生き残ったものだと、自分を褒めたい気持ちだった。
 とにもかくにも、逆招猫峠の怪異を起こしていたであろう片輪車と首なしライダーが消え、事故の件数は減るはずだ。
 ちとせは大きく息を吐いて尻餅をついたまま天を仰いだ。
 曲をベートーヴェンの『交響曲第九番(歓喜の歌)』に変えた葵のハミングが聞こえてくる。
 車から降りた姉は、いつものおっとりとした雰囲気のまま、愛おしそうに車のボンネットのパネルの縁を丁寧に布で拭っていた。
 ちとせはその様子を見ながら、「妖を退治した場面的には『鎮魂歌(レクイエム)』の類が良いんだろうけど、『鎮魂歌』でなくて良かった」と、心の底から思わずにはいられなかった。


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