「美しさと若さを永遠に保つ方法を知ってる?」
手際良くカメラを設置しながら、長い髪の女性が、目の前に立つ黄金色の髪をゆる巻きにした高校生の少女――
人間は、時の流れを、日々の変化を、生がいつか滅びゆくことを知っている。
年を経ることを恐れ、老いに抗い、若さを、美しさを保とうとする。
だが、どのように努力しようとも、今、この瞬間は二度と戻ってこない。
「新しいアンチエイジングですの?」
ほまれは、カメラの用意を続ける女性の問いの意味を浅く捉えたのか、それとも取り違えたのか、小首を傾げながら尋ね返した。
女性であるという根源な部分から、彼女にも興味のある話ではあった。
特に、目の前の女性カメラマンの美しさは、雑誌の表紙を飾ることもたびたびある彼女でさえ驚きを禁じ得ないものがある。
黒く長い髪に、黒い瞳、そして、雪のような白い肌。
大人の色香を醸し出す、赤く、濡れた、唇。
そんな
「写真よ」
カメラを持った女性は、艶めかしい視線をほまれに向けて答えた。
「写真?」
女性の回答に、ほまれが素っ頓狂な声を上げる。
だが、女性カメラマンは深く頷いて、カメラのレンズをほまれへと向けた。
射抜くような視線が、ファインダー越しに、ほまれの姿を捉える。
シルクのように輝く黄金の髪、十代後半という少女の瑞々しさと大人の妖艶さを兼ね備え、眉目秀麗を文字通りに表した端正な顔立ち。
女性カメラマンは、ほまれの美しさを再確認して感嘆するように、ほっと呼気を吐いた。
「写真は、もっとも輝いている瞬間を封じ込めることもできるのよ」
「
ほまれが優雅な微笑みを浮かべた。
丙と呼ばれた女性カメラマンがシャッターに指を重ねる。
だが、それが押される前に、ほまれの表情が微かに悪戯っ子のような色を帯びた。
女性カメラマンの表情に疑問符が浮かぶ。
ほまれの手が横へ伸びていた。
彼女の傍らに、黙って控えているボブカットの少女の顔へと。
細く長い指が少女の顔に掛けられている眼鏡を素早く掴み、ほまれはそれを自分の顔へと持っていった。
「ほ、ほまれさま?」
ボブカットの少女が驚いたような声を上げる。
それはそうだろう。
何の前振りもなく、唐突に眼鏡を取り上げられては、驚くなと言うのが無理というものだ。
「忍の眼鏡、貸してちょうだい」
「はぁっ? しかし、私は極度の近眼ですよ。私の眼鏡では、度も合っていませんし……」
「たしかに度が相当に強いわね、でも、撮影に使いたいの」
眼鏡を取られて慌てているボブカットの少女――
「ふぅん、初めてかけたけど、眼鏡って、いつもと違う気分になれるのね」
「……眼鏡なら、ちゃんとしたものを借りてきますよ」
「忍の眼鏡が良いのよ」
「へっ?」
きょとんとする忍に、ほまれはころころと笑った。
「忍の眼鏡が良いの。せっかくの被写体になるんですもの」
ほまれの言葉に深い意味はなかっただろう。
だが、忍は真っ赤になった。
忍は、ほまれを敬愛している。
その敬慕の情は、先輩後輩の域を超え、一方的な恋愛の域にまで達している。
それに、ほまれの先程の笑顔。
それは大企業の社長令嬢であり、この猫ヶ崎高校の理事長の娘であり、文武両道の生徒会長であるほまれが、忍にしか見せない表情だということを知っていた。
もったいないと思いながらも、それを独占できる喜びもある。
忍の心の内を知ってか知らずか、ほまれはカメラマンに向き直っていた。
先程よりも、明らかにやわらかな表情で。
「どう、丙さん、似合うでしょう?」
「眼鏡を掛けて取りたいの?」
「ええ」
「そう、仕方ないわね」
女性カメラマンがため息を吐く。
「まあ、イイわ。なんだか、表情も良くなって見えるから」
女性カメラマンの唇が三日月のような笑みの形に歪んだ。
「さあ、あなたの美しい魂を保存させてちょうだい」
カメラのシャッターが押された。
――パシャッ!
美を貪るもの
私立猫ヶ崎高校は、有名進学校として近隣に認知されており、同時に、部活動も盛んなことで知られていた。
無数にある部活動の中でも、特に陸上部は、剣道部、テニス部と並び、毎年インターハイ出場選手を輩出するほどの強豪で知られている。
その陸上部に所属している
今日は部長も顧問の教師も不在のために、副部長であるちとせが仕切ることになっていた。
着々と練習メニューを消化し、最後のタイムトライアルが終了したころには、すでに陽が傾いていた。
備品を片づけとグラウンドの整備を行ない、全員が部室で着替えを終えたところで、ちとせが全員を集合させる。
彼女だけはまだ練習用のスウェットパーカー姿だった。
責任者として最後にグラウンドの点検と部室の鍵の施錠という一仕事が残っているためだ。
ミーティングを行ない、ちとせが解散を告げる。
「ほいよっ、今日はここまで。みんな、気をつけて帰ってね」
ちとせがウィンクをしながら付け加える。
「こういう時間を
「神代先輩、変なこと言わないで下さいよ」
女子部員の何人かがちとせの言葉に苦笑する。
ちとせは実家が神社の神職の家系のためか、霊感や退魔の力を持っている。
そのことは、この猫ヶ崎高校においては公然の事実で、心霊現象に悩まされている生徒が相談を持ちかけたりもしている。
もっとも、ちとせ生来の陽気さを良く知る陸上部員たちには、ちとせの今の言葉は冗談にしか聞こえていなかった。
「んじゃ、おつかれ」
「おつかれさまです」
部員たちの背中を見送り、ちとせが自分のロッカーを開ける。
ショルダーバックを取り出し、脱いだ短距離専用の陸上スパイクをロッカーに仕舞う。
パーカーとインナーを脱ぎ、豊かな胸を包む下着があらわになる。
ブラウスに袖を通し、スウェットのショートパンツを脱いだところで、部室のドアがノックされた。
「神代せんぱ〜い、まだいますか?」
陸上部の後輩の女子の声だ。
「ちょっ、ちょっと待って」
慌ててスカートを穿く。
「あっ、もう、いいよ。入って」
「神代先輩、お客さんみたいですよ」
女子部員の後ろに、髪形をおさげにした凛とした顔立ちの少女が立っていた。
白い胴衣に、黒い袴姿だ。
その手に弓矢こそ持っていないが、弓道部の部員で一年生の神藤弥生だということを、ちとせは知っていた。
ちとせをお姉さまと呼んで慕う『ちとせ親衛隊』の一員でもある。
「あれ、どったの、弥生ちゃん」
「それが、あの、私じゃなくて、草影先輩がちとせお姉さまに用事があるみたいで」
「草影ちゃんが?」
「生徒会室に来て欲しいって、伝言を頼まれまして」
ちとせが小首を傾げる。
草影忍は弥生と同じ弓道部に所属している。
弓道部の道場は陸上部のグラウンドとは離れているが、同じ運動部ということで部室自体は近い。
伝言など頼まずに直接顔を出した方が早いのにとちとせは思ったのだが、生徒会室に呼び出しということは生徒会書記としての頼みごとなのかもしれない。
「お姉さま。草影先輩、今日部活に来なくって、生徒会の仕事が忙しいのかなって生徒会室に見に行ったら、草影先輩の顔色が悪くって」
「なるなる。それで、伝言受けたのね」
「そうです。それに、吾妻会長もなんだか様子が変でしたし……」
「ほまれ先輩も?」
「はい、なんだか、心ここにあらずという感じでした」
「ふぅん、んじゃ、着替えが終わったら、ちょっと顔出してみるよ」
「ありがとうございます」
弥生が礼儀正しく頭を下げ、女子部員と一緒に部室を出ていくのを見送り、ちとせは着替えの続きを始めた。
ニーソックスとローファーを穿き、リボンタイを緩めに巻き、最後に気合いを入れるようにポニーテールを結び直した。
そして、部室から沈みかけた夕陽を見ながら、先程口にした逢魔が刻という単語を思い出した。
「――イヤな予感がするなぁ」
こんこん――
生徒会室の扉をノックしたが、中からの返事はなかった。
「まさか着替え……んなわけないか」
弓道部でもある草影忍が袴から制服への着替え中という想像を打ち消す。
ここは弓道部の部室ではなく、生徒会室だ。
それに忍は今日の部活を休んだと、弥生も言っていた。
こんっこんっ――
もう一度、扉を叩いたが、やはり、返事はなかった。
不審に思いながら扉を開ける。
草影忍が静かに立っていた。
「草影ちゃん?」
力のない動きで振り向いた忍の顔は、蒼白だった。
その彼女の後ろに、女生徒が一人椅子に腰かけているのが見える。
もちろん、ちとせはその女生徒にも見覚えがあった。
「ほまれ先輩もいるの?」
生徒会長・吾妻ほまれ。
私立猫ヶ崎高校の理事長のひとり娘、そして、学年首位の成績とテニス部のトッププレイヤーとしての実績を持つ文武両道の真正のお嬢様。
その吾妻ほまれが、ちとせが部屋に入ってきたことにも気づかぬように微動だにせず、椅子に腰かけている。
明らかに様子がおかしい。
「ちとせ殿」
忍が独特の敬称を付けて、ちとせの名を呼んだ。
「ほまれさまが……」
唇が震えている。
ちとせは思ったよりも重大なことになっている雰囲気を察して、真剣な眼差しで頷いた。
そして、忍の後ろに座っているほまれへと近づく。
ほまれは端正な顔に表情を浮かべることもなく、瞳にもちとせの姿を映さない。
まったく反応を見せない。
「草影ちゃん、何があったの?」
「生徒会の仕事を終えて、部活に向かおうとした時に突然、ほまれさまが動かなくなってしまって……」
「一条くんたちは?」
ちとせが生徒会副会長の名前を挙げる。
「今日は副会長と会計の芦屋殿は来ていません。生徒会の仕事といっても、撮影がメインだったので、ほまれさまが手伝いは私だけで良いとおっしゃって」
「サツエイ?」
「市の広報雑誌です。地域の学校の生徒会長紹介の企画があって」
忍はそこまで言って、首を傾げた。
「……どったの、草影ちゃん?」
「変ね、思い出せない」
「えっ?」
「雑誌の名前。それに市の担当の名前も」
「あれ、会ったばかりじゃないの?」
「今日来たのは、カメラマンの女性だけで……今考えると、おかしいわね」
「確かに、おかしいね。厳密には、おかしいってことに気づかなかったことが、おかしいね。どうも、そのカメラマンの女性が怪しいわね」
「丙さんが……?」
「ヒノエさん?」
「カメラマンの女性の名前よ。そういえば少し変わった人だったわね」
「変わってた?」
「ええ、永遠の美がどうとか、言っていたし、そういえば……」
忍の表情が、はっとなる。
「シャッターを切る時に、『あなたの美しい魂を保存させてちょうだい』って、口走ってたわ」
「魂を保存……」
ちとせが忍の言葉に何か思いついたことがあったのか、頷きながら、ほまれの右手の一指し額に指を当てる。
人差し指に青白い炎が揺らめく。
ちとせは眉を寄せた。
「まずいね」
「ちとせ殿、ほまれさまに何を?」
「魂を呪縛されてる。どうやら、そのカメラマンの仕業だよ」
「魂をジュバク……? それって、まさか、命の危険がッ……!」
忍が目を大きく見開いて、ちとせの両肩を掴む。
「ダ、ダイジョブだよ、まだ。仮死状態に近いけど……」
「大丈夫じゃないじゃないの!」
「草影ちゃん、これはやっぱりボクの担当分野で正解だよ。草影ちゃんもそう思ったから、ボクを呼んだんでしょ?」
ちとせがやさしく忍の両腕を外して押し戻した。
「ご、ごめんなさい。動揺してしまって。そうよね、ちとせ殿を呼んだのは、私で、それは私がほまれさまの状態が病気やケガと少し違うと思ったから。それにカメラマンの柄さんを心の底では不審とも思っていたからかもしれない」
忍が俯きながら、息を整える。
眼鏡が光を反射して、その表情を隠した。
ちとせは忍の乱れた呼気が落ち着くのを待って、尋ねた。
「草影ちゃん、丙って女性を追う手掛かりを見つけたいから、撮影の状況を教えて欲しいんだけど?」
――ちとせは眩暈を覚えた。
眼鏡の度が強すぎる。
「草影ちゃん、近視ひどいなぁ。そういえば、乱視も入ってるって言ってたっけ」
ちとせは、草影忍の眼鏡を借りていた。
弓道部にその人ありと言われた草影忍だが、裸眼では的に当てることもできないのではないか。
とにかく、視界が揺れるし、歪む。
度の合っていない眼鏡で街の中を歩くには厳しいものがあるが、外すわけにもいかない理由があった。
歪む視界の中に赤い妖気の線が見える。
撮影の時、ほまれが気まぐれで忍の眼鏡を掛けていたということを聞き出したことは収穫だった。
丙という女性カメラマンの姿と妖気が眼鏡のレンズに焼きついていたのだ。
その妖気を辿ることで、丙のもとへ行き着くことができるはずだ。
忍にそのことを教えて、眼鏡を借りたのだ。
「草影ちゃんのほまれ先輩への強い想いが残した手掛かりってとこだね」
丙を追う方法を見つけた時、忍も同行を申し出たのだが、ちとせは断った。
推測するに、丙は人間ではなく、妖魔の類だろう。
だが、どれほどの力を持つ妖物かはわからない。
忍が一緒に来れば、いざという時に彼女を守り切れる保証はない。
それに、ほまれを一人残していくことにも不安があった。
だから、ちとせは、いきり立つ忍を「ほまれ先輩は、草影ちゃんが自分のことを助けようとしてケガでもしたら、思いつめて本当に倒れかねない」と説得して残してきた。
校門まで見送ってくれた忍が、「ほまれさまは、ちとせ殿がケガをしても悔やみますから、ピンピンで帰ってきてください」と言っていたのには、さすがに少し照れてしまった。
「どうやら、ここだね」
禍々しい赤い妖気の帯は、街の郊外にある古い邸宅に続いていた。
純和風の立派な造りの豪邸だ。
まるで、この邸宅だけがそこに存在しているかのように、周囲から浮いている。
所有敷地も広く、隣の家まで距離があり、視界に入りきらない。
だが、この邸宅の周囲を圧倒する自己主張の根源はそのようなものではなかった。
邸宅全体から放たれている、まるで闇できた蛇がその場所でとぐろを巻いているかのような不気味な圧迫感。
それこそが、この豪邸を周りとはまったく違う世界にしていた。
ちとせは危険を察知した自分の神経が警鐘を鳴らすのを聞いた。
「とりあえず、直球の挨拶と行きますか」
眼鏡のブリッジを指で押し上げ、ちとせがにやりと笑う。
躊躇いなく門の柱に備え付けてあるインターホンのボタンを押したが、返答はなかった。
ちとせはそれを予想済みであったようで、「反応なしっと」と深く頷きながら、高い塀を見上げた。
「直球が通じないなら、変化球で行くしかないってね」
言うなり、視線を左右に向ける。
「右良し、左良し」
誰もいないことを確認するや否や、塀をよじ登り、中を覗き込んだ。
「おろっ」
独特の香りがした。
塀の中には、
だが、塀を隔てた外界へは一切漏れて来ない。
まるで、空気に境目があるような違和感。
「一種の結界だね。この中は結界主に都合よく作りかえられているってとこかな」
頭の中で鳴り響く警鐘の音が大きくなるのを感じながら、ちとせは、目を細めて、口元に不敵な笑みを浮かべた。
そして、「よっ」という掛け声とともにプリーツスカートの短い裾を翻して塀を飛び越えた。
敷地に着地をすると、頭がくらくらするほどに伽羅の香りが濃密さを増した。
嫌いな香りではないが、あまりに濃い匂いのために、空気が粘着力を持っているように喉に絡みついてくるような気になる。
ちとせは強烈な香りに辟易しながらも、純和風の邸宅へと歩いて行く。
そして、正面玄関にたどり着くなり、ノックもせず、躊躇いもなく、扉を開け放ち、土足のまま、家の中へと踏み入った。
ちとせはすでに、この家の主を人間だとは考えていなかった。
これほどの匂いの中で暮らせる人間はいないだろう。
忍ぶつもりもないように、ちとせは廊下をずんずんと進んで行った。
長居をしていると、香りにやられて倒れてしまいそうだった。
と、部屋の一つに邪悪な気配を感じ、ちとせは足を止めた。
黒い影が襖に映っている。
ちとせは意を決し、襖を開けた。
部屋の中では、黒髪の眉目秀麗な女性が、正座をしていた。
和服から覗く肌は、透けるように白い。
女性の前では炉に置かれた釜が湯気を立てており、さらに手前には抹茶と湯が注がれた茶碗が置かれ、彼女はしなやかな指で茶筅を使い、茶碗の中身を掻き混ぜていた。
「よくぞ、いらっしゃいました」
点てた抹茶を差し出し、烏色の髪を揺らして、切れ長の目を上げ、闇よりも深い漆黒の瞳をちとせへと向けた。
「と、言いたいところだが、人の家に無断で侵入とは、乱暴な娘よな」
女性の血で濡れたような真っ赤な唇が笑みの形に歪められる。
その
伽羅の香りさえ、頭から消し飛ぶ。
そして、次の瞬間、ちとせは違う悪寒で総毛だった。
その原因は、写真だった。
部屋の壁や柱に、写真が貼られていた。
一枚や、二枚ではない。
部屋の四方八方どこを見渡しても、写真、写真、写真。
会社員、大学生、高校生。
フライトアテンダント、医者、ファーストフードのアルバイト。
若く、美しい女姿を捉えた無数の写真が、部屋中に貼り付けられている。
その中で、和服の女性は、静かに茶を点てていたのだ。
ちとせの悪寒は、部屋の光景に偏執的なものを感じた本能的なものだった。
「美しかろう?」
和服の女性が、くっ、くっ、と、喉を鳴らした。
「わらわの魂のドレスのコレクションよ」
魂のドレス。
コレクション。
それらの言葉を聞き、ちとせは眉をひそめた。
「やっぱり、ほまれ先輩の魂を奪ったのは……」
「奪うなどと人聞きの悪いことを言うでないわ。わらわは、若く、美しいまま、魂を保存してやっただけ」
そう言う女性の顔立ちや身体つきが、変わっていく。
目の端が吊り上がった気の強そうな女性、優しげな眉をした女性、厚い唇の女性。
髪の色も、明るい茶色や、青みがかった黒髪、艶やかな赤毛と移り変わり、胸の大きさや胴のくびれ具合、手足の長さまでがさまざまに変化していく。
変わっていく女性の姿が、部屋に貼り付けられた写真の中の女性たちの姿であることに、ちとせは気づいた。
「これらの魂のドレスを纏い、わらわは永遠の美しさを纏うことができる。そして、おなごどももわらわの中で永遠に生きることができる」
黄金色に染められたやわらかそうな髪に、気の強そうなキリッとした目。
ちとせの知る吾妻ほまれの姿に変化した女性が、口元に手を当てて声を立てて笑った。
見れば、ほまれの写真は女性のすぐ後ろに飾られていた。
写真の中のほまれと、ちとせが知っているほまれと一点だけ違うのは、眼鏡を掛けているというところだけ。
その眼鏡は、今、ちとせが掛けている。
草影忍が愛用している眼鏡だ。
「……その奪った女性たちの魂を身に纏った姿で、今度は男たちをたぶらかすつもりってわけ?」
「ほっ、わらわの正体を知るか、小娘」
「あなた、
ちとせが険悪な目つきで、和服の女性を睨みつける。
「伝承では男の精気を死ぬまで貪りつくすって聞いてたけど、男を喰らうために女性の魂まで利用してたなんてね」
「男どもは付き合う女は性格が良ければ、などと言うがな。初めは所詮、容姿で判断するものよ。その男の好みの魂で着飾れば、容易に我が手に落ちよるわ」
対する――飛縁魔と呼ばれた女性は、ちとせの指摘を否定することもなく、愉快そうに喉を鳴らした。
飛縁魔は美しい女性の姿をした妖怪であり、その色香で男を惑わし、取り殺すといわれる和製の吸血鬼ともいうべき存在だ。
「それにしても、ここに乗り込んで来た時点で、ただものとは思ってはいなかったが、わらわの正体を知り、なお且つ恐れも抱かぬとは、そなた、何者じゃ?」
「ただの女子高生だよ。退魔は得意だったりするけどね」
「なるほど、退魔師か」
「退魔師というよりは、巫女さんなんだけどね」
「……どちらにせよ、わらわの邪魔をしに来たのだろう?」
「そうなるね」
頷きながら、ちとせが構えを取る。
その全身にはすでに霊気が巡り、手にした神代神社の祭神・
「くっ、くっ、くっ……」
飛縁魔の双眸に冷たい赤い光が宿り、紅蓮の炎が和服に迸る。
「くかかかかかッ!」
赤い口を裂いて嗤いながら袖を打ち払うと、炎の舌がちとせへと伸びた。
「うわっち!」
ちとせが慌てて飛び退く。
床に炎が燃え広がった。
「逃ぐるな、逃ぐるな」
飛縁魔が舞うようにして撒き散らした炎が、部屋のあちらこちらへと飛び火していく。
「くかかっ、ほれ、そなたが避ければ、この屋敷がどんどん燃えるぞ。魂を保存した写真も燃えてしまうぞ」
愉しそうに嗤う飛縁魔の額の肉を突き破って、二本の捻じれた角が生えてきた。
眦は吊り上がり、唇からは鋭く伸びた犬歯が覗いている。
「んなこと、させないっての。燃え広がる前に退治してあげるから……」
脅迫など無駄だというようにちとせが飛縁魔へ向かって、びしっと神扇を突きつける。
飛縁魔の言葉に嘘はないが、ちとせが倒れてもまた、女性たちの魂は飛縁魔に奪われたままになる。
ちとせはそれをわかっていたからこそ、脅しに屈するつもりはなかった。
「覚悟なさい!」
炎の這う床をスカートの裾を翻して走った。
それを迎え撃つために飛縁魔が右手に収束した炎を太刀へと変え、とんっ、と床を蹴った。
瞬間、飛縁魔の姿が掻き消えた。
ちとせが神扇を胸の前で水平に構えるのと、飛縁魔が炎の太刀を振り下ろしたのは、ほとんど同時だった。
「ほっ、やりおる。我が言の葉に動揺もせぬし、我が焔が太刀を受けても怯まぬか」
――面白や、と、呟くように言い、飛縁魔が炎の太刀を二度、三度と振るう。
じりじりと後ろに下がりつつ、ちとせが神扇で太刀を受けるたびに、炎気と霊気が弾けた。
「!」
ちとせがハッとした表情で足を止めた。
真後ろに炎が激しく燃え盛っていて、これ以上後ろには下がることができないことに気がついたからだ。
炎は二人を囲むように床に円陣を描いていた。
「逃ぐるな、逃ぐるな。くかかか――」
「うっわぁ、性格悪ッ。これ以上後ろに下がれないって知ってて、そゆこと言うかな」
そう言いながら、ちとせは熱に焼かれてひりひりする頬で笑みの形を刻む。
飛縁魔も嗤った。
ただし、邪悪に。
そして、炎の太刀で一閃する。
ちとせの手から神扇が弾かれ、宙を舞った。
右手首を抑えて、上半身を折るようにして呻く、ちとせ。
飛縁魔が炎の太刀をゆっくりと振り上げ、大上段に構える。
武器を失ったちとせを紅蓮の炎の宿った双眸で見据えながら、勝利を確信したようにもう一度邪悪に笑った。
「くかかっ、終わりじゃ、小娘」
飛縁魔が、炎の太刀を大上段から振り下ろす。
ちとせは左手を前に突き出した。
飛縁魔はその時、ちとせが抑えていた右手に何かが嵌められているのに気づいた。
「なっ……!」
ちとせの右手に嵌められていたのは、ゆがけ。
弓道において、弓を引くために使用される革製の手袋のような道具。
それが嵌められていた。
強い念が込められているのは、見ただけで分かった。
一瞬にして、ゆがけから霊気が迸り、左手に握られた和弓の形が、右手に矢の形が、形成された。
にんまりと笑って光の弓を一気に引くちとせの姿に、ひとりの生真面目な眼鏡少女の弓道着姿が重なる。
「草影ちゃんに感謝」
ほまれを救いたいという一念。
一緒に行けないなら、想いだけでも持って行って欲しい。
草影忍の気持ちが込められた、ゆがけを持たされていた。
「破邪滅却!」
ちとせの裂帛の気合いとともに、託された想いを乗せた霊気の矢が、零距離から飛縁魔の胸へと放たれる。
と、一息に胸を貫かれた飛縁魔の身体が、ぶるりッと振るえた。
その手から炎の太刀が落ちる。
「おっ、おおっ、おおおおおおっ……!?」
全身から吹き出ていた炎が消失する。
飛縁魔はその場に蹲り、そして、見た。
屋敷内に放たれていた炎もすべて消えている。
自分の身体に風穴を開けた矢の一念によって、炎のすべてが消し飛ばされてしまっていた。
「炎にて燃やし尽くすことも叶わぬか。魂どもを道連れにすることすら叶わぬか……」
そう呟き、恨めしそうにちとせを見上げる。
そして、また嗤った。
「くかかかかッ、永遠の美を手に入れたはずのわらわが消えていく――」
嗤いながら、姿が徐々に崩れ、そして、消失した。
ちとせは、大きくため息をついて、ゆがけを嵌めたままの右手で、神扇を拾った。
部屋中の写真から、蛍のような淡い光が抜け、ゆらゆらと漂い、そして、屋敷の外へと飛び立っていく。
光の抜けた写真からは女性たちの姿が消えていた。
魂が自分の身体に戻って行ったのだろう。
「さってと、ボクも戻りますかね」
ちとせは、すべての写真から女性の姿が消えたのを確認して、飛縁魔の屋敷から立ち去った。
――翌朝。
ちとせは、いつものように陸上部のグラウンドに一番に到着していた。
念入りに準備運動を行ない、軽い走り込みを始める。
と、視界の端で、黄金の髪が揺れた。
吾妻ほまれがその高校生離れしたスタイルを誇示するように胸を反らしながら、歩いている。
その後ろに付き従っているのは、草影忍。
ほまれはテニスウェア、忍は弓道着という奇妙な組み合わせだが、猫ヶ崎高校の生徒にとっては、珍しくもない光景だ。
二人ともこれから部活動の朝練なのだろう。
放課後は生徒会の活動にも時間を割かねばならない二人が、部活動の朝練にも熱心であることは、自分もまた早朝からグラウンドに来るちとせが良く知っていた。
ほまれがちらりと視線を、ちとせへと向けてきた。
何も言わない。
頭も下げない。
唇の片端を少しだけ吊り上げ、フッ、とだけ、笑った。
ほまれは、ちとせが命の恩人だと知っているはずだが、卑屈にはならない。
むしろ、尊大、傲慢、高飛車。
だが、ちとせはそれで良いと思っている。
プライドの塊のような吾妻ほまれが頭を下げてきたら、それこそ、薄気味悪いではないか。
それに、ほまれの気高さには飛縁魔の着飾った美しさとは別種の、美しさがあった。
一瞬だが、見惚れてしまった。
そして、気づく。
ほまれの微かな笑みには敬意が込められていることに。
この微妙な表情を察することができるのは、ちとせの他には草影忍くらいだろう。
ちとせも、ほまれへと、笑い返した。
こちらは、にんまりとした笑み。
ほまれは、すぐに視線を外して、前方を向き、さっさと歩き出した。
振り返りもしない。
これには、さすがに、ちとせも肩をすくめた。
もちろん、期待したわけではない。
ほまれが気恥ずかしさを消すために、いつもにもまして硬質な態度を取っているのだとも理解していた。
ただちとせは自身の反応としてはこうするのが自然のように思えたのだ。
それを見た忍は苦笑しながら、軽く頭を下げてきた。
ちとせはまた、微笑んで応じた。
今度は明るい笑み。
「奪うだけの永遠より、通じ合う一日の方が、面白いもんね」
ちとせは誰にともなく、呟いた。