語源は、平安末期の『
その真偽はともかく、師走――十二月――は、一般的には年間の一区切りであり、忙しい月であることには変わりない。
人々は年内に済ませなければならない用事に奔走し、中小企業は冬季賞与や冬季休暇、クリスマスや正月を狙った年末商戦、年越しの資金繰りや年始の準備にも四苦八苦する。
もちろん、社会人だけでなく、学生もまた忙しい月なのには変わりない。
彼女は、猫ヶ崎高校で、生徒会書記と弓道部員と
その忙しさを感じさせないのは、忍の優秀を示すものだろう。
だが、十二月は、生徒会長である吾妻 ほまれの終業式での挨拶の起草、生徒会の年内活動の総括、弓道部の冬合宿の準備等に追われ、しかも、そのいずれにおいても、忍の役割というものは大きいものがあるため、その忙しさは極致に達していた。
「ふぅ……」
生徒会活動と部活動の合間を縫うようにして、レポートの課題をこなしていた忍も多忙による疲労のためか口から自然にため息が出た。
場所は、図書館。
猫ヶ崎高校に設置されている図書館はかなりの面積を誇る赤煉瓦造りの建物だった。
趣味で読書をしている者はもちろん、授業の予習や復習をしている者や忍と同じように資料を探し出して課題レポートを書いている者もいて、大半の席が埋まっていた。
目が霞む。
トレードマークである眼鏡を外し、目と目の間を右手の親指とひとさし指で挟んでキュッと押さえる。
続いて、両手を頭上に上げて伸びをする。
筋肉の伸びす感覚が気持ちイイ。
眼鏡をかけ直す。
窓に映った自分の顔を見て、顔色があまり良くないことに気づいた。
少し働き過ぎだろうか。
でも、と思う。
充実してもいるのだ。
ふと、窓の外で白いものがちらつくのが見えた。
「雪」
先程とは明らかに違う調子で、ほっと息が口から出た。
「ホワイトクリスマスには少し早いけど、悪くはないわね」
彼女も、高校生だ。
雪という現象だけで、ロマンチックな想いが胸をよぎったりもする。
しばらく、雪を眺めていた忍だが、テーブルの上に置いたスマートフォンがブルブルと震え出したことで、次のスケジュールが押し迫っている現実に引き戻された。
課題レポートと筆記用具をかばんに仕舞って立ち上がり、不要になった資料を返却棚に返し、まだ使う予定の参考書を借りる手続きをカウンターで済ませる。
そして、すぐに図書館をあとにしようとしたが、エントランス付近でまた目が霞んだ。
くらっとした感覚に、額を手で押さえる。
「……やっぱり、疲れてるのかしら」
まだまだやらねばならないことがあるというのに。
忍は自分を叱咤する。
そこで気づいた。
すぐ横にある自動販売機に。
「何か気付けに飲んだ方が良いかもね」
コーヒーにしようか。
それとも、甘い飲み物の方が良いだろうか。
「あら?」
見慣れない――デザインのドリンク剤らしきものが目に入った。
「『extremely
busy』?」
聞いたこともない。
新製品だろうか。
「『いそがし度MAXの人におススメの栄養補給ドリンクです!』か。……お決まりの文句ね」
たいして珍しくもないコピーが謳われている。
――買え。
「えっ?」
忍が目を丸くして辺りを見回す。
「……今、声がしたような?」
だが、周りには図書館を利用しようとして入館してきた生徒たちやエントランスで雑談している生徒たちしかおらず、誰も忍の方は見ていなかった。
「まっ、良いか。気分転換とエネルギー補給を兼ねて、買ってみるのも悪くはないわね」
妙に引き込まれるものを感じて、栄養ドリンク剤を買うことにした。
現金投入口に硬貨を入れ、ボタンを押す。
ガコンッ。
と、音を立てて、取出口に落ちてきた、ドリンク剤を手にとってフタを開ける。
ビタミン独特の香りがする。
口を付けてみたが、特に変わった味はしなかった。
一気に飲み干すと、空になった瓶を回収箱へと捨てる。
「ふぅ……」
ため息が口を出た。
ギュン。
「?」
ギュン、ギュン、ギュン。
奇妙な感覚が身体中を駆け巡る。
血液の流れが速くなっていく。
途端。
急に不安が込み上げてきた。
休んでいる場合じゃない。
休んでいる場合じゃない。
私は忙しいのよ。
私は忙しいのよ。
動かなきゃ。
働かなきゃ。
「忙しくしなきゃッ!」
床を力いっぱい踏みながら、忍は図書館をあとにした。
自動販売機の提供ラインナップから件の栄養ドリンク剤が消えていることには、誰も気づかなかった。
「うをぉい、草影ッ!」
男子生徒の怒声とも悲鳴とも取れる声が響き渡った。
場所は、各種委員会室などがある猫ヶ崎校舎『第二十三号棟』、通称『生徒会組織棟』の最上階に位置する『生徒会室』。
声を荒げているのは、生徒会副会長の
彼の目の前には山のように書類が積み重ねられている。
しかも、どんどんどんどん山は高くなっているのだ。
先程までは龍臣の胸の高さに届くかどうかという状態だったのだが、今では顔が半分見えなくなるほどにまで積み上がっている。
「これを今日中に見ろってか!?」
「見れるでしょう。見れないわけがない。私ができたのですからね」
山を高くしていっているのは、忍だ。
凄まじい勢いで生徒会に提出された書類や学校に提出する書類に目を通し、年内の生徒会活動の総括、年明けの活動方針の草案等々を副会長の席へと積み上げていく。
「時間がないのですから、さっさと見てください」
「まだ時間はあるだろう。一日で終わらせる気か!」
「そうです。最終的に、ほまれさまに見ていただいた上で、委員会等を招集して議論等も行なわねばならないのですから、私や副会長の段階で書類を止めるわけにはいかないでしょう!」
忍が圧力のある口調で言う。
眼鏡の奥の目が血走っているのに気づいて、龍臣は唾を飲み込んだ。
もともと忍は生徒会長のことになると目の色が変わるのだが、今日の彼女は尋常ではない。
逆らわない方が良い。
気圧される形で、龍臣は頷いた。
「芦屋殿もよろしいですね?」
生徒会室から避難しようとしていた会計担当の
「こわーっ、今日の忍、マジこわーっ」
菜穂は冷や汗が頬を流れるのを感じながらコクコクと頷き、頬を引き攣らせて、生徒会活動の修正予算案が積み上げられた会計の席へと戻った。
ガラガラガラッ。
ドアを開ける音が響いて、ズカズカと力強い足取りで忍が猫ヶ崎校舎『第十九号棟』、通称『教職員棟』の二階にある『職員室』へと入ってきた。
全身から気迫が炎の形に立ち昇っているようにも感じられる。
コーヒーを飲んでいた
「豊玉先生。化学の課題レポートです」
ドンッとレポートを机の上に置くと、真冬の返事も待たずに、今度は英語担当の
「聖先生。英語の課題レポートです」
桜花も真冬と同じく、忍のあまりの勢いに声も出ないようだ。
他の教師たちも動きを止めて、ポカンとしている。
そのうちの何人かにレポートを渡し終えると、忍はすぐに職員室を出て行った。
ピシャッとドアの閉まる音で我に返った教師陣がざわめき出す。
「……どうしたんだ草影くんは?」
「確かに、いつもと雰囲気が違いましたけど」
「しかし、私は課題を今日出したばかりなのだが」
「えっ、先生もですか。私もですよ」
「私なんて、つい先程です。今日の最後の授業ですよ」
「まさか、草影くんは短時間で仕上げて来たんですか、この量を?」
教師たちは信じられないというように顔を見合わせた。
スパァン。
弓道場に快い音が響き渡る。
矢が的を射抜いたのだ。
射たのは、白筒袖に黒袴姿になった草影
忍。
すでに四射。
すべて、的に命中させている。
だが。
「草影先輩!」
弓道部の後輩の
「中りはすごいですけど、今日の先輩は礼法が滅茶苦茶です!」
いつもの忍なら、克己の精神が、自然と身体の内側から沸き出ているような礼に適った美しい動きを見せ、たとえ的を外しても清々しいものを感じさせる。
それが今日の忍はどうだろう。
矢こそ百発百中だが、まるで品格の感じられない荒々しいだけの射。
「礼法?」
忍は血走った目で、弥生を睨みつけた。
必ず後輩の言葉には耳を傾けてくれるはずなのに、今の忍には落ち着きがなく、聞き入れる気もなさそうだった。
「礼なんて煩雑で時間がかかるだけでしょう。悠長すぎる。もっと急がなきゃ、安心できない。忙しさが足りない」
矢を射る姿の美しさに尊敬を覚えている弥生はショックを受けざるを得なかった。
それは他の後輩も同じだろう。
だが。
しかし。
弥生は失望はしなかった。
なぜなら。
先輩の様子がおかしいからだ。
明らかに、いつもと違う。
まるで、別人。
まるで、何かに憑かれているかのよう。
そう思っている後輩の前で、忍はさらに粗野な動きで放った四射をすべて的に中ててみせた。
「草影ちゃん!」
制服の上から灰色のコートを着た忍が呼び止められたのは、『生徒会組織棟』の玄関を出た時だった。
振り続けた雪が、積もり始めていた。
陽は見えず、暗くなった世界に、張りつめたような冷えた空気が漂っている。
部活動を終えた後、再び生徒会室に戻って龍臣が見終わった書類を纏め、生徒会長であるほまれに見せる準備を完了させて、ようやく帰路についたところだった。
それでも忍の全身には気力が漲っており、些かも疲れを感じさせない。
それどころか、迫力に満ちた表情からは、高校生とは思えないほどの威圧感さえ放たれている。
「ちとせ殿ですか」
忍は声を掛けてきたキャラメル色のダッフルコートに身を包んだ相手――
シューシューッと奇妙な音が鳴った。
忍に触れるそばから雪が溶け、白い蒸気となって立ち昇っている。
いつの間にか彼女の周りの雪も蒸発してしまっていた。
「私はとてもとてもとても忙しいのですが何か用ですか?」
「……弥生ちゃんから聞いたとおりみたいだね」
ちとせは忍の異常な姿を認めて、忍とは対照的にだらけた態度で肩をすくめた。
陸上部の練習を終えた後、神藤
弥生から、忍がおかしくなったと相談されたのだ。
「どうやら草影ちゃん、つかれてるね」
「疲れてなどいませんッ!」
忍が否定するように首を振りながら、怒鳴りつける。
その全身から、シューッと蒸気が勢い良く立ち昇った。
「まだまだまだ忙しく働かなければいけないのですからッ! そうしないと充実しませんッ! そうしないと安心が手に入りませんッ! だから、疲れてなどいるはずがありませんッ!」
「いやいや」
ちとせは軽い調子で、「違う違う」というように手を振った。
「憑かれてるよ」
そして、懐から取り出した蔓草に勾玉を通した装身具を忍へと投げつける。
勾玉の首飾りは、忍の頭上から落ち、首に掛った。
装着された途端に、眩い青白い光が勾玉から放たれる。
目が眩んだのか、忍がたたらを踏む。
「――この程度の魔除けでなァ、このいそがしを引き離せると思うてか」
男のような低い声が忍の唇から紡がれた。
いつもの忍の声とは似ても似つかないものだった。
ギロリと双眸の光を強めた忍の背後から、黒い炎のようなものが立ち昇った。
その炎の中で何かが蠢いた。
緑色の肌をした蛙に似た異形だった。
目はギョロリとしており、口からは長い舌を垂らしている。
「なるなる。妖怪『いそがし』ね」
ちとせが腕組みをしながら頷く。
「取り憑かれた人間は、大人しくしていると不安にかられ、忙しく動き回っていなければ安心感を得られなくなってしまう」
「その通りだァ。最近は口ばかり達者で働こうとしない人間が増えて面白くもなかったが、この娘は元々忙しい環境にいる上にやる気満々でなァ、住み心地が良いわい。死ぬまで忙しく動いてもらうぜェ」
「そんなこと、ボクが許すと思う?」
「思わんわなァ」
いそがしが、黄色い歯をむいて嗤った。
「だがなァ、おまえはこやつの身体を傷つけられまい!」
いそがしの言う通りだった。
忍は取り憑かれているだけだ。
単純に妖が相手ならば倒せばいい。
妖が物体についているならば、媒体を壊してしまえば良い。
だが、憑依されているのが、人間では壊すわけにはいかない。
しかも、忍は大事な友だちだ。
「憑依系は苦手なのに」
ちとせは身体能力が高く、妖魔や悪霊を直接叩くのは得意分野だが、憑依体を媒体から引き離すような器用な霊術は苦手なのだ。
忍の首に掛けた飾りは、そのちとせの苦手分野を補助するために、姉が破邪術を込めて精製した装身具だった。
大抵の妖は破邪の力によって媒体と分離するのだが、いそがしは魔除けの首飾りに効力に耐えてしまっている。
正直、痛い。
「こうなったら――」
――首飾りに霊気を送り込んで破邪の力へ変換させるしかないかな。
そう心の中で呟きながら、ちとせはダッフルコートから神扇を取り出して、先端を忍へ向けた。
――うまいこと、勾玉が媒介してくれればいいけど。
やったことはないが、それしか方法が思いつかなかった。
青白い霊気が立ち昇る神代家に伝わる神器を見て、ただならぬ武器と感じたのか、いそがしが隠れるように忍の身体に沈み込む。
そして、いそがしは忍の目を通して、ちとせを観察するうちに気づいた。
短めのスカートから伸びるスラリとした脚にバネが溜められていることに。
「来るかァ」
忍が、ちとせの突進に備える。
「来るかァ。来るなら急げェ。忙しく動けェ。早くしないと、この娘は過労死してしまうぞォ」
いそがしが忍の口を使って、ちとせを挑発する。
ギョロリとした目が、ちとせの心をわずかに乱し始める。
「――急げェ、動けェ、忙しくしろォ」
忍の両目が、まるで渦を巻いているように見え始め、意識が吸い込まれそうになる。
「――安心が手の届かぬ遠くへ逃げてしまうぞォ」
焦燥を振り払うように、ちとせが首を軽く振る。
焦ってはいけない。
急いではいけない。
忙しくしてはいけない。
そう言い聞かせ、ちとせは動いた。
だが、攻撃方法は突進ではなかった。
いきなり、神扇を忍へ向かって投げつけたのだ。
「!」
忍が唸る。
予想外。
しかし、忍はニィッと嗤った。
腕を振るう。
神扇を弾き飛ばした。
「その程度で虚を突いたつもりかァ!」
「そのつもりだよ」
声は、忍の頭上からした。
ちとせが跳躍していた。
弾き飛ばされた神扇をキャッチして落下してくる。
見上げた忍の両目が大きく見開かれる。
その首に掛っている勾玉を目掛け、ちとせが神扇を突き出す。
波動が起こり、大気が揺れる。
静寂。
雪だけが、しとしとと降り続けている。
「かはぁっ……!?」
苦悶の声を上げたのは、ちとせだった。
ダッフルコートの中心に忍の右拳が、深々と埋まっていた。
ボディストレート。
ちとせの神扇は勾玉に届いていなかった。
寸前で、忍の左手で軌道を逸らされていたのだ。
波動は霊気が迸ったために起こったのではなく、強烈な一撃がちとせの腹部を抉った衝撃によって生まれたものだった。
苦痛の呻きから一瞬遅れて、ちとせの身体が後ろに吹き飛ばされる。
ちとせは受け身も取れずに背中を地面に強打した。
肺から息が押し出される。
殴打された腹の鈍痛に伴って、吐き気が込み上げてくる。
それでも、苦痛に耐えて、起き上がろうとした。
だが、それよりも早く、忍が馬乗りになって、ちとせの自由を奪った。
忍の右手がちとせの左手首を、左手が右胸を押さえつける。
「おまえの心は不安に急き立てられていたぞォ。だがなァ、この娘の肉体は安心を手に入れるために忙しく動いたァ。おまえは忙しくありたいと思ったにもかかわらず、その気持ちを抑えつけたァ。それがこの結果よォ」
いそがしが忍の唇を使って言った。
「もっともっと忙しくせねば不安を振り払えぬぞォ。せっかくだァ、我が手伝ってやるわァ」
そして、眼鏡の奥にある忍の両目を真円になるほど見開いた。
先程の挑発よりも強烈な思念が、ちとせの脳に流れ込んでくる。
「――急げェ、動けェ、忙しくしろォ。安心が手の届かぬ遠くへ逃げてしまうぞォ。時間がない時間がない」
ちとせの目もまた零れ落ちんばかりに見開かれる。
不安が込み上げてくる。
ギュン、ギュン、ギュン。
血液が全身を忙しく廻り始める。
首を振って抵抗しようとする。
「ほれ、急げェ。急げェ。花の命は短いものぞォ。忙しく生きるのだァ」
抵抗できない。
心が忙しさに飲み込まれていく。
意識が混濁しながらも精神テンションだけが上がっていくのを感じ始める。
「オゴォッ!?」
唐突に、忍の顔が視界から消えた。
「!?」
途端、ちとせの意識が戻った。
半覚醒の身体を無理矢理に動かして横に転がり、校舎の壁に寄りかかりながら立ち上がる。
未だに全身から湯気を立たせ続けている忍が、少し離れた場所で、よろよろとした状態で立っていた。
コートが少し汚れているところを見ると、自分と同じように地面を転がったのだろうか。
「ちとせ、大丈夫?」
聞き慣れた声が、ちとせの耳朶を打った。
見慣れた黒く長い髪が、目に映った。
「姉さん!」
姉の
もこもこの白いダウンジャケットを着て、首には紅いマフラーを巻いている。
どこおとなく、その白と赤が、普段の巫女姿を想起させる。
傍らには、猫ヶ崎高校の後輩であり、忍の豹変をちとせに相談してきた神藤
弥生の姿があった。
ちとせが胸を撫で下ろした。
「弥生ちゃん、ありがとう。姉さんを連れてきてくれて助かったよ」
「危ないところだったみたいですが、間に合って良かったです。今日は道に迷わなくてよかったです、ホント」
忍の様子がおかしいと知らされた際、ちとせは万が一の時のために、姉の葵に連絡をしておいたのだ。
そして、弥生には正門で待機してもらって葵が到着したら、広大な猫ヶ崎高校の敷地を案内して『生徒会組織棟』の前まで連れてきてくれるように頼んでおいたのだ。
猫ヶ崎高校から神代神社まではかなりの距離があるが、忍が遅くまで働いていたこともあって、どうにか間に合ったようだ。
ついでに言えば、ちとせは弥生が極度の方向音痴だということを思い出して少しだけ不安になっていたのだが、神代神社には何度も足を運んでいることもあって迷わなかったようだ。
葵がちとせを庇うように前に出る。
「ちとせ、大丈夫?」
「間一髪だったけどね」
妹の応答に安堵の息を吐き、葵は忍に向かって言った。
「草影さん、無理矢理にエッチなことをするのは良くないと思います!」
「……へっ?」
「……はっ?」
「……」
葵の意味不明な言葉に沈黙が訪れる。
ちとせの顔にも、弥生の顔にも、そして、いそがしに取り憑かれている忍の顔にも、はてなマークが浮かんでいた。
「あの、姉さん、エッチなことって……?」
「ちとせ。草影さんに押し倒されて、もう少しでチョメチョメされるところだったのでしょう?」
「はぁっ?」
ちとせは確かに、忍に馬乗りになられてはいた。
しかし、葵が壮絶な勘違いをしているのは間違いない。
葵は真面目な顔で言葉を続けた。
「だって、ちとせも、草影さんは女の子にしか興味のない女の子だと言っていたでしょう」
「えっ、あっ、そだね。そんな話もしたね」
「草影さんの様子がおかしくなったというのは、ちとせへの恋煩いのせいかもしれませんわね」
「いやいやいや、姉さん、それ全然違うって」
「でも、草影さん、ちとせのことが好きになったとしても、恋路には順番というものがあります。急いでも良いことはありませんよ。落ち着いて落ち着いて、ゆっくりゆっくりが良い結果をもたらすものです」
「だ〜か〜ら〜、姉さん話を聞いてよ。草影ちゃんがおかしくなったのは、恋煩いじゃなくて、妖怪いそが……」
勘違いを続ける葵に事情を説明しようとしたちとせを、苦悶に満ちた声が遮った。
「ぐおおおっ、何だそのマイペースな天然女は……」
見れば、忍が額を手で押さえて苦しんでいた。
「うぐっ、ごおっ、がぁっ、おのれ、何がゆっくりだァ。何が落ち着いてだァ!」
額に当てた指の間から、ギロリッと葵を睨みつける。
「お、おまえも、我が術中に捕えてくれるわァ!」
いそがしが葵の両目を強烈な視線で射抜きながら、念じ始める。
――急げ、急げェ。
「あらあら?」
葵は小首を傾げた。
――忙しくしろ、忙しくしろォ。
「草影さん、身体から湯気が出てません? もしかして、熱があるのでは?」
「いや、姉さん、草影ちゃん風邪じゃないから。原因違うから」
――安心を手に入れるために、忙しく動けェ。
「あら、そうなの? じゃあ、やっぱり、恋の病」
「違うっつーの!」
――不安に追いつかれないために、全力疾走しろォ。
葵は朗らかな笑顔で、ポンっと手を叩いた。
「でも、とりあえず、雪の中で立ち話をしていて本当に風邪を引いてしまっても困りますし、喫茶店にでも行きましょう。この近くですと、『クイーン・オブ・キャッツ』が良いですわね。ぬくぬくしましょう、ぬくぬく。ねーこはこたつで丸くなる、みたいに」
ぼんっ。
何かが破裂するような音がして、忍の頭から大量の湯気があがった。
「グギャアアアアアアアアアアアアアアッ!」
その中から、いそがしが無様な悲鳴を上げながら飛び出し、地面へと落ちた。
その姿には、先程までのふてぶてしさはまるで感じられず、まるで潰れたカエルのようだ。
「オゴォッ、アガァッ、な、何ぞォ、その女……まるで……急がん……ウグァアッ……」
いそがしの痙攣していた緑色の肉体が崩れ始める。
「……かように……ゆっくりした精神ではたまらんわなァ……」
呪詛を吐くような声とともに崩れて砂山のようになったいそがしは、風に吹かれ、雪に彩られている大気へ消えていった。
その光景を信じられないという思いで見ながら、ちとせが呟いた。
「すごっ。姉さん、天然ボケで、いそがしを倒しちゃったよ」
「――おや?」
そう呟いたのは忍だった。
眼鏡の縁を指で押し上げる。
「ちとせ殿に、弥生? それに、確か、ちとせ殿の姉君?」
「先輩、元に戻ったんですね」
駆け寄ってくる弥生に、少し混乱しているように忍は首を傾げた。
「はて? なぜ私はここに?」
とりあえず、場所が『生徒会組織棟』の前だと認識したようだが、どうやら何も覚えていないようだ。
そして、腕時計に目をやる。
「えっ、ちょっ、もうこんな時間!?」
忍の顔色が青くなった。
「半日くらい記憶がない。いや、それより、急ぎの仕事とか課題とかどうすれば!」
「だいじょぶじょぶじょぶ。草影ちゃん、ほとんど終わらせたみたいだよ」
ちとせがポンポンっと忍の肩を叩き、凝りでも解すようにも揉んだ。
「へっ?」
「嘘じゃないって。ねっ、弥生ちゃん」
「ええ、さっきまですごい勢いで仕事とかこなしてました。少し怖かったですけど」
「……何だか、そう言われるとそんな気も……ううっ、でも、何で記憶が飛んでるんだろう」
「草影ちゃん、憑かれてたからね。きっと、それで、記憶が飛んでるんだよ」
「……疲れてたからですか。はぁ、確かに忙しすぎましたからね」
そこで、ポンっという拍手が鳴った。
葵だ。
「疲れているのでしたら、やはり、喫茶店でぬくぬくしましょう」
状況を理解しているのか、理解していないのか、それはともかく、葵は笑顔でそう言った。
そして、四人は、喫茶店『クイーン・オブ・キャッツ』で猫のようにぬくぬくしながら、それこそ疲れも忘れて、ガールズトークで盛り上がった。