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            支折の 韓国の宝名・展 見学     

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 <2002/ 6月11〜7月28日まで・・・>        2002 FIFA ワールドカップ開催記念          <東京国立博物館/平成館/2002年6月27日> 

トップページHot SpotMenu最新のアップロード                    担当 : 星野 支折  、 津田 真

    支折:「2002・ワールドカップ決勝戦を前日にして、梅雨真っ盛りでした...」  wpeE.jpg (25981 バイト)  

                                                      (2002. 7.19)

                     

 

「それじゃ、ポンちゃん、行ってくるわね...」支折は、雨空を見上げ、コウモリを差し

かけた。

「おう...今年の梅雨は、よく雨が降るよな、」

「うん...マチコたちも、営業会議や新規事業の展開で頑張ってるし、私も頑張らな

いとね...」彼女は、コウモリで激しい雨を受けた。「あ、そうそう...マチコたち

が、ポンちゃんのお人形を作るとか言ってたわ」

「人形って、何だよ?」

「うん。キーホルダーに付いている、お人形のようなものかも。それを売るとか、」

「おれが、キイホルダーかよ?」

「うん...イヤなら断っていいのよ、」

「ま...おれは、かまわないよな、」

「そ...じゃ、マチコにそう言っとくわ。行ってくるわね」

「おう、今日は、一人か?」

「いえ...」支折は、コウモリを高々と持ち上げた。「博物館の前で、津田・編集長と

待ち合わせ...多分、早く帰ってくると思うわ」

「おう...」

                                    

【 雨の上野公園 】                             

 

  支折は、上野公園に出ると、いつものように西郷さんの銅像の方へ回った。西郷さ

んも、長雨の中で濡れそぼっていた。木曜日ということもあってか、周りに人の姿もな

く、ひとり寂しそうに立っていた...彼女は、いつものように、西郷さんをデジタルカメ

ラにおさめた。

  それでも、広場の方へさしかかると、さすがにチラホラと人の姿が見えた。広場隅

にある交番前の通路には、コウモリ傘の流れがあった。

  ...うーん、明日はワールドカップの決勝戦よね...彼女は、心の中でつぶやい

た。

 

          

   <雨の中に立つ、西郷隆盛の銅像>           <雨に煙る広場隅の交番>

 

  支折は、ルイビトンの肩掛けバッグをひじで押さえ、さらに何枚か写真を撮った。そ

れから、雨でカメラのレンズが曇っているのに気づき、ハンカチでレンズを拭いた。

             

     <広場から、噴水の方へ。正面の建物は、国立博物館>   <カメラのレンズを拭いた後...>

 

  東京国立博物館の前まで行くと、津田編集長の姿が目に入った。チケットを持った

手を、支折に向かって大きく振りかざした。彼女は、信号が青に変わるのを待ち、大

股でそっちのほうへ渡って行った。

 

           

  <この右手の通路をまっすぐ歩いていくと..............雨の中に平成館が...>

    

「編集長、韓国の名宝というと、どんなものがあるのでしょうか?」支折は、津田のコ

ウモリ傘の中に入り、平成館へ向かう道を歩きながら尋ねた。

「うーむ...残念ながら、私も詳しい方ではない...まあ、だから、今回出向いてみ

たわけだがね...

  しかし、大陸から日本に伝来した文化は、朝鮮半島を経由したものも多いわけだ。

当然ながら、日本の古代文化は非常に強い影響を受けている。まあ、あまり身近す

ぎて、気付かないものも多いのではないかな...」

「はい...私たちはこれまで、あまりにも朝鮮半島の文化を知らなかったと思いま

す。どんな部屋に住んでいるのか、畳なのか、ジュウタンなのか、椅子を使うのか、」

「はっはっはっ...ま、私も、よくは知らない。よくは知らないが...しかし、それじゃ

あ、日本どうかというと、畳も、ジュウタンも、椅子も、全部使っているわけだろう」

「あ、そうかあ...」支折は、津田の顔を見、手を口に当てた。「うーん...でも、ま

ず、そのあたりから知りたいのよね、」

「まあ、そうだねえ。これまでは、韓国は日本文化の受け入れを禁じていたし、日本

の方も、韓国文化の紹介は少なかった。そうしたことから、我々も韓国文化を知る機

会が殆ど無かったわけだ。しかし、これからは、こうした所も変わっていくだろうな」

「はい、」

                                                   

  支折は、自分のコウモリを傘立てに入れた。それから、津田の後から、平成館の

大型回転ドアに入った。そして、いつものようにロビーを見回した。ここも、いつもと変

わらない光景だった。チケットを渡し、エスカレーターで2Fの展示場へ上っていく...

  この長雨と、平日ということもあり、客はそれほど多くはなかった。しかし、その分、

ゆっくりと見学できそうだった...

【 韓国の名宝 】                   wpe4F.jpg (12230 バイト)   

 

    

      < 青磁透彫七宝繋飾蓋香炉/せいじ 透かし彫り しっぽう つなぎ かざりぶた、こうろう 

         <パンフレットの裏面 >         < 記念出版書の写真...実物が、展示>

 

「この青磁の香炉は、何度か見たことがあるね、」津田は、四角いガラスのケースの

前で立ち止まった。「こんなに小さなものだとは思わなかった...」

「はい...私も、テレビで見たことがあります...」支折は、側面から香炉を覗き込

んだ。「うーん...これは、お香を焚くものなのね...だから、こんなに小さいのね。

“国宝”とあるけど、日本の国宝の場合と、表示が少し違うような気がするわね、」

「うむ...香の煙が、上の透かし彫りの中から立ち昇るわけだ...全体を支えてい

るのは、3匹のウサギだな。ウサギの黒い目は、どうやら象嵌(ぞうがん)のようだ...」

「うーん...本当に、翡翠(ひすい)のうわぐすりをかけたようね...」

「うーむ...私には、こうした高麗青磁の本当の良さというものは、正直に言ってま

だよく分からない...まあ、これから少しづつ作品を見て、勉強していくとしよう...」

「はい、私も...」

  

            

     <五峰山日月図屏風/記念出版書の写真より>    <薬師如来立像/記念出版書の写真より>

 

「うーん...この不思議な絵の屏風も、テレビで見たことがあります。あれは、何処

かの高級料亭のようだったから、本物ではなく、模写だったのかも知れません...」

「多分そうだろう。もちろん、こっちが本物だ。これは、宮中の玉座の後ろに置かれ

た、由緒あるものだとある...実に、不思議な絵だな...」

  支折は、ガラスケースの中の吉祥図(きっしょうず)屏風を、ジッ、と食い入るように見つ

めた。

【 朝鮮半島の歴史と、日本の歴史・・・ 】     

 

「ええ...津田・編集長、最後に全体を見た印象はどうだったでしょうか?」

「うーむ...今回の展示は、朝鮮半島の美術の、ほんの一部を覗いたという印象だ

ね。の石窟庵などは、是非一度見たいが、そうしたものは、移動できるものでは

ないしね。

  まあ、しかし、これまで朝鮮半島の美術に付いてはほとんど知らなかったが、これ

はいいきっかけになったと思う」

「はい。こうした宝物を見ると、日本の文化と朝鮮半島の文化は、本当に1つの一体

の流れだったということを感じます。正倉院の宝物なども、シルクロードの終着点とい

う意味では、アジア全体にとっての歴史的な宝物だと思います。

  それから、『猫雀図』などを見ると、朝鮮半島文化のユーモラスなほほえましいもの

も伝わってきます。私は、あの絵が一番好きでした...」

「うむ...面白いねえ...あの猫は、今もここに生きている...」

「はい! 

  それから、これは私の印象なのですが、韓国には、文化財の量などは、それほど

多くはないのでしょうか?」

「うーむ...私もそうしたことは殆ど知らないわけだが、現存するものは、少ないのか

もしれないねえ...これは日本にも大いに責任のあることだが、中国と日本の間に

挟まれて、朝鮮半島には安定した強大な国家が出来なかったわけだ。

  大和朝廷以来の日本も、それほど大国ではなかったが、島国でもあり、異民族の

侵略というものを1度も受けていない。しいて言えば、前の太平洋戦争の敗戦がある

が、これも大量の文化財や宝物が、散逸するというような事態にはならなかった。

  うーむ...あえて言えば、織田信長が、比叡山を焼き払った時ぐらいかな...あ

とは、誰もが、この国の文化財や宝物には手をかけなかった。同じ民族の中で、価

値観を共有し、暗黙の了解があった。正倉院の宝物も、天皇家も、長い戦乱の時代

を通じてさえ、しっかりと守られてきた...これは、ともかく、非常によかったと思う」

「はい...朝鮮半島では、そうではなかったのでしょうか?」

「日本のように、大陸から離れた島国のようなわけには行かなかったろう...」

「はい、」

                                     

 

「朝鮮半島が、隣国の中国の全歴史と平行し、その折々にどのように対処してきた

のかは、私はよくは知らない。ただ、あの百済(くだら)新羅(しらぎ)高句麗(こうくり)が割

拠していた時代に、日本は百済の要請を受け、数万の大軍を朝鮮半島へ送り出して

いる。まあ、ずいぶんと昔の話だがね...

  その時代は大化の改新の直後、中大兄皇子(なかのおおえのおおじ)の摂政の時代

だ。大和朝廷は、天皇が奈良から九州の筑紫へ移動し、朝鮮半島との臨戦体制に

突入した。そして、2回の派遣で数万の兵力(約27000人)を送り出したというから、当時

の小型の軍船では膨大な数だったと思う...」

「はい

「この中大兄皇子は、後の天智天皇のことだ。しかし、当時は皇太子の身分のまま、

の対外戦争を指揮したという。そして、この天智天皇の弟に、大海人皇子(おおあまの

おうじ)がいて、よくこの摂政を補佐したともいう。

  それから、この天智天皇崩御の後、あの有名な“吉野挙兵”があったわけだ。そし

て、この大海人皇子がクーデターを成功させ、天武天皇となる。まあ、クーデターとい

うよりは、ずっと皇位継承第1位だった大海人皇子が即位し、これが当然という空気

が強かったわけだ」

「はい...よくは知らないのですが、“吉野挙兵”というのは、聞いたことがあります。

どうして、“吉野”というのでしょうか?」

「大海人皇子は、こうしたゴタゴタを避けるために、出家して吉野の山に入った。しか

し、周りが承知しなかったということかな...ま、そういうことだ。詳しいことは、そっ

ちの方の話にゆずるとしよう」

「あ、はい...」

「さて、この時代...大和朝廷による数万の朝鮮半島派遣軍(西暦663年)は、百済を助

け、新羅と唐の連合軍と戦った。そして、ほぼ全滅して、海に沈んだ。再び筑紫の港

に帰り着いた船は、殆ど無かったという。

  これは、総指揮をとった百済の国王に問題があったとも、そこに戦略的なミスが重

なったとも言われる。また、最初からコトをうまく運んでいれば、勝てる戦だったとも言

われる。しかし...ともかく...歴史はそのように動いたわけだ...」

「はい

鑑真和上(がんじんわじょう)が日本へ来るのは、唐の時代の末期...玄宗皇帝(晩年の妃

は、絶世の美女と歌われた楊貴妃)の時代だから、それよりも100年近くも前の時代のこと

だ...(鑑真か日本の土を踏んだのは、753年。翌年、平城京に到着。東大寺に入る...)

  ともかく、この大敗北の後、日本では唐の大軍が海より攻めて来るのを恐れ、防人

(さきもり)の制度がスタートした。まあ、この一事を取ってみても、日本と朝鮮半島、そし

て中国大陸との繋がりが分かるだろう...」

「はい...大和朝廷が、あの唐と戦をしたというのは、初めて聞きました。日本に攻

めて来たのは、元だけではなく、唐も...」

「いや、日本の方は防人の制度をスタートさせたが、唐の軍船は日本までは攻めて

こなかった。それで、まあその後、すぐに仲直りしたようなことになっている。しかし、

数万の日本の軍勢が、海に沈んだのは確かだ。それから、朝鮮半島では、高句麗も

唐と新羅の連合軍に破れ、半島は新羅によって統一された。

  ところが、今度は半島を統一した“統一新羅”が、唐と激突した。唐は、新羅を隷属

させようしていたわけだな...そこで統一新羅は、唐を撃退はしたものの、一時的な

ものでしかない。そこで、なんとなく大和朝廷とも、付かず離れずの戦略をとり、日本

と共に唐を牽制するようになる...唐から見れば、日本は東夷(とうい)であり、はるか

遠い辺境の島国だ。打ち捨てておいても、一向に構わなかったわけだ...」

「ふーん...」

「まあ、ともかく、百済と日本とは仲が良かった。この時よりもだいぶ前になるわけだ

が、西暦369年に、百済は(わ/日本)七支刀を贈っている。これは、奈良の石上

神宮に、今も大事に保存されているという...」

「はい」

「次に、2度にわたる豊臣秀吉の朝鮮出兵があり、近代に入って植民地化や、日本

への同化政策が行われた。日本は、これらによって、隣人を深く傷つけてしまった。

あまり語りたくはないが、この事実は消すことが出来ない...

  日本の優れた陶芸作品などは、こうした時代に日本につれてこられた、朝鮮半島

の陶工の影響も大きいといわれる...むろん、日本独自に発展したものが多いわけ

だが、そうした時代背景も忘れてはいけないということだ」

「はい...」

「まあ...日本も韓国ももう少し世代を進めて、今の若い世代の人たちに期待したい

ね。ワールドカップでやったように、スキンシップの中で、仲良くやっていって欲しいと

思う。政治レベルや軍事レベルの話はいざ知らず、普通の国民、普通の庶民どうし

は、本当に誰もがいい人たちばかりだからねえ...」

「はい

「さて...話を戻そう...

  つまり、朝鮮半島に、美術品や宝物が比較的少ないのは、こうした歴史的な流れ

も、大きく作用しているというわけだ...それから、朝鮮半島の歴史にとっては最大

の悲劇ともなった“朝鮮動乱”があった。これも、この半島を繰り返し荒廃させ、文化

財の破壊も大きかったと思う...」

「はい この朝鮮動乱も、日本に責任があるのでしょうか?」

「まあ、これは韓国に駐留した国連軍と、長征を終えた毛沢東の共産軍の激突だか

ら、直接的な責任はないと言える。しかし、中国大陸に進駐し、朝鮮半島を植民地化

しようとした歴史的経緯を考えれば、責任がないとは言えない。まあ、無条件降伏し

た当時の日本には、どうしようもなかったがね。

  しかし、今は違う。反省すべきは反省し、謝罪すべきは謝罪し、困っているなら、当

然、全力で支援しなければならない。そしてそこから、再び信頼と、新しい友情も生

まれてくるのではないかな...」

「はい

「まあ、私などは、はにかみやでどうしようもないが、気持ちはそういうことだね」

「はい」支折は、並んで歩きながら、笑いをこぼした。分かります私も、そうだ

し...」

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「さて...朝鮮半島の宝物については、私は殆ど知らなかった。しかし、これから

は、少しづつ見る機会も増えてくるのではないかな」

「はい私もいつか、海を渡って行って、あの国も見たいと思います