さて、子供だった私もいつのまにか大人になり、大人になったと思ったら、もはや
中年です。そんなわけで、このあいだ
“中高年のための山歩き” という小冊子を買
ってきました。子供の頃は新潟県の山奥の笹が峰牧場で過ごし、少し大人になって
からはその奥にそびえる妙高山によく登りました。時には、たった一人で登ったこと
もあります。
思いで深いのは、17、8才の頃、たった一人で真夜中に登った時のことです。登
り慣れていた道ではありましたが、登山道で、ガサッ、ガサッ、と小動物や鳥が動く
と、心臓が縮み上がるほどびっくりしました。笹が峰牧場の原生林の中で、山暮らし
は慣れていました。また、それまでに友人と何度も夜の妙高山へ登った経験があり
ました。しかし、たった一人となると、様子がガラリと変わっていました。まだ、大人
になりきっていなかった私には、笑い飛ばせないような孤独感が、ズン、と周囲の空
間全体から押し寄せてきたのです。
(
夏山に夜登るのは、その方が涼しいからです。また、時間的にも余裕が持てま
す。ただし、懐中電灯を使っての登山は、十分な注意が必要です。)
しかし、そうは言っても、もともとよく知り抜いている登山道でした。危険な鎖場の
場所も、その感触までよく知っていました。やがて、山頂近くなると、下界の町の灯
が砂をまいたように見えてきました。下の妙高々原町の明かりから、県境を超えた野
尻湖の反射、そして飯山市、長野市あたりの大きな夜景
...長野市の安茂里は、
私の生れた所です。それから、さらにその背後に、篠ノ井や上田市あたりの灯も、ク
ッキリと見えていました。
真夏とはいえ、2446メートルの妙高山々頂付近には、残雪もありました。また、
山頂には、冷えて固まった噴火口があり、かなり広いスペースがあります。私はそこ
でザックを下ろし、セーターを着込み、クルクルと丸めて持ってきた毛布を取り出しま
した。当時はまだ、寝袋などはそれほど普及していませんでした。それに私は、西部
劇の流れ者が、毛布をクルクル巻いて馬の尻にくっつけていたのが、格好いいと思
っていました。つまり、それが気に入っていたのです。
しかし、それにしても、かって見たこともないほどの美しい夜景
...凍えるような
寒さ
...そして、震え出すほどの孤独を噛み締めた夜でした ...
私は、ザックを頭の方に置き、一枚の毛布に包まって、早々に眠り込みました。
が、ひと眠りした頃、かすかに人の話し声が聞こえてきました。私はそんな人の気配
を聞きながら、また目を覚まし、天空の大きな星を眺めていました。しかし、そのう
ち、どうにも淋しくなり、山頂の声のした方へ行ってみました。すると、星明かりに照
らされ、数人の人影がありました。ところが、彼等の話している言葉が、全く分かりま
せん。それで、私は “ああ、そうか、”
と思いました。下界の県境の川を越えた向こ
うに、野尻湖が光って見えます。その野尻湖の湖畔に、外人村があったのです。私
には、何故か占領軍の思い出と結びついている所です。
(
当時、そうした外国人のことを、外人と言っていました。そして、敗戦のせいか、何
故か頭の上がらない存在でした。ともかく、アメリカ全盛の時代だったのです。)
それにしても、すぐに彼等だと分かったのは、すでにこの山頂で、何度も外人と出
会っていたからでした。そして、こんな新潟県の山奥で育った私には、これだけが、
おそらく唯一直接外人を見た経験だったと思います。今のように、道ですれ違った
り、テレビで毎日見ているといった時代ではなかったのです。外人の肌の色さえ、は
っきりと知らない頃でした。
しかし、それでも淋しくて、私はそっと外人の野営しているすぐ近くへ場所を移し、
毛布に包まって朝まで眠りました。それから、朝、東の空がほんのり白み始めると、
私はすぐに毛布をたたみ、荷物をまとめ、サッサと彼等のそばを離れました。その可
笑しさが、大人になった今でも忘れられません。それから、日の出前に妙高山々頂
を裏の方へ下り、火打山、焼山へと縦走して行きました。次の宿泊は、火打山手前
の高谷池でした。火打山はこのあたりの最高峰で2462メートル。そして焼山は
2400メートル。焼山は、まだガスが吹いていました。その焼山からは、私にとって
は懐かしい笹が峰牧場への下りです。この縦走コースは、それ以後何度か使いまし
た。が、そのうちに、焼山が噴火し、一人か二人、それに巻き込まれて死亡したニュ
ースを聞きました。私が、この田舎の町を離れてからのことですが
...
(
その噴火でなくなられた方々の、ご冥福を祈ります。)