AZAZEL



 天之川(あまのがわ) 香澄(かすみ)は、剣道を始めてから自主トレーニングで、毎週土日に五キロずつのランニングを欠かしたことはない。
 猫ヶ崎高校では、成績優秀で知られ、風紀委員長という肩書きもあってか、クールで厳粛な才媛というイメージの強い香澄だが、ジャージ姿も絵になっていた。
 長年のコースを辿り、毎週スタートとゴールに利用している猫ヶ崎海上公園に戻ってきた香澄は、縛っていた長い黒髪を解いた。
 サラサラとした汗をタオルで拭い、ミネラルウォーターを喉に流し込む。
 猫ヶ崎海上公園は、スペースが広い開放的な造りで、その名の通り猫ヶ崎沿岸に位置する人工島に築かれており、ここから望む猫ヶ崎湾の姿は猫ヶ崎市の絶景の一つだった。
 潮の香りを運んでくるさわやかな風が、ランニングで熱せられた身体を徐々に冷ましていく。
 本当ならば、この後、休憩をはさんで、公園で竹刀の素振りでもしたいところだが、公共の場ということもあって香澄は遠慮していた。
 この公園には、去年他界してしまった母との思い出がいっぱいある。
 小さい頃に母と父と自分の三人で何度も訪れたことがあった。
 父が仕事で忙しい時も、母と二人で訪れたことがあった。
 そして、恋人――自分でそう表現するには恥ずかしい存在だが――の影野(かげの) 迅雷(じんらい)との思い出もたくさんあった。
 父と母もこの公園でよく過ごしたと聞いてからは、迅雷と二人だけで訪れることも多々あった。
 香澄は公園の中を見回した。
 珍しく人影が少ない。
 聞き覚えのある大声と金切り声が聞こえてきたのは、その時だった。
 振り返ってみれば、剣道部の主将にして香澄の想い人である影野 迅雷と、生徒会長の吾妻(あづま) ほまれの姿があった。
 迅雷は、ポロシャツにデニムのパンツというラフな格好をしているおかげで、首や腕の鋼鉄のような筋肉が遠目にも見て取れる。
 手にはビニール袋を持っている。
 その不落の要塞のような肉体に物怖じせずに突って掛かっているのが、吾妻 ほまれだった。
 彼女は、グレイ基調の膝下まであるワンピースの上に黒いカーディガンを羽織っていて、カジュアルな服装ながらもどことなく気品を漂わせている。
 こちらは手に紙袋を持っていた。
 二人は良い争いをしているようだった。
 珍しいことではない。
 二人が顔を合わせれば、必ずといって良いほど口喧嘩に発展する。
 口喧嘩の発端の半分は、ほまれが迅雷の素行の悪さを指摘して説教を始めることに起因し、半分は迅雷がほまれの傲岸な態度を指摘して反発することに起因する。
「誰が、ボケですって!?」
「いや、ボケじゃなくて、ボケーッとだぞ」
「どちらにしても、失礼ですわ。謝罪しなさい!」
「むう、相変わらず騒がしいヤツだな」
「むきーっ! 誰のせいで金切り声になっていると思うの!」
「甲高いのは元々だろ」
「んもう! ああ言えば、こう言う!」
「それはお互いさまだ」
「お互いさま? 庶民の影野ごときが、わたくしと同列ですって!?」
「何だ、その言いぐさは」
「授業はサボる。校舎は壊す。不良のあなたがわたくしと並び立とうなど百年早いのですわ」
「んだとっ! 人の素行をとやかく言うがよ、その金髪は何なんだよ!」
「金髪ロール巻きは、お嬢さまの基本ですわ」
「ああん? お嬢さまと言ったら、流れるような黒の長髪だろ?」
「……あなたとは徹底的に価値観が合いませんわね」
「おう。髪型チョココロネ女と価値観があってたまるか」
「ちょ、ちょ、ちょこころね……!?」
「どこから見ても、見事なチョココロネだろう」
「わたくしの自慢の髪型を言うことかいて、ちょこころね。……懲罰委員会も覚悟しておくことね」
「うえっ!? ちょ、ちょっと待て! 懲罰委員会ってなんだよ!」
「言葉通りの委員会ですわ」
「何だかわからんが、とにかく、悪かった。言い過ぎたよ」
「お〜っほっほっほっ、今更謝っても遅くってよ」
「くうっ」
「権力を持たぬ野良犬風情が、わたくしに逆らうこと事態が間違いなのよ」
「独裁者め」
「『支配者は親しまれるより、恐れられよ』ですわ」
「ちいっ、ああ言えば、こう言う」
「お互いさまでしょう」
「さっきと言ってることが矛盾してるぞ」
「臨機応変という言葉をご存知?」
「……相手にしてられんぞ」
「こっちこそ、ですわ。これ以上、あなたと話をしていると脳が溶けてしまいますわ。懲罰委員会は勘弁してあげるから、来週は授業中居眠りしないように」
「むう。仕方ねえな」
「『仕方ねえな』ではなくってよ。学生の本分は勉強ですわよ」
「わかった。わかった」
「課題レポート提出も忘れないように……あら?」
 ほまれが香澄に気づいた。
 香澄が軽く頭を下げるが、ほまれはそれを当然と思っているのか会釈を返しもしない。
 その代わりではないだろうが、迅雷は大きく手を振った。
「おう、香澄!」
「迅雷主将は買い物の帰りでしょうか?」
「こいつに捕まるとは思わなかったが」
「こいつ、ですって?」
 ほまれが敏感に反応して柳眉を逆立てる。
「会長は?」
 香澄は助け船を出した。
 また口喧嘩が始まってしまうと長引きそうだったから。
「わたくしも買い物の帰りですのよ。天之川さんはランニング中かしら?」
「ええ、終わったところですけれど」
「香澄。今日も五キロ走ったのか?」
「体力と脚力を付けるためですから」
「ううむ、あまりハードにやるなよ」
 迅雷がそわそわしたように言う。
「わかっています。この後は家で素振りだけにして、ウェイトトレーニングは止めておきます」
「ん、ならいいさ」
 安心したように迅雷は笑った。
 その隣で、ほまれが迅雷の態度を不思議そうに見ている。
「影野?」
「おう?」
「態度がおかしくありませんこと?」
「そ、そんなことはないぞ。じゃあ、おれは一足先に帰らせてもらうぜ」
 不審そうなほまれに、迅雷は慌てて首を振った。
 そして、くるりと逞しい肉体を後ろへと向け、首だけで、香澄を振り返った。
「じゃあ、また後でな。トレーニングやり過ぎて、約束の時間を忘れるなよ。さて、準備準備」
 そう言って迅雷は駆け去った。
 約束。
 忘れるわけがない。
 忘れられるわけがない。
 とても、うれしい約束なのだから。
 それだけに。
 香澄は思う。
 この場で言わなくても良いことではないか、と。
「また後で? 約束?」
 案の定、ほまれが腕を組んで首を捻っている。
「そういえば、今日は七夕だったわね。七夕祭りか何かかしら?」
 視線はこちらに向いていた。
 迅雷の迂闊さにあきれながらも、香澄は毅然とした態度を崩さなかった。
 別に隠す必要はない。
 恥ずかしいが、自分はともかく、迅雷は痛くもない腹を探られるのも困るだろう。
 香澄は言った。
「いいえ、今日、私の誕生日なんです。それで迅雷さんが、お昼からいろいろと企画をしてくれているみたいで」
「あら、名字が天之川で七夕が誕生日なんてすごいわね。そう、誕生日なの……」
 唐突に、ずんっと鼻先に、腕を組んだままの生徒会長の端整な顔が寄せられる。
 真正面からぱっちりとした大きな瞳が値踏みをするような直視を浴びせてくる。
 シャンプーか香水かはわからないが、とてもイイ香りが漂ってくる。
 ――こんなにもきれいな人が、この世にいるのね。
 香澄は内心圧倒されていた。
 生徒会長を間近に見ることは多々あったが、これほどの至近距離は初めてだ。
 シミ一つないきめの細かい肌。
 金色の髪は地毛ではなくて染めているはずだが、その黄金に何の違和感も覚えず、逆に品格さえ感じられる。
 美の女神でさえ嫉妬を覚えるような美しさ。
 これで、成績優秀、スポーツ万能、しかも、生徒会長を務める才覚の持ち主。
 高慢な性格さえなければ、完璧な美少女と言えよう。
 だが、香澄には、その高慢な性格も羨ましかった。
 自分は公私の交際でも、どうしても硬質な面が出てしまう。
 笑うのはもちろん、他の感情を表現するのも苦手だった。
 何事もしゃくし定規に考えてしまって、厳粛な雰囲気になってしまう。
 冷たい感じがすると言われていることも知っている。
「……ふぅん」
 じっくりと香澄の顔を見回していた生徒会長が、すぅっと目を細めた。
「天之川さん」
「はい」
「あなた、ダメね」
「……え?」
 ほまれの唇が不吉な笑みの形から紡ぐ言葉を聞いて、香澄は硬直した。
 ずいぶんと失礼なことを言う。
 香澄は今までダメなどという言葉を言われたことはない。
 勉学で努力し、剣道でも努力し、信頼と評価を得てきた。
 自尊心が高いとは思わないが、正面から否定されてはさすがに傷つき、苛立ちも感じる。
 この生徒会長は人のことなどまるで考えていないのではないか。
 自分が優秀であるだけに周囲を気にしない。
 目の前のこの女性は、そういう人種なのではないか。
「天之川 香澄さん。あなたは、成績優秀、スポーツ万能、しかも風紀委員長を務める才覚の持ち主。それに、とてもきれいな顔とスラリとした身体をしているわ」
 自分の生徒会長への評価そのものを自分自身へと返されて、香澄は戸惑った。
「でも、あなたは自分の美しさの出し方を知らない。そこがダメね」
 金髪の生徒会長が喉で笑った。
 己と香澄の違いを指摘するように。
 高慢だ。
 だが、香澄は反論できなかった。
 誕生日にこんなことを言われるなんて。
 もしかして、この人は迅雷さんを嫌っているから、私のことも?
 普段は考えもつかない負の思考が一瞬廻ってしまう。
 そういう自分が許せなくて唇を噛みしめる。
「まあ、影野にはお似合いね」
 そう言いながら、生徒会長はまた笑った。
 今度は、その笑顔と発言の内容に、香澄はどきりっとする。
 生徒会長は気にした様子もない。
「わたくしは、彼が大嫌いなの」
「そう、ですか」
 楽しそうに言う生徒会長。
 その微笑みが、あまりにも美し過ぎて、周囲の空気が蜃気楼のように歪んで見える。
 吐息までも、美しかった。
「あなたを影野に似合わないようにしたくなったわ」
 ほまれの炯とした視線が、香澄を射抜く。
「お昼までまだ時間があるでしょう? 少し、付き合いなさい」
 香澄は、動けなかった。

 総資産は世界最大であり、猫ヶ崎市の就業者の九十パーセント以上が何らかの関わり合いを持つといわれる大企業グループ『吾妻コンツェルン』総帥の自宅――吾妻邸――へ、香澄は来ていた。
 逆らうこともできずに、無理矢理気味に連れ込まれたと言っても良い。
 そして、邸宅に着くや否や、玄関出迎えたメイドの一人によって浴室というよりも大浴場といった方が正しい大理石造りの風呂場に通された。
 戸惑いながらも、ランニングで掻いた汗を流せということだと勝手に理解して、シャワーを浴び、湯船に浸かった。
 風呂場から上がった時には、脱いだジャージはどこかに運ばれていて、代わりに真新しい服が用意されていた。
 ブルーのカシュクールワンピース。
 ウェストの切り替えから落ちるプリーツシフォンスカートが清楚な印象を強めている。
 シンプルだが、大人の気品を感じさせるデザインだった。
 着替え終えて浴室を出ると、ここまで案内してくれたメイドが待機していた。
 ずっと待っていたのだろうか。
 そうだとしたら少し悪い気がするが、メイドは深々とお辞儀をして文句一つ言うことなく、礼儀正しく接してくれた。
 そして、この部屋まで案内してくれた。
 ほまれの私室ということだが、豪奢な部屋だった。
 高級だが嫌味のない家具や調度品が並び、全体の色合いもシックに抑えてある。
 年代物だと思われる木製のスピーカーから、クラシック音楽が流れていた。
 ソファに置かれた大きな猫のぬいぐるみだけが、少しだけ高校生らしさを感じさせる。
 寝室は寝室で、こことは別にあるという。
 用意された服ではなく、ジャージ姿のままでは、厳粛な雰囲気の香澄といえども場違いに過ぎただろう。
 他所行きに厳選した私服でも安く見られてしまいそうだ。
 その次元の違う世界にあっても、吾妻 ほまれは、さすがにまったく浮くことがない。
 グレイ基調のワンピースと黒のカーディガンも、この部屋ではさらに映えて見えた。
 豪奢な部屋の豪奢な主は豪奢な金髪を揺らして、優雅なクラシック音楽に乗せた優雅な声で優雅に尋ねた。
「湯加減はどうだったかしら?」
「素晴らしかったですけど、……いったい何を?」
「良かったわ。汗くさいままでは、やりにくいもの。せっかくですしね。出来合いのもので悪いのだけれど、サイズは問題ないみたいね」
 ――出来合い?
 一瞬何を言われているのかわからなかったが、どうやら服のことのようだ。
 あつらえ(オーダーメイド)ではないと言っているようだ。
 そのようなことは香澄にとっては当たり前のことだが、この令嬢にとっては当たり前ではないようだ。
「あなたのジャージは大切に預かっておくから安心しなさい」
「……?」
「座って」
 戸惑う香澄を無視して、ほまれが言う。
 天衣無縫。
 そんな言葉とともに、同級生の神代(かみしろ) ちとせの顔を思い出した。
 まるで性格は違うが、この吾妻 ほまれと似ているところがあるようにも思える。
 香澄が勧められたのはソファではなく、木製の椅子だった。
 腰を下ろした椅子の目の前には鏡台があった。
 巨大な鏡の中に、香澄の姿が映っている。
「流れるような黒髪はお嬢様の基本。なるほどね」
 背後に立ったほまれのしなやかな指が、黒髪を梳く。
「きれいな肌だけど、化粧水と美容液、それに乳液は塗っておきなさい」
 そう言って、ほまれは液体の入った瓶を香澄に渡した。
 香澄はようやくほまれの意図を悟った。
 彼女は、香澄に化粧をしようとしているのだ。
 香澄は素直に、化粧水と美容液と乳液を顔に施した。
 次いでクリームを渡される。
「クリームもしっかりなじむまでお願いね。色は整っているから、ファンデは必要ないわね」
 香澄がクリームを顔に塗り下地を作っている間に、ほまれはパレット状のものを手に持っていた。
「目を閉じて」
 耳元でささやくように言う。
 ゆっくりと目を閉じる。
 ブラシが瞼をやわらかに撫でる感覚。
 アイシャドウだ。
 ブラシの感覚が消えると、今度は筆のようなものが瞼の上を動き始める。
「もう目を開けてもよろしくてよ。睫毛はきれいだから、マスカラはよしておきましょう」
 目を開ける。
 瞼にグラデーションが立体感を作っており、アイライナーが目の形をくっきりと浮き立たせていた。
 自分の変化に少しだけ驚く香澄をよそに、ほまれが鏡台の引き出しを開ける。
 五十色はあるだろう口紅の中から、パールピンクのスティックを手に取った。
「少し口を開いて」
 香澄は言われるがままに唇を開いた。
 その唇にパールピンクが落とされる。
 それを引いただけで、もともと美しい唇がその何倍もの光沢が放ち始める。
 香澄は化粧の経験がほとんどなかった。
 周囲に化粧をしている少女たちが少なかったし、自分もまたする必要を感じなかった。
 最近は違った。
 迅雷を異性として認識してからは美しくなりたいという願望もあった。
 ただ、やり方がわからなかった。
 もともとコミュニケーションの得意な方ではない香澄は、周囲に聞くのも気恥ずかしかった。
 それが、思いもかけないきっかけで、化粧を知ることになった。
 とても洗練された手つきで、自分の姿が変えられていく。
 年が一つ上なだけで、これほどに自分と違うものなのだろうか。
 それとも、この人が特別なのだろうか。
 香澄はぼんやりとそんなことを考えていた。
 気づけば、部屋の中に響くクラシック音楽が佳境を迎えている。
「見て」
 ほまれが香澄の両肩に後ろから手をかけ、満足そうに頷いた。
「あのガサツな男に似合わないとてもきれいな女性がここにいる」
「これが、私……?」
 鏡の中の自分を見て、香澄は驚愕を禁じ得なかった。
 鼓動が高くなるのを感じる。
 自分の変化に戸惑ってしまう。
 顔もファッションもいつもと違う自分。
 これが、私……?
 もう一度心の中で繰り返す。
 頬が桜色に染まる。
「これが、あなたよ」
 ほまれが、力強く言う。
 そして、香澄の手を取り、爪をやすりで丁寧に擦り始めた。
「影野の驚く顔が目に浮かぶわ。イイ気味ね」
「会長は……」
「なに?」
「迅雷さんのことを本当に嫌いなんですか?」
「大嫌いよ」
 ほまれは上機嫌に言った。
「ガサツですし、口も悪いし、暴力的ですし、お節介ですし」
「そうですか」
「でも」
「はい?」
「あなたみたいな子は嫌いではなくてよ。影野にはもったいないわ。だから、彼にあなたとは吊り合わないって思い知らせて、恥じ入らせてやるのよ」
「そう、ですか」
 形の整えられた爪に慣れた手つきで、口紅と同じ色のマニキュアが塗られていく。
 爪が一枚ずつ輝いていくのを見ながら、香澄は思った。
 よくわからない、と。
 しかし、なぜか迅雷のことを悪く言われても、不快な気分にはならなかった。

 猫ヶ崎水族館は、猫ヶ崎海上公園に隣接する五階建ての本館と海面スタジアムから構成される大型水族館だ。
 本館では猫ヶ崎湾の魚や生物を展示され、海面スタジアムではイルカやアシカのショーが開催される。
 年間の利用者数は三百万人で、テレビドラマや映画のロケ撮影も良く行なわれている人気スポットでもある。
 その猫ヶ崎水族館の入口にある広場に設置された噴水の中央には大時計が設置されている。
 それを見上げながら、香澄は、ぼんやりとした気分で迅雷を待っていた。
 もうすぐ時間だ。
 ふと、噴水の人工的な泉に映った自分の顔が視線に入った。
 頬が自然と桜色に染まる。
 ちょうどその時だった。
 迅雷がやってきたのは。
「香澄、待ったか?」
 声の方へゆっくりと振り返る。
 ポロシャツにデニムのパンツという格好は朝と変わらない。
 それだけに、逞しい身体が目についた。
 目が合った。
 迅雷の瞳孔が丸くなる。
 途端に頬が熱くなる。
 桜色だった頬が赤くなっていくのを自覚し、視線を下げた。
 迅雷の動きが止まるのを感じる。
 呼吸音も静かになる。
 自分の鼓動の音だけが聞こえてくる。
 耐え切れなくなって、香澄は視線を迅雷へ戻した。
 迅雷の顔は、赤く染まっていた。
「迅雷さん」
「……」
 迅雷は返事をせずに、香澄を凝視していた。
「迅雷さん」
「……」
 返事がない。
「迅雷さん」
「……」
 返事がない。
 だが、このままシカバネ状態では、自分もどうしていいかわからない。
 香澄が叫ぶように言った。
「迅雷主将!」
「お、おう」
 ようやく我に返ったのか、迅雷が頷いた。
「香澄」
「はい」
 香澄はすぐに返事をした。
 ただ、頭の中はこんがらがっている。
 迅雷は真っ赤な顔のまま、言った。
「すごく、きれいだな」
 ボンッ。
 香澄は頭の中で火山が爆発する音を聞いた。
「お化粧、しています。吾妻会長がしてくれました」
「ほまれが?」
「この服もお借りしたものです。迅雷さんを、その、お、驚かしたい、と」
「それは大成功だな、こりゃ」
 迅雷は頷いたが、目に力がない。
「化粧は、はじめてか?」
「はじめてです」
「親父さんより先に見ちまったかな」
「母に教えて頂きたかったとは思いましたが、迅雷さんに一番でお披露目できたのは嬉しいです」
「そっか」
「ええ」
 香澄が迅雷の顔をまっすぐな瞳で見ながら、頷いた。
 夏風が黒く長い髪を揺らす。
 迅雷は――、しばし黙考した。
 日差しの眩しさを感じつつ、迅雷は意を決したように香澄の手を取った。
「なら、驚いてばかりもいられんな。香澄への誕生日プレゼントで部外者に負けたとあっては、おれの立場がないからな!」
 自分をより美しく見せる術を施された女神は、その術以上に自身を美しく見せる表情――心からの微笑み――を浮かべ、深く頷いた。


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