Cigarette


 

「失望したわ」
 私の口から自然にその言葉が漏れた。
 失望したのだ。
 何に?
 愛に? 信頼に? 安っぽい正義感に?
 いや、彼に失望したのだ。
「失望したのはこっちだ」
 目の前の彼は乾いた笑いを浮かべていた。
 だが、追い詰められた人間とは違う真摯な目をしていた。
 私は嫌悪した。
「逃げきれると思ったのかしら?」
 私は彼に問い正した。
 彼は懐から愛用の煙草を取り出すと口に咥えた。
「いや、いつかおまえに殺されると思っていたよ。おまえは、そういう女だ」
「こんな時にまで、煙草とはね。呆れる」
「はっはっはっ」
 煙草に火を灯さずに、彼は笑った。
 その両目は私へ向けられていたが、視線は遠くを見ている。
「私といる時もいつも、煙草だけは切らさなかったしね」
「ああ、好きなんでね」
「不味いのに」
「美味いさ」
 どんな時も煙草を手放さない男だった。
 特に人を殺す前は肺を黒く染め上げようとするように吸っていた。
 煙草は匂いがつく。
 何事につけても、余計な危険が増すだけだ。
 ターゲットに匂いを覚えられるかもしれないし、奇襲をかけようとしても気づかれるかもしれない。
 私には理解できない。
「データを返すのよ」
「命乞いはしない」
 彼の予想通りの応えは、私の頭に冷静に響いた。
「……」
「……」
「何故、裏切った?」
 私は口調を変え、疑問をぶつけた。
 組織を裏切ったところで、何の得にもならない。
「さあね、人殺しに飽きたってところか」
 飄々とした感じで応える彼。
「腑抜けたものだな」
「そうでもない。まともな感性に目覚めただけさ」
「私は正気だ」
「知っている。だが、俺も正気だ」
 水掛け論だ。
 すでに、価値観が変わってしまっている。
 お互いの間にある溝は深く、彼が戻って来ないことは最初からわかっていた。
 私は彼の眼を見た。
 彼もまた私の目を見返してきた。
 鋭い眼光だ。
 私の直視から目を逸らさない男は希少な価値がある。
 恋人として申し分なかった。
 そして、私の渇いた命を潤すのにも値するだろう。
「……」
「……」
「私はおまえを愛していた」
 私は言った。
 言っておきたかったのだと思う。
「俺もおまえを好きだった」
 彼も言った。
「……」
「……」
「組織の秩序を保つには、裏切り者には見せしめになってもらわねばならない。いや、それはどうでもよいことだな。私はおまえに失望した。だからこそ、ここにいる」
「知っているさ。おまえのそういうところが好きだったんだからな」
 先程と同じようなことを言って、彼は煙草に火を点けた。
 紫煙の向こうで彼の両目に気が込められた。
「殺れよ」
「殺るさ」
 私の中にもう、わだかまりはなかった。
 いや、最初からなかった。
 そう、最初から、何もないのだ。
 目の前にいる裏切り者の命を、何もない私の中に注ぐとしよう。
 彼の力では、私には勝てない。
「抵抗はさせてもらうぞ」
「勝手にすることだ。だが、私の力は"神をも食らう"」
「そうだったな、"氷の魔狼"。だが、俺も簡単には死にたくないんでね」
「それはそうだろうが、……行くぞ」
「来い!」
 虚ろな私の中を満たすように、巨大で圧倒的な力が降りてくる。
 月を飲み込み、神をも砕く力だ。
 血飛沫が上がり、彼の煙草が舞った。

 血に濡れていた爪の手入れを終え、ハンカチで拭う。
 口に煙草を咥え、マッチ箱を取り出すために懐を探った。
 ドアがノックされる。
「わたくしですわ。書類を持ってきました」
「入れ」
 咥え煙草のまま、応じる。
 ドアが開き、艶やかな金髪をシニヨンに結った秘書スーツ姿の女が姿を見せた。
 私を見て、女は不思議そうな顔をした。
「あら?」
「……何だ?」
「いえ、煙草吸われましたっけ?」
「今日始めたばかりだ」
 マッチを取り出し、煙草に火を灯した。
 私は煙草を美味いと思った。


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