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  万葉集/巻7〕             <雑歌・譬喩歌・挽歌 - 作者不明なものが多い

   【巻7・8】 雑歌・比喩歌・挽歌     

          第46代/孝謙天皇から・・・第49代/光仁天皇へ

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【阿修羅】  奈良時代・・・奈良/興福寺/国宝館

 トップページHot SpotMenu最新のアップロード                      女流歌人: 里中 響子   

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プロローグ         <・・・“聖武天皇”以後の流れ・・・> 2014. 7.16
No.1 〔1〕 第49代/光仁天皇の即位・・・  
No.2    
No.3    
No.4    

                                      

プロローグ・・・  

            <・・・“聖武天皇”以後の流れ・・・>   

     

「ええ...」里中響子が、インターネット・正面カメラを向き、口を結んで微笑した。「お久しぶりです。響子

です...

  今回は、【巻-7・8】の歌を考察します。<巻/7・8は・・・雑歌・譬喩歌(ひゆか)・挽歌(ばんか)= 作者

不明なものが多い ということですね。

  それから、“第45代/聖武天皇”崩御され、皇后/光明皇后/光明子も、“正倉院宝物”などを残

し、歴史の舞台から降りて行きます。光明子藤原不比等県犬養三千代(あがたいぬかいみちよ)

あり...聖武天皇である藤原宮子とは異母姉の関係にあります。“初の・・・皇族以外からの皇后”

でもありました。

  “第46代/孝謙天皇/女帝”は...父は“聖武天皇”は今も述べたように光明皇后で、藤原氏出

史上初めて人臣から皇后となった女性です。史上6人目の女帝でもあり、天武系からの最後の天皇

となります。

  彼女は、“第47代/淳仁天皇”(じゅんにんてんのう/“天武天皇”の皇子の舎人親王(とねりしんのう)が父)を経て重祚(ちょ

うそ/一度退位した君主が、再び即位すること)し、“第48代/称徳天皇”(しょうとくてんのう/孝謙天皇重祚)となっていますか

ら...ここで天武系/持統系は、最後ということになります...」

「はい...」支折が、軽くうなづいた。「ええと...

  次の第49代/光仁天皇(こうにん・てんのう)は...“天智天皇”第7皇子/志貴皇子(施基親王)第6子

で、白壁王(しらかべおう)ですね。志貴皇子はこれまでにも何度か説明していますし、も紹介していますよ

ね。

  彼は、<壬申の乱>の後の“吉野の・・・6皇子の誓い”にも、天智天皇系2人の皇子の1人として参

加しています。この時は、皇位継承には最も遠い存在だったわけです。彼自身も、権力闘争とは遠い所

に身を置き、清廉潔白な歌の道に精進したようです。『万葉集』には6首が掲載されています...」

「あ...」夏美が言った。「私から一言...」

「はい...」響子が、口を結び、顎を引いてうなづいた。

「先日...

  ボス(/岡田)が...東京博物館(/東京・上野)で、光明皇后発願(ほつがん)して納めた写経を...実際に

見てきたそうです。長年病床に伏せっていた、“聖武天皇”のために...光明皇后/光明子が、深い祈り

を込めて写経したものだということです。

  ボスが持っているミュージアム・スコープ/Nikon モノキュラー HG5X15D(/下に写真があります)で、じっ

くりと、大迫力で見たそうです。非常に上手だと言っていました...」

「ふーん...」支折が、深くうなづいた。「よほど、感動したのでしょうか...ほほ...ボスが、感動

することはないのに...」

「そうですね...」響子が口をすぼめ、指で微笑を押さえた。

 

〔1〕 第49代/光仁天皇の即位・・・

            

「ええと...」夏美が言った。「では...第49代/光仁天皇”は、どういう天皇だったのでしょうか?」

「はい...」響子が、ゆっくりとうなづいた。「この時代は、天武天皇の系統が皇位を継承していて、さら

に、父/志貴皇子/施基親王が、8歳の時に薨去したためか、初叙(737年(天平9年)に従四位下を賜る)29

と非常に遅かったようです。

 

 

 

天智天皇の皇孫ではあったが、白壁王の生まれた時代は天武天皇の系統が皇位を継承しており、また父施基皇子が早くに薨去していたため、位階を授けられたのが29歳と遅かった。


43歳で聖武天皇皇女の井上内親王と成婚し、他戸親王や酒人内親王をもうけた。なお、これ以前に高野新笠との間に山部親王(後の桓武天皇)、早良親王等をもうけいている。井上内親王の姉は孝謙天皇であり、その妹の夫ということで順調に出世を重ね、中納言まで昇進した。


ただ、孝謙天皇が重祚して称徳天皇となってからは大納言まで昇進したものの、多くの皇族が謀反の疑いで粛清されたため、毎日酒を飲み凡人を装って難を逃れたという。


称徳天皇が崩御すると、天武天皇系の男系皇族が粛清等で皆無になっていたため、天智天皇系ではあるが、井上内親王の夫でもある白壁王が皇位継承者となり62歳で天皇に即位した(史上最高齢での天皇即位)。


即位に伴い、井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に立てた。しかし間もなく呪詛の疑いで井上内親王は廃后、他戸親王は廃太子となり、代わって側室(新笠)の子である山部親王を皇太子に立てた。このことから山部親王本人と親王を推す藤川百川等の暗躍があったとされている。


さらに天皇の姉である難波内親王が薨去すると、内親王呪詛の罪で井上内親王と他戸親王を大和国宇智郡に幽閉した。この2年後に二人は急死(暗殺説もある)したため、天武天皇の系統は完全に断絶し、天智天皇の系統が再び皇位継承をしていくこととなった。


この後天皇は一時的に病となったものの、70歳を超えても政務に努めた。しかし第一皇女の能登内親王に先立たれたことから心身ともに疲労し、山部親王に譲位、8カ月後に崩御した。


在位12年、宝算73歳。
始め広岡陵に埋葬されたが、後に田原陵へ改葬された。

 

 

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聖武天皇の皇女で孝謙天皇の異母姉妹である井上内親王・

天平勝宝4年(752年)頃までに、すでに斎宮を退任していた井上内親王は、権力争いに巻き込まれる恐れのない白壁王と結婚した。天平勝宝6年(754年)、井上内親王38歳の時、酒人女王が誕生。それからにわかに昇進を速め、天平宝字3年(759年)従三位に叙せられる。天平宝字5年(761年)井上内親王45歳の時、他戸王(第四皇子)が誕生。天平宝字6年(762年)に中納言に任ぜられる。


天平宝字8年(764年)には藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧に功績を挙げて称徳天皇の信任を得て、天平神護2年(766年)には大納言に昇進した。だが、度重なる政変で多くの親王・王が粛清されていく中、専ら酒を飲んで日々を過ごす事で凡庸を装って難を逃れたと言われている。

神護景雲4年(770年)、称徳天皇が崩御する。独身の女帝に後継者はなく、度重なる政変による粛清によって天武天皇の嫡流(男系)にあたる皇族がいなくなっていたが、妃の井上内親王は聖武天皇の皇女であり、白壁王との間に生まれた他戸王(他戸親王)は女系ではあるものの天武天皇系嫡流の血を引く男性皇族の最後の一人であった。このことから天皇の遺宣(遺言)に基づいて立太子が行われ、同年10月1日、62歳の白壁王は大極殿で即位することとなった[1]。 元号は宝亀と改められた。

称徳天皇崩御の際に左大臣・藤原永手、右大臣・吉備真備、参議の藤原宿奈麻呂、藤原縄麻呂、石上宅嗣、近衛大将・藤原蔵下麻呂らによる協議が行われたと『続日本紀』は伝えている。「百川伝」を引用する『日本紀略』などの記述は、この協議で天武天皇系の長親王の子である文室浄三、次いでその弟・大市を推した真備と、白壁王を推す藤原永手・宿奈麻呂らで対立があり、藤原百川の暗躍によって白壁王の立太子が実現したと伝えている[2]。

 

 

 



即位後、井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に立てるが、宝亀3年(772年)3月2日、皇后の井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のために皇后を廃され、5月27日、皇太子の他戸親王も皇太子を廃された。翌 宝亀4年(773年)高野新笠所生の山部親王が皇太子に立てられた(のちの桓武天皇)。この背景には、藤原百川ら藤原式家の兄弟と彼らが擁立する山部親王の陰謀があったとされる[3][4]。 さらに、翌宝亀4年(773年)10月14日、天皇の同母姉・難波内親王が薨去すると、10月19日、難波内親王を呪詛し殺害した巫蠱・厭魅の罪で、井上内親王と連座した他戸親王は庶人に落とされ、大和国宇智郡の没官の邸に幽閉された。宝亀6年4月27日(775年5月30日)、井上内親王・他戸親王母子が幽閉先で急死。この同じ日に二人が亡くなるという不自然な死には暗殺説も根強い。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えた。

この事件後、光仁天皇の即位について藤原百川とともに便宜を謀った藤原蔵下麻呂が急死すると[5]、宝亀7年(776年)、祟りを恐れた光仁天皇より秋篠寺建立の勅願が発せられる。開基は善珠僧正。

その後も、天変地異が続き、 宝亀8年(777年)11月1日には光仁天皇が不豫(病)となり、12月、山部親王も死の淵をさまよう大病を得た。この年の冬、雨が降らず井戸や河川が涸れ果てたと『水鏡』は記している。これらの事が井上内親王の怨霊によるものと考えられ、皇太子不例(病)の3日後の同年12月28日、井上内親王の遺骨を改葬し墓を御墓と追称、墓守一戸を置くことが決定した。

光仁天皇は70歳を超えても政務に精励したが、天応元年(781年)2月、第一皇女・能登内親王に先立たれてから心身ともに俄かに衰え、同年4月3日、病を理由に皇太子に譲位。同年12月23日、崩御した。

死の直後の天応2年(782年)閏正月頃、天武天皇の曾孫・氷上川継によるクーデタ未遂事件が起きた(氷上川継の乱)。川継の父は藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で戦死した塩焼王、母は井上内親王の同母妹不破内親王であった。

同年6月14日、人臣の最頂点である左大臣・藤原魚名が氷上川継の乱に加担していたとして罷免され、その子の鷹取、末茂、真鷲もそれぞれ左遷された。藤原魚名は翌延暦2年(783年)7月25日頓死。光仁天皇の死後も政が落ち着くことは決して無かった。

 

 

 

 

 

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