Terror
- Ruota della Fortuna -



 窓から差し込む月光が、部屋の主である女性の顔を照らし出した。
 美しい。
 が、同時に、彼女を見たものは思うだろう。
 普段なら、今よりもっと美しい女性のはずだ、と。
 彼女はやつれていた。
 彼女は憔悴しきっていた。

 目元には微かにだが、隈ができている。
 女性は思いつめた表情で、正面の壁を睨み付けていた。
 
 空間に音が生じた。
 微かな空気の振動。
 女性は、びくりと肩を震わせて叫んだ。
「誰……!?」
 視線を向けた先に、いつの間にか男が立っていた。
「私です」
 男は、頭を下げた。
「桂木……」
 女性、アクア=スティル=ロイドは、驚きの表情を浮かべたまま、桂木を見つめた。
「今日は、お別れを言いに来ました」
 桂木は静かに言った。
 
「なっ……?」
 アクアは一瞬、言葉に詰まり、そして、桂木の言葉を理解した途端、怒気に襲われた。
「貴方は、まさか……逃げるというの!?」
 アクアの怒りを滲ませた声に、桂木は飄々と答えた。
「恐ろしくなったのです。自分のしていることがね」
「何を今更!」
「今更だからこそです」
「自分だけ逃げるというの? 私たちは、もう後戻りは出来ないはずよ」
 そう、もう引き返せない。
 引き返せないはずだ。
「『今が最悪の状態と言える間は、まだ最悪の状態ではない』。シェークスピアの言葉でしたな。やり直しは、いつでも出来る。それが私のモットーでしてね」
 桂木は簡単に否定した。
 でも、運命ならば受け入れるしかないではないの!
 まるで、この世の全てが、自分を呪う鎖のように締め付けてくる。
 私は、良い政治家でありたい。
 そう願っていたのに、私は……、私は……。
「だから、貴方は逃げるというの?」
「そうです。私は、自ら逃げることを選びました。ホホッ、これは自慢できることではありませんな」
 
「御堂は……」
 アクアは、額に手を当てた。
「御堂は、私に『首相になれ』と言ったわ。それは、私の夢。でも、こんな形では……」
「……」
「桂木。……私を連れて行ってくれるとは言わないの?」
「強制はできませんな」
 桂木の責任を放棄したような言い方に、アクアは指の間から、彼を睨みつけるような視線を飛ばした。
「卑怯だわ」
「……ですな。だが、あなたの意志で選ぶべきことです。それがもしダメであっても、精一杯努力をすれば良い」
 桂木はアクアの視線を正面から受け止めた。
「後悔だけは、してはいけない」
 桂木の口調は優しかった。
 だが、アクアには他人事のように聞こえていた。
 今の状況を作り出したのは、他でもない、桂木ではないか。
「誰のせいだと……」
 アクアの口調が激しくなる。
 罵声を浴びせようとして、アクアは我に返った。
 桂木だけが悪いわけではない。
 自分も、御堂も、悪いのだ。
 あの永遠の支配を望む憎い男も、盲従するだけの国民も、私が愛してやまないこの国すべても、悪いのだ。
「ごめんなさい。でもね。恨みの一つも言いたくなるわ」
「ですな」
「……」
「……」
 
「……私は残るわ」
 吐き出すように、アクアは告げた。
「未練がましいと思うかもしれないけど、生まれてくるあの娘のことを守ってあげたいの」
「御堂に聞かせてやりたい言葉ですな」
「フフッ、皮肉にしか聞こえないわよ。今の私にも、そして、御堂にもね」
「それを言うなら、私自身にも大変な皮肉ですな」
「……」
「……」
「桂木。本当に逃げ切れると思っているの?」
「さて、どうでしょうな」
 曖昧に答える桂木。
 だが、アクアには解かっていた。
 彼は戻ってくる。
 決着をつけるために。
 だから、その日まで一緒に逃げても良かった。
 桂木となら。
 だが、逃げたくなかった。
 見せかけだとしても。
 プライド……?
 罪悪感……?
 エルディアを愛しているから?
 わからない。
 そのどれも、桂木にもあるはずではないか。
 では、なぜ、私は残るの?
 自問自答。
 答えは見つからない。
 
「そろそろ、行かせて頂きます。御堂に気づかれたら、ことですからな」
 桂木は頭を下げた。
「そうね」
 アクアは頷いた。
「では、お元気で」
「マッサラーマ」
 桂木は、風のように部屋から消えた。
 
 部屋に残されたアクアは、椅子から立ち上がると、窓際に向かった。
 桂木は、いつでもやり直せると言った。
 だが、運命の車輪は、もはや止まらない。
 桂木が消えたことこそが、すべての始まりだと直感していた。
 
「"Terror"(桂木)が去り、真の"Terror"(恐怖)が来る」
 月が放つ銀色の光が、冷気の刃のように感じられた。
 
「冷えてきたわね」
 アクアは、カーテンを閉めた。
 


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