チョコレートを貪るもの



 八神悠樹は、女性と見紛うばかりの顔立ちは男性的な力強さこそないが頭の回転が早く、成績優秀、運動神経は中の上、ユーモアセンスもある。
 何かイベントがあれば、あえて目立つような行為はしないが、行き届いた気配りができるために目立たないで終わるということもない。
 そして、なにより、誰にでもやさしい。
 これだけの条件がそろっていれば、この猫ヶ崎高校に彼のファンの女の子が非常に多いのも頷けるというものだ。
 聖バレンタインデーには、彼の机もロッカーも、プレゼントされたチョコレートでいっぱいになる。
 その様子には友人たちは嫉妬を覚えるよりも、気の毒さを覚えるほどだ。
 登校時から次から次へとチョコレートを手渡され、学校に着けば下駄箱からチョコレートが溢れている。
 ホームルームが始まる頃には山のようなチョコレートに囲まれていることになる。
 彼は性格上、女生徒たちの好意を邪険には扱わずに受け取る。
 それに大半は本命ではなく、悠樹の「ファン」からの義理チョコなのだ。
 本命であろうと思われるのは、生徒会長の吾妻ほまれと陸上部副部長の神代ちとせの二人くらいではないか。
 いや、恋愛というよりもじゃれているという性格のちとせの場合は、「実は義理チョコ」ということも無きにしも非ずなのだが。
 だが、吾妻ほまれは本気である。
 この高校のほとんどの生徒がそれを知っている。
 彼女の悠樹に対する態度を見て、それに気づかないほどの鈍さは誰も持ち合わせていない。
 悠樹に「義理チョコ」を渡す女子の中には、ほまれの熱烈さに「引いて」しまって、悠樹に想いを伝えられずに、義理に収めている者もいるかもしれない。
 それほどに、ほまれの悠樹に対するアプローチは積極的だった。
 ただし、二人は付き合ってはいない。
 どちららからも告白はしていないし、かといって拒絶もしていない。

「ハッピー・バレンタイン」
 昼休みを利用した学食での昼食を終え、クラスメイトと一休みをしていた悠樹が席を立ったところで、本日何度目かのその言葉をかけられた。
 悠樹はゆっくりと振り返った。
 茶色に染めた髪を外にハネた女生徒が一人、わざとらしい笑みを浮かべて立っていた。
「芦屋か」
「ちとせじゃなくて、ごめんな〜」
 生徒会で会計の任にある芦屋菜穂だ。
 菜穂は包装された小箱を取り出した。
「はいなっ、義理チョコ」
 菜穂がまるで恋心などないという軽い調子でチョコを手渡す。
 悠樹は素直に頷いて、それを受け取った。
「ありがとう」
「ホワイトデー期待してるよ」
 ウィンクしながら菜穂が笑う。
「一条には?」
「タッちゃんはうちの本命やからね」
 彼女は幼馴染のタッちゃんこと一条龍臣とのラブラブ生活を夢見ていると公言して憚らない。
 ただし、彼女の彼に対する扱いはけっこうひどいと有名だ。
 どこまで本気かわからない点で、悠樹の幼馴染でもある神代ちとせとは良い勝負だった。
「あ〜っ、あと、伝言」
 菜穂がすぅっと眼を細めて、小悪魔のような表情を浮かべた。
「伝言?」
 きょとんとする悠樹の耳元に唇を近づける菜穂。
「『生徒会室へお越しください』」
 ぞくりとするような甘い声。
 それは菜穂の言葉ではなく、生徒会長の言葉なのは明白だった。
 しかし、菜穂の声にも逆らうことは許さないという威圧感が感じられる。
 悠樹は曖昧な笑みを浮かべながら頷いた。

 豪華絢爛な装飾の施された生徒会室の扉をノックする。
 とても高校の一室には見えない。
 中にいるであろう人物のことを思い浮かべる。
 吾妻ほまれ。
 この猫ヶ崎高校の理事長のひとり娘にして、二年生にして全校生徒の頂点に立つ生徒会長。
 一年生の時から生徒会長を務めるのは、理事長の七光りだけではない。
 学年首位の成績、所属するテニス部ではトッププレイヤーでありインターハイの出場経験もある。
 性格はわがままで高飛車だが、正義感が強く、基本的には強きを挫き弱きを助ける気質でもあることから、生徒たちの多くには尊敬の眼差しを向けられている。
 ほまれは微かに俯いて、最奥の席に座っていた。
 だが、悠樹が入ってきたというのに、ピクリとも動かない。
「ほまれ先輩?」
 不審に思った悠樹が声をかけたが、返事の代わりに静かな呼吸音が聞こえてきた。
 よくよく見れば俯いているほまれの両瞼は閉じられている。
 吾妻ほまれは眠っていた。
 悠樹は微かに驚いた。
 そして、初めて見るほまれの寝顔の美しさに気づき、悠樹は思わず息を呑んだ。
 金色に染められた巻き毛はよく手入れされており、美しい輝きを放っている。
 透き通ったきめ細かい肌。
 まるで、女神のようだ。
 いつもの全生徒を取り纏める厳格な雰囲気はない。
 高慢さもない。
 魅力的な女性がそこにいた。
 しかし、隙だらけの寝顔を見られて、ほまれは怒るだろう。
 このままこっそりと退散して、しばらくしてから出直すのが賢いと思われる。
 だが、悠樹はほまれのあまりに無防備な寝顔に見とれてしまい、去るという選択肢を脳裏に浮かべることができなかった。
 そして、起こすことも惜しんでしまった。
 やましい気持ちからではなく、純粋に、ほまれの寝顔を見ていたいと思った。
 寝息は規則正しく、静かに立てられている。
 さすがというべきか、寝ながらにして家柄を誇示するように、いびきもかくことなく、美しい唇から涎を垂らすこともない。
 ほまれを見つめていた悠樹は、ふと彼女が一瞬微かに震えたような気がした。
 季節は、二月。
 一年で最も寒い時期だということを思い出した。
 この豪奢な生徒会室には暖房も加湿器も完備されているが、さすがに椅子などで何も掛けずに寝ていたら風邪を引いてしまう。
 悠樹はすぐに自分の上着を脱ぎ、ほまれの肩にそっとかけた。
 そこでふと、気づいた。
 ほまれのしなやかで細い指と手の甲を包むように包帯が巻かれている。
「ケガ?」
 悠樹は思わず呟いていた。
「ん」
 ほまれが反応したように小さな声を出す。
 起こしてしまったか。
 いや、眠りは深いようで、ほまれはわずかに首を動かしただけだった。
 悠樹は胸を撫で下ろし、視線を落とす。
 そこでまた、気づいた。
 ほまれの椅子の脇に置いてある台の上に、紙袋が乗っている。
 覗くつもりはなかったが、ちらりと中が見えてしまった。
 綺麗に包装された箱が入っている。
 『悠樹さまへ』と大きく書かれたカードが添えられていた。
 悠樹は頬を掻いた。
 ――やはり、一度出よう。
 ため息を吐きながらそう思ったが、すでにほまれの肩に上着を掛けてしまっている。
 さすがに、これを取るのは気が引ける。
 だが、残していけば、この場に来たことはバレてしまうだろう
 ――失敗したなぁ。
 悠樹は自分の迂闊さに苦笑したが、かといって上着を掛けたことを後悔はしていない。
 放っておいて、風邪を引かれる方が後悔するに決まっているからだ。
 と、その時。
「!」
 不意にほまれが瞼を開いた。
 女神の彫像に命が吹き込まれたように、一瞬にして強い生命の輝きがその身に宿る。
 同時に彼女は人の気配に気づき、慌てて振り返った。
 悠樹と目が合う。
 寝起きとはいえ、すぐに状況は理解できた。
 瞬間、その美しい顔が真っ赤に染まる。
 悠樹に対する怒りではない。
 大好きな人に寝顔を見られてしまった。
 その事実に気づいた、混乱、羞恥。
 生徒会長としても、年頃の女性としても、それは到底許容できない醜態だった。
 悠樹もまた頬を紅く染める。
 この期に及んで、彼女のプライドを傷つけてしまったことに気づかないほど鈍くはない。
 気まずい。
 そして、申し訳がない。
「ほまれ先輩」
 消え入るような声で、しかし、真剣な声で、まっすぐに生徒会長の顔を見ながら、その名前を呼ぶ。
 ほまれは耐え切れぬように、悠樹から目を反らした。
 気位の塊のような彼女に、今の状況は受け入れるには厳しすぎた。
 血液が沸騰しそうで、顔が熱い。
 唇がわなわなと震え、眼輪筋が痙攣するが、どうしようもない。
 自分を落ち着かせるためには、大好きな人に背を向けてでも出て行くしかない。
 ほまれは自分自身を呪いながら、立ち上がった。
 と、悠樹の上着がその両肩から落ちかかる。
「えっ?」
 ほまれはそこで初めて気づいた。
「あっ」
「風邪を引くかと……あの、……すみません」
 頭を下げる悠樹を見て、ほまれは爪を噛みたくなった。
 悠樹は悪くない。
 ここに彼を呼んだのは自分なのだ。
 それに部屋に入ってきたことにさえ気づかなかったのは自分の落ち度だ。
 今日この日を待ち望んでいたのに、寝てしまった自分が悪いのだ。
 自分を起こしてくれなかったのは多少恨めしいが、起こされたとしても今の状況と何が変わっていただろうか。
 彼は、自分を気づかって上着まで掛けてくれたのだ。
「悠樹さま、ごめんなさい」
 ほまれは視線を落とした。
 謝罪と、そして、本来の気持ちを伝えなくては。
「呼び出したのはわたくしですのに、気を遣わせてしまって」
 自己嫌悪のせいで流れ出そうになる涙を懸命にこらえながら、場の雰囲気をリセットするように咳払いをする。
 頬が桜色に染まっているのはどうしようもない。
 そして、紙袋を差し出す。
「ハッピー・バレンタイン」
 無理やりに嗚咽を抑えているためか、微かに声が震えてしまった。
「ありがとうございます」
 悠樹は頷いて、紙袋を受け取った。
 彼の優しげな微笑を見て、ほまれはまた視線を落としてしまう。
 気を抜くと、泣いてしまいそうだった。
 口元に手を持っていこうとして、悠樹の視線が包帯が巻かれている自分の手に向いていることに気づいた。
 慌てて手を背中の後に隠す。
「ほまれ先輩?」
「これは、その、火傷をしてしまって」
「火傷?」
「初めて作ったチョコレートケーキですの」
 ほまれは俯いた。
「とても、不格好かもしれませんけれど……」
 ――味は保証いたしますわ。
 そう言おうとしても唇が震えて続けられなかった。
 徹夜で、火傷しながら、誰にも手伝ってもらわずに作った、大好きな人のための、初めてのチョコレートケーキ。
 ただでさえ、不恰好なチョコレートケーキ。
 それでも、愛情なら負けない。
 味で勝負すれば良い。
 そう自分に言い聞かせた。
 それなのに、今日の失態。
 惨めだった。
 日頃は生徒会長として多くの生徒たちに尊敬の念を受け、お嬢様として多くの人たちに憧れられている自分。
 それが、この一番大事な日に、一番好きな人を前にして、本当に惨めだった。
 ――徹夜などしなければ良かった。
「ありがとうございます」
 悠樹はもう一度、ほまれに微笑みながら礼を言った。
「開けてもかまいませんか?」
「……ええ、もちろんです。悠樹さまのために作ったのですから」
 悠樹の悪気のない、いや、気を遣ったであろう言葉に、ほまれは辛そうに頷いた。
 力のない自嘲的な、泣いているような、哀しく苦い微笑みが自然と浮かんでしまう。
 悠樹が紙袋から中身を取り出す。
 包装された箱には、『悠樹さまへ』とだけ書かれたカードが添えられている。
 ほまれは視線を再び落とした。
 それ以外に何も書くことができなかった。
 悠樹の顔を思い浮かべるだけで胸がいっぱいになって、伝えたいこともいっぱいあるのに、筆を進めることができなかった。
 もっと。
 もっと何か書いておけば。
 想いを書いておけば。
 また惨めさが、ほまれの心を締めつける。
 悠樹が丁寧な手つきで包装をはずし、箱を開けた。
 形の悪い、チョコレートケーキらしきもの、が、机の上に取り出される。
 不恰好なチョコレートケーキ。
 それは、ほまれの謙遜ではなく、事実だった。
 まるで泥ダンゴのような物体だった。
「悠樹さま、ごめんなさい。無理して受け取らないで……」
 あまりにも不恰好。
 悠樹の美しさと並ぶと、まったく似合わない。
 ほまれは、そう思った。
 同時に机の上へ手を伸ばした。
 握り潰したくなった。
 ――わたくしは歪んでいる。
 そう思いながらも、伸ばす手を止められない。
 大好きな人の前で失態を続けた上に、その人のために愛情込めたチョコレートケーキを、その人の目の前で潰すなどという行動を取れば、もっと惨めになってしまうはずなのに。
 それでも、止められなかった。
 しかし、止まった。
 ほまれの手はチョコレートケーキへ届く直前、悠樹に手首を掴まれていた。
 驚いた表情を浮かべるほまれ。
 悠樹は空いている手でチョコレートケーキを口に運んだ。
「ゆ、悠樹さま!?」
 チョコレートケーキを口に頬張った悠樹が、ほまれに笑顔を向ける。
「おいしいですよ」
 無理した笑顔ではなく、心からおいしいと思っている笑顔だった。
 事実、愛情込めてて作られたチョコレートケーキの味は良かった。
「悠樹さま……」
 ケーキを飲み込んだ悠樹が掴んでいたほまれの手首から手を放し、その包帯の巻かれた手をやさしく握り直す。
 再び込み上げてくる涙を、生徒会長は必死で抑えた。
「ほまれ先輩、ありがとうございます」
 悠樹が謝礼を述べる。
 何度目かのその言葉を聞いて、ほまれは気づいた。
 悠樹はずっと「ありがとうございます」と言い続けているではないか。
「どう、いたしまして」
 掠れた声でそう応え、悠樹の体温をもっと感じたくて、自分の手を握っている彼の手を、自分の頬に当てた。
「ほまれ先輩」
 悠樹の顔が真っ赤に染まる。
 ほまれは悠樹に笑顔を向け、握り返して頬に当てていた悠樹の手を彼の胸元に戻した。
 泣きそうな笑顔ではなく、自嘲的な笑顔でもなく、いつもの自信に満ちた、美しくて、凄みのある、令嬢の笑顔。
 ただその目は熱く潤んでいた。
「あのような不恰好のチョコレートケーキを受け取っていただけて、わたくし、本当にうれしいのです」
 溜まった熱い雫が目の端から落ちそうになり、慌てて握り続けていた悠樹の手を放して目尻を拭った。
「悠樹さま。もう午後の授業が始まりますわ」
「先輩、でも……」
「大丈夫です。それに、どのような理由があろうと生徒の模範となるべき、生徒会長が授業に遅れるわけには参りませんわ」
 心配そうな愛おしそうな複雑な視線を向ける悠樹に、ほまれはもう一度にこりと微笑んだ。
「ホワイトデー期待していますから」
 ほまれは自分の想いを告げずに、義理チョコを渡す女生徒たちと同じ言葉を口にした。
 そして、悠樹と並んで生徒会室を出る。
 廊下で別れた後、ほまれは包帯の巻かれた手を胸に抱いた。
 教室に向かいながら、包帯越しに残る想い人のあたたかさの余韻を噛み締めていた。


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