愛を貪るもの



 ――二月十三日。
 この猫ヶ崎市、いや、世界を牛耳るほどの財力を持つ『吾妻コンツェルン』の総帥の吾妻龍大のひとり娘――吾妻ほまれは、高校の後輩である草影忍と生徒会室にいた。
「忍、その情報は確かなのですね?」
「はい、ほまれさま、八神殿は両親が一時的に海外から帰国されたとのことで、神代神社ではなく、実家に戻っているそうです」
「ちとせさんとの接触が減るわけね。これはまたとない機会ですわ。しかも、明日はバレンタイン」
「はい、ほまれさま」
 吾妻ほまれは猫ヶ崎高校に君臨する生徒会長であり、父親である吾妻龍大は猫ヶ崎高校の理事長でもあった。
 財力も権力も持ち、その上、類希なる美貌と学年首位の成績を修める明晰な頭脳、所属するテニス部においてインターハイ出場経験があるほどの運動神経を持つ。
 完全無欠の令嬢にも思えるが、性格はわがままで高飛車、相手に頭を下げることを知らない。
 それでも猫ヶ崎高校の生徒の多くから敬愛されているのは、彼女が理事長の娘という事実からではなく、生徒会長という職務に真摯であることと、強い正義感を持って不正を許さないという面も持っているからだった。
 完成された天才ではなく、どこかに開け放たれた窓を持ち、気位は高いが、決して孤高を好む性格ではないことは彼女の周りに人が絶えないことからも伺うことができた。
 草影忍は、猫ヶ崎高校生徒会書記を務めている。
 ショートボブに黒縁眼鏡を掛けた理知的な少女で、生徒会では会長のほまれの懐刀ともいうべき存在だった。
 彼女は吾妻ほまれに心酔している。
 校内のほまれのカリスマに魅せられた『ほまれ好き』の急先鋒であり、彼女を敬愛して止まない者たちの筆頭であった。
 その敬愛の情は先輩後輩、会長と書記という仲を超えて、一方的な恋愛感情にまで発展している。
「ところで、忍は誰かにチョコをあげないのかしら?」
「はぁ、私には意中の男性はおりませんから、ほまれさまに……」
「物理研究部の……ええ、と何と言いましたっけ……そうそう、如月だったわね。彼には?」
「なぜ、如月殿に」
 心底不思議そうに片眉を跳ね上げる忍。
 脈なしね、これは。
 ほまれはそう思ったが、一応理由らしきものを述べた。
「あなたたちいつも一緒にいるじゃない」
「私がいつも一緒にいたいのは、ほまれさまです。如月殿のことなど何と思っておりません。それよりも、お車の用意はできておりますが?」
 真面目な表情で応える忍に、ほまれはため息を吐いた。
「わかったわ。参りましょう」

 猫ヶ崎高校の近くに、お菓子専門店『お菓子の猫』はあった。
 もともと人気店なのだが、今日の店内は明日のバレンタインに備えた少女たちでごった返している。
 神代ちとせもその中にいた。
 棚で買ってくれと主張するチョコレートの数々を見ては、パッパッと手にした買い物カゴに放り込んでいく。
「おおっ、ちとせってば、すごい買い込んでるわね。八神くん用?」
「ノンノン」
 話しかけてきた友人に指を振って、ちとせは男子も女子も同じようにを魅了する明るい笑顔のまま否定の意を示した。
「陸上部のみんなとか、義理が多いのよね」
「ああ、なるほどね。で、八神くんの分だけ手作りなのね?」
「いや、めんどくさいし」
「をいをい、同棲してんでしょ」
「ちゃいちゃい、同棲じゃなくて同居だってば」
「どっちでも同じに思えるけどねぇ」
 友人は苦笑しながらも深くは追求しない。
 実際、ちとせと悠樹の二人の間に恋愛感情があるのかと言われると、親友たちにもわからない。
 両親が海外を飛び回っている悠樹が幼馴染のちとせの家に居候していることは公然の事実だ。
 そして、この二人は猫ヶ崎ではワンセットのように認識されているのも現実だった。
「あ〜ら、ちとせさんじゃありませんの」
「……ほまれ先輩」
「ほまれさま、とりあえず、これくらいでよろしいでしょうか?」
「ええ、そうね」
 ほまれの後ろに山のようなチョコの入った袋を抱えた草影忍の姿があった。
「義理が多いと大変ですね。さすが、生徒会長」
「違いますわよ、ちとせさん。これを全部使って最高の手作りチョコレートを悠樹さまに作って差し上げるのです!」
 ――ぴくっ。
 ちとせの愛想笑いが微かに引き攣った。
「へぇ、ほまれ先輩、お菓子作りなんてできるんだ?」
「あなた、わたくしのことバカにしてますわね?」
「そんなことありませんよ」
「まあ、許して差し上げますわ。これから仕込みがありますから、もう、帰らせていただきます。忍、参りますわよ」
「はい、ほまれさま」
 忍を従えて立ち去るほまれの背を見ながら、ちとせは急に胸にもやもやとしたものが浮かんできた。
 カゴに放り込まれた大量のチョコレートの上から、さらにチョコレートを山のように流し込む。
 そして、『簡単にできる手作りチョコレート』という冊子を手に取る。
「悠樹は甘党だからね」
 つい先程までバレンタインにおける八神悠樹の存在を適当に扱っていたちとせの今の独り言を聞いた友人は苦笑せざるを得なかった。

 ――夕刻、吾妻邸。
 吾妻ほまれは世界屈指の豪邸に帰宅するとすぐに調理室を占拠したが、実はちとせの指摘通りに料理などしたこともないほまれ嬢は手作りチョコレートに悪戦苦闘することとなった。
 何度も何度も試作を行い、何度も何度も試食を行い、ようやく納得の味を得た手作りチョコレートが仕上げの段階に入ったのは、日が沈み月が昇る頃であった。
 彼女の常に勝気な光を失うことのない吊り上り気味の眼の下には隈ができている。
「あの、ほまれさま」
 チョコレートが固まったのを確認して、形を崩さぬように型を取り外したほまれに、忍が恐る恐ると声をかける。
「何ですの?」
「少し大きすぎるのでは?」
「良いのです。これがわたくしの愛の結晶なのです」
 ほまれが作ったのは、顔よりも大きなチョコレートである。
 しかも、ハート型。
「そういえば、忍。こんな時間まで大丈夫なの?」
「はい。先ほど、家に連絡はいれておきましたから」
「それならば良いのだけれど。あっ、飾りつけ」
 チョコレートペンで、ハート型のチョコレートに文字を描く。
「これで決まりですわね!」
 巨大なハート型のチョコの上に『愛』の文字
 わかりやすいといえば、これ以上わかりやすいものはないだろう。

 ――同時刻、神代神社。
 こちらも、実は料理は姉に頼りっきりのちとせが、一枚のチョコレートを完成させようとしていた。
 もちろん、ほまれに対抗するように作った悠樹用である。
「それにしても大きいわねぇ」
「鈴音さんがおっきい方がイイっていうから」
「おっきい方が愛が伝わるってもんよ」
 鈴音が豪快に笑いながら、ちとせの作ったチョコレートに目をやる。
 顔よりも大きなチョコレートである。
 しかも、ハート型。
「ダイレクトだな。ははっ、ハート型は最強だ」
「でしょでしょ。そういえば、姉さんは悠樹にあげるの?」
「明日、チョコレートパフェでも作ろうと思ってますわ」
「鈴音さんは?」
「あたしは葵にあげるかな。もちろん本命チョコを」
「ええっ!?」
「じょーだんだよ。じょーだん」
「わ、私そういう冗談は……」
「まあ、少し本気だったけどな」
「はい?」
「何でもないぜ。んっ、ちとせ、何やってんだ?」
「飾りつけ」
 ちとせがチョコレートペンで、巨大なハート型のチョコの上に『愛』の文字を描く。
 どこぞの生徒会長とまるで一緒の発想だとは、ちとせも気づいていなかった。

 ――そして、その日はやってきた。
 二月十四日、聖バレンタインデー。
 決戦の日である。
 八神家の近くの通りで、ほまれと忍は壁に隠れるようにして悠樹が現れるのを待っていた。
「あの、ほまれさま」
「なんですの?」
「どうして、私が、ほまれさまのチョコを?」
「あなたが悠樹さまに渡すのよ」
 ほまれは、それが当たり前だというように言う。
 腰に手を当てて肩幅と同じくらいに両脚を開いて、高校生にしては豊かな胸を反らした姿はむやみに威圧感があった。
「こういう物はご自分で渡すべきでは?」
 草影忍は冷静である。
 敬愛する生徒会長にとって最良の選択を忘れない。
 だが、ほまれは即座に首を横に振った。
「ダメよ」
「どうしてです?」
「恥ずかしいじゃない!」
 頬を微かに桜色に染めて目を反らすほまれを見て、忍は押し黙るしかなかった。
 と、ちょうどその時、八神悠樹出現。
 彼はいつも通りのブレザーにスラックス姿で、ゆっくりと歩いてくる。
「ああ、朝の悠樹さまもステキ。ちとせさんは毎朝、見ているのね。……なんて、うらやましいのかしら!」
 うっとりとした眼差しで、悠樹に見惚れるほまれ。
 彼女の視界の中では悠樹の姿に煌く星々がデコレートされていた。
「さあ、お行きなさい、忍!」
 ほまれが忍を促す。
 自分は壁に張り付いて動こうとしない。
 しかし、その闘気は物理的な風を巻き起こしていた。
「悠樹、おっは〜」
 ほまれたちの待機する通りの向かいから、ちとせが手を振りながら姿を現した。
 こちらは、ほまれたちとは違って隠れて待ってなどいない。
 幼馴染と普段から同居している気安さで、直接家を訪ねる気でいたらしい。
「ああっ、ちとせさん!?」
 思わず飛び出すほまれと忍。
「ほ、ほまれ先輩に草影ちゃん!?」
 突然現れた二人に驚愕の表情を浮かべるちとせ。
「むむむっ……」
「むむむっ……」
 ちとせとほまれが向き合って、唸り合う。
 と、ちとせはほまれにさっと背を向けて駆け出した。
 かなり速い。
 さすが陸上部副部長である。
「くっ、一番に渡すのはわたくしですわ」
 ちとせのダッシュを見たほまれが目を吊り上げる。
 ほまれはどこから取り出したのか、テニスのラケットを手に握った。
 そして、これまたどこから取り出したのかわからないテニスボールを頭上に放り投げる。
「愛のサーブ!」
 渾身の力を込めてラケットを振る。
 ほまれのサーブを受けたテニスボールは光速で飛んだ。
「きゃあっ!?」
 見事にちとせのアスファルトに減り込むテニスボール。
 ちとせは足を止めざるを得なかった。
「お〜ほっほっほ! さあ、忍!」
 高笑いを上げるほまれの指示を受け、チョコレートの入った箱を抱えた忍が走る。
「させるかぁ!」
 今度は、ちとせが霊気を放つ。
「きゃああっ!?」
 見事に吹っ飛ぶ、忍。
「やりますわね。どうやら、チョコの前にあなたと決着をつけるべきのようね」
「ふふっ、ほまれ先輩。ボクに勝てると思ってるの?」
 二人の背から異様なオーラが立ち上っている。
 周囲の風景を歪ませるほどの熱い闘気。
「はあああああああああああああっ!」
 二人の気合の声と共に、闘気が極限まで高まる。
「これでも食らえぇぇぇ!!」
「これでも食らいなさぁぁい!!」
「ほまれさま、あぶない!」
 ちとせとほまれの闘気がぶつかり合い、凄まじい衝撃が周囲に広がる。
「きゃあああああああぁぁ…………!?」
「きゃあああああああぁぁ…………!?」
 闘気の爆発に、ちとせと、ほまれをかばった忍は吹っ飛び、二人は空の彼方へと消えた。
「ああっ、忍!」
 呆然と立ち尽くすほまれ。
「あれっ、ほまれ先輩?」
「あ、え、あの、ゆ、悠樹さま!?」
「おはようございます」
「おおおおおおおおはようございますすすす」
「さっきここに、ちとせと草影がいませんでした?」
「えええええええっ、ああああああ、ささささあ?」
 チョコを渡す絶好の機会に、昨晩作った愛の結晶を探すほまれ。
 しかし、その慌てていた顔が真っ青に染まる。
 ――しまったぁッ!
 チョコレートがここにあるわけがない。
 吹っ飛ばされていった忍に預けていたのだから。
「あれっ、何でラケットなんか持ってるんです?」
「えっ、あっ、ああっ!?」
 ほまれはラケットを持ったままだった。
 ラケットバックにでも入れてるならまだしも、素のままの状態で握っている。
 しかも、ショルダーバックなどは持っておらず、ブレザーにプリーツスカートの制服姿に学生鞄のみである。
 ラケットの存在だけが明らかに浮いている。
「おほほほっ、テニス部の朝練ですわ。お気になさらないで」
 ほまれはこめかみに冷や汗が流れるのを感じながら、苦しい言い訳を口にした。
 案の定、悠樹は不審そうに首を傾げた。
「道端で?」
「道端が流行っておりますの」
「はぁ……」
 言い切るほまれに、悠樹は深い追求を避けた。
 別に向きになって言い争うほどのことでもないからである。
 悠樹は気を取り直すように、ほまれに言った。
「ところで、先輩。一緒に学校行きませんか?」
「えっ?」
「あっ、でも、朝練の途中でしたね」
「い、いや、いやいやいや、一緒に参りますわ。朝練はこれにて終了なのですの」
「そうですか。なら、一緒に……あっ、そうだ。悪いんですけど、ちょっと寄り道してもかまいませんか?」
「も、もちろん、かまいませんことよ」
 ――悠樹さまと一緒にいられる時間が増えますわ。
「ちとせの家に教科書忘れちゃったんですよね」
 『ちとせの家』という悠樹の言葉に一瞬だけ表情を曇らせたものの、ちとせが家に居ないことは確実なのを思い出し、ほまれは素直に頷いた。

 ――神代家居間。
「まだ、登校時間は大丈夫でしょう。さあ、召し上がれ」
「葵さん、ありがとうございます。おいしいですよ。このチョコパフェ」
「ありがとう、悠樹くん」
 パクパクと彼女の手作りチョコレートパフェを口に放り込む悠樹を見て、葵が女神のような微笑を浮かべる。
 一方のほまれはどんよりとした表情で、自分の前にも出されたチョコレートパフェを凝視している。
 それに気づいた葵が、ほまれに声をかける。
「あらっ、お口に合いませんでしたか?」
「い、いいえ。とてもおいしいですわ!」
 慌ててスプーンですくった一口を飲み込みながら、ほまれは強張った笑みで応える。
 ――ああ、悠樹さまが召し上がる一番のチョコが〜!
 ピクピクと眼輪筋が痙攣するのを自覚する。
 ――それにしても、お姉さまが伏兵とはちとせさんも哀れですわね。
「おろっ、悠樹じゃんか」
 鈴音が顔を出してきた。
「あ、鈴音さん。おはようございます」
 ――悠樹さまの知り合い!?
 きわどいスリットの入ったチャイナドレスに身を包んでいる鈴音を見て、ほまれは絶句した。
 尋常な格好ではない。
 大人びているといわれるほまれでも及ばない、妖艶さと健康美を同時に撒き散らしている。
 ――ま、まさか、悠樹さまを悩殺する気!?
 ほまれの疑惑に満ちた眼差しなど気にもしないで、鈴音が手にしていた如何にも安そうなウェハースチョコを悠樹に手渡す。
「せっかくだからコレやるよ」
「あ、どうもありがとうございます」
「よせよ。食玩狙いで買ったあまりだぜ」
 律儀に礼を言う悠樹に、照れ笑いを浮かべる鈴音。
「鈴音さんもパフェ食べます?」
「ああ、お願いするかな」
 ――なんてこと、一番どころか、二番チョコも!?
 ほまれはチョコレートパフェを食べながら、力なく項垂れた。
 とほほ。
 とほほほ。
 心の中で虚ろに笑いながら、ほまれは真っ白にならざるを得なかった。


 >> BACK